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tomari〜私の時計は進まない〜  作者: 七瀬渚
第4章/私を許して(Tomari Katsuragi)
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78.私のままでいいですか(☆)


 撮影はお昼休憩の後も続いた。

 思ったとおりお腹がいっぱいになって動きづらかったけど、それは帰省あるあるのような気もする。久しぶりに会った我が子にとにかくしっかり食べさせようとする親が多いみたいだし、実際おにぎりのサイズも大きかったからな。


 でもおおむね予定通りに館内を周ることができた。気がつけばもう夕暮れ間近。


 私は一つ思い出した。大石さんを呼び止めた。

 二階の窓からの景色はこの時間帯こそが綺麗なんじゃないかという提案。


 大石さんは快く承諾してくれた。

 レトロを意識した写真ばかりではなく、汎用性の高い写真も用意しておいた方がいいだろう。そう考えたのもある。


 反射が映り込まないようにちょっと角度をつけたり、離れたりして、良い位置を探してみる。


 ここだ、というところを見つけたとき、ちょうど夕日が山々との境目まで降りてきた。卵の黄身が破れるみたいにじわりと溶け出すのが見えたその瞬間、私はシャッターを三度ほど切った。


 胸に心地の良い風が吹き抜けるような気分。

 鎮まった気持ちでしばらくはその光景を眺めていた。



「トマリさん、今日はお疲れ様です。トマリさんがセンスいいおかげで素敵な写真が沢山撮れたわぁ!」


「いえ、そんな」


「明日はお休みなんでしょう。ゆっくり休んでくださいね」


「はい、本当にお世話になりました。ありがとうございます。また明後日よろしくお願いします」


 休憩室で大石さんと言葉を交わした後は、ロッカーから荷物を取り出し、一人で帰路についた。


 空ではもう夕焼けのだいだいと薄紫色の雲とが共演して、歴史ある景色を一層ドラマチックに彩っている。

 一日中カメラに触っていたせいなのか、何に使うでもないこの景色も素通りしてしまうのはもったいなく思えて、私はスマホを空に向けカメラを起動させた。


 正直、今日は撮影だけだからすぐに終わってしまうんじゃないかと思ってたけど、実際やってみるとそうでもなかったな。画像を確認したり話し合ったりしていれば時はあっという間に過ぎる。むしろ今は、一週間でホームページを形にするところまでできるんだろうかとさえ思ってる。

 慣れないことをするときは時間に余裕を持った方がいいということか。一つ学びを得た。



 家に着いて一応チャイムを鳴らすと兄が出てきたから驚いた。服装も部屋着。退勤はもっと遅いはずなのだが。


「今日は特別だ。みんなが気を利かせてくれて早く帰れることになった」


「そうだったのか」


 なるほど。多分、私が帰って来ていること、どれくらい滞在しているのかなどという情報も含めて従業員は知っているのだろうな。田舎のネットワークとは何処もこんな感じなんだろうか。


 大石さん以外にも挨拶した人はいるし、もう私の顔も覚えられているかも知れないな。そう考えるとちょっと緊張してしまうのだけど。


 もうすぐ帰ってくるであろう両親のために玄関の電気はつけたままにしておいた。


 兄は腕まくりをしながら台所の方へ歩いていく。


「今日の夕飯、何を作るかは母さんから聞いてるんだ。それで準備をできるところまで進めておこうと思ったんだが、材料の場所がいまいちわからなくてよ」


「ならば私もやる」


「おい、無茶すんなよ。お前だってまだ本調子じゃないんだろう。今日だって疲れたんじゃねぇのか」


「大丈夫だ、おそらく」


「本当かよ。体力ねぇくせに」


 そんな吐き捨てるように言わなくても、とは思うが、兄にはなんの悪気もないと知っているからもう慣れたものだ。

 嫌味を言われたって手伝いくらいしてみせる。そう思っていたのだけど。



「いや、やっぱり先に風呂沸かす。お前が最初に入ってこい」


「でも……」



「明日大事な約束があるんだろう」



 不意にこんな気遣いの言葉を投げかけられたんじゃ無視する訳にもいくまい。不器用なくせに。兄は時々妙にずるいと思う。



 湯船の中で手足を思いっきり伸ばした。

 実家の浴室はうちのアパートとそんなに広さは変わらないだろうに、何故かゆったりとした空間に感じられる。


 チャイムの音がした。両親が帰宅したんだろう。


 湯に入っているのは心地が良く、今日一日のことを思い返したり、明日のイメージトレーニングをしたり、要は心を整える時間としてもうってつけなのだが、あまり長湯しては後がつかえてしまうだろう。

