69.人の希望を踏みにじる決意
自分にとっての一つの世界が終わったなら、その先はどうなるのだろう。また再生していくのだろうか。今は想像できない。
限りなく虚無に近いその中で、彼のぬくもりと匂いがまだわずかに残ってる。涙はとっくに枯れたのかもう流れることはないけれど、胸は何度も締め付けられ、余韻がまだまだ続くことを実感させられた。
肇くんとの別れから数日が経った現在、私の身体の不調はひとまず落ち着いたようだ。食欲は相変わらず乏しいけれど、吐き気はない。仕事もとりあえずはできている。
最近、総合病院の婦人科を再び訪れた。念のための検査結果を聞くためでもあった。
子宮がんの可能性はなし。ただ血液中の鉄分の数値が低くいわゆる貧血らしい。体質の場合もあるらしいけれど、私の場合はあまりまともに食事をとれていないからだろうと想像できた。
ひとまず一ヶ月ほど様子見ということで貧血を改善させる薬を飲むことを提案された。私もできるだけ生活に支障は出さないようにしたい。ここはお願いしておくことにした。
もう一つ、先生から話があった。
心因性の不調が出ている可能性についてだ。何か強いストレスを抱えていることは接している中でも伝わってくると言っていた。しかし当然ながら心の問題は専門外。だからこことは別にその問題と向き合う手段を持っていても良いのではないかとのことだ。
そうなるとメンタルクリニック。あるいは和希も言っていたようにカウンセリングという形になるんだろうかと私も考え始めた。
ネットで検索しているうちに通いやすそうなクリニックを一つ見つけた。私の場合、体調不良にも繋がっている可能性があるからまず医療を頼るという選択はおそらくズレていないだろう。心理検査も受けられるという情報も決め手となった。これでもしかしたら長年疑問だったことがわかるかも知れない。
あとは先生との相性などが心配ではあるけれど、あまり不安ばかり思い浮かべていては前に進めない。私は予約の電話をしてみた。
ちょうど最近キャンセルがあったらしく年内に行けることとなった。まだ解決は遠そう、いや、解決するかもわからないのだけど、ひと仕事終えたかのような達成感がわずかにあった。
でもそれは錯覚だ。
私は大事なことを、これからある人に伝えなきゃならないのだから。
街が煌びやかな装飾で彩られている。これは降り注ぐ粉雪を演出したのだろうか、こっちは夜になると圧巻のイルミネーションになりそう、などと昼間から見上げるのも良いものだ。寒くても少し心が晴れやかになるし憂鬱も紛れる。
「もうすっかりクリスマスシーズンね。忙しくてなかなか楽しむどころじゃないけれど」
「そうですね。季節の流れがとても早く感じます」
「ほんと、年々早くなっていく感じがするわ。歳をとってる証拠ね〜」
倉橋店長のため息が白く立ち上った頃、ちょうど信号が変わった。スクランブル交差点を一緒に渡っていく。
特に待ち合わせしていた訳じゃない。さっき駅前で偶然会ったのだ。この流れだとまた従業員用の喫煙所に寄ることになるだろう。
「いろいろあったみたいだけど、思ったより元気そうで良かったわ。桂木さん」
歩きながら微笑みかけてくれる倉橋店長。病院での検査結果はすでに伝えてある。
肇くんと別れたことも千秋さんとの噂が誤解であることも、このあいだ同僚の一人にちらっと話したから彼女の耳にも入っているんだろう。
「ご心配、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「いいのよ。生きてりゃしんどいことだって沢山あるんだから。私だって今までそんなに上手く生きてこれた訳じゃないわ」
「いえ、そんな……」
確か前の職場の相原店長も似たようなことを言っていたなと思い出した。
みんなそうやって謙遜する。それでも私よりか遥かに良いのでは、という考えは簡単に拭い去れるものではなかった。そう、あくまで主観、偏見なのだと頭ではわかっていてもだ。
「大山さんもついに退職してしまったし、ここからは一層気合いを入れていかなきゃね」
「そう……ですね」
「安心しなさい、桂木さん。実力は確実に身についていってるから。あとは体調管理を気を付けてくれれば問題ないはずだわ」
「……承知しました」
「どうしたの? なんかしょんぼりしてない?」
「いえ、大丈夫です」
まだ歩いてる途中。話を切り出すタイミングではないと思い、なんとか持ち堪えていた。
でも限界を感じてしまう。これから起こることを予想だにしていない人の隣にいるというのはなんて胸が苦しいのだろう。
やはりビルに着いてから喫煙所に寄ったのだけど、私はそこでやっと話したいことがあると伝えられた。
もう一本出そうとしていた煙草を引っ込めた倉橋店長は「いいわよ」と承諾しつつも、ちょっと不安そうに眉を寄せた。もう引き返せないと私も感じた。
出勤までまだ時間があるからということで一旦は休憩室に場所を移した。できるだけ人の少ない席を選んで座る。
「それでどうしたの、話って。さっきも途中から様子がおかしかったけど、まだ何か悩みがあるの?」
倉橋店長が迷いなく話し始めたとき、おのずと拳に力がこもった。
喉は石が詰まったみたいに強張る。口を開けばかすれた息だけが出てきそう。それでもなんとか言わなきゃならない。
「あの、私……っ」
「桂木さん?」
「私、サブリーダーにはなれません」
一気に言い切ると反動で呼吸が乱れた。怖くて顔が上げられない。
