73.もう一度、あの場所で(☆)
それから一ヶ月近くの月日が流れた。ついに年を跨いだのだけど、師走がまだ終わってないのかと思うくらい私はなかなか忙しかった。
やはり体力的にキツイと思ったのは初売りだ。でもそれは私自身もやりたかったこと。今までにも何度か経験しているし、幸い流れに馴染むまでそれほど時間を要さなかった。
違いといったら若い客層が多かったことくらいだろうか。できるだけ福袋とセール品、安価に設定された強化商品の販売で数をこなす必要があった。アパレル販売最後の祭りは悔いなく楽しめたと思う。
そんな数々の思い出が詰まった仕事。心残りは凄くあるけれど、今月の下旬には有給消化してそのまま退職となる予定だ。
次に実家への帰省。といっても販売職は年始に連休を取るなど難しいから、年始から一週間後というある程度客数が落ち着いてくる時期を狙って一日だけ帰った。
形は違えど同じ接客業の部類に入るうちの家族だってそんなに時間は開けられない。でも今後についてある程度話し合ってくることはできた。
病院の心理検査の結果が出るまで約一ヶ月はかかるそうだから、それがわかってからの方が良いだろうという話になった。本当に地元でやっていけるのかという心配も私の中にあったから、とりあえず二月下旬あたりで一週間ほど実家に滞在し、家業も手伝う。その上で決意が変わらなければ実家に帰る準備を進めていくことになる。このことは先日、和希にも伝えた。
兄貴から聞いたのだが、実のところ両親は特に私が帰ってくることに賛成派らしい。都会に出るときだって決して快く送り出してもらえた訳じゃなかったものなと思い出した。
でもここでの決断は今後に大きく影響してくる。都会を離れたらまた簡単に出ていくなんてできないし、いつまでも我儘が通用する歳でもいられないから慎重に考えたいのだ。例え八割くらい決心できているとは言っても。
そして今日はメンタルクリニックで心理検査を受けてきた。数時間ほど心理士さんとのやり取りや筆記に集中していたからさすがにちょっとお腹がすいた。
ここまででやっと一月中旬。怒涛の日々が終わって少しはゆっくりできそうな気配。
十五時頃、私は帰り道に病院近くのカフェに寄り遅めの昼食をとった。ホットドッグとコーヒーを一つずつ。
やはり結果待ちという状態に多少はソワソワしているんだろうか。なんとなく今日は真っ直ぐ帰りたくない。
ここから数駅のところに新しくできたショッピングモールがある。気分で動いてみるのもたまにはいいだろうと思いながら食べ終わった後のトレーを片付けた。
人混みの中を歩くのはただ慣れたというだけで本来は決して得意じゃないのだけど、もうすぐのどかな田舎の住人に戻るんだと思うとこんな時間も貴重に思えてくる。
ショッピングモール内では大好きなコスメ用品を真っ先に見に行った。
色とりどりのアイシャドウパレットやふんわりとした質感のチーク、スキンケアに欠かせないフェイスマスクなども見ているだけで心が踊る。自分にご褒美をあげられるほど私は頑張っていただろうか。少しくらい買ってもいいだろうか。でもどれにしよう。迷う時間だって楽しい。
一応、生きてて良かったんだな。そんなことをほのかに思う。
迷いに迷った結果、春を先取りしたようなピンクやグリーンの入ったアイシャドウパレットと、ブラウン系のリキッドアイライナーを購入した。小さな袋を手にして足取り軽く店を後にする。
あとは服を見たいけれどお金を使いすぎてしまいそうだ。もうすぐ退職なのだし考えて使わなくてはなと自分に言い聞かせつつ、それでも足は本能のままに動き私をいろんな店へ連れて行く。
普段は立ち寄らないようなところにまで導かれた。それが天然石のお店だった。
全部まともに見ていたらどれだけ時間がかかるんだろう。そう思うくらいに種類が多いのに、私の意識はやがてある一点で止まった。
シンプルなペンダントだった。小さな雫型のアメジストがぶら下がっている。
――このまま綺麗な思い出になってくれればいいんだ――
いつか思った言葉が蘇る。
実感が大きくなる。そうだ。私は結局、あの人を忘れられはしない。
肇くんとはまた別の意味なのだ。彼との縁は終わってしまったけど、あの人とは顔を合わせたり言葉を交わす機会がなくなるだけで縁そのものは今でも地続きになっているように思える。離れなくちゃ。どんなに強く決意したっていつもそうだったから。
あのダンスの振り付けみたいに、今でもこちらに手を伸ばしてくれているのがしっかり伝わってる。その中に飛び込むことはできなくても。
今、この瞬間からなのか。私もやっとそれを認められるようになったようだ。
同じ月、同じ日に生まれた人。つまり誕生石も同じなはず。だけどそんな話をする機会は一度もなかったな。
自然とペンダントの石の部分に手が伸びた。少しだけ触れた。
私は近くを通った店員さんに声をかけてペンダントをとってもらった。
無理に忘れようとしなくていい。これからも大切にする。そう素直に思えたから。
最後の出費が大きくなったのでさすがにこれで帰ることにした。
明日からまた節約しなくちゃな。だからといって食事を減らすと和希に怒られるからそこは気を付けなきゃならないのだが。
アパートに着く頃には辺りはもう薄暗くなっていた。
手洗いうがいを済ませた後に、買ったばかりのペンダントをつけてみた。この後は一人だし誰に見せる訳でもないけど、こうしていたい気分だったんだ。
今夜は夕食にトマトソースパスタを作ってみようと思う。将来結婚するかどうかに関係なく、やはり多少は自炊ができた方が良いと考えたからだ。
