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tomari〜私の時計は進まない〜  作者: 七瀬渚
第4章/私を許して(Tomari Katsuragi)
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67.私が望んだ未来は……


 次の日の昼すぎ、私はいよいよ総合病院を訪ねた。隣駅のすぐ近くというアクセスの良いところだ。


 今朝脱衣カゴに溜まっていた衣類を一気に洗ってしまったため、上はくたびれたニットプルオーバーくらいしか残らなかったが、病院に行くだけならまぁ気にすることはなかろう。下はワイドパンツでゆるめ同士の組み合わせに。靴はやはり念のためスニーカーを。


 何科から受診するべきなのかわからないから、正直にその旨を窓口で相談した。そしてひとまずは問診票を書くことに。

 症状としては、吐き気、食欲不振、体重減少、微熱など。大きな病気にかかったことは今のところなし。

 最後の項目でペンが止まった。妊娠の可能性。これは結局どうなんだろう。


「あの、すみません」


「はい、どうされましたか」


「ここなんですけど、実は最近……」


 私は再び窓口に行き、周りの目を気にしながらも最近あったことを小声で伝えた。受付の女性は穏やかな表情で時折頷きながら聞いてくれた。

 それでは念のため“あり”の方にしておきましょうという話になったので、その流れで私は婦人科の受診を希望した。


 婦人科の待合室の椅子に座っている間、落ち着いていたはずの緊張がまた強くなってきた。

 何かの病気である可能性も考慮してひと通りの検査をするとしたら、きっと全ての結果が今日わかる訳ではないのだろう。でもお腹に子どもがいるかどうかはその場で判明するかも知れない。


 いざ事実を伝えられたとき、私はどう受け止めるのか。未だ想像がつかないまま。


 ちらりと向かい側の席を見ると、私と歳の近そうな女性が落ち着いた表情で座っている。その横の人も、そのまた横の人も。怖がってる様子の人なんていない。

 彼女たちはどんな事情で何を思ってここにいるんだろう。私もはたから見れば普通……に見えるのかな。そんなことを考えていた。


 やがて回ってきた診察のとき。ドアの向こうで待っていたのは四十代くらいの女医さんだ。


 相変わらずそわそわと落ち着かない気持ちではあったけどなんとかひと通りを説明。念のため子宮がん検診や採血も一緒に行うこととなった。


 思えば内診はかなり久しぶり。しかし一旦椅子に座ったならもう先生に任せるしかないという諦めモードに自然と入っていった。

 子宮内や卵巣の状態はここである程度わかるらしく、どうなっているかを先生が時々説明してくれる。なるほど、今のところ大丈夫そうなのだな、と理解しつつも身体中がドクドクと脈打ち汗ばんでいるのがわかった。


