戦う理由は一つだけ(3)☆
それからトマリとすぐに付き合ったという訳じゃないんだ。出会った日の夜だって別に何も起こらなかったし、風邪薬や冷却シートを買ったあと送っていったのは彼女の最寄り駅まで。そこからはタクシーで帰ってもらった。
心配だったから翌日から何度か連絡のやり取りをした。夏風邪は厄介だからね。でも幸いそこまで長引かずに回復へ向かったようだった。
トマリの体調が良くなってから、まずは共通の知人、友人を交えて会うところから始めた。
俺を同窓会に誘ってくれた安西先輩もトマリの同級生。在学中は挨拶する程度の交流しかなかったみたいだけど、俺の想いに気付いてからは先輩自身もトマリとよく話すようになった。それは気を利かせるためだって俺にはすぐわかったよ。時々二人きりになれる時間を作ってくれたりするからさ。おかげてトントン拍子に距離が縮まった。本当に感謝してる。
ある日、公園に沿った道の途中でトマリが自分の足元を見て立ち止まった。
「びっくりした、ミルフィーユが砕けるみたいな音がするから。もう枯葉が落ちているのか」
そんなことを呟く。俺にとっては“カサ”などというありきたりな擬音にしか聞こえなかったのに。驚く俺に気付きもせず潤んだ目をして天を仰いだのが印象に残ってる。
不思議な話だけど俺にはそれが合図に思えたんだ。
「トマリ、もっと君のことを知りたい」
「肇くん……それは、つまり」
「付き合ってほしい。こうやってトマリと並んでいろんな景色を見たいと思ったんだ。きっと今までとは違って見える。それを確かめたい」
「何も変わらなかったら?」
「変わるさ。君がいるんだから」
手を繋いだらお互いに汗ばんでいくのがわかった。日差しはまだ強かったけれど暑さのせいなんかじゃないことも。
しばしば哀愁の象徴のように言われるひぐらしの鳴き声が二人の間に流れた。
目の前には青々とした空。足元には枯葉。熱を帯びる顔に反して背中では鳥肌が立つ。
隣を見ると無防備な表情から漂う色香。
俺はそのとき知った。アンバランスとは魅力なのだと。
握る手に力がこもった。この先どんなことがあっても絶対君を離さない、そんな覚悟によるものだったんだろう。
付き合ったばかりの頃、俺は結構舞い上がっていたように思う。今まで長続きしない恋ばかりだったけど、ようやくこの人となら将来だって共にしたいと思えたから。
予想した通り見える景色が変わっていった。色合いがふんわりと柔らかくなったように感じたのはきっと気のせいじゃない。
このまま一緒にいて、いつまでも一緒にいて、そしたら更にあらゆるものへの感じ方が変わるんだと思ってた。そりゃそうだ、人間は変化し続ける生き物なんだからって。
五年後、十年後、若い頃と同じ景色を二人で見たら今度はどんなふうに見えるんだろう。歳をとるのさえ楽しみだったんだ。
だけど俺は次第に気付いていく。四年経った頃にやはりと思った。
俺は確かに歳をとったと思えるのに、トマリはまるで変わっていないと。
それは容姿だけの話じゃない。会話の中からも窺える。彼女の感性そのものがまるで時を止めているみたいなんだ。
わかってる。それは悪いことでもなんでもないって。
だけど無性に寂しくなる瞬間がある。
彼女が今でも大切にしている価値観が正直だんだんわからなくなってきていること。このままどんどん精神年齢の差が開いていくんだろうかという不安。
俺も俺でいっそ心変わりでもできたら楽だったのにそうもいかなかった。何せ彼女はアンバランスな魅力の持ち主だからだ。
離れている時間は気が気じゃない。それほど彼女の魅力は増していってる。
じゃあ会えば安心かといったらそうでもなかった。若々しい彼女に吸い寄せられる男たちの視線に気付く度、砕けそうなほど強く歯を食いしばった。
まさかこんなことで悩まされる日が来るなんて思いもしなかったよ。
今でも鮮明に残ってる記憶の一つ。トマリが二十六歳を迎えた日の夜のことだ。
場所は俺の部屋。二人でささやかなお祝いをした。休みはとっていたけれど、前日までハードスケジュールだった彼女はかなり疲れていたんだろう。ソファの上で眠ってしまったんだ。
部屋着のフードを深く被ってた。モコモコした質感のそれは淡いピンクとグリーンの縞模様。柔らかくて軽い、マカロンとかいうお菓子を彷彿とさせた。それでいて下はショートパンツ型。同じくモコモコ素材のソックスを太ももの位置まで伸ばして履いている。
よりによって二月という時期に、ほんの少しのぞく無防備な白肌。俺は毛布をかけてやりながら胸が疼くのを感じた。
眠りに落ちたときに手からすり抜けたのか、彼女のスマホはソファの下にあった。
いくつかの通知が目に入る。後から思うと特に変なものは来てなかったんだけど、そのときは全ての通知が怪しく思えてしまって俺は思わずロックを解除した。
お互い隠し事はしない約束だったし、緊急事態のときのためにパスコードは教え合っていたんだ。俺のスマホはどうやら一度も覗かれたことがないようだけど。
でも正気に戻るのも早かった。見た覚えのないメッセージが開かれていたら彼女もいずれ気付く。
それでも何故かスマホを手放せなかった俺は、なんとなくインターネットの検索履歴を見始めた。
