65.ある可能性と広がる誤解(☆)
トイレの個室にこもっていたのはどれくらいの間だっただろう。体感的にそんな長時間ではないと思うのだが。
ともかく早く戻らねば売り場のみんなに迷惑をかけてしまう。今日は忙しいのだからな。
気持ちの悪さが落ち着いてきたところで個室のドアを開けた。
手を洗いながらなんとなく目の前の鏡を見た。
うわぁ最悪だ。クマが浮き出てきてるじゃないか。一応コンシーラー塗ってきたのにな。
みんなの言うとおり、確かに最近の私は痩せ過ぎなのかも知れない。青あざのできた肩をさするとまさに骨と皮の感触。そうして自分の不健康さを実感するのだけどどうしていいのかわからない。
トイレを出てしばらく廊下をとぼとぼと歩いていた。
千秋さんの姿を見つけたのは休憩室の前あたりだ。少し離れたところにさっき“片桐さん”と呼ばれていた男の人も腕組みしながら立っている。
「千秋さん……」
「トマリ! 大丈夫? 少しは落ち着いた?」
「はい、売り場に戻ろうと思います」
「ううん、せめて一旦は救護室で休んだ方がいいと思う。一階にあるみたいだよ」
「でも仕事が……」
「店長さんには僕から伝えておくよ。さあ行こう」
背中にそっと手を当てられ、私はこくりと頷いた。いいのだろうか、こんなこと。千秋さんは他店のマネージャーなのにここまでお世話になってしまって。そんな迷いはあったけれど、さっき吐いてしまったせいで衰弱しているのも事実だった。
「おい千秋、わかってるんだろうな」
低く不機嫌そうな声がした。千秋さんと一緒に私も振り返る。
声色に反してその人は薄い笑みを浮かべている。まるでこの状況を楽しんでいるみたいだ。フン、と鼻を鳴らして更に口角を吊り上げる。
「上から何を言われようとお前自身の責任だからな。菊川バイヤーも忠告してくれたのにそれをちゃんと聞かなかったんだ。しょうがないよなぁ」
「…………」
「千秋さん、あの、私のことはいいので……」
「まぁお前のような優秀な人材がいなくなるのは惜しいけど、ここまで公私混同されたら俺も黙ってる訳には……」
ひゅっと短く息を吸う音がした。空気を粉々に砕くような声が響いたのはその次の瞬間だ。
「はいはい!! 報告でもなんでもしてください! こっちは今それどころじゃないんで!」
「な……っ!」
「緊急事態にそんなこと気にしてる場合ですか。あなたの方こそ何もわかってない!」
普段の穏やかさからは想像もつかないような尖った声。
いや、でも私にとっては初めてじゃない。いつか職場まで怒鳴り込んできた肇くんに立ち向かったときもこんな感じだった。
隣を見上げてゾクッとした。色としてははっきり見えない高温の炎のような目。片桐さんが今にも後ずさりしそうになっているのも頷ける。
「ああ、そうかい。勝手にしろ!」
捨て台詞と舌打ちを残して片桐さんは休憩室に戻っていった。
私、あの人とは面識ないのだけど一体なぜ千秋さんにキツく当たるんだろう。駄目だ。考えたいのに、気分が悪くて頭が回らない。
「トマリ、エレベーター乗れそう?」
時々優しく降ってくる彼の問いかけに頷くだけで精一杯だった。
救護室はちょうど空室だった。「何かあったら声をかけて下さい」と言い残してビルの事務員さんは去っていった。
ベッドに横たわってなお身体がぐるぐる回っているような感じが気持ち悪い。でも立っているよりはいくらかマシに思えた。
千秋さんが私の目線に合わせてそっと屈む。先ほどとは打って変わって優しい眼差しになっていた。
「さっき事務室で内線を借りてそちらの店長さんに伝えておいたから。あとね、その怪我の応急処置をするために氷やビニール袋を買ってあるんだって。いま僕が受け取ってくるね」
「ありがとうございます」
「多分早退を勧められると思う。意地を張らずにちゃんとゆっくり休むんだよ。じゃあちょっと待ってて」
「千秋さん」
私は思わず彼のジャケットの裾を掴んだ。どうしてもさっきのことが気がかりだったからだ。
「千秋さん、あの片桐さんって人と仲が悪いんですか」
「昔はそんなことなかったんだけどね。なんか今は嫌われてるみたい。でもそれだけだよ」
