74.彼と私の願いを乗せて(☆)
キャリーケースの車輪の音が緩い坂道に響く。手袋をしていても指先はじんじんするし、マフラーの隙間から漏れる息は白い。
二月下旬の早朝。最寄り駅まで続く道の途中で。
「なぁ、和希。そろそろ教えてくれてもいいだろう。あのとき何があったのだ?」
「ん〜、まぁそのうちな」
「この前もそう言っていたではないか。不思議に思うのも無理はないだろう。千秋さんと菊川さんが二人で旅行するくらい仲良しなところまでは理解できる。しかし片桐さんまで協力的な姿勢だなんて、一体何が起きたのだと思うだろう。気になるではないか」
「じゃああんたが良い返事を持って帰ってきてくれることが教えてやる条件! かな」
「良い返事とは?」
「そりゃあ決まってんだろ。本当にわからないか?」
ぴた、と足を止めた和希はインターホンのチャイムでも鳴らすみたいに私の鼻先をちょんと押した。
私が膨れてみせてもおかまいなし。寒さに震えながらも白い歯を見せてニヤニヤ笑ったりなんかしている。
「千秋さんだって勇気を出したんだ。前向きに考えてやってほしいんだよなぁ、私としては」
「良い返事ができると断言はできない。何故ならまだ何も言われていないし、私も何をどう伝えようか考えあぐねているから」
「もうフィーリングでいいんじゃね?」
「そんな簡単に決めてはいけないと思うのだ。何故なら私一人の問題ではないから」
「その口癖復活したんだな。しかしあんたは本当に生真面目というか。でもこればっかりは私がどうにかしてやれることじゃねぇからなぁ」
行くか、と和希が呟いたのを合図に私たちはまた歩き出す。
本当はこの街に残ってほしいなどと思ってくれているんだろうか。彼女のスマートな背中を眺めながら淡く期待してしまう。未練というのは本当に厄介だ。
私だって無邪気に夢見ていたい。和希と千秋さんとこれからも仲良くいられる未来を望んでいたい。それがどんな関係かなど深く考えずに関わっていたい。
だけど……そういう訳にもいかなくなった。もう一ヶ月前とは事情が違うんだ。
ちょうど一週間前にメンタルクリニックにて、一月に受けた心理検査の結果を知らされた。
検査の目的がハッキリしているとはいえ、実際どう言われるんだろうとかなり緊張したのを覚えている。
検査にはいくつかの種類があったから、それぞれでどんなことがわかったか一つずつ説明を受けた。
心に傷を抱えている、それも結構昔からのものであること。不安が強く、周りへの迷惑にならないよう気を張っていること。学力は至って平均的であること。
いろんなことが明らかになっていく中で、心理士さんが一つの考えを述べた。
「特性がそんなに強くないので診断とまではいかないようなのですが、軽度の自閉スペクトラム症の可能性はあると思います」
予想に近い結果だったからさほど驚きはしなかったけれど、なるほど、いわゆる発達障害のグレーゾーンなのだろうと私は受け取った。
心理士さんは続けて話してくれた。
「注意欠陥も少し見られるのですが、ADHDというほどではないと考えます。持って生まれた特性によってお困りのこともあるかと思いますが、桂木さんの場合それ以上に深く傷付き疲弊しているようなのです。私はむしろそちらの方が問題だと思います」
「私が……傷付いている」
「ええ。お話を聞いた感じでも、小さい頃から誤解をされやすかったり、努力を認めてもらえず否定される経験が多かったようなので。相当自分を抑え込み、我慢してきたんだと思いますよ。自分に優しくしようとかあまり考えられないのではないですか?」
「そう、ですね。おっしゃる通りかも知れません」
「メンタルに関する医師からの診断はまだだと思いますので、これからじっくり問題を見つけて対処していきましょう」
「はい。ありがとうございます」
実感と呼ぶにはぼんやりしていた。それが正直なところだ。精神的な傷は目に見える訳ではないから。
でも自分自身への接し方がわからないまま大人になってしまったことは理解できた。
育った環境が違っていれば全く別の人間性ができていたんだろうか。ちゃんと自分に優しくなれたんだろうか。
それともこの特性を持っている限り、何処に行ってもこんなものだったのだろうか。
