64.大丈夫だったはずなのに
夢と現実の狭間で誰かの声を聞いた気がした。最初は聞き取りづらかったけど、大丈夫、もう少し、あともう少しだけ、そんなことを言っているみたいだった。
囁くような口調でありながら何処か焦燥が感じられた。私は声の方へ引き返そうとした。だけど思うように進めない。届かない。息が苦しくてたまらない。
そんなとき今度は頭上の方から声がした。
――トマリ――
――トマリ、もう大丈夫――
同じようなことを言っているけれど先程の声とは別だとわかる。だってこっちはとても聞き慣れているから。
それなのに私は何故かためらった。何故かすんなりと選べなかった。
頭上の声はどんどん鮮明になり、ついに私の意識を絡め取るようにして引き上げていく。
甘い香りと薄紫色の花びらが夜空みたいな宙を舞う。それはたまらなく懐かしい感覚。
目覚める間際、私はどちらに手を伸ばしたのだろう。
「大丈夫だよ。俺がついてるよ、トマリ」
「肇……くん」
「これからは全部、全部。俺に相談してくれればいいんだよ」
「…………うん」
頷いたのは条件反射だったと言えるだろう。そう、私はもう覚えた。とりあえず肯定しておけば良いのだと。
明け方の光を透かしたカーテンを背にして彼が優しい目で私を見てる。彼の言葉に違和感を覚えてもそんなのは多分気のせい。考え過ぎず、いま目の前にあるものだけを信じていればいいんだ。
鳥肌の立った肩をさすっていると彼が布団をかけ直してくれる。そのまま立ち上がりエアコンの温度調整に向かったようだ。
季節が流れるのは思いのほか早かった。特に秋の短さには驚かされたな。いつか帰り道の途中で見かけた秋桜の愛らしい色だけが印象に残っている。
そして今はツイードやコーデュロイなどの衣類がしっくりくる、十二月を迎えて間もない頃だ。ウール素材の出番もあっという間に巡ってくるのだろう。尤も流行先取りが鉄則であるアパレル業界ではとっくに取り扱っているアイテムだがな。
オフショルダーのニットに腕を通しながら、本日入荷予定の新商品のことを思い浮かべていた。考えているとちょっと気分が明るくなれるから。
「それじゃあ仕事に行ってくる」
「気を付けて。寒い日が多くなってきたから無理しないでね」
「ありがとう。肇くんも出張の後で疲れているだろう。今日はゆっくり休んでくれ。また連絡する」
「うん、待ってるね」
彼の部屋を後にするとき玄関の鍵が閉まる音を私は一度も聞いたことがない。気遣い屋さんな彼のことだ、おそらく私の足音が聞こえなくなったくらいで鍵を閉めているんだろう。
マンションのエレベーターを降り、外へ出たところで天を仰いだ。やっぱりこれくらいの時期の空は彩度が低めに感じられる。
トレンチコートの襟元を正し、手に持っていたストールをふんわりと巻く。
次また彼の部屋に行くときは昼と夜の寒暖差も開いていそうだ。うちのお店で新しいコートを買おうかななんて、このときは呑気に考えながら歩いていた。
幸いなことにここ最近の私は、大きく体調を崩すこともなく仕事ができている。
要は割り切れるかどうかなんだとやっと気付いたんだ。
思えば幼い頃にもう答えは出ていたんだ。私の選択は大抵が間違いだった。だから信頼できる人に従っていればいい。そうすればつまずかない。転ばずに済むのだ。
意地を張ってわざわざ痛い思いすることなんてない。そう思えば微弱なプライドだって捨てられた。
だから……だから。
千秋さんと話せなくたってもう問題はないのだ。
勤務先のビル内でたまに彼の姿を見かけることはある。だけど気付いたところで私にはもう彼を頼る理由がない。向こうも今は忙しくて放っておいてほしいだろうし、ちょうど良いタイミングだったのだ。
そうして私たちはちょっとばかり目が合ったとしても軽く会釈をする程度の関係になった。
和希とは最近あまり連絡取れてないけれど、まぁ元気にやっているんだろう。彼女も次期店長候補だから忙しいんだと思う。邪魔はしたくない。だからたまに心配されても平気だと言ってある。
うん、大丈夫。仕事もプライベートもおおむね順調に進んでいる。
やっと私も、みんなと同じような生き方へと近付いたんだ。
おのずと強く頷いていた。一度深呼吸をしてから駅構内へと足早に歩いていった。
