72.思い出した、藤の香りの人(☆)
懐かしい感覚だ。遠い昔、何処かで聴いた曲だと思う。画質も今に比べるとちょっぴり荒い。それらのことから私はこの動画を古いものだと早い段階で認識できた。
ステージのあるこの場所はよく目を凝らすと学校の体育館のように見えてくる。学生服姿の人が数人端っこに映り込んでいるし、手前に並ぶ観客たちの影も含め、良くも悪くも雑然としているのだ。
プロの現場ではない。中学……でもなさそうだな。おそらく彼らは高校生で、これは文化祭などの催し物なのではないだろうか。
ダンサーたちは皆、薄紫色のTシャツに黒のスラックスで統一している。上下共にややオーバーサイズなのが却って躍動感溢れる身体の動きを引き立てているかのよう。
彼らだけがスッキリとまとまりがある感じ。そして技術的にもプロ級に見える。凄い、と感動のため息が零れるばかりだ。
私の意識はすっかりそちら側の世界に行っていた。スマホの小さな画面で見ているとは思えない臨場感だったからだ。
中でも特に目立っているダンサーがいた。高身長なせいもあるのだろうが、何かとてつもないオーラと熱量を感じるといったところだろうか。全体を見ているつもりであるのだが、実際のところは何度も彼に視線を奪われて……
「…………っ」
心の底から望むものを追い求めるが如く、切実な表情をしながらこちらへ手を伸ばすのが見えた瞬間、何故が胸の奥をぎゅっと掴まれた気分になった。
息が、苦しい。訳もわからない切なさ。一体なんだったの。
音楽が止まってからもそんな余韻がしばらく続いていた。
「なっ、すげぇだろ」
「ああ。皆若くしてこの技術。素晴らしいな」
「最近この高校のダンス部の動画チャンネルで公開された“伝説のパフォーマンス”ってやつで、今話題になってるんだよ。ところでなんか気付いたことねぇか?」
「気付いたこと?」
「まだ早いか。まぁもうちょっと見てればわかる」
和希に言われるまま、私は画面に視線を戻す。自然と身体を寄せ合い覗き込む形になった。それくらい共に集中していた。
どうやら今度はパフォーマンスが終わったばかりのダンサーたちに、マイクを持った生徒がインタビューをしているらしい。
最初は部長が話していた。今回のコンセプトや公演に向けての意気込み、練習での苦労話など笑いを交えながら。
しかし次にマイクを向けられたのは、さっき私の視線を釘付けにしたあの高身長の少年だった。一度離れていたカメラが再びズームになってその顔がいくらかはっきりする。
アッシュがかったような明るい茶の髪はとてもふわふわしている。やや長髪であり、後ろで束ねていることに今気が付いた。
髪の隙間からちらりと覗くピアス、それから左目の下に泣きぼくろ。
瞳の色はグレー……なのか。淡い色のような気がする。目の前にいる訳じゃないからさすがに鮮明には見えないが。
面影がある。そんな言葉が頭に浮かんだ。
おかしな話だ。まだ何処の誰なのかもわかっていないはずなのに。
いや、それほど印象的な特徴だったのかも知れない。初めて会ったそのときから。
緊張した様子だった少年は、やがて覚悟を決めたようにマイクに顔を近付けた。
『1年E組、千秋カケルです。僕はフィンランドから来ました。部活動を始めるまでダンス経験はありませんでした』
その名を、私は聞き逃さなかった。かといって耳を疑った訳でもなかったのは、やはり予感があったからなんだろう。
きっともうパフォーマンスを見ていたときから何か感じ取っていた。そう今ならわかるのだ。
そして彼がそこにいるという事実と同じくらい気になることが私にはあった。
「フィンランドから……来た?」
思わず呟いていた。和希の方を見ると彼女は力強く頷いてくる。
「ああ。北欧からやってきた大切な人、昔あんたにもいたよな」
そんな。まさか。そう思っているのに言葉にならない。
「まだ喋ってるからとりあえず最後まで聞いてみろよ」
確かにまだ彼の声が聞こえる。私は落ち着けと内心で自分に言い聞かせた。
始めは司会進行役とのやり取りだったはずなのに、いつの間にか会場から声が飛んできている。日本に来てどれくらいかなどと質問されて、まだ一年経っていないと律儀に答えていた。
『はい!』と今度は少女の声がして。
なんかこちらも聞いたことがある気がしたのだが、そんな偶然が何度も起きるとは思えない。私は再び千秋少年に注目した。
『ダンスを始めたキッカケはなんですか』
観客席の少女の声はそう尋ねた。確かにそれは私も聞いてみたいところだと思いつつ返答を待つ。
千秋少年は何故か戸惑ったようにうつむいた。それでもやがては会場の方へ向き直り、凄く、凄く、真剣な表情をして言ったのだ。
『僕は日本語があまり上手くできません。だからダンスで人と繋がれたらいいなと思いました。僕には誰か大切な人がいたような気がするんです、この国に。もう顔も名前も記憶していないけれど、宝物のように綺麗な言葉をいくつも受け取った覚えがあります。その人にもいつか届いたらいいなと思いました』
私はゆっくり、ゆっくり、息を飲む。
遠い記憶の景色の中で藤の花の香りが濃くなっていく。青紫色のシャワーの下で微笑んでいた少年の姿と重なっていく。