いろんな“もしも”を想像してみたけれど、私はこの道を通った人生しか知らないのが現実だ。
やはり白黒つくような結果ではなかった。それでも難しい問題を今もなお抱えていることは見えたのだ。
例え私のことをパートナーとして選んでくれる人がいるのだとしても、答えは慎重に導き出さなくてはならないと考える。だからもう何も知らなかった一ヶ月前と同じ気持ちではいられないのだ。
和希には打ち明けてある、この話は。事実をそのまま言っただけで私の考えとかは後回しだけど。
その上で和希は、千秋さんと共に歩む未来を望んでくれているのだろうな。
しかしあの人こそ何も知らないのだよ。私に発達障害の可能性があるなどただの一度も想像したことがないかも知れない。お互いに納得できるとは限らないんだ。
――着いたな。
和希の声で顔を上げるとすでに最寄り駅が目の前にあった。
何か察したような目をした彼女が優しく私の手を取った。そのまま横断歩道を渡り券売機を目指す。平日の朝にしては人が少ないと思った。
新幹線への乗り継ぎの分も含めて切符を購入した。いよいよだと気持ちが引き締まる。
大家さんにも長期間不在にすることを伝えてある。郵便局にもポスト投函を止めてもらってある。職場は退職済み。準備はひと通りしてきた。
あちらへ着いたら全く違う生活が始まるのだ。行き先は実家なのに、変な表現ではあるが。
「到着したらメッセージでいいから連絡くれよな。一応これでも心配してっからさ」
「わかった。朝早くからありがとう、和希」
「まだこの街を離れるって決まった訳じゃないのに寂しいもんだな」
「私もだ。でも……」
でも。
彼女に言いたいことがあった。どんなときも味方になってくれた、支えて立ち上がらせてくれた彼女にだからこそ。
明るく伝えたい。私はそんな素直な気持ちを表せていただろうか。ちゃんと満面の笑みで。
「和希とはずっと友達でいる約束だ。何処に行こうと大切な人に変わりはないし、繋がっていると信じている。だから私は怖くないよ」
「トマリ……あんた」
「今年の春だって、もし一緒にいられなくたって、私たちは同じように空を見上げて桜を眺めるんだ。それに季節は何度でも巡ってくる。思い出を作ろうと思えばいくらでも機会はある。私は今この瞬間だってそれを楽しみにしている」
「……そうだな」
和希がゆっくりと目を細めた。前髪がさらりと揺れる。
「今、あんたの後ろに春が見えたよ」
微笑みながら珍しく詩的なことを言う。私は安堵した。これはきっと気持ちが真っ直ぐ伝わったということだと思うから。
「海外ドラマ、一緒に観てくれてありがとう。楽しい時間だった」
「ああ。また観ような。私も楽しかったよ」
「では行ってくる」
「気を付けろよ。元気でな」
駅前が空いているのをいいことに、改札へ向かう途中で大きく手を振った。何度も何度も。「早くしろよ」と笑いながらつっこまれるまで繰り返した。
電車の中はそこそこ混んでいたけれど、すぐに乗り換え地点に着いた。ここから新幹線で約一時間。その後さらに三十分ほど普通列車に乗れば地元の駅に到着する。
ホームの売店で温かいココアを一つ買っておいてから新幹線に乗り込む。
窓側の席が確保できた。これで飽きずに目的地まで向かえそうだ。窓に軽くもたれかかりながら発車のときを待った。
そしてついに動き出す。軽やかなメロディーが車内に流れていた。
今日は二月二十三日。
千秋さんとの待ち合わせは明後日の昼だ。
それにしてもまさか藤棚の下を希望してくるとはな。二月じゃまだ花は咲いてませんよ、千秋さん。
いや、そんな野暮なことは言うまい。かつて満開の藤の季節を見た彼なら、そんなことくらいわかっているだろうから。
きっと二枚の薄いフィルムを重ねるように、過去と現在の景色を合わせて見てみたいのだろうと想像した。あり得るだろう。あの人はロマンチストだから。
それよりできれば兄貴にバレないように会いたいのだがな。もし千秋さんとダニエルが同一人物だとバレたら何を言われるか。泊まるのがうちの旅館だから無理があるだろうか? でももし『菊川』の方で予約してたら誤魔化せる可能性もあるかも。
私の複雑な悩みごと乗せて新幹線は高速で進んでいく。
一時間半なんて過ぎてみればあっという間だ。それまでになんとか良い対策が見つかることを願った。




