79.君へ続く道の途中(☆)
駅のホームはひんやりとした空気と朝露を濃縮したような匂いで満ちていた。オレンジだった太陽は空を登るに連れ、徐々に白っぽく変わっていく。眩しくなってきた僕はサングラスをかけた。
まだ寒い。二月だもんね。内心で一人呟いてマフラーに顔をうずめる。
アナウンスが流れ、電車の到着がもう間もなくであることを知った。僕もキャリーケースを引いて乗車口付近の列に並ぶ。
サアッと風を切って電車が滑り込んでくる。あえて下ろしてきた髪が宙で軽やかに踊るのが見えた。
この色は、特別なんだ。
君の思い出と共に生きていきたかったから。
毛束の青紫の部分に触れたら自然と唇が震え出す。
感極まるには早すぎる。今からこんな状態じゃ、彼女と再会を果たしたときどうなってしまうのかと怖い。
電車に乗り込む頃にはいくらか気持ちが引き締まっていた。
ちゃんとした足取りで向かおう。自分なりの覚悟を示すために。
ドアが閉まる。席はいくらでも空いているのに僕は立ったまま。そっとサングラスを外し、乗車口の窓に映った自分の表情をずっと確かめていた。
はたから見たらただのナルシストだよね。後になって考えると我ながらちょっと可笑しかった。
菊川さんとの待ち合わせ場所は、新幹線が通ってるこの辺で一番大きな駅。
改札前は混んでいたけど、大きく手を振ってくれたからすぐに見つけられた。
菊川さんの装いは普段からお洒落だけど、どういう訳かオフのときの方がオーラが増している気がする。今だってショート丈のダウンジャケットにデニムという動きやすさ重視みたいな格好なのに、多分とても目立っているんじゃないかと感じられる。
考えてみればオフの時間に向ける熱量の方が多い人だ。その影響もあるのかも。
ボーッと見ている場合じゃなかったと思い出し、僕は早足で歩み寄った。
「菊川さん、おはようございます! 待たせちゃいましたか?」
「おはよう。平気だよ、さっき来たところだから。俺あったかいもの飲みたいからお茶付き合ってもらってもいい? まだ時間はあるし」
「もちろんです。僕も身体冷えるなぁと思ってて、紅茶かコーヒー飲みたかったんですよね」
「だってお前チェスターコートじゃん。マフラーしててもそりゃ開いてる部分は寒いだろ」
「ちょっと早すぎましたかね。コートは一応メルトン素材だし、中にはニットも着てるんですけど」
「でもこの数日、日中は春みたいに暖かいらしいからちょうどいいかもな。改札ん中にカフェあるみたいだからそこでいいか」
「はい、大丈夫です」
並んで歩き出すと向かい側の人たちがこちらに見入っているのがわかった。凄い、これが菊川さんオーラの効果。
「やっぱり菊川さんって目立ちますね。みんな見てる」
「いや、多分お前だよ!?」
「えっ、僕!?」
「そりゃそうだろ、その高身長にその髪色、色気までダダ漏れてるときたら誰だって一度は振り返るわ」
「言われることはありますけど、そんなにですか? 好きなようにやってるだけなのに」
「だからだろ。自分の世界を貫いてる奴ってのは自然とオーラが強くなるんだよ」
ポン、と強めに肩を叩かれた。菊川さんはやんちゃな小学生みたいに白い歯を見せながら僕の顔を覗き込む。
「最愛の人がいるんだからお前は。あまり彼女に心配かけるなよ」
ぐっと喉が詰まった。最愛、その言葉はまるで生き物みたいで、身体の内側からくすぐられている感覚に身を捩りたくなってしまう。
改めて言葉にされるとこんなに恥ずかしいものなのか。顔面に熱が込み上げるまでさほど時間もかからなかった。
「あの……今日は本当にありがとうございます。でも彼女と付き合える保証はないので、あまり期待しないでくださいね」