フッ、と笑い声が聞こえた。まだ伝わっていないんだ、どうしようと焦りが込み上げる。
「またそれを心配しているの。さっき言ったでしょ、あなたなら大丈夫だって。あのね、前から思っていたんだけど謙虚すぎるのも考えものよ」
「いえ、そうではなくて」
「ちょっと、本当にどうしちゃったのよ。やっぱり様子が変……」
「退職しようと考えています」
「え……」
短く漏れた声。だけどそこには絶望が凝縮されている。そうわかってしまう。
私の胸の奥は痛みを通り越して捻じ切れそうだった。
「どう……して? いつからそんなことを思って……」
「期待に応えられず申し訳ありません」
「理由を言ってよ! 私の何が不満だったの!?」
ガタン! と一瞬、椅子が大きく鳴った。私は思わず縮こまった。
恐る恐る顔を上げると倉橋店長は目を見開いたまま小刻みに震えていた。
奥の方では他の従業員が一人、驚いた顔でこっちを見ている。
荒い息遣いが伝わってくる。すぐ間近で聞いているみたいに。私は泣き出しそうになるのをなんとか堪えることしかできない。本当に、ギリギリのところで。
「ごめんなさい。取り乱してしまって」
いえ、と返そうとしたけど声が出なかった。私より先に倉橋店長の目から涙が零れた。
「倉橋店長に不満なんてないんです。本当です」
「じゃあどうして」
「私自身の問題なんです。今回の体調不良の件が考えるキッカケになりました。やはりこれ以上迷惑をかける訳にはいかないと」
「何言ってるの。たった一回じゃない。しかも原因は貧血でしょ。女性にとっては珍しい症状でもない。確かに桂木さんは痩せ型だから心配だけど、それはこれから食生活とかを気を付けていけばいい話でしょう。努力次第でどうにでもなることじゃない」
「私はこの身体と何年も付き合っているので想像がつくのです。簡単に解決する問題じゃないって。きっとこれからもっと調子が悪くなります。今回の比じゃないくらい迷惑をかけてしまうかも知れません」
「だからどうして決めつけるのよ。健康維持に努力が必要だなんて当たり前のことでしょう?」
確かにそうだ。簡単に成り立つ健康なんてないのかも知れない。努力不足と言われればそれまでだ。わかってはいる。
でも、まだ上手くは言えないけど、私だからこその問題が潜んでいるのも事実。きっとみんなと同じようにはできないんだ。
申し訳ありませんと、詫びの言葉をもう一度繰り返すだけで精一杯。具体的に説明することすらできないことを不甲斐なく思っていた。
「本当に辞める気なの? 例えば少しの間休職するとか、他にも方法があるかも知れないのに、そっちは全く考えなかったの?」
「それは……」
「せっかくここまで頑張ってきたのに、もったいないと思わないの。どうしてそんなに極端なの」
どうしてなのだろう。私もよくわからない。
だけど何故かはっきりしていることがある。それが今の環境と距離を置かねばならないということ。もはや使命感にも似たものだったのだ。
ちらりと腕時計を見下ろした倉橋店長が深く大きなため息をついた。まだ残っている涙をハンカチで素早く拭う。
「……わかったわ。私も無理に止めることはできない。その方向で話を進めましょう」
「恐れ入ります」
「あなたにしてみたらプレッシャーをかけられただけに感じたかも知れないけど、私はそんなつもりじゃなかった。本当よ」
「いえ、なので倉橋店長のせいでは……」
「本当なのよ。あなたと並んで明るい店舗を作っていくことを夢見ていたのよ」
「申し訳、ございません」
寂しげに、呟くように言った倉橋店長はもう目を合わせてくれない。まるで透明のガラス板に遮られたかのよう。
駄目だ。もう何を言っても届かない。そう確信できてしまった。
私の真意など彼女には伝わらないのだろう、この先もずっと。でも仕方ないんだ。期待に応えられないなんてずっと前からわかっていたのにあやふやにしてしまった私の責任。例え嫌われたって私に文句を言う資格などない。
後は残された期間、できるだけ迷惑をかけずに仕事をするだけ。退職はおそらく来月になるだろうから初売りには参加できる。一生懸命やろう。そう割り切ることでなんとか自分を保とうとしていた。
その日の勤務をどう乗り切ったのか、私はあまり覚えていない。倉橋店長も私も表向きはいつも通りにしていたとしか。
結局私、一年も続けられなかったんだな。その実感が虚しく胸の内で反響している。
千秋さんはあの後どうなったんだろう。残る気がかりはそれだけになった。
でも私から近付くようなことをしたらまた状況がこじれそうだ。このまま何も言わずに去るのが一番いい。
そう、彼もまた別れなければならない一人だ。
今度こそ大丈夫だ。私はアパレルの道を諦めた。それにもう偶然など起こりようがないくらい遠くに行く。
だから。
だから……
帰宅した私は、靴だらけの玄関に立ち尽くしたままメッセージアプリを開いた。一年前みたいに彼の連絡先を消そうとした。
だけどどうして。手が震える。熱く込み上げてくるものがある。
そっと画面に触れた。そう、この名前を見ているだけでも安心してしまうのは今も変わらないんだ。
「ごめんなさい。あと少しだけ……ごめんなさい」
潰れたような声が漏れる。
連絡をする気はもうない。でもこの街にいる間だけでも残しておきたい。自分を罰するようなことを繰り返していた私が、ほんのいっとき自分の我儘を許した瞬間だった。




