68.最後まで寄り添ってくれた(☆)
降り注ぎそうなほどの星々の下、長い、長い、沈黙が続いていた。
私はまだ彼の腕に触れたまま。だから彼の全身が強張っていることもうっすら感じ取れた。
こんなときにまたしても私の頬を伝ったもの。今なら星々に紛れられるとでも思ったか。
彼が泣くならわかるけど、私は違うだろう。それはずるいだろう。そう自分を叱ってみても止まってくれる訳ではない。
肇くん。それほどまでに君を愛していた。いや、今現在も愛している。
でもそんなこと言えはしない。所詮は私の自己満足。彼にとっては鋭利なナイフのような言葉に他ならないだろうから。
「トマリ……えっ、それって、どういう……」
「本当にすまない」
「嘘だよな。悪い嘘なんだよな。だって俺たち、つい最近まで楽しく過ごしてたじゃないか。一緒に暮らす練習だって慣れてきてたし」
「…………っ」
「あ、そうか。女の人って結婚の時期が近付くと不安になるんだっけ。何か心配なことがあるの? この機会に話してよ。別にいま決断しなくたっていいじゃん。ね」
「すまない」
「トマリ、なんで……なんでだよ!」
肇くんが自分の膝を強く叩いた。声を噛み殺すようにして呻いている。
また一歩、和希が近付いてくる音がした。
「なんだよ。お前は引っ込んでろよ、槇村和希!」
「そういう訳にはいかねぇんだよ、北島肇。お前が大きな声を出すとトマリが怖がって話せなくなるだろ」
「これは俺たち二人の問題だ!」
「だから口は挟まねぇって。お前が噛み付いてこなければな」
「なんだよそれ……ふざけんなよ……っ」
肇くんはもう涙声だ。
ごめん。嘘だよ。全部嘘だ。そう言って抱き締めたい衝動に駆られる。
だけどわかってる。そんなのは優しさじゃないって。私はぎゅうと唇を噛み締めた。
「肇くん。まずは聞いてくれるか。実はこんなことがあったのだ」
前置きをしてから私は最近自分の身体に起きたことを話した。
でも彼が暴力の疑いをかけられたことだけは黙っておいた。決意に繋がった要因の一つではあるけれど、そんな事実はないのだし、不快にさせるとわかりきっていることをわざわざ伝えることもなかろう。
話を聞いているうちに肇くんは少し落ち着きを取り戻したようだ。頬の涙を拭ってから真っ直ぐ私を見つめる。
「トマリをそこまで不安にさせてたなんて知らなかった。ごめん。でもそれは結婚前だったから不安になったんじゃないか? 俺はトマリと人生を共にする覚悟も子どもを育てる覚悟もできてるよ。家のこと、トマリだけに押しつけるつもりなんてないって前に言ったじゃないか。二人で協力すればどんなことだってできるよ」
「そうだけど、そうじゃないのだ、肇くん」
「悪いけどよくわからないよ、トマリの言ってること。トマリと俺は歳が近いから、本来そこまですれ違いは起きないはずだよ。ほとんど同じ目線で一緒に歳を重ねていける関係だよ。今回は子どもできなかったけど、いつかできたときにはトマリだってちゃんと受け入れられるようになってると思うよ」
「違うのだ。肇くんと私とでは時間の流れ方が違う」
「何言ってるの。そんな訳ないでしょ」
「子どもを産むということ自体も私には無理なんだと今回の件でわかった。少なくとも今の私には……」
「だから。それは年齢を重ねていくうちに解決するんだって」
肇くんは大きな声を出さないように気を付けているんだろうけど、苛立っているのははっきり伝わってくる。
そうだろうな。ここまで話が通じないとそうなるのも無理はない。だからこそ、これ以上彼の人生の貴重な時間を奪いたくないと思ったのだ。
私なりの考えがある。
でもその全部を伝えていたらキリがない。言葉を交わすほどに膨らむ愛着が私の決意の邪魔をしてくることだろう。なるべく簡潔に伝えたい。
「肇くんは何度も私との未来を想像してくれたのだと思う。そこにはどんな私がいたのだろうか。年相応の考えを持った私が君に寄り添っていたのだろうか」
「年相応って、それはもちろん……」
「違うのだよ、肇くん。例えば十年後の未来、君の隣にいるのは“ただ十年分歳をとっただけの私”だ」
彼の瞳孔がきゅっと縮まる瞬間を見た。それでも私は続けなければならない。
相手がどう反応しようが自分を貫く覚悟。皮肉にもこんなときに芽生え始めていた。
「君と過ごした六年間、いや、それよりずっと前から私の時計は止まったままなのだ。好きな服も趣味も、考え方、価値観に至るまで昔のまま。年齢に合わせて確かに前へ進んでいる君とはどんどん距離が開いていくと思う。君だって違和感を覚えたことくらいあるのだろう?」
「それは……」
「プロポーズしてくれた日の夜、私の部屋着が新しいものに取り替えられていた。年相応の趣味ではないと思ったからだろう」
「それは……っ、悪かった! 実は別に理由があったんだ。これが最後になってもいい。言い訳と思われてもいい。話だけでも聞いてくれないか」
「もちろんだよ。私も聞いてもらったのだから」
何度か頷いてみせるとまるで鏡に映したかのように彼も同じ仕草をした。
私の手に触れようとして、やめる。両手は行き場を失ったまま、やがてうつむき声を絞り出した。
「母さんが……来てたんだ、俺の部屋に」
「肇くんのお母さんが?」
