62.あなたに聞いてほしかった(☆)
冴え渡る空の色に反して湿度と熱気が容赦なくこの身にまとわりつく。かき氷、冷やし中華、ざるうどん、繁華街のあちこちに立つのぼり旗が少しでも涼を与えてくれようとしているけれど暑いものは暑い。
夏の解放感を体現するようなダンス&ミュージックが高層ビルの大画面に映し出されたりなんかする、そんな時期。
千秋さんに距離を置かれた。
ただその事実だけがこぢんまりと私の中に存在していた。実感はまたしても置き去りになっているらしい。
メッセージが届いたのは昨日の午前中。別にブロックされた訳ではない。理由もしっかり書いてあった。
新しい仕事を任され、これから忙しくなるからしばらく連絡はとれそうにないという話だ。それならば仕方がないと私もすんなり理解し、頑張って下さいと当たり障りのない返事をしたところまできっちり覚えている。
なのに……
隙間風に冷やされるようなこの感覚はなんだろう。こんなに暑いのに? 凍えそうになってしまう、この奇妙な感覚は……一体。
――桂木さん!
背後から女性の声がして私は反射的に背筋を伸ばした。振り返ると現在の店舗の責任者である倉橋店長が満面の笑みで近付いてくる。
そういえばこの人、髪伸びたな。ミルクティーベージュの髪色はそのままだけど、以前はショートボブだったのが今はミディアムになっている。こちらはこちらで似合っているな、なんてしばらく見惚れてた。
「どうしたの? 信号青になってるのにボーッと突っ立って」
「あっ、すみません。ちょっと凍えておりました」
「やだ、風邪ひいたんじゃないの!? 熱は?」
「いえ、熱とかではないです。ご心配おかけして申し訳ありません」
「そうなの? ならいいんだけど、桂木さん時々なんだか抜けてるから風邪とか怪我とか気を付けてね。今日は私と一緒に遅番よね。宜しく!」
「はい、宜しくお願いします!」
話しながら私たちはスクランブル交差点を渡っていく。普段は苦手意識のある相手なんだけど、今この瞬間は隣にいてくれることを心強く思った。
倉橋店長が苦手とはいっても別に悪い人と思っている訳ではないのだ。ただ彼女からの期待を重く感じているのは事実だし、そのことで千秋さんには何度も相談に乗ってもらった。
例えば最近なら、自信なさげにするのではなく謙虚さを前面に出すやり方を試したのだが、どうもこちらの考えが伝わっている気がしない。なかなか手強い相手なのである。
緊張感が蘇ってくるのをなんとか隠しつつ従業員通用口へと入っていく。
「そうそう、大山さんとはちゃんとお話できてるかしら。彼女が退職する前に積極的に質問して学べるところはとことん学んでおいてほしいのよね。今がチャンスよ! 桂木さん!」
話を出されてぎくりとなった、喫煙室の中。
私はもう禁煙しているから吸わないけど、倉橋店長が一服したいだろうからと付き合ったらこれだ。
大山さんは現在のサブリーダー。つまりこの話は……と容易に察しがつく。
「ありがとうございます。大山さんはいつも個人売りトップですから私も沢山学ばせて頂きたいと思っております」
「そうよぉ。いつまでも大山さんに甘えてはいられないわ。彼女には彼女の人生があるんだもの。これからは桂木さんが引っ張っていってくれなきゃ!」
「いえ、しかし私はこの会社に入ってまだ三ヶ月程度ですし、初心に返ってこの店舗なりのやり方を覚えていきたいと考えており……」
「またそういうこと言う……」
「あのっ、やる気はございます! でも私にサブリーダーはまだ早いんじゃないかと……」
「桂木さん、自分を過小評価する癖は良くないわよ」
倉橋店長が灰皿に煙草を強く押し付ける。副流煙のが一気にこちらへ向かってきたように感じた。
やめてみるとわかる、その人の煙草の匂いって結構印象に残るのだ。正直、最近この匂いを嗅ぐとこの人を思い出して複雑な気分になってしまう。
彼女が真顔でこちらを向くと全身が凍りつくようにして動かなくなった。
「桂木さんなら大丈夫だから私もこの話を出しているのよ」
内心で首を傾げる。私が無理だと言っているのに何故この人は大丈夫と言い切るんだろう。
でもそんな疑問は決して口に出してはいけない。多分言ったら今よりもっとマズイ状況になると肌で感じるから、私の身体は強張っていく一方なのだ。
愛想笑いの一つくらいは浮かべられていただろうか。自信がない。
「あの、倉橋店長。そろそろ店舗に向かわなくては……」
「あら本当。もう一本吸いたかったけどしょうがないわね」
倉橋店長はシガレットケースをバッグにしまうと、私よりも先にドアの方へ歩き出した。私が急いでついていくと彼女は一度振り返り強気な笑みを見せつけてくる。
「いい? 私は諦めないから覚悟なさい。絶対にあなたの自信を引き出してみせる。その気になってくれるまで何度でも言うわ。あなたならやれるってね」
「は、はい……」
助けて、千秋さん。
心の中に秘めてなお小さく呟いていたように思う。もう二度と届かないかも知れない願いを。
「人の話を聞かねぇ店長かぁ。困ったもんだな、そりゃ。そんなにサブリーダーが欲しけりゃ求人にもサブリーダー募集って書いとけよ」
