63.私たちは傷付け合うばかり(☆)
煙草をやめたからといって食欲が増す訳でもない。私の場合はそうだった。お酒は元から体質に合わないし。
じゃあストレス発散はどうすればいいのか。そうだな、趣味に没頭することで余計なことを考えなくて済むならそれに越したことはなかったんだろう。
だけど最近、絵を描く気力が湧かない。アイデアの芽が生えてきても育たずすぐに萎れてしまう。体重が増えた訳でもないのに身体が重く感じて力が入らない。
代わりに寝落ちする頻度が増えた。大体は仕事から帰った後だ。
夢の中で私はときどき煙草を吸っている。昔から夢の解像度が高く、質感、味、痛みまでもがリアルに存在している。だから本当に一服したような満足感がそれなりにあった。
目を覚ます時間帯は二十一時〜二十二時頃であることが多い。夕食を食べるかどうかはそのときの気分。歯を食いしばって起き上がり、なんとかお風呂を済ませる。
日付が変わる前には布団に入る。すると今度はろくに眠れないのだ。
朝になればコンシーラーでクマを、ファンデーションで肌荒れを隠すルーティンが始まる。
ふとメイクをする前の青白い顔に触れた。正確には卓上の鏡にだ。手の汗が歪な軌跡を描いていく。
まただ。またこのパターン。
普通に生活しているつもりなのに身体と心が壊れていく実感がある。限界地点を超えると熱が出ることはもうわかっている。これじゃあそれも時間の問題だ。
どうして。私の何が間違っているの。
職場のみんななんて、朝起きてお弁当を作ってメイクして髪をセットして汗水流して働いて帰宅して洗濯して趣味を楽しみテレビを楽しみ話題の動画やSNSもチェックして夕食をとって食器を洗ってお風呂でつくろいで布団に入る。聞いてる感じ、そんなふうに一日を過ごしてる。
何故これを毎日できるの? 時間は? 体力は? どうなってるの。
私なんてこの半分で精一杯。でも接客業ともあろう者が不潔なまま仕事に出る訳にはいかない。流行をおさえるための研究も欠かせない。だから食事や睡眠を削るしかなかった。
ねぇ、なんで私だけこんなにも時間が足りないの? 体力が追いつかないの?
私はいつになったらみんなと同じように生きられるの……?
気が付くと透明な雫が一つ、頬を伝っていた。テーブルの端っこにあるティッシュに手を伸ばしている途中でまた一つ、二つと零れる。
最近そこまで落ち込んでるつもりじゃないのに泣くことが増えた。上手くいかないことだって大部分は諦めてきたつもりなのに。
でももう気持ちを切り替えなきゃ。
私は鏡とテーブルをティッシュで拭いた後、自分の両頬を強く叩いた。
今日は仕事じゃない。楽しまなきゃ。凹んでるところなんて見せちゃ駄目。これも彼との将来へ向けた大事なステップなんだから。
自分に言い聞かせながらメイク道具を並べていく。顔に彩りが入れば少しは気分も変わるんじゃないかと思った。
でもやがてブラシを持つ手が止まってしまう。おのずとうつむいてしまった。
大好きなメイクなのに全然ワクワクしない。色の組み合わせも思いつかない。さすがにこんなことは初めてだったから。
それでも私はアパレル販売員だ。どんな装いをすればいつもの自分に見えるかわかっているし笑顔だって慣れたもの。
ただ、技術のみで愛する人と接しなきゃいけないのが切ないだけ。
“嘘も方便”は確かにあるんだってこと、何故か彼に会う度に思い知らされる。いつからこうなってしまったんだろう。
私が肇くんに本当の顔を見せていたのって、いつが最後だったっけ。
彼の住むマンションに辿り着く頃にはもう私の中のモードは切り替わっていて、ほのかな罪悪感もそっと影を潜めた。
チャイムを鳴らすとTシャツにハーフパンツというラフな姿の肇くんが出迎えてくれる。こんな彼を見れるのも本来は新鮮なはずなのだ。
彼が目を細めて笑う。私も反射的に笑ってみせた。
「トマリ、待ってたよ。ちょっと早いけど一緒に夕飯の材料を買いに行こうか」
「わかった」
「トマリは荷物置いてっていいよ。材料費は俺が持つから」
「それでは申し訳ない。私は泊めてもらう立場なのだから後でちゃんと半分払う」
「堅苦しいなぁ。これは一緒に暮らす練習なんだよ。いつかは家計だって一緒になる。変な遠慮はしなくていいんだからね」
「わかった。ありがとう」
私が荷物を置かせてもらうために部屋に入ると途中で腕を掴まれた。
驚いて振り返る。肇くんの悲しそうな顔が近くにあって、まだ意味もわからないのに胸がズキリと痛んだ。