「ああ。プロポーズの日の数日前に母さんが近くに用事ができたからって俺の部屋に寄ることになってさ。そのときトマリの前の部屋着が干したままになってて、咄嗟に新しいものと交換することを思いついたんだ。母さんに見られてもいいように」
「それは……つまり」
「今まで黙っててごめん。母さんは別にトマリと俺の仲を反対している訳じゃなかったんだ。でも俺が捨て子だってこともあって、派手な見た目の女性に対して警戒心が強いんだよ。俺の実の母親の詳細なんて知らないから多分偏見でしかないんだけど、それでも母さんが不安に思う要因はできるだけ消しておきたかった。これも結婚の話をスムーズに進めるために必要なことだと思ったんだ」
「肇くん……」
「俺自身はトマリの趣味を否定してる訳じゃないんだ。そのままのトマリで良かったんだ。なのに……俺はなんで……っ」
頭を抱えて悔やむ彼を私は支えてあげることもできない。
知らなかった。ただ衝撃だった。自分の趣味が彼のお母さんを不安にさせていたことも、彼がここまで独りで抱え込んでいたことも。
「ねぇトマリ。君は十年後になっても変わらない、ただ歳をとるだけだって言った」
「うん」
「俺がそれでもいいと言っても決断は変わらないの?」
「…………」
「俺はもうブレないよ。親のためにトマリの気持ちを犠牲にしたりしないよ。だからもう一度考えてもらえないか」
赤くなった彼の目が真っ直ぐ私を捉えている。口調こそ落ち着いているけれど、彼の全身から漂う雰囲気は懇願に等しいと感じた。
でも私は、私には、首を縦に振れない理由が他にもある。
「肇くん、すまない。私の決断は変わらない。それはお互いのためにならないと思うからだ」
私の方からそれを口に出すことはできないのだけど。
彼の目つきが鋭くなったのだけど、見つめたのは私ではなくその後ろだった。
ぎゅうと唇を噛み締めてから小さな声で言う。
「……ずっと気に入らなかった。千秋カケルも、槇村和希も」
私は驚いていた。彼の方からそれを口にしてくれたからだ。
でもその目は次第に穏やかになっていく。まるで憑き物が取れていく過程を見ているようだった。
「トマリがこの先誰を選ぶとしても、俺はもう何も言ってあげられない。だからお願い。ちゃんとした奴を選んでほしい。周りがなんと言ってもトマリにとって安心できる相手ならそれでいいから」
「肇くん、ありがとう」
私の身体からも力が抜けていった。
なんとなくわかったんだ。伝わったんだ。もうきっと千秋さんに対して何もしないと。
私と別れることで、肇くんはこれ以上悪者にならずに済むのだと。
本来はすごく、すごく、優しい人だ。人を蹴落として平気でいられるタイプなんかじゃない。そんなことを続けていれば確実に自分をすり減らす。
肇くん、例え君自身が認めなくたって私はわかっているよ。
「トマリ、部屋に置いてある私物はどうする? 持って帰る?」
「うん、そうする」
「俺があげたものはこっちで処分した方がいいよね」
「……すまない」
「わかった。今まとめて持ってくるよ。ちょっと待ってて」
一旦マンションに戻っていく彼の背中をぼんやりと見つめていた。
本当にもう、終わってしまうんだ。全部。自分で決めたことなのに、その実感がついてこない。
しばらくして彼が三つの紙袋を持って私たちの元に戻ってきてくれた。
一緒に中身を確認したけれど、部屋着以外の全部がそこに入っている。もしまだ残っているものが後から見つかったらそれは捨てて構わないと彼に伝えておいた。
肇くんがおもむろに姿勢を正した。私の隣に向かって深く頭を下げる。
「トマリについてきてくれてありがとうございました」
驚いたような顔をしていた和希は「おう」と短く返しただけだった。
――トマリ。
歩き出そうとした私に届いたその声は、まるで耳元で囁かれたかのように淡く優しく響いた。
胸が軋みの音を立てる。おのずと身体が震えてくる。
「肇くん……」
「トマリ、最後にもう一度だけ触れてもいい?」
「うん」
彼の長い腕が片方、伸びてくる。
そうしてまるで友達にするみたいに私の肩を引き寄せた。私はもう、限界だった。
子どものように泣きじゃくる私を。荒く上下するこの肩を、彼の手は何度も、何度も、優しく撫でたり軽く叩いたりしてくれた。
大丈夫だよ。君は絶対大丈夫。そんなあまりにも温かい言葉を繰り返しながら。
彼自身だって泣いているのに、最後まで全力で私に寄り添ってくれた。確信はどんどん強くなった。彼のこと、一生忘れられる訳がないと。
それはきっと、一緒に過ごした時間の長さだけの問題ではない。
「わかってもらえて良かったな、トマリ」
「うん……」
「疲れたろ。今日は早く帰ってゆっくり寝ろよ」
「…………っ」
「おい、大丈夫か」
人気のない夜の住宅街。和希に支えられて私はやっと自分がふらついていることに気付いた。
でももう止められない。力が入らない。そのまま膝から崩れ落ちてしまう。ぐしゃりと叩きつけられた紙袋から化粧水や美容液の瓶が転がり出た。
涙も嗚咽も止まらない。
ただこれで良かったということだけわかっている。
心折れている場合じゃないこともわかっていた。だからすぐに立ち上がるつもりだった。
別れを伝えなきゃいけない相手は他にもいる。
それはまだ和希にさえ打ち明けていない私の覚悟だった。