ましてや連れ戻せる保証なんて。そう思うと自身の胸の軋む音が聞こえるようだった。
それは僕の我儘ゆえだよ。もう押し付けたりしちゃいけないよ。昨夜、何度も自分に言い聞かせたのに、あまり効果なかったのかな。
情けなくうつむいてしまっていたけど、菊川さんは短く笑ってまた僕の肩を二度叩いた。
「まぁやれるだけやってみろよ。お茶しながら作戦練るのもよし。カフェ着いたぞ」
作戦か。でも結局はそのときの自分任せになりそうだ。
彼女と顔を合わせてみないとなんとも言えない。
マシュマロみたくふわりと柔らかいカフェの空調は、なかなか止みそうにない僕の胸の疼きをいくらか和らげてくれた。
トマリの地元はここから南下したところにある。新幹線で約一時間。そのあと普通列車に乗り換えて約三十分、それで旅館の最寄駅まで着く。
かつて僕も訪れた場所なんだけど、正直まだ実感が湧かない。幼い頃だったために最寄り駅の名前も旅館の名前も覚えていなかった。無理もないことなんだろうけど、それがちょっと寂しい。
ただあの藤棚の下は、花はまだ咲いていなくても、彩りがなくても、寒くても、僕にとって特別な場所に変わりないのだろう。何故かそんな確信だけはあった。
追憶も良いけれど、あくまで現在の彼女と僕とで向き合わなくちゃ。
彼女の本心を知り、ずっとずっと臆病だった僕の想いに決着をつけるときでもある。
どんな答えを導き出したとしても、僕の中に彼女の存在は残り続けるだろう。そこはもう腹を括るしかない。
彼女のアンバランスな魅力は時に甘美な毒だった。それでも良かった、なんて思ってしまう僕はやはりなかなかの馬鹿なのかも知れないけど。
「なぁ、千秋。お前は昔からどんな相手にも分け隔てなく接して、いつも笑顔を絶やさず、穏やかで、きっとお前が思ってる以上に多くの人を安心させてきたと思うんだよ。そんなお前がここにきてバランスを崩した。恋愛になるとこじれやすいとは聞いていたけど、ここまでだったとはと俺も驚いた」
乗り換えたばかりの普通列車の中、隣に座る菊川さんが僕にそう語りかけてきた。
僕は少しだけ思い返していた。トマリと再会する前、ところどころ恋に酔っていたこと。ほんの短い間ではあったけれど。
「二回、女性と付き合ったことがあります。一人は専門学生の頃に同じ専攻の同級生と。もう一人はアパレル販売員の時代に同じ館内で働いていた他店のスタッフと。どちらも似たような理由で終わってしまいました。“みんながみんな、あなたと同じように前を向ける訳じゃない”みたいなことを言われて」
「なるほどな。その二人の共通点は同じ分野で活動してたってところだもんな。まぁ学生の頃なんて特に、身近な人と恋愛するパターンは多いだろうけど」
うん、と僕は頷いた。言われてみれば僕は同じ分野の人と親密になることが多かったんだな。分かり合えるものがあると期待したからだろうか。
「僕はすぐ突っ走って人を置いていってしまう癖がありました。それで高校のダンス部の頃も同級生たちから“暑苦しい”とか“もっと周りを見ろ”とか非難された時期がありましたし、専門学校に進んでもそういう気質は残ってたんだと思うんですよね。当時の彼女は就職活動の時期に入るとピリピリと苛立つことが増えて、僕は元気づけようとしたんですけどむしろ神経を逆撫でしてたみたいで“このままだと自分を嫌いになるから終わりにしてほしい”と言われてしまいました」
「あ〜……周りと比べて焦ることあるもんな。若い頃だと尚更」
「アパレル販売員時代の彼女の場合は、ある日突然元彼が出てきて“お前といても彼女が不幸になるだけ。任せられない”と言って、彼女は泣きながらも元彼を選び、僕の元を去っていきました」
「その元彼もすげぇな。確かになかなかこじれてる。しかもフラれてたとは意外。お前本当に見た目と中身にギャップがあるよな」