「本当ですか。あの人、上に報告するとか言ってましたけど」
「大丈夫だよ。トマリはそんなこと気にしなくていいの」
子ども扱いでもしているような彼の言い方に苛立った。納得がいかない。
半身を起こそうとすると「駄目」と言って元に戻される、何度でも。私はもがいた。優しく、だけど力強くベッドに押し付けられたまま。
「ずるいです! いつも私の世話を焼いてくれるくせに私には心配もさせてくれないなんて!」
「心配するほどのことじゃないからだよ」
「嘘! あんな話、部外者でもなんとなくわかります。千秋さんの立場が危ういってことくらい。あの人と何があったんですか」
「さっき言ったでしょ。ただ嫌われてるだけだって」
「まだそんなこと言うんですね。酷い。千秋さんの馬鹿……っ!」
よりによって彼を罵る言い方をしてしまったその瞬間、額と額が音もなく合わさった。自分の言葉を後悔する暇さえ与えてはくれなかった。
ひんやりとした、感触。ということは私、熱があるんだろうか。
少しずつ昂っていた気分が落ち着いていく。涙が枕の方へ伝っていくのがわかった。
「馬鹿でいいよ。本当のことだから」
あまりにも近くてその美しい瞳さえ霞んで見えるけれど、彼が喋ると温かな吐息が私の肌へ伝わる。
次第に呼吸が整っていく。だけどどういう訳か胸の奥がチリチリと、痛い。
「信じてもらえないかも知れないけど、本当に僕が悪いんだ。責められて当然のことをしてしまったんだ。しかもトマリの言うとおり、僕はずるいんだ。こんな触れるか触れないかみたいなやり方ばかり。今日だって思わず君を助けてしまった。でもなんの責任も取れない。優しさと呼ぶには中途半端、そんなものしか僕は持ち合わせていない」
「千秋さん……?」
「だけどもう気付いてもらえたかな。今だって許されない気持ちを君にぶつけてる。こんなにも衰弱している君に、僕は……」
彼の額がゆっくり離れていくと今度はその大きな手で両頬を包まれる。
息が止まりそうなほど切なげな微笑みが目の前にあった。
「ごめんね」
絞り出すような苦しげな一言を残して。
彼は再び立ち上がり足早に部屋を出て行った。今度は振り返らなかった。私が返す言葉を見失ってしまったからかも知れない。
千秋さんの予想した通り、私は早退を勧められた……というよりほぼ“命じられた”と言えるだろう。
明日は体調が良ければ自己判断での出勤も認めるけれど、少しでも調子が悪そうならすぐに早退、そして近いうちに病院へ行ってなるべく詳しく調べてもらった方が良いと皆が口を揃えて言っていたそうだ。
肩の怪我の応急処置は、救護室で横になっている間に千秋さんと倉橋店長が済ませてくれた。
帰り道、ガーゼで覆われたそこに触れる。
強く押せば痛いだろうけど、何もしなければただ色が変わっただけの皮膚。未だピンとこない私はやはり何処かおかしいのだろうかと気分が沈んだ。
職場で怪我をしたなんて、肇くんには絶対言いたくなかった。次に彼の部屋へ泊まるのは週末。まだ数日ほど時間があって良かった。後は青あざが少しでも薄くなってくれることを願うばかりだ。
翌日。私はオフタートルのニットにタイトめなシルエットのロングスカートという組み合わせで職場へ向かった。体調の不安定さを考慮して足元は歩きやすいスニーカー。これもぱっと見は抜け感を出すためのテクニックに見えるだろう。
今まで撫で肩な体型を活かしてオフショルダーや肩開きのトップスを選ぶことが多かったけれど、肩までしっかり覆える服も持っていて良かった。その上もうじきコート販売に力を入れるために我々スタッフもコートを羽織って売り場に立つことが増えてくるだろう。心強い。そうしている間に青あざなど跡形もなく消えてくれるさと前向きな気分になれた。
出勤前に一服する習慣はもうないけれど、今日はいつもより早めに着いたので休憩室に寄った。職場近くのコンビニで買っておいたゼリー飲料で栄養補給をしてみる。効果あるといいのだけどな。
「あっ、トマリちゃんだ! おはよ〜!」
「森さん、おはようございます」
