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tomari〜私の時計は進まない〜  作者: 七瀬渚
第4章/私を許して(Tomari Katsuragi)
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70.危険な不注意


 休日の朝のこと。早く目が覚めてしまった私は駅前のカフェを訪れた。

 朝ごはんを食べていないのにいきなりコーヒーを飲むのは胃にキツそうなイメージ。だからホットココアを一つ、テイクアウトで買ってみた。


 そのまま家に戻るのではなく少し離れた公園まで足を伸ばした。この時間だとランニングや犬の散歩をしている人もいそう。


 長い坂道を登り続けたせいかベンチに辿り着く頃には身体が汗ばんでいた。

 少しの間だけコートの前を開けてみることにする。冬だからさすがにひんやりするけれど、まだぼやけている意識を覚ますのには効果があるようだった。


 ココアは冷めてしまっただろうか。いや、でも外側から触れた感じはほんのり温かい。猫舌だからむしろちょうど良いだろうと思い、私はカップの蓋の飲み口にそっと唇を当てる。

 甘い。そして優しい。ただそれだけが感じ取れた。



 年末も間近となったこのごろ。

 私は一昨日、初めてメンタルクリニックで診察を受けた。


 誰も彼もが“普通”に見える。電車の座席に座っているときみたい。婦人科の待合室での感想に似ているけれど、それ以上に不思議な空間に思えたのはやはりメンタルの疾患に対する先入観からなのだろうか。つらい問題を抱えているようにはとても見えない人たちがこんなにも多いものなのかという驚きがあった。


 待ち時間はそれなりにあったけれど、予約制なので思っていたよりかは早く呼ばれた。


 待っていたのは四十代くらいの男性の医師だ。婦人科の先生と歳が近そうだな、などとぼんやり思った。

 全身から柔らかい雰囲気が出ているのはさすがといったところか。口調も穏やかで私の緊張も徐々に解きほぐされていった。


「心理検査もご希望とのことなので、そちらの予約も一緒にとりましょう。はっきりこうと断言できるような結果じゃない場合もありますが、それでも宜しいですか?」


「はい。宜しくお願いします」


 先生の問いかけに対して私も了承した。生まれ持った特性に関する検査は、白黒つかないこともあると以前からネットの情報を見て知っていた。

 正直、どちらなのかはっきりしてくれた方がわかりやすいという本音はあるのだけど、もっと大事なのは対策を考えることだ。そこは自分もしっかり理解していなければという心構えだった。


 あとはひとまず症状に合わせた薬の処方。何種類かの薬の説明を先生がしてくれた。

 不安や気分の落ち込みは話を聞いていても伝わると先生は言う。こちらも診断名がつくまでそれなりに時間がかかるらしい。気長にいこうと思った。



 そんな訳で一昨日から薬の服用を始めているのだが、今のところ大きな変化は感じない。夜、思ったより早く眠気が訪れたくらいだろうか。逆に言うと大きく気分が落ち込むようなことも起きていないからそれで良いのかも知れないが。


 こうして朝出歩いているのは、自分でも何かできる努力をしようと思ったからだ。休日でも体内時計を乱れさせないようにするとか、身体を動かすとか、栄養をとるとか……。


 くしゅっ、と一回くしゃみが出た。退職まであとわずかなのに風邪を引いたんじゃたまらない。

 ココアもちょうど飲み終えたところ。サッとコートの前を閉めてベンチから立ち上がった。


 そのときだった。ショルダーバッグの中のスマホが振動したのは。

 からとは言えど片手にカップを持っているのでちょっと取り出すのに苦戦したけれど、何とか通話のマークをタップできた。すでに予想できていた相手だ。


『おう、今大丈夫か』


「朝からどうした」


『年明けは忙しいがその翌週くらいに俺も少しは時間ができる。とりあえずいっぺん顔見せろ』


「わかった。そっちが大丈夫なら休みを使って帰ることにする」


『本当は俺が行ってやりてぇんだが、何せ遠いからそこまでの時間はとれなくてわりぃな』


「気にしないでくれ。急な話を持ちかけたのはこっちなのだから」


 ふう、と短く息を吐く音が聞こえた。少しのの後に不機嫌そうな声が返ってくる。


『家族なのに水くさいこと言ってんじゃねぇよ。俺が一度でもお前を拒否したことがあったか』



――母さんにも言えねぇなら俺が話を聞いてやる。なんかあったのか――


――なんだこれ。空気が読めないだ? 集団行動が苦手だ? はっ、馬鹿馬鹿しい。こんな奴、俺が学生の頃だって何人もいたよ。言わないだけで自覚してる奴もいる。俺だってそうだ。お前、こんなモンを真に受けて今の今までグダグダ悩んでたのか――