「寂しかったけど、ああまたやってしまったなという感覚の方が強かったですね。妙に納得してしまったというか。結局僕の自己満足だったと思うんですよ。前を向いていればいいことがあるって相手にも押し付けてしまう。情熱を表に出すのがだんだん怖くなりました」
ぐっと拳を強く握る。
過去の情けない話なのに、思い出したのはまた春の花のように柔らかく愛くるしい彼女の顔だった。
そうだ、彼女は何も僕を振り回していただけじゃない。
「トマリには感謝しています。僕の暑苦しさを目にしても、変わらず頼りにしてくれた。僕の傷は少しずつ癒えていった。恋しているという以前に人として尊重したいと思っています」
「成長したじゃないか、お前。今回はこじれてもちゃんと向き合おうとしてる。逃げる訳でもなく、相手の気持ちも大切にして、どんな結果になっても受け止める覚悟まで決めて」
「自分一人では無理でしたよ。いろんな人に助けられた。菊川さんも含め、思いつくだけで四人はいます」
「いいんだよ。なんでも完璧に一人でできてる奴なんていなくないか? 最終的に決断したのはお前だ。それで充分だと俺は思うけどな」
いいのかな。そう思っても。
そっと瞼を閉じてみた。人気の少ない列車。わずかに伝わる振動が心地良い。
目的地に近付けば近付くほど心が鎮まっていくという不思議な現象を体感していた。
「付き合ったのが二回だけってのは驚いたけど、告白だったらもっとされてるだろ? お前なら」
「もう覚えてないですよ」
「覚えきれないくらい!? さすがだな」
誰に想いを伝えられてもその気になれないことの方が多かったんだよな。何か大切なことを忘れている気がして。
過去の二人に別れを告げられたときも、簡単に諦めがついてしまったのはそういうことだったのかな。
もっと早く、トマリと再会できていたらどうなっていたんだろうか。
再会したタイミングが適切だったとは思えないからそんな疑問が浮かぶ。
せめて彼女だけでも、こんなに苦しんでほしくはなかった。
「千秋、寝てるのか」
「いえ、起きてます」
「ほらあれ。見てみろよ」
僕は伏せていた瞼を開き、菊川さんの指さしている方向を目で追う。どうやら向かいの窓の外のようだ。
僕らがいる高架橋の下を通る長い長い道。その両側を彩っているのは濃いめのピンクの花を携えた木々だ。
時期的に考えると梅の花? でも、ちょっと違うような。遠くからでもそんな感じがした。
菊川さんがそちらを見つめたまま微笑み、一つの可能性を導き出す。
「多分、河津桜だな。早咲きの桜でちょうど今くらいが見頃だ。槇村さんも言ってたろ」
「……! そういえば」
「綺麗だな。儚さとも違う、生命力を感じる色だ」
「本当ですね。僕、この色好きなんです」
生命力。その言葉が実にしっくりくる。まるで瑞々しい果実のような。
恥じらいに頬を染めながらもしっかりとこちらを見つめて咲き誇る、可憐なだけじゃないと感じる力強さに魅入ってしまう。
最愛の人の髪の毛先もこの色が一番近く思える。あの髪は、ふわふわしててくすぐったい感触だった。
あの頃の彼女には一番に大切な人がいた。触れるなど、どうやっても許されるはずがなかった。
なのに僕は勝手にこの唇で……。
思わず口元を押さえた。そこにだけ熱が灯ったから。
罪悪感は痛みとむず痒さの中間のようにして蘇る。
だけどここまで来てしまったからには、かつての自分の間違いを悔いてばかりもいられない。
僕のこれからを思って送り出してくれたり、こうして行動を共にしてくれている人がいる。
僕は過ぎた日々に思いを馳せる。
鮮明に思い出したのは、この背中を押してくれた四人のことだ。




