戦う理由は一つだけ(1)☆
夜景というやつに俺は魅力を感じない。みんなは何故あんなものをわざわざ見たがるんだろうとさえ思う。
雑踏の中にいる側だからって、確かにそれもある。でもいつだったか残業終わりに二十二階の窓から外を眺めてみたけれど、なんだこんなもんかという感想しか浮かばなかった。あの明かりの向こうにも散らかったデスクとか溢れ返りそうなゴミ箱なんかがあるんだと思うとむしろ冷める。
それなのに彼女とのデートでは夜景が綺麗と評判の場所を何度も選んだ。いい眺めだね、なんて心にもないことを囁いたりした。そういうところに自分のズルさを感じる。
そうだよ。俺は利用できるものならなんでも利用するんだ。どんなに嫌いでもね。
今日も帰りが遅くなった。昼間に比べたら多少は涼しくなってきたものの湿気はしつこくこの身体にまとわりつく。
うざったい、苦手な季節だ。
蒸したにおいのする電車の中、舌打ちしたい衝動を抑えつつ俺はスマホで夏祭りの情報を集めていた。
トマリは小さいサイズのりんご飴が好きだ。わたあめも大事そうに抱えて持って帰る。小食な上に猫舌だからその他の屋台には滅多に寄らない。ヨーヨー釣りはちょっと羨ましそうに眺めてる。そんなに難しくないんだからやればいいのにって俺は言うんだけど何故か遠慮するんだよな。
動きやすさ重視だから浴衣は着てこない。でも自分で着付けができるって前に聞いたことがあるんだ。ここはあえて小規模な夏祭りを選べば着てもらえるかな。絶対可愛いと思うんだけど。
ああ、