「トマリ、また痩せたよね。顔色も本当は良くないんでしょう」
「そう……だろうか」
「そうだよ。俺の目は誤魔化せないよ。ねぇなんで。食事や睡眠は。ちゃんとできてないの」
やや厳しい声が連続して届くものだから自然と身体が強張った。
わかってる。肇くんはただ心配してくれてるだけだって。頭ではわかっているのだけどどういう訳か私は責められているような気分になった。
――トマリ! どうしてあんたはみんなと同じようにできないの!――
――給食もちゃんと食べてないそうじゃない――
――何が気に入らないの。学校が嫌なの? 家が嫌なの? はっきり言ってみなさいよ!――
何故かうんと昔に浴びせられた言葉を思い出す。怒られた内容、さすがに全部は覚えてないけど、世間で当たり前とされていることが昔から苦手だったことも。
今だって眠りたくても眠れないし食べたくても食べれない。でもそんなこと彼に言える訳がない。
「大丈夫だから」
「トマリ」
「大丈夫だから……っ!」
「何が大丈夫なんだ。はぐらかすなよ!」
気がつくと私は肇くんの腕の中でじたばたともがいていた。こんな駄々っ子みたいな振る舞い、みっともない自覚はあるのにもはや自分の意思では止められない。
「お願いだ。大きな声を出さないでくれ……」
「ごめん。でも俺は別に怒ってる訳じゃないんだよ」
「わかってる。わかってるけど怖いのだよ」
「ごめん……」
またしても熱い雫の群れが頬を駆け降りていく。唇をきつく噛み締めた。
私はここに何をしに来たんだろう。大好きな彼に悲しい顔をさせて、謝らせて、何がしたかったんだろう。
「トマリ。一旦部屋に行こう。ゆっくりしよう」
「ん……」
彼が玄関の鍵をかけた。閉ざされた音が私には始まりの合図に聞こえる。
手を引かれて彼の後をついていく。ゆっくりするだなんて口実なのはもうわかっていた。
部屋の中。私が観念して壁に背をもたれると彼は私の首元に顔をうずめた。上から下へ何度も何度も執拗なほど行き来する。独占の証をのこすみたいに。
ああ、困ったな。明日の仕事はポニーテールにして行こうと思ったけど無理になった。意識の霞んでいる私はぼんやりと考えるだけ。
痛くても拒絶なんてできない。それほど彼はやるせない気持ちなのだろうから。
私が少しの間、我慢していればいいんだ。
それでも涙は時折流れた。
私たちはここまでしてもわかり合えない。お互いに爪を立てるのは、行き場のない熱を、気持ちを、相手の中に埋め込もうとする行為みたいだ。甘い雰囲気とは程遠く、共にヴァンパイアにでもなってしまったように耐えがたい喉の乾きを相手で満たそうとしていた。
彼が止まる様子がないので私は一度「待って」と言った。声はかすれていたけどちゃんと届いたはずだ。
でもそんな切ない目で見下ろされたら何も言えなくなってしまう。
「ねぇ、トマリは何がそんなに心配なの? 俺たちはいずれ一緒になるんだよ。家庭を作るんだよ。俺は新しい家族を迎える覚悟だってできてる。なのにどうして」
「肇くん……」
「どうしてそんな顔をするの。俺ってそんなに信用できない?」
声にはならず、代わりに首を横に振ってみせた。ただ目の前の彼を安心させたい一心だった。
今までに比べると実に衝動的かつ無計画な時間だったけど、後のことなどとても考えられる余裕はなかったんだ。
それから少しの間私たちは一緒に眠ったけれど、日が暮れ始める頃には手を繋いで買い出しに出かけた。
何事もなかったかのように材料を選んで、買って。荷物は彼が重い方を持った。薄暗くなった帰り道、すれ違った老夫婦が目を細めて私たちを見ていた。
帰ってからは一緒に料理して、できあがった晩ごはんを食べながら笑い合った。絵に描いたような団欒の光景だったことだろう。
何事もなかったかのように。
そう、大人になると自然と切り替えができてしまう。激しく傷付け合った後だなんて誰も気付きはしないだろう。
だからこそ今の傷に寄り添えるのもお互いだけだった。
静かな夜。目を閉じてからもずっと彼の手を離さなかったのは、ただ隣にいることだけを考える日があっても良いと思ったからだ。
胸の内側にしつこくへばりつく不安にはもちろん気付いていたけれど、それは後日の自分に任せるしかないだろう。きっと彼もそう割り切った。
私だけ弱音を吐くなんてずるいことはしたくないというささやかな強がりだったんだ。