思い出した。あの子の目の下にもほくろがあったこと。こんな髪の色だったこと。
凛々しい表情をしてもなお、優しさが滲み出ていたこと。
『それは好きな人ですかー!?』なんて質問が別のところから飛んできても、千秋さん……いや、かつてのダニエルの視線はブレない。
『はい、きっと』
そう力強く答えると会場がわっと盛り上がった。皆も感情移入したのであろう。
『また会えるといいですねー!!』
『はい、僕は必ず見つけます!!』
そのやり取りの後に多くの拍手が起こり、千秋さんに向けた応援の言葉と千秋さんから皆へのお礼の言葉がいくつも飛び交っていた。
歓声が遠くなっていくような感覚の中、実感はじわじわと私の中で広がる。
本当に見つけてくれたんだ。そんな思い。昔、何故本名を名乗らなかったのか、大人になって再会してすぐには気付かなかったのかなど疑問は残るけれど、今はそのどれもこれもが小さいことに感じられてしまう。
あのダニエルと再会できたという事実を超えるほどの要素がここにはないのだ。
でもどうしよう。感情がついていけない。
「どんな経緯でこんな昔の動画が公開されてるのかわかんねぇけど、さすがに顔映ってる人に許可くらいはとってるだろうし、このことは千秋さんも知ってるんだろうな」
「うん……」
「あんたに見られる可能性だって考えただろうな。ってことはさ、もう腹括ってるんじゃねぇの。自分の過去も嘘も全て知られるのわかってて許可したってことじゃねぇのか」
「そう、なのだろうか」
和希の声に対しても、まともな返答さえ思い浮かばず最低限の相槌くらいしか打てない。
いろんなことが蘇ってきてしまう。
怖いスカウトマンから助けてくれたときの優しい眼差し。その後一緒にミルフィーユを食べてくれたこと。
花火の夜の涙も……やはり意味があってのことだったのか? 関係があるのか、私たちの過去と。
――なぁ、トマリ。
和希が私の意識を引き戻してくれた。射るような視線と共に問う。
「あんたはこの事実を知っても地元に帰るつもりなのか」
もう絶対ブレることはないと思っていた芯が揺らぐ。情けないほど呆気なく。
動画が途切れると、代わりに置き時計の秒針の音だけが私たちの間に挟まった。
だけどそうやって時間が経てば経つほど新たな考えも芽生えてくる。それは事実を知ってしまったからこそのものだったのだ。
「ダニエルだと、わかった。だからこそ彼には甘えられない」
「というと?」
「今更調子良く彼の優しさに縋り付きたくないのだ。受け入れてくれる可能性が高いとわかりきってて選ぶなんて、そんなのずるいじゃないか」
「一体何をずるいと思ってんのかよくわかんねぇけど、あんたって変なところで真面目すぎるよな」
和希の言いたいこともなんとなくわかる、気がする。でも胸に残り続けている罪悪感が首を縦に振ることを許さなかった。
「あくまで同業者としての関係だったとはいえ、今まで散々甘えてきてしまったと思うのだ。私のズレた感性のせいでどれほど振り回してしまったか。千秋さんがダニエルなら尚更、これ以上傷付けたくない。本質がとても繊細な人だとわかっているから」
「向こうも親切心で接してくれてたんだし、そんなに罪の意識感じることもないと思うけど。そうか……あんたはそう思うのか」
「うん。だから地元に帰る。千秋さんにはこのまま何も言わない」
「わかった。見てくれてありがとな」
和希がそっとスマホを引っ込めたとき、胸に隙間風のような冷たさを感じた。
未練がないと言ったら嘘になるのだろうな。そう自分でもわかった。でもこれが私が彼へできる最後の気遣いだとも思うのだ。
「あっ、でもさ」
和希がペットボトルの麦茶を飲んでから私に向かって人差し指を立てた。
「ちょっとしたお節介、もう一つさせてくれな。旅館の紹介」
「紹介……ああ、宣伝してくれるという話か」
「そうそう。ちょうど旅行の計画を立ててる人たちがいて、是非行ってもらいたいって思ってたんだよな。二人ほど。まぁ上手くいくかはわかんねぇけど」
「上手くいく?」
「いや、なんでもねぇ」
何かちょっと意味深な言い方にも聞こえたのだが、和希の様子を見ている感じそんなに気にすることでもなさそうだと思った。
「で、いつ地元帰るんだよ?」
「病院で心理検査も受けることになっているからな。早くても二月、時間がかかれば三月くらいだと思われる。年明けに一旦地元に帰ってそこで詳細を決めることになると思う」
「そうか。なぁ、あんたが帰る前になんか気分転換できるようなイベント考えておかね? あまり金のかかんない方法で」
「またファストフードや飲み物を買って部屋でドラマ鑑賞をするとか?」
「それ! 懐かしいなぁ。今年の春頃だっけ、そんなこともしてたねぇ。あんたは酒飲めないけどまぁ気分くらいは楽しめるよな。あとはなんだろ、花見はまだ早いよな」
「そうだな。さすがに気が早すぎだ」
私がふふ、と笑うと和希は照れくさそうに頭をかく。こんな時間もあとわずかなんだと思うと寂しくなるから今はあまり考えないようにした。
それでいい。千秋さんとのことだって、このまま綺麗な思い出になってくれればいいんだ。
共に桜は見られなくても、藤の色と香りに彩られたまま、この先もずっと。