 遠い昔、高校生の頃。発達障害に関する相談をしたときのことを思い出す。

 正直あのときは拒否されたような気分になったのだが……平穏のためにもここは言わないでおこう。



「ありがとう、兄貴」



 お互いもう大人だ。今更ぶつかったって疲れるのが目に見えている。だからシンプルに礼を伝えるだけに留めておいた。



 それから帰宅したのだけど、スマホはしばらくバッグに入れたまま二〜三時間ほどその存在を忘れていた。最近はSNSもほとんどやらず絵を描いていることが多いからだ。

 作品と向き合っているときは孤独感から解放される。本当はそんなことに利用したくないという気持ちもあるけれど、もはや綺麗事など通用しないほど心がすり減っているのも事実だった。


 孤独はいずれ慣れる。こうして何か手段がある限り。そんな気がする。


 メッセージアプリもそのうち必要なくなるだろう。繋がっていたい人は電話番号さえわかっていればいい。そっちの方が気楽なのだよ。いつでもトーク履歴が見れる状態というのは未練を掻き立てられるから。

 退職するくらいの頃にアプリをアンインストールしてしまおう。スマホをテーブルの上にほっからかし、散らかった静寂の部屋の中で一人、そんなことを思っていた。



「あれ。私、薬飲んでなかったっけ?」


 思わず声に出して言ってしまった。何故かキッチンの片隅に一包化された薬が放り出してある。

 今朝飲み忘れたと考えるのが自然だと思った私は、コップに水道の水を汲みそのまま喉へ流し込んだ。


 それはそうとお昼くらいは何か食べなくてはならない。カップ麺ばかりではやはり栄養不足だよな、なんて考えながら冷蔵庫や棚の中身を眺めて回っていた。

 しかしおかしいな。なんだかフラフラする。これは眠気なのか? 立っているのが凄くつらい。


 早朝から運動なんて慣れないことをしたから疲れたんだろうか。少しの間だけ休もうと思った私は壁伝いに歩いた後、ベッドに倒れ込むようにして寝転がった。



 それからどれくらいの時が経ったんだろう。夢を見た記憶すらない。


 ドンドンドン、と何かを叩く音がする。次第にそれが大きく感じられてくる。

 誰かの声もする。私を……呼んでいるのか?


 ぎゅっと手に力を込めて起き上がろうとするも、かろうじてシーツを掴めただけ。インターホンのチャイムが二回連続で鳴った。それでも身体が重くて言うことを聞かない。あと凄まじく寒い。


 辺りは薄暗い。どういうことだ。さっきまで昼だったのに、もう日が暮れたというのか? 馬鹿な。数分しか経っていないだろう? 違うのか。

 まるで時間の流れに歪みが起きたかのような不可解さ。ようやく身体を起こせたとき頭がくらっときた。


 徐々に平衡へいこう感覚を取り戻していくかのように、私はおそるおそる歩いた。また壁に手を当てながら。



 ……お留守なんじゃないんですか……


 ……だから違うって、多分!……



 二人くらいの人が言い合っているような声。どうやら出どころは玄関の外みたいだ。

 何が起きているのかわからないからいきなり開けるのはさすがに怖い。私はドアにそっと耳を当ててみる。


「今日は部屋にいるって言ってたのに全然連絡がつかないんだよ。窓のところ見たか? こんな時間なのに電気もついてないしカーテンも開けっぱなし。何かあってからじゃ遅いだろ。なんとか頼むよ!」