でも自分のためを考えた行動をとるって、難しいな。
興味のあるもの以外にも一生懸命向き合うのは、大切な人や守りたいものがあるからなんじゃないのか。一旦リセットされてしまった私には尚更そう思えてならない。
一人でいるとつい自分の内面について考えてしまう。煮立っていくトマトソースが焦げ付かないようにかき混ぜるのも、散漫になりがちな注意力をまとめるある種の修行みたいに思えた。
そんな私の元に着信が来ていたことに気付いたのは食事を済ませ、絵も描いて、これからお風呂に入ろうと思っていたとき。もうすぐ二十二時になりそうな頃だった。
このくらいの時間に連絡をくれるのは和希であることがほとんどだった。
だから表示されている名前に戸惑ってしまう。
どうしよう。これはかけ直した方がいいんだろうか。何かあったんだろうか。どうしよう。
思考がぐるぐる同じところを回って前に進めずにいたとき、再び『千秋さん』という表示で着信があった。
おのずと手に汗が滲む。思えば彼の方から電話が来るのなんて初めてだったから。
通話のマークをタップしてから少しもたついてしまった。慌ててスマホを耳に近付ける。
「もしもし」
『トマリ! ごめん、こんな遅い時間に。今話して大丈夫?』
「はい、大丈夫ですが」
『その……なんていうか、これはやっぱり伝えておかなきゃならないと思って……』
「伝えておかなきゃならないこと、ですか」
『その、あのね……あ〜、本当にごめん。嫌な思いさせてしまったら申し訳ないんだけど、というか、その場合はやめるんだけど……』
嫌な思い? やめる? なんのことだろう。
優柔不断なところはあっても言うべきことのほとんどはちゃんと口にしてきた千秋さん。その彼が今は慌てふためいている。彼にとっても予想外のことが起きたんだろうか、などと推測した。
きゅっとペンダントを軽く握った。聞いているだけで胸が締め付けられる、鼓動が早くなる、この感じは何。
自分でも何故かわからないけれど、気がついたらこう言っていた。
「千秋さん、大丈夫ですよ。私、聞きたいです」
はっ、と小さく息を飲む音が耳元で聞こえたような、気がした。
覚悟を決めたその表情まで見えるような気がしたんだ。
『トマリ』
「はい、千秋さん」
『二十年ぶりになるのかな、昔泊まった旅館に行くことになりそうなんだ』
「旅館、ですか」
『ねぇ、トマリはもう僕の正体に気付いてるって……本当?』
細くて切なげな声。少し怯えているようにさえ感じられる。だからあまり待たせたくはなかったんだけどそんな私の意に反して一瞬喉がぐっと詰まった。
「はい」
それでも答えた。向こう側に見えはしないとわかっていながら、こく、と強く頷いていた。
忘れられはしなかった。ダニエル、君のことを。もう二度と会えないものだと思っていたから何も期待したことはなかったけれど、叶うものならばあのとき私の味方になってくれたお礼を伝えたいと思っていた。
あと、謝りたかった。
そんな思いがいま胸の内でごちゃごちゃになってる。だから言葉にできないんだ。
『来月……そう、二月二十五日に行く予定なんだ』
「二月二十五日。私たちの誕生日の少し後、ですね」
『そうだよ。覚えていてくれたんだね』
「印象に残っていたので」
『急なお願いなのはわかってる。だけどトマリ、できるならその日にあの場所でもう一度会いたいんだ』
「それってもしかして……」
今までに比べたらぎこちない会話。だけど彼の想いは真っ直ぐ私へ投げられた。
『あの藤棚の下で、もう一度君と話したい。ちゃんと向き合いたい。お願い』
流れ切ったと思った砂時計が再びひっくり返されたのだろうか。サラサラ、サラサラと、かすかな音が聞こえるみたい。
『あ〜、ちょっといいか』
今、電話の向こうで別の声がした。思いっきり聞き覚えのある声だ。さすがに驚いた。
『もしもし、トマリか』
「和希もそこにいたのか!」
『ああ、いま千秋さんと菊川さんと片桐さんと私の四人で飲んでんだよ』
しばらく思考が停止した。
何故そのメンバーなのだと疑問に思うまでに結構な時間を要した。無理もない。菊川さんといったらおそらくバイヤーのこと。かつて私も会ったことのある人だ。でも本当に数える程度の関わりしかなかった。
そして私の聞き間違いでなければ片桐さんと言っていたな。彼はかつて千秋さんの悪評を上に伝えるなどして蹴落とそうとした人。どうやって一緒に飲めるほどの仲になったのか謎は深まるばかり。
『まぁ、あんたからしたらいろいろとつっこみたいことがあるだろうけど、とりあえず細かいことは置いといてさ』
「あ、ああ」
『約束したろ。必ず千秋さんを連れ戻すって』
そうだった。上司からの期待を重く感じて悩んでいた私に和希がそう言ってくれたことをやっと思い出した。
まさかこんな形でとは思わなかったが。
『このあと千秋さんに電話返すからさ、ちゃんと日程や時間決めて会ってこいよ。思い出の場所で』
「でも……何を話せば良いのだろうか」
『それは一ヶ月後のあんたらにしかわからないことだろ。私に聞いてどうすんだ。いいか、もう観念しろ。どんな答えを出すにしても、あんたらはしっかり向き合わなきゃいけない関係になっちまってるんだよ』
なんだか無茶苦茶な流れではあるけれど、確かに和希の言う通りだ。先延ばしにすることも風化させることも私たちにはできない。
お互いの本心を伝え合わなきゃならないときが来たのだ。いや、きっと遅すぎたくらいなんだろう。
たまらなく喉が乾いた。汗ばんでいるのがわかる。再び握り締めたアメジストも少し温かみを帯びていた。




