77.自分を好きになれたなら
翌日の朝、私にしては結構すんなりと目が覚めた。六時になるちょっと前くらい。
慌ただしく支度するのは嫌だから、一階に降りてすぐに身支度に取りかかった。
早起きに慣れている父と母はとっくに起きていた。私が帰ってきているから今日は融通を利かせてもらってるだけで、普段はもっと早いらしい。兄は夜遅くまで働く分、出勤も十時〜十一時くらいが多いのでギリギリまで寝ているそうだ。
私は兄と一緒に出発する予定になっている。
写真を撮るのにも順番があるから頭の中で整理していた。第一にお客様の邪魔にならないよう気を付けなければならない。
しばらく天気は晴れだとわかっているし余裕を持って行動できそうだ。
今日はまず館内の写真をメインに撮っていく。太陽光もいい具合に入ってくれそうだから暗い印象にはなるまい。
螺旋階段や喫茶コーナーは掃除が終わったタイミングを見計らって撮影。客室は空いてる部屋を。大浴場、露天風呂も掃除が終わった後に。よく考えてみたら繁忙期以外じゃないと難しい試みだ。
多分時間は余るだろうから洗濯や掃除も手伝うと言ったのだけど、少しずつ慣れた方が良いのではないかという兄の考えから、今日は写真撮影や打ち合わせだけという話になった。
それより新着情報が書けるように大石さんと情報共有をしてほしいとのこと。今日もメモ帳が手放せなくなりそうだ。
着物姿に髪をきっちりまとめた母が玄関先で振り向いた。もう仕事モードに切り替わっているからなのか、きりりとした表情のまま私に声をかける。
「トマリ、朝ごはんはあまり食べないって言ってたけど本当に大丈夫なの? 冷蔵庫の中のもの、適当に食べて構わないのよ」
私はさっきキャリーケースの中から取り出したゼリー飲料を見せた。
「食べ慣れているものを持ってきているから大丈夫だ」
「食べ慣れてるってあんた、いつもそれだけなんじゃないでしょうね」
「まぁ……そのときによる」
正直ちょっと誤魔化した。
でも食欲が乏しいときや疲れが酷いとき、こういったゼリー飲料には助けられているのだ。栄養もある程度摂れるだろうから。
ただ本当はこればかりに頼り過ぎずいろんなものを食べた方が良いのだろうと、もうなんとなくわかってはいる。
連日、カップ麺を職場に持って行っていたとき、千秋さんにも心配をかけてしまったからな。
「まぁ、ゆっくり休めたならいいんじゃないか」
「またそんな呑気なこと言って。こうも自分に無頓着だといつか結婚したときやっていけるのか心配よ」
同じく着物に身を包んだ父が母の隣に並ぶ。
父は昔から楽観的かつ放任主義のように思える。特に私に対してはそこそこ健康で生きていてくれればいい、くらいに思っているんじゃないだろうか。無理もないだろう。私は兄と違って旅館の跡取りという訳でもないのだからな。
何やらまだ心配やら不満やらを口にしている様子の母は、やや昔気質な性格と言えるだろう。女は結婚するものという意識でもあるのか、私にもその前提で話しているように聞こえる。そんなの一生縁がないかも知れないのに。
「じゃあ私たちは先に行くから。お兄ちゃん起きるの遅いようだったら起こしてあげてね。最近疲れてるみたいだから」
「わかった。気を付けて行ってきてくれ」
「あんたたちも気を付けるのよ」
軽く手を振って見送った。
二人の背中が遠くなったところで玄関のドアを閉める。ちら、と二階へ続く階段を見た。
はぁ、と小さなため息が出た。実家にいながら緊張するとはこれ如何に。
深い意味なんてないけれど、私は階段の途中に座ってゼリー飲料を飲み始めた。
昔からそうなのだが一度気に入った食べ物は何日続いても飽きないのだ。これだってフルーツの酸味がさっぱりしていて舌が心地良い。
偏食気味になってしまう理由の一つでもあるのかも知れないけど、特に困っていない習慣というのはなかなか変えられない。
常識というものをどれだけ覚えてもそれは結局形だけで、何故周りに心配をかけてしまうのか未だピンときてない部分も多い。
そうだ。やはり千秋さんだってこんな私と一緒にいても疲れるだけなのでは。あの人は優しすぎるからそれゆえに……
「うわっ! お前なんでこんなとこでゼリー飲んでんだよ。部屋にいればいいだろ。風邪引いたらどうすんだ!」
「兄貴、おはよう」
「おはようじゃねぇよ、びっくりさせやがって。ほら、身体冷えるって言ってんだろ。降りた降りた」
考え事にふけるあまり、兄が階段を降りてきていることにさえ気付かなかった。私はゼリー飲料の口を咥えたまま部屋へと向かった。
兄は洗顔や歯磨きを済ませた後、母が今朝作っていたおにぎりを三つ、それと味噌汁を温め直して食べた。
おにぎりは一応、私の分もあるらしい。一つ一つラップに包まれて冷蔵庫に入っていた。
お母さんもそれならそうと言ってくれればいいのに、なんだか変なところで素直じゃないな。
「今食えねぇなら昼飯にすればいい。ほら、持ってけ。
ポリ袋に入れられたおにぎり二つが私へぐいと差し出される。
本当、無骨で兄貴らしい。そんなことを思いながら受け取った。
デジタルカメラは旅館で管理されている。私はメモ帳とペンとおにぎり、最低限の貴重品を持って兄と共に出かけた。キャリーケースだけでなく小型のショルダーバッグも持ってきておいて良かった。
旅館につくと空いてるロッカーに荷物をしまった。
デジタルカメラを首から下げて館内へ向かう。いよいよ撮影開始だ。