 内診が済んだらすぐに着替えて、また診察室の椅子に座る。

 同じくらいのタイミングで先生も戻ってきて向かい合う形になった。


 あまり表情の変わらない先生だなとこのとき改めて思った。その口から紡がれる言葉も淡々と伝わってくる。


「まず心配されていた件なんですが、妊娠はされていないようですよ」


「そう……ですか」


「安心しましたか」


「は、はい」


「そうですか。良かったです。あなたはここに来たときからずっと怯えている様子でしたから」


 え、と呟いたつもりだったけど実際は息がちょっと零れただけ。

 先生は私の顔ではなく斜め下あたりを見ている。なんだろう。疑問に思っていたときだった。



「右肩に青あざがありますね」



 最初、何故青あざのことを知っているのかわからなかった。

 でも言われた部分に触れてみるとそこは確かに皮膚の感触。襟の伸びきった服だから腕の方へずり落ちてしまったようだ。これだからなで肩は。


 先生の射るような視線を今度は真正面に感じつつ、私は肩のあたりのずれを直す。


「えっと、これは最近ぶつけて……」


「そうですね。強くぶつけたようなあざです。怖い思いをされたのではないですか」


「え……」


「ここでは言いづらいですか。でしたら専門の機関があるのでそちらに相談することをおすすめします」



 なんの、話をしているんだろう。そう思っていたのはほんの少しの間。


――――っ。


 普段は鈍感な私なのに、このときは先生の言わんとしていることがわかってしまった。思わず立ち上がる。


「ちっ……違います!! 彼はそんな酷いことしません!」


 自分でも驚くくらいの大きな声が出てしまった。看護師さんが素早く駆け寄ってきて私の背中にそっと触れる。

 なんで。なんでそんなこと言うの。

 大切な人に疑いをかけられたやるせなさ。それ以上に、説得力のある説明もできない自分が悔しくて、悔しくて、涙がぽろぽろと零れてきた。


「座ってください、桂木さん」


 先生の落ち着いた声が届く。私は「すみません」と小さく呟いて再び腰を下ろした。

 ぐす、ぐす、と情けない音だけはどうしても続いてしまう。


「この青あざは職場でぶつけてできたものなんです。暴力じゃありません」


「そうなんですね。わかりました。ただあなたは妊娠を恐れていた。それは本当ですよね」


「どうして怖いのかは……よくわからないのですが」


「あなたのその気持ち、パートナーはちゃんと知っていますか」


「それは……」


「本当の気持ちを伝えておかないとまた同じことが、あるいは恐れていることが起きてしまうかもしれません。そのとき苦しむのはあなたです」


 先生の視線は真剣そのもの。そして少しの柔らかさを含んでいるように思える。

 ようやくここで実感が湧いた。この人は心配してくれているのだと。


「お節介なことを言ってごめんなさい。私は全ての女性が妊娠を望んでいるとは思っていません。子どもをつくる選択もつくらない選択も自由にあって良いと思うのです。でもそれをパートナーに理解しておいてもらわないと望まない妊娠に繋がり、宿った命を諦めるというつらい選択をしたり、同時にご自身の身体にも負担をかけることになります。心も身体もボロボロになってしまう恐れがあるんです」


 私は何も言えなかった。ただうつむき、服の裾をぎゅうと掴んでいただけ。



「子どもを宿すとしたらあなたの方。だけど責任は双方にあります。もしあなたとパートナーとの間で認識のズレがあるなら、良好な信頼関係が築けているとは言い難いですよ」



 最後の言葉は長い長い余韻を伴った。

 私はどうしていただろう。最低限、頷くことくらいはできていただろうか。



 診察の後は採血をして、結果が出る頃にまた来院して下さいという話を受けた。


 待ち時間で結構時間がかかってしまったし、婦人科での検査結果が出てから次の治療方針を考えるらしいので今日はこれで帰ることになった。

 結果と呼べるものが出るまでなんだかんだと数週間はかかりそうだと思ったら気分が憂鬱になってきた。仕方ないことだと頭ではわかっているけれど。


 でも一つ、確かになったものがある。


 最愛の人に伝える言葉だ。大体固まりつつあったけれど、今日の先生の話で私は確信した。やはりこのままではいけないと。


 もう少しで彼が悪者にされてしまうところだった。これも私が自分の意思をちゃんと示せなかったから。ならば明日から示せるか? この先の未来は? そう考えたとき、答えは明白だったのだ。



「……和希、すまない。今少し話してもいいだろうか」


 帰宅してすぐに私は電話した。ずっと心配してくれていた彼女に今日あったことを伝えた。

 そして私の決意も一緒に。

 すると彼女は一つの提案をしてくれたのだ。


「わかった。あんたは北島を何処か外に呼び出してくれ。二人きりで会うなよ。私もその場に行く。話はちゃんと二人でできるように少し離れたところにいるからさ」


「ありがとう、和希」


「どうしても一人じゃ言えなさそうだったら、私に声をかけてくれてもいい。もう決めたことなんだろ」


「ああ。もう選択を変えるつもりはない」


 強く頷いたとき、涙はもう零れなかった。胸は張り裂けそうに痛いのに不思議な感覚だった。



 それは婦人科を受診した日から五日後。


 本来なら肇くんと同じ部屋で過ごす予定だった日。だけど私は肇くんのマンション近くの公園で会いたいと伝えた。


 不自然だと思われたかも知れない。だけどむしろ予感くらいは感じ取ってくれていた方がいいと私は思っていた。


 私が逆の立場だったら、いきなり伝えられるなんてきっと耐えられないから。



 待ち合わせの時間十分前に、小走りで向かってくる彼の姿を見つけた。街灯の下、私は小さく手を振る。


「トマリ、いつから待ってたの。寒かったでしょ。待たせちゃってごめんね」


 そう言って自分が巻いていたマフラーを私にかけてくれようとした。ふわ、と一瞬、彼の匂い。目頭が熱くなった私は咄嗟に彼の腕を掴んで遠ざけた。


「ごめん。大丈夫だ、肇くん」


「トマリ……?」


「ごめん」


「どうしたの。なんか変だよ。改まって話がしたいなんて言うし、何か悩みでもあるの」


「…………」


「なんで、泣いてるの」


 彼の声が震えてくるのがわかった。眉を寄せ、首を横に振っている。嫌だとばかりに。

 多分伝わったんだと私も察した。


「ねぇ、トマリ。後ろにいるのって誰」


「和希だ」


「あいつが? なんで一緒に来てるんだよ」


「二人きりだと言えなさそうだったから」


「嫌だ。俺は聞かない。トマリ、部屋へ行こうよ。あったかいものでも飲んで落ち着こう。話はそれからでも……」


「…………っ」


「それからでもいいだろ!? なぁ!」


 ザッ、と砂をこする足音がした。和希が少し近付いてきている。肇くんはそちらを睨みつけている。


「肇くん」


 私は素早く彼の腕に触れ、意識をこちらに集中させた。喉は絶えず震えていたけど言うべきことは確かに口にした。



「すまない、肇くん。君と同じ未来には行けない」



 思った以上に早く訪れた夕暮れが辺りを儚げな薄紫色に染める。まるで図ったようにカラスの鳴き声がした。


 星々を携えた夜の幕が降りてくるみたい。でもこの捉え方はきっと間違っていない。


 彼との別れは紛れもなく、一つの世界の終わりなのだから。


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