 よし、と呟き、湯の中から立ち上がった。



 予想はできていたが、お風呂から上がるとすでに出来上がった料理の匂いがした。甘辛く煮詰めたような、そんな匂いだ。


 この髪を完全に乾かすには十五分くらいかかるし、今のところ私の出番はなさそう。仕方ない。後片付けの方をやるとしよう。


 母が貸してくれた部屋着に着替えた後、そのまま脱衣所でドライヤーをかけた。


 鏡の中の自分と目が合う。いつも見ている顔だけど、メイクをしていないと年齢の変化がモロにわかるなと思った。


 外見はこんなだけど、内面は? 私も多少は階段を登っているのだろうか。

 年相応になるのが正解なのだろうか。いや、むしろなれるのだろうか。


 今までだって自問してきた。だけど、いくつになっても、何度繰り返しても、答えが出る気がしない。

 だからこんな他人事ひとごとみたいな顔をしているんだろう。そこだけは妙に納得できてしまった。



 この夜はすき焼きを食べた。カセットコンロの上に鍋を置いて皆で囲むスタイルだ。

 実家暮らしの頃だって滅多に出てこない料理だったから、懐かしいというよりむしろ新鮮な気分だった。


 もっと食べなさいと皆が口々に言うのだけど、そもそも胃の容量が大きくない私は苦しくなる前にギブアップを宣言した。せっかく作ってもらったもので気持ち悪くなっては却って申し訳ないと思うのだ。

 兄がどんどん食べ進めてくれたから、思っていたよりも早く鍋の中身はからになった。


 それでホッとしたのも束の間、デザートに買っておいたという焼きプリンが目の前に置かれたから参った。もっとお腹がいているときなら食べられるのだがな。今日は喫茶コーナーでミルフィーユも頂いているのだぞ。それに甘いすき焼きの後に甘いものって……。


 賞味期限を見たら明日までだったから、明日食べると言って冷蔵庫にしまった。

 母からは「融通が利かない」と言って苦笑いされた。仕方ないだろう。


 特に明日は大事な日。あまり身体に負担をかけるようなことをしては疲れが残る。

 久しぶりに顔を合わせるあの人に、心配の一つだってさせたくないのだよ。


 そうは思ったのだけど、二階の窓から星々を眺める頃、それは難しいことなのかも知れないと考え直していた。


 きっとあの人は、私のことを心配してこんな遠くまでやってくるのだ。

 何か伝えたいことがあるという気配もしているけれど、強引な気持ちで来る訳じゃないんだろうと、あの人の性格を知っていれば簡単にわかる。


 そしてもう一つわかっていることがある。


 これは臆病者同士の再会だ。


 彼も、私も、怖がっている。だからこそ今までだって遠回りを繰り返したんだろう。



 今はもう確信しているよ、千秋さん。どんな答えを出すとしても。



 私にとってあなたは、ただ一人の……



「トマリ。もう寝る準備するわよ。お父さんと私は明日も早いから」


「わかった。すまない」


「明日友達に会うんだって? 休みだから好きに過ごしていいけど、あまり遅くならないようにするのよ」


「それは兄貴にも言われた。大丈夫だ。おそらくそれほど時間はかからない」


 思考が中断されると少しばかりモヤッとくるが仕方ない。私は改めて部屋の戸締まりをして回った。


 私が寝る準備を終える頃、電気がついたままの部屋で母はすでに眠りに落ちていた。

 仕事の疲れはもちろんだけど、私を迎える準備だって楽じゃなかったんだろうなと想像できた。あんな沢山のご馳走を振る舞ったり、デザートだってどんな気持ちで選んでくれたんだろうと思うと、例えそのチョイスがズレていようが、やはり融通の利かない私の方が悪く思えてきてしまう。


 これが私。これでいい。

 いつかそう思えるときがくるんだろうか。


「おやすみなさい」


 もう声は届かないだろうとわかりつつ、小さく呟いて電気を消した。



 どんな夢を見たのか、もう覚えてはいない。どんなに強く想っている相手がいたって、そう都合よく現れてくれるとは限らないから、忘れたところで特に問題もないだろう。


 やがてうっすらと瞼を開く。透明度の高い青の絵の具に白をたっぷり混ぜたみたい、そんな色に辺りが染まっているように感じた。


 雪解けを彷彿とさせる匂いはこの時間帯特有のもの。身体を起こすと無防備な首筋にひんやりとした空気が触れる。

 枕元の時計を見ると午前六時ちょっと前。母の姿はもうない。


 ついに。いよいよ。このときが来た。

 でも高鳴りなどとは程遠い。覚悟の決まった静かな朝だった。



 私はキャリーケースの中からこの日のためにと選んでおいたシンプルな白のニットプルオーバーとサイドに浅めのスリットが入ったグレーのマーメイドスカート、内側にボアのあしらわれたロイヤルブルーのショートコートを取り出した。靴は最初から黒いレースアップの厚底ショートブーツで来ているからこのまま組み合わせれば大丈夫。コートに合わせてブルーのソックスをちらりと覗かせるつもり。

