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tomari〜私の時計は進まない〜  作者: 七瀬渚
第4章/私を許して(Tomari Katsuragi)
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66.自分の本心と向き合うには


 明日は総合病院に行く。だから心配なことはそのときまとめて相談しても良かったのだけど……。


 いずれは落ち着くと思っていた恐怖心はむしろどんどん膨れ上がっていくようだった。

 仕事はなんとか乗り切ったけれど、帰りの電車に乗る頃には心細くて泣きそうになっていた。


 スマホを見た。トーク画面を開きそうになった。でもすぐにバッグの中にしまった。

 だって……だって。

 こんなときばかり人に甘えるなんてずるいじゃないか。

 昔から私の中にある謎の頑固さがあらゆる行動のストッパーになっているようだった。


 とりあえず今夜のうちに自分で調べておこう。このままじゃ眠れそうにもないから。そう思ったのは最寄りの駅の前に新しくできたドラッグストアを見つけたときだ。

 食欲も相変わらず乏しい。なんだか胸のあたりがムカムカして固形物を食べる気になれない。ゼリー飲料やスポーツドリンクも一緒に買っておこうと思い、店内に入っていった。


 検査は帰宅してからすぐに行った。結果もすぐに出ると聞いている。

 だけどこのときはとても長い時間に感じられたな。



「あ……」


 数分後、検査キットを見た私は思わずその場にへたり込んだ。


 結果は……陰性。

 良かった。さすがに心配しすぎだったようだ。


 でも急に吐き気とか食欲不振とか、みんながそうだと思い込むのも納得がいく。結局あれはなんだったんだろう。


 ともかく結果はわかったのだから、この先はもう安心して過ごせるはずだった。

 でもどういう訳か不安がおさまらない。そもそもこの検査キットの結果は100%正確なんだろうかと疑い始めた。


 “絶対”でないと駄目。安心できない。そんな困った癖がここで発動してしまった。

 私は思わずスマホを手に取りインターネットで検索を始めた。そしたらやはり。検査するタイミングが適切でないと正確な結果が出ないときがあるとの情報を得た。


 適切?

 本当に適切だったのだろうか?


 正直ここ数ヶ月、どうやって過ごしてきたのかろくに覚えていない。以前はもっと慎重だったのに、夏の頃、彼と喧嘩してしまって以来、もう気まずくなったり傷付け合うのが嫌で、全てを彼任せにしてしまっていた。


 婚約、結婚、出産など、今後踏む予定だったいくつかの段階。一緒になるということが決まっているなら多少順序が変わったって何も問題はない。そう思い込もうとしていた。


 だけど、今、私は……


 涙が止まらない。怖くて怖くてたまらない。


 鼻を啜る音とそれに混じる嗚咽だけが散らかった部屋の中に虚しく響いている。


 私は馬鹿だ。そう自分を罵った。

 何も割り切れてなんかいない。結局ただの投げやりだったのだと。自分で選択し、責任を負うことから逃げたのだと。


 もう何もかも考えるのが嫌になってしまったのだと、今になってやっと、わかった。

 だけどもう遅い。遅すぎるよ。



 何処かでスマホが振動している音を私の耳はなんとか拾った。どうやら着信みたいだ。私はテッシュで涙を拭いつつその辺に散らばっているクッションやブランケットをどけていく。


 やっと見つけたとき、それは和希からだとわかった。わずかに残っていた塩辛い味をごく、と飲み下してから電話に出る。



「和希……」


「おぉ、トマリ! 今大丈夫か!?」


「大丈夫だ。随分慌てているようだがどうしたのだ」


「大変だよ。千秋さんがマネージャー辞めるかも知れないって!」



 私は、驚かなかった。いや、驚けなかったのだ。

 なんたって昨日起こったばかりのこと。和希の耳に入った経緯まではわからないのだが。


「千秋さんはもうこっちのショッピングモールの担当じゃないらしいんだ。だから実際に会った訳じゃねぇんだけどよ、休憩室でたまたま話してるのが聞こえちまったんだよ。現在の店長さんともう一人、見かけねぇ顔の男がいてさ。二人ともぱっと見は普通にしてるけど結構不穏な話してたぜ。まるで千秋さんが男の方に弱みでも握られてるみたいな」


「おそらく……それは私のせいだ」


「えっ、最近何かあったのか?」


「千秋さんがまた私との関係で何か誤解をされたらしい。厄介なことに今度は本社の方にまで伝わっていると思われる」


「そうか。あんたにとってはつらいだろうけど、その話もうちょい詳しく聞いていいか?」


「わかった。むしろ是非聞いてほしい」


 体調が優れないことを合わせて伝えたら、また和希がうちのアパートまで来てくれることになった。

 いろんな人に世話になりっぱなしで私は自分を情けなく思う。でもこれは私だけの問題じゃない。今はとにかくわかりやすく伝えようと考える冷静さはかろうじて残っていた。



 二十時ちょうどくらいに玄関で和希を出迎えた。彼女は私を見るなり表情を険しくした。


「本当に随分痩せちまったんだな。前から細い方ではあったけど、今は明らかに体調が悪いってわかる。どうしてもっと早く言ってくれなかったんだよ」


「すまない……」


「どうせ私が忙しそうだからってためらってたんだろ。今度余計な遠慮したら怒るからな。まぁいい。部屋で休もう。ちょっとした食いものも買ってあるからさ、少しでいいから腹に入れろよ」