上手くやれるだろうか。緊張が高まっていく。
「昨日お話しした通り細かいことは後で決めるから、まずはいいなと思うところを自由に撮ってみてください」
大石さんはそう言ってくれた。
しかし自由というのは実に難しい。どうしても基準とか正解とかを考えてしまう。
とはいえ前日にもある程度打ち合わせをしていたから、いくらか動きやすくは感じられた。
掃除を終えたばかりの螺旋階段はまだほとんど人が通っていないらしく、綺麗だ。
まずは全体が見えるように撮ってみる。うん、悪くない。
次はアングルを変えた方が良いか。角度を変える……くらいじゃあまり変わらなそうだな。私は自ら階段を登り始めた。
「トマリさん、足元気を付けて!」
「はい、ありがとうございます」
大石さんの声かけに答えながらも私の目はベストポジションを探し続けていた。
見下ろすようなアングルにしようと思ったけど何か違う。そうか、もしかして。今度は階段を降り始めた。
中央の位置から“見上げる”ようにして。
私はシャッターを切る。
うん、やはり。天井寄りの窓からじんわり滲む太陽光、その力は大きい。明るく幻想的な印象にさえ思えた。
次は準備中の喫茶コーナー。みんなで螺旋階段を登っていく。私の足取りも軽い。
ついでに二階の窓から見える景色も確認しておく。ここは夕暮れ時に撮ったら絵になりそうなんだよな、などと考えながら。
いつの間にか夢中になっていた。昔から知っている旅館が角度一つで違って見えたりするのが面白くて。
完成度にはまだ不安があるけど、今は自分にできることに集中していたい。
喫茶コーナーでは店主が一人、待っていてくれた。白髪混じりの年配の男性だ。
窓際のテーブルに料理らしきものが用意されいるのも見えた。
店主は私に向かってにっこりと笑いかける。
「お疲れ様です。こちら来週から期間限定でお出ししようと考えているケーキです。撮影が終わったら召し上がってみませんか」
「えっ、あ、ありがとうございます。よろしいのですか?」
「はい。味のご感想も聞きたいですし、是非お願いします」
再びテーブルの上へ視線を落とすと、それは瑞々しい苺と桜色のホイップクリームで彩られたミルフィーユだとわかった。私の好物。なんだか運命を感じてしまう。
湯気が入らないよう冷ましておいてくれたコーヒーと一緒にそれを写す。いくつか撮ってみて、どれが一番美味しそうに見えるか店主にも聞いてみた。
この後のお昼休憩でおにぎりも食べたらお腹いっぱいで動けなくなりそうだ。そう思いながらも私は半分に分けてもらったミルフィーユを受け取った。もう半分は大石さんの分だ。
隣で大石さんが「ん〜!」と歓喜の声を上げる。「美味しい!」そう力強く続けた。
私も口に運んでみる。
確かに。桜風味のホイップクリームは若干の塩気を含んでいるためか全体の甘さを引き立てているように感じるし、パイの軽やかさ、苺の水気がちょうどいいバランスでまさにハーモニーと呼べる仕上がり。
……というのを言葉に出さなきゃ意味がないじゃないかと気付いて私は慌てて伝えた。ちょっと辿々しくなってしまったけど。
「具体的なご感想が聞けて助かります。本当にありがとうございます」
店主にそう言われたとき、いや、むしろ堅苦しく喋り過ぎたかと思った。多少は自覚のある私の癖だから。
次は客室の撮影に行こうという話になって、大石さんと私は二階の廊下を歩いていく。その途中だった。
「トマリさんは若くて今どきな雰囲気だけど、性格はとっても真面目よね。何事も本当によく考えてる」
大石さんにそう言われて私はうつむいた。そこはお礼を言うのが筋だろう。そう頭ではわかっていたのに。
「私の話し方って偉そうに聞こえませんか。理屈っぽくて細かくて、何か……変といいますか」
「あら、どうしてそう思うの。誰かに言われたの?」
「昔、多少言われたことはあります」
「嫌な感じね、その人。トマリさんはこんなにしっかりしているのに」
「最初はそう見えるだけ、かも知れませんよ」
なんでこんな卑屈な言葉ばかり出てしまうんだろう。大石さんが優しいから甘えているんだろうか。そう思ったら自分のことが心底嫌になった。
駄目だよ、人に迷惑をかけては。気持ちを切り替えるのだ。そんなふうに内心で自分を叱る。
でも大石さんの優しさがブレることはなかった。
「トマリさんはもっと自分のことを好きになってあげて。自分を褒めてあげて。気付いてないのがもったいないくらい、あなたには良いところが沢山あるわ」
「大石さん……」
「具体的に言われないとわからないかしら。じゃあ教えてあげる。あなたは誠実な上に物覚えが早い。どんどん吸収するように要領を掴んでいく。それでいて丁寧。もし“もっと早く”とか“もっとしっかり”と焦っているなら、その焦りこそがあなたの行動の妨げになっている要因よ。落ち着いてやれば、ちゃんとできる」
顔を上げて今度はしっかり隣を見る。大石さんは目を細めてずっと私を見てくれていた。
「大丈夫。あなたは役に立っているわ。信じてちょうだい」
今までだって何度も、こういった励ましの言葉をくれた人がいたんだろう。なんとなく覚えてる。
救われた気持ちでなったその一方で、今まで接してきた人に申し訳なくも思った。
劣等感は人の善意にさえ靄をかける。
受け取りたいのに上手く受け取れない言葉があること、よりによってそれが優しい言葉ばかりであることを、たまらなく寂しく思った。