「でもあなたご家族でもないんでしょ? 勝手に開ける訳にはいかないなぁ」


「じゃあ家族に連絡する方法とかないのか。なんだか嫌な予感がするんだ!」


「またそんな根拠のないことを。参ったなぁ」



 まだ頭が鈍く痛いけど、ぼんやりしていた意識が多少鮮明になってきた。

 男性の方の声はわからない。でももう一人の声は……


「和希……?」


 ドアスコープから外を覗いてみる。ちょうど街灯が当たってくれているおかげで彼女で間違いなさそうだとわかった。私はここでやっと玄関の照明をつけた。「あっ」という短い声が二人分聞こえた。


 そっとドアを開ける。息を飲んだ和希が私の両肩を掴んで迫る。


「トマリ! あんた無事だったのか! 何度も連絡してるのになんで出なかったんだよ。部屋も暗いままだしさぁ」


「すまない、何故か凄く眠くなってしまって、昼過ぎからずっと……」


「ほら。やっぱり大丈夫だったじゃない。私はもう帰っていいですかね」


 呆れ顔でため息をついた中年の男性。そうだ、この人は大家さんだ。滅多に会わないから気付くのが遅れてしまった。

 立ち去ろうとするその人に私はなんとか「すみません」と詫びる。でも喉が枯れて小さな声になってしまった。


「大家さん、突然無理を言ってすまなかった! あとは私がなんとかする。聞いてくれてありがとう!」


 和希がそう言うと大家さんは背を向けたままひらひらと手を振った。


 和希はすぐに私の方へ視線を戻す。怪訝そうに眉をひそめた。


「起きたばかりにしたって随分目が虚ろだな。本当にただの眠気なのか? 一人で部屋戻れんのか、これ」


「ちょっと……わからない」


「とりあえず横になった方がいいかもな。私も部屋入っていいか」


「すまない。お願いする」


 そうして私は和希に支えられながら寝室まで戻った。ベッドに再び身体を沈める。


 部屋の中の照明をつけたりカーテンを閉めたりは和希が全部やってくれた。さすがこの部屋に慣れているだけのことはある。

 適当にくつろいでてくれるよう伝えておいたのだが、彼女は座る訳でもなくずっと部屋の中を歩き回っている様子だ。私は不思議に思った。


「和希、どうしたのだ?」


「昼過ぎから寝てたって言ってたけど、あんた何か心当たりないのか? そうだな例えば午前中、極端に疲れるようなことがあったとか」


「坂道を登るくらいの軽い運動をしたのだが、やはりそのせいだろうか」


「坂道ぃ? 本当にそれだけかよ。よく思い出してみろって」


「帰ってからは絵を描いて……それからお昼を何か食べようと思ったのだけど、朝の薬を飲み忘れていたことに気が付いて……」


「おいおい、大事な薬だろ。飲み忘れんなよ」


「すまない。すぐに飲めば間に合うかと思って飲んだ。でもその後から猛烈に眠くなってしまっていつの間にかこんな時間になっていた」


 思い出せるのはこれくらいだ。普段と変わったところなどほとんどなかったのではないか。


 少し気分が良くなってきた。私は起き上がり、冷蔵庫にある麦茶を飲みに行こうとキッチンへ向かった。

 そこでうつむき立ち尽くしている和希を見つけた。


「和希、さっきからどうしたのだ?」


「なぁ、もしかしてこれが原因ってことないか」


 私は彼女の視線を追う。その手のひらにはからの小さな袋があった。



「これ薬の袋だろ。今日の日付と、それから“夕食後”って書いてある」



「え……」


「朝に薬を飲んだ上で、夜の分も間違えて飲んじまったんじゃねぇか? 最近処方されたばかりの薬だから種類もちゃんと把握できてなかったとか。私はそこらへんの知識ないから断言はできねぇけど、結果的に本来の用法・容量を守らなかったから急激に眠くなったのかも知れねぇぞ」


 和希の鋭い視線が突き刺さる。話の内容は理解しているはずなのに何故か自分に起きたことと思えないでいた。


 いや、認めたくなかったのかも知れない。気を付けていたつもりなのに防ぎきれなかっただなんて。


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