「わかった。ありがとう、和希」


 靴を脱ぎながら彼女は「本当にわかってんのかよ」と不機嫌そうに呟いた。無論、今の私に反論できる余地などない。



 リビングで和希が買ってきてくれた白湯を受け取った。彼女は冷たいウーロン茶。それぞれ飲みながら話した。

 早速怒られても仕方がないくらいの内容だけど、そのひと通りを和希は落ち着いた表情で聞いてくれた。


「なるほどな、そんときのあんたの症状が吐き気で、それを見た片桐って男が何か千秋さんに疑いをかけていたと。まぁあれだろ。手ぇ出したって思ったんだろうな」


「やはりそういう意味なのだな。とんでもない誤解なのに」


「あんたの職場の同僚たちも相手が千秋さんだと思い込み、噂が広まってしまったかも知れないって訳だな」


「よりによっておしゃべりなスタッフたちに知られてしまったからな」


「でもそれ以前に気かがりなのは……」


「そう。あの片桐さんって人、千秋さんのこと“反省してない”などと言っていたのだ。まるですでに千秋さんに関する悪い噂が存在していたみたいな言い方だ。以前噂になったときは本社にまでは広まらなかったはず。一体何故。どんなことを言われていたんだろう」


 私にとって千秋さんは信頼できる人だ。だから悪い噂が立っていたって鵜呑みにするなどあり得ないのだけど、奇妙なことに今回も千秋さんは“自分のせいだ”と認めていた。

 実に不可解だ。あんないい人が一体どんな間違いをおかしたというのか。どんなことをしたら一部の人からあれほど目のかたきにされるのだろうか。


「私がちらっと聞いた感じはだけどよ……」


 和希が珍しく口ごもる。それだけですでに不穏な予感がした。


「千秋さんが元スタッフにしつこく言い寄ってて、その元スタッフの親しい人間から“彼女にちょっかい出さないでくれ”って苦情が来たとか言ってたんだよな」


「えっと……千秋さんの部下であった元スタッフの親しい人から元スタッフにちょっかい出さないでくれと苦情が??」


 内容がこんがらがって理解できない私に和希は「落ち着け」と言ってから真っ直ぐ指をさす。そう、私に向けて。


「その“元スタッフ”っていうのが多分あんたのことだ」


「元スタッフが私」


「で、あんたが親しくしている人間の誰かが千秋さんの職場に苦情を入れた、ってことだろ」


「私が……親しくしている人」


「もちろん私は言ってねぇからな」


 和希は顔の前で手のひらを振り、否定の言葉を強調する。

 それはそうだろうな。和希は肇くんより千秋さんの方が私に相応しいなどと言ったこともあるくらいなのだから。


 ん、ちょっと待て。


 ふと思考が停止した。

 雷のような衝撃を伴う閃きが降りたのはその次の瞬間だ。



「まさか……肇くん?」



 私の言葉に対し、和希が真顔でゆっくり頷く。


「その可能性が高いだろうな。もしかすると片桐って男と組んでるのかも知れない。どうやって繋がったのかはわかんねぇけど」


「どうしてあの二人が……」


「もし片桐が前から千秋さんを蹴落としたいと思っていたなら、北島とも利害が一致するだろ。まぁあくまで推測だけどな」


 そう、現時点ではまだ推測。

 わかってはいても私の手元は絶えず震えた。私の知らないところでそんな恐ろしいことが起きていたかも知れないなんて。


 それなのに私は千秋さんに距離を置かれたと落ち込んでいた。今なら想像がつく。去年噂になったときのように私に飛び火しないよう離れてくれたのではないかと。


 何も知らなかった。気付かなかった。最低だ、私。


「私にできることはもう本当に何もないのだろうか」


「私ら同じ会社の人間じゃないからな。正直限界があるとは思う。私も何か策がないか考えてはいるんだけどよ、残念ながらまだ思いつかねぇ」


「そう……だな。私も考えなくては」


「いや、あんたは先に自分の心配をした方がいいだろ」


 顔を上げてしばらくぼんやりしていると和希が気怠いため息をついた。


「なに他人事ひとごとみたいな顔してんだ。子どもができた可能性、ゼロじゃないんだろ」


「ああ、考えすぎかも知れないが」


「もしそうだった場合、父親は北島で間違いないと」


「それはもちろんだ」


「北島はこのこと知ってんのか」


「まだ知らない。何故かわからないのだが、どうしても言うのが怖いのだ」



 知られた瞬間を想像するだけでも身体が強張り、おのずと肩を抱いてしまう。


 ウーロン茶を一口流し込んだ和希が私の目線に合わせるように少し背中を丸めた。


「なぁトマリ。なんでそんなに怖いのかこの機会に考えてみろよ。自分の本心と向き合う練習をしていった方がいいんじゃねぇか」


「本心と、向き合う?」


「そうだ。私でよければいくらでも話し相手になるけど、例えばカウンセラーとかプロの力を借りてもいいんじゃねぇか。このままだとあんた、流され続ける人生になっちまうぞ」


 そうか、私は流されていたから、何も本当の意味では理解できないし納得もできないんだ。そんなふうに一つわかった気がした。


 正直まだ千秋さんのことが気がかりだけど、和希の言うとおり、まずは自分のことから対処していかなければ。


 明日受ける診察。その結果によって未来は大きく変わるだろう。

 だけど最愛の人に伝える言葉はすでに固まりつつある。


 最愛だからこそ。これ以外の選択はきっとあってはならない。


 私は一つの決意をし始めていた。


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