「桂木さん、最近やる気満々だよね。その調子ならいずれみんなを引っ張っていけるわ」
ストックルームで商品出しの準備をしている途中、倉橋店長の声がして私は振り返った。とりあえず小さく頭を下げておく。
「ありがとうございます」
「前は疲れた顔した日もあって心配だったけど最近はそうでもないから安心したわ。あ、ねえねえ! 元気に仕事するための秘訣って何かあるの? 若い子たちにも伝授したいんだよね〜」
「そう……ですね。例えば細かいことが気になっても次の日まで引きずらないことでしょうか」
「うんうん、なるほどね〜! やっぱり大抵のことは気の持ちようなんだよね!」
気の……持ちよう。
それを聞いた瞬間、胸の奥がざわついたのは何故だろう。なんだかとてつもなく後ろめたいのは……何故なんだろう。
いやいやそんなはずはない。私はもう綺麗さっぱり割り切ったのだから!
「え、どうしたの桂木さん。いきなり首を振ったりして」
「あ、いえ。なんでもありません」
「ならいいんだけど。今日売り場作り一緒に入ってもらってもいい?」
「承知しました」
大丈夫。倉橋店長は間違ってない。だって私とは比較にならないキャリアがあるんだから。
この人の言うとおりにしていれば私だってちゃんと成長できるんだ。恐れることはない。
入荷したばかりの新商品を腕いっぱいに抱えてストックルームを出た。モヤモヤした気持ちなんてどうせすぐ吹き飛んでいくものだと思っていた。
売り場作りはなかなかの力仕事だ。ただ商品を陳列するだけではなく、大きな什器をいくつも動かして配置そのものを変えることもある。
マネキンやトルソーだってずっしりと重い。それを大抵は一人で持ち上げたり、腕や脚を外して服を着せ替える。コツを掴んでいるスタッフだって汗だくになることも珍しくない。
「桂木さーん、こっちのトルソーもお願いしたいんだけど」
「はーい!」
ちょうど店頭の商品陳列が終わったところ。私は呼ばれた方へと向かっていく。
ところが店内の後方で待っていた倉橋店長は、何故だか驚いたような顔をして私を見るのだ。思わずこちらも首を傾げてしまった。
「なんかあった? いま凄い音がしたけど」
「音?」
「待って桂木さん、その肩!」
なんのことだか本当にわからなかったんだ。
ただ、指さされた方を目で追っていくと大きな青あざがあったのだ。オフショルダーのトップスだったからハッキリと見えていた。
誰のものなのかもわからない戦慄が訪れる中、時間が止まったような気がした。
「店頭の什器の位置がずれているわ。どうしてあんなわかりやすいものにぶつかったの」
「あ……えっと、その……」
「まさかぶつかったことに気付かなかったの?」
信じられないといった顔をされて嫌な汗が一気に吹き出す。
怪我したことに気付かないという経験。実は初めてじゃない。私なりにボロが出ないよう気を付けていたつもりだったのに。
「どうして平然としているの。痛いでしょう普通……」
「申し訳ありません!」
「いや、謝ってほしいんじゃなくてね」
「次から気を付けます! 什器もいま元に戻しますから」
「そうじゃなくて……ああもう、とりあえず手当てが先よ。応急処置できるものを買ってくるからストックルームで待っててちょうだい」
はい、と私は答えたつもりだったけれど喉がかすれて声にすらならない。
どうして私は未だにこうなんだろう。年齢や経験と共に多少は克服できるものじゃないの? そんな考えで頭がいっぱいになっていた。
「桂木さん、怪我したんだって!? 大丈夫?」
「うわぁ痛そう。真っ青じゃない。早く治るといいよね」
「ご心配おかけして申し訳ありません」
「誰だってうっかりすることくらいあるよぉ。応急処置が終わるまで売り場作りは私が引き継ぐから安心して」
「ありがとうございます」
ストックルームまで様子を見に来てくれた仲間たちの声をぼんやりと聞いていた。
誰だって。そう……だよね。慌ただしいときなんか特にうっかりすることくらい誰にでもある。
なんとか自分に信じ込ませようと脳内で繰り返してみた。
「それにしても桂木さんって特に上半身が痩せてるよね」
「うん、最近元気良さそうだと思ったけどこうして見るとやっぱり痩せ過ぎ。ちゃんと食べてる? 細ければいいってもんじゃないんだよ」
「一応最低限は食べていると思うのですが……」
――――っ!
そのときだった。喉の奥から突き上げるような感覚があったのは。
私は思わず口を手で覆った。でも駄目だ。やっぱり気持ち悪い。
「すみませんちょっとお手洗いに」
えっ、という驚きの声が聞こえたけれど反応している余裕はなかった。万が一ここで戻してしまったら大変なことになるからだ。
一瞬どこのトイレに行けばいいかわからなくなるくらい混乱していた。とりあえずお客様の目につく場所を避けているうちに従業員用の通路まで来ていた。
前はしっかり見ていたつもりだったのに私は誰かの胸元にぶつかってしまった。咄嗟に頭を下げて詫びる。
「すみません」
「僕は平気だけどトマリは大丈夫?」
明らかに顔見知りである口調に驚いた。
声の記憶だってある程度は続く。しばらく話していなくたって、やっぱりわかるものなのだな。
「千秋さ……」
「どうしたの、しっかりして。顔色が悪いよ」
彼は真正面から私の両肩を支えたのだけどすぐに片方を手を離した。そこにあるものをじっと見つめながら唇を震わせる。
「何、この青あざ」
彼の顔が悲壮感で満ちると胸がぎゅうと締め付けられた。続いて涙が一気に溢れ出す。
「何があったのトマリ。ねぇ、僕に話して」
「…………っ」
ほんの一瞬の感情だったけど、なんとなくわかる。私が本当に望んでいたこと。だけどそんなことあってはならない。そんな簡単には認められない。涙も拭えないまま思わずかぶりを振った。
「ごめんなさい!」
「あっ、待って! このビル確か救護室があるからそこまで一緒に……」
踵を返してすぐに腕を掴まれた。ちょうどそのとき、真横の休憩室のドアが開いた。
私たちを見て最初驚いた顔をしていた見知らぬ男の人、その表情がだんだん険しくなっていく。
「千秋、お前やっぱりそういうことだったのか」
「片桐さん……」
「新店舗を見ておきたいと頼んでおいて良かったぜ。おかげでお前がまるで反省してないってことがよくわかった。このことは上にきっちり報告させてもらうからな」
反省? 上に報告って?
私には何が起きているのかわからない。
私は素早く千秋さんの手から抜け出した。とりあえず今は緊急事態。諸々の確認は後だ。
「すみません、本当に吐きそうなんで!」
「えっ、吐きそう!?」
「お前っ、まさかそんなことまで……!」
「片桐さん、なんか凄い誤解してません!? そんなドン引きした顔しないで下さい!」
二人の声が遠のいていく。
千秋さん……。
1ミリも状況が理解できてないけれど、今度改めて詫びた方がいいことくらいはなんとなくわかる。すまない。
なんとかトイレに辿り着き最悪の事態は避けられたが、当然ながら疑問は残る。自分の身体に何が起きているのかだ。
こんなふうに急に吐き気がしてトイレに駆け込むなんて、実際のところドラマでしか見たことがない。そう、あのシーンは確か……
「……なんだっけ」
肝心なところが思い出せない。
しかし私はそう遠くない未来で、ある可能性に気付くことになるのだ。