 実はキャリーケースの中の大部分を占めていたのはこの服だ。他の荷物を最小限にしてでも持っていきたかったのには私なりの理由がある。


 一つはこれらの色が自分に似合うと知っていたから。

 そしてもう一つは、大切な時間を過ごすのにベストなコーディネートで向かうのは礼儀だと思ったからである。


 今日は。今日という日だからこそ、できるだけいつも通りのコンディションでいたい。アメジストのペンダントをつけながら、強く心に誓う。


 母がまた朝食を用意してくれているかも知れないけれど、申し訳ないが慣れないことはしたくないのだ。食べられそうなタイミングで食べるか、兄にあげようと決めた。そうして私はいつものゼリー飲料を喉に流し込んだ。


 洗濯を終わらせた後はテレビをつけたけど、内容には全く集中できていなかった。そうしてついに時刻は十一時を回った。


 服装は、髪は、本当にこれで大丈夫だろうか。今更になって焦った。


 皆はすでに仕事に向かって私一人だったから、ひと通りの戸締まりをチェックしてから家を出た。


 だいぶ早くに出発してしまった。この調子だと着くのは待ち合わせの二十分前くらい。

 でも立ちっぱなしはアパレル時代に嫌というほど経験している。二十分なんて大したことはない。



 そんなことを考えながら歩いていった。あのときと同じ公園まで。まだ花の咲いていない藤棚が並ぶエリアまで。


 だけどいくつか並んだ藤棚の一つ、そこは確実に違う世界だった。


 すらりとしたロングコート姿の彼がゆっくり振り返った瞬間、確かに見えたのだ。降り注ぐように咲き誇る青紫色の藤の花が。

 過去と現在のフィルムは、今、確かに重なったのだろう。



挿絵(By みてみん)



挿絵(By みてみん)



「トマリ……!」


 薄い唇を震わせ、そう呼んでくれる。恥じらったように染まった頬。今にも泣いて逃げ出しそうなくらい頼りなげな表情なのに、身体はしっかりとこちらを向いている。繊細なりに勇気を振り絞っているその姿がたまらなく懐かしい。

 ふわ、と蘇った藤の花の香り。だけど近付いていくと、現在の彼の香りへと緩やかに移り変わる。

 どうしよう、視界が揺らぐ。もう耐えられそうにない。


 私たちの両手は互いに伸びて、ついに指先が軽く触れ合った。それだけでなんとも言えない安心感が胸に訪れる。


 おのずと肩が震えてしまう。

 千秋さんは私の手を両手で包み込むようにして握り、首を何度か横に振った。それが何を意味するのか私にはまだわからない。


 それでも確かなのは、間近に迫った彼のグレーの瞳がとても優しげだということ。前はカラーコンタクトかもと思っていたけど、違う。これがありのままの色なんだ。彼の色なんだ。そうわかるのが何故かとても嬉しくて。


 溢れ出しそうな感情を誤魔化そうと私はなんとか笑った。


「千秋さん、早いですよ」


「トマリこそ。まだ二十分前だよ」


「お互い様ですね」


「そうだね」


 彼も照れくさそうに笑う。いつの間にか握り合っていた互いの手が温まっていく。


 目の前にいるのは元上司の『千秋カケルさん』だけど、初恋の相手『ダニエル』でもある。

 長い間ずっと切り離されていた“二人”が“一人”になっていく。その現象が、こんなにも心を揺さぶるものだとは。覚悟していたって足りないほどじゃないかと、驚きさえ感じていた。


 彼が小さく首を傾げると下ろした長いウェーブの髪が優雅に揺れる。微笑みを浮かべたままちょっと困ったように眉を寄せていた。


「さて、何から話そうか」


 言われて確かにと思った。私たちの縁はなんだか不思議で複雑そうだから。


 でもどんな事実が出てきても受け止めると決めている。


 冷たい風が私の背中を押すようにして吹きつけた。私は姿勢を正していく。胸の内で問いかける。



 千秋さん、あなたがありのままで来てくれると知っていたから、私も普段の自分らしい姿と気持ちでここに来ました。


 あなたも受け止めてくれますか。そのままの私で向き合ってもいいですか。



挿絵(By みてみん)




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