翌日、行き場のなくなった悩みは和希に持ちかけることとなった。彼女はまた仕事終わりに私の部屋へ寄ってくれたのだ。
しかも今回は生クリームがたっぷり乗ったコーヒーゼリーの手土産付き。ありがたい。私も今度お礼をしなくては。
「しかしサブの退職が決まったのはつい最近。求人の時点ではまだ予定にないことだったのだよ」
「でもよぉ、もうちょっと書き方あるんじゃね? 上を目指したい人〜! とかさぁ。いきなり言われてもそりゃ心の準備が間に合わねぇと思うよ、私も」
「私には無理だと意思表示しているつもりなのだがどうも伝わっている感覚がない。角が立たないように伝えるにはどうしたらいいのか未だにわからないのだ」
「ふぅん。千秋さんにもずっとこの相談をしてたのか。でも連絡がとれなくなったと」
私がこくりと頷くと、和希は唇を尖らせたままコーヒーゼリーの蓋を開けた。
スプーンで大きく掬い取って頬張る。鼻に生クリームをくっつけたやんちゃな姿のまま真面目な顔をして言う。
「っていうかさ、別にわかり合えなくても良くね?」
それはなかなかに衝撃的な言葉だったように思う。どういうことかすぐには理解できなかった。
「だからさ、そもそも向こうに理解する気がないんだからこっちが何言っても無駄だろって話」
「じゃあ私はこのままサブになるしかないのだろうか」
「違う違う。なんで流される選択しかないんだよあんたは。ちゃんと考えてみろよ。断って相手が不機嫌になってもそれあんたの人生に関係あるか? ないだろ。もっと自分優先で考えていいんだよ」
「でもハッキリ断るだなんて私には難し過ぎる……!」
「じゃあやりたくない役職を押し付けられてもいいのか?」
「それは……」
「あんたもあんたで困ったもんだ。私がその店長んところまで一緒についてってやれたらいいんだけどな」
和希は味わっているかもわからないくらいの速さでコーヒーゼリーをぱくぱくと口に運ぶ。私なんてまだ一口しか食べてないのに。
彼女のコーヒーゼリーの容器はあっという間に空っぽになった。何もついていないテレビ画面の方を見ながら小さく呟く。
「帰ってきてくれよ、千秋さん」
私も昼間、そう願った。でもこれは和希自身の願いのように聞こえる。何故だろう。
「……和希」
「ん?」
「私もよくわからないのだが、相手が強気に意見を言ってくると、例え自分の中に考えがあったとしても思うように言葉が出なくなってしまうのだ」
「ん〜、確かに私にはない感覚だな。言葉が出てこないのにもなんか理由があるんだろうけど」
「だけど不思議なんだ。千秋さんが相手だと比較的話しやすかった」
「だろうな。私からすると不思議でもなんでもねぇよ」
「何故?」
「あの人は傾聴に長けてる。それにあんたらはよく似ている。だからだろ」
「そうか……」
私たちはしばらく黙っていた。親しくなければとても耐えられないだろうというくらい、それは続いた。
私がコーヒーゼリーを食べ終えた頃、和希はようやく鼻の上の生クリームに気付く。何事もなかったかのようにそれを親指で取って舐めると、よし、と短く声を上げた。
「千秋さんのことは任せておけ。私が連れ戻す」
「いや、でもあちらは仕事で忙しいみたいだし、無理してまで悩みを聞いてもらおうとは思ってないのだが……」
「な〜んか裏がある気がするんだよなぁ。あの面倒見のいい人がそう簡単にあんたを見放すとは思えない」
「裏? 私にはよくわからないのだが」
「あんたはそのままでいい。ただ、千秋さんが戻ってくるまで私が相談相手になっちまうけど妥協してくれな」
「和希にはちゃんと感謝している! 妥協なんて言わないでくれ!」
思いのほか口調が荒くなってしまった。和希も目を丸くしている。
どう話を続けていいかあたふたしているうちに、彼女の細長い手がこちらに伸びてきて私の頭をわしゃわしゃと撫で回す。
「ありがとな、トマリ。私を頼ってくれて」
なんとなく、なんとなくだけど、いま和希の孤独が見えた気がした。本当は一番に相談してほしかったんじゃないかと、憂いを帯びた表情を前にして今気付いたんだ。
相談と一言に言っても、いろんな形がある。どんな悩みでもまずこの人に言うと決めている人もいれば、内容によって相談相手を選ぶ人もいるだろう。
私は後者に近いとは思う。でも今では明確に理解できるのだ。
それでも優先順位はあったと。
千秋さんには一番に聞いてほしかった。悩み事に限らず、そんなエピソードが私の中の宝箱に大切におさめられているんだ。
それももう溢れ返りそう。どうしたらいいの。
きっと和希はそんな私の我儘もわかった上でここにいてくれてるんだと思ったら、おのずと視界が滲んできた。
「おいおい、どうして泣くんだよ」
「なんか……怖くて」
「怖い?」
「見ないようにしてきたものが見えてきそうで……怖い」
「そうか。でもきっといずれは知る必要のあるものなんだろうな」
和希が背中を撫でてくれる。温かい感触は一層涙を誘った。
ずっとずっとわからなかった自分自身の気持ち。私はそこへ着実に近付いている。