「ねぇねぇ、私もそこ座っていい?」
「もちろんです」
今日一緒に中番に入るスタッフの森さん。最近二十歳を迎えたばかりだけど、歳の離れた私にも気さくに話しかけてくれる。
接客中のとき以外はスタッフを名前で呼んでいるのも彼女の特徴だ。さすがに倉橋店長にその口のきき方はしないあたり、ある程度世渡りを心得ていると見える。前の職場のるみさんのと少しだけ重なるのだけど、森さんの方が裏表がない印象だ。
向かい側の席に腰を下ろした彼女はきゅっと眉を寄せて声を潜める。
「トマリちゃん、大丈夫なの? 今日出勤して。体調つらくない?」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。明日休みなのでそのとき病院に行ってこようと思います」
「ならいいんだけど、できるだけ無理はしないでほしいな。今日スニーカー履いてるのもそのせいでしょ」
「えっと……確かに念のため歩きやすい格好で来ましたが……」
おかしいな、なんだかさっきから微妙に話が噛み合ってない気がする。私はつい首を傾げてしまった。
それに対して森さんはうんうん、と頷き納得を示しているようだ。ますます状況がわからない。
彼女は一回辺りを見渡してから口元に手を添えこちらへ身を乗り出した。
「そうだよね、まだ大きな声では言いづらいよね」
「と、言いますと?」
「だってトマリちゃん、おめでたでしょ?」
…………。
…………。
「…………はい?」
呆気にとられる私の前、森さんは好奇心の隠しきれないキラキラした目をして続ける。
「トマリちゃんの彼氏さんって同業者だったんだね。びっくりしちゃった。昨日店舗まで訪ねてきた人でしょ? でもすっごく優しそうだししっかりしてるし、あの人なら安心だね。それで結婚の話はもう……」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って下さい!」
とりあえずいろいろおかしな点があるので話を止めたけれど、考えてもみなかった可能性があるのも事実だった。
混乱している頭をなんとか動かそうと拳で軽く叩いてみる。
「え……そんな、私が……?」
恐る恐る下腹部に触れたとき、今度は森さんが驚く番だった。
「え! トマリちゃんまさか気付いてなかったの!?」
「はい、あの……確かにお付き合いしている人はいるんですが」
「あの人でしょ」
「千秋さんではないです」
私はしどろもどろになりながらも説明した。千秋さんは前の職場の上司であって、それ以上の関係になったことはただの一度もないと。
この場合の説明というのはもちろん、状況をスムーズに正しい方へと持っていくためのものだ。ところが森さんの相槌は徐々に減っていき、どんどん表情を引きつらせていく。
一体どうしたというのだ。
ひと通りを話し終わったタイミングで彼女がやっと言いづらそうに切り出した。
「ご、ごめん、トマリちゃん。うちてっきりおめでたい話かと思ったから、莉緒ちゃんと琴音ちゃんには言っちゃった……」
へらっと苦し紛れに締まりのない顔なんかしてるけど、いま名が上がった二人は森さんと同世代でありテンションも近い。いわば『おしゃべり三人組』。そう、思い出した。この子たちに噂されたら最後、少なくとも同じ階の競合店にまでは伝わると言われていることを。
私は勢いよく机に突っ伏した。そう言われた瞬間から急に周りの視線が気になってくるではないか!
「も〜り〜さ〜ん〜〜!」
「ああっ、ごめんなさいぃ!!」
さすがに恨めしげな声が出てしまった。
ゆっくり考えていこうと思っていた問題の数々がいきなり今という瞬間にぎゅっと凝縮された気分。一体どの問題からどう対処していけば良いのだろう。
ともかく私はこの状態を“キャパオーバー”と呼ぶ。
そして更に気がかりなのが、さっきから止まらない身体の震え。
もし本当に新しい命を授かったのなら。それも大好きな恋人との間に。それは喜ばしいことであるはずだ。彼だってその覚悟はあると断言していた。
だからおかしいのだよ。こんなにも恐怖を感じているだなんて。