そこに並んでいた文字。大体覚えてるよ。
『発達障害 診断』
『発達障害 病院』
『自閉スペクトラム症 大人』
『グレーゾーンとは』
『カウンセリング どんなとき』
それは俺の予想の斜め上、どころではなく。
だけど検索履歴自体にはそれほど驚かなかった。
それよりも彼女がこれほどまでに悩んでいたことの方が驚きだった。一体いつからその可能性を疑い始めていたんだろう。
もしかして、俺と出会うずっと前から。そうなのかトマリ。隠し事はしないって言ってたのに。
……いや、どうしても言えなかったのか。
冷静さを取り戻していくほどに自分を不甲斐なく思った。
トマリが発達障害なのかどうか、俺にとっては問題じゃない。五年間ずっと一緒にいた俺からすれば、それは彼女の個性の一部と思えるからだ。
問題なのはトマリがそれで生きづらさを感じていること。理解されにくい特性であるがゆえに障害と称される。それならば学校でも職場でもつらい思いをしてきたに違いない。
でも俺は違う。俺なら彼女を丸ごと理解してあげられる。
俺が彼女の絶対的な居場所になるんだ。
ソファの上の彼女が小さく唸りながら身をよじると、長い髪が流れ額が露わになった。俺はそこへこっそり口づけを落とす。
「大丈夫だよ、トマリ。俺がもっと頑張ればいいんだから」
柔らかな髪に指を通してみるとひんやりとした感触。初めて触れた気がした彼女の孤独。
俺の中の決意はどんどん確かなものとなった。
昇格して給料が上がればもっと彼女に楽をさせてあげられる。生きづらい社会の場になんか出なくたって済むようになるんだ。
そうだ、トマリは絵を描くのが好きなんだ。無理して働かなくてもこの素晴らしい特技がある。それで充分じゃないか。
そうやって歳を重ねて落ち着いてくれば派手に着飾らなくても良くなるから、悪い虫に寄りつかれる心配もない。トマリは今よりもっと安全な場所にいられる。
ほら、こんな未来まで想像できる。やっぱり彼女に最も相応しいのは俺だ。他の奴になんて任せられる訳がない。
確信を得たときに低い笑みが湧き上がってきたのを覚えてる。そのときは何故なのかわからなかった。
だけど今なら認められるよ。あれは優越感だったんだ。あり得るでしょ、俺は性格悪いからね。
それはともかくだ。トマリの周りにいる他の連中はどいつもこいつも彼女の表面しか知らない。元同級生だろうが友人だろうが仕事仲間だろうが、もしかすると家族でさえ、誰も彼女を本当の意味では理解してないんだ。
だからそんな奴らに奪われるとは思わなかったんだ。彼女の隣という大事なポジションを。
だけど去年、そんな俺の自信を芯から揺さぶってくる奴が現れた。あれほどの衝撃は初めてだった。そいつこそが千秋カケルだ。
納得がいかない。お前だってトマリの表面しか見てないはずだろう。単なる上司部下の関係でそんな深くまで見えるはずがないだろう。
それなのに何故トマリはあの男に心を許すんだ……?
怒り、焦燥、脱力感と繰り返しまた怒りへと戻る。ぐるぐる、ぐるぐると同じところを巡っていたように思う。
だけどそれももうすぐ終わりだ。やっと、終わるんだ。俺の努力が実を結ぶときがもう近くまで迫っている。
やっと……やっと……今度こそ彼女との平穏な日々を、この手に。
薄闇の中、気が付くと天井へ手を伸ばしていた。
意識が現在に戻ってくるとここがベッドの上なのも自分が仰向けの姿勢なのもわかってきた。どうやら寝ぼけていたようだ。
枕元の時計を見ると午前五時五十分。どうせもうすぐアラームが鳴る。俺はそのまま身体を起こした。
着替えの後にカーテンを開けると霧でぼやけた朝日が心地良い。シャツから覗く素肌の部分に染み渡っていくかのよう。
大して眠れた気がしないけれどなんだか気分が高揚している。いつの間にか手にスマホを持っていた。
昨夜の片桐さんの言葉を思い出す。
――俺としても千秋にはさっさとどっか行ってほしいんだけどさ、上の人たちがまだまだあいつに甘くてね――
――安心しろ、次にあいつが変な動きしたしたら俺がしっかり証拠おさえて上に報告してやるよ。そしたらあいつは今度こそ終わりだ――
「きっとですよ。片桐さん」
罪悪感? そんなものある訳ない。だって俺だぞ。この性格だぞ。
トマリとの生活は俺の夢。夢を実現させるために敵の排除は欠かせない。当然のことをしているだけだ。
どっちが悪だとか関係ない。手に入れた方が勝ちなんだから。
ネクタイが緩んでいることに気付いてきゅっと締め直した。また忙しない一日が始まる。
今朝のコーヒーは苦味の強いものをチョイスした。ストレスが溜まっていようが寝不足だろうが、シャキッと立っていられるように。
頼もしい俺の方が着いていきたくなるだろう。なぁトマリ。
表向きは完璧な笑顔の営業マン。だけど実質今日も彼女中心の一日になりそうだ。もちろん俺はそれが嫌じゃない。
依存? 執着? 上等だよ。要は彼女を守れればいいんだからね。
玄関のドアを開ける瞬間、北島肇は仮面を被る。
生まれた次の瞬間には「いらね」と捨てられた。そんな俺だからこそ家庭への憧れは強い。でも憧れてるだけじゃ何も手に入らない。
だから戦うんだよ。
歪みまくった俺の人生の中で、最も純粋な夢を叶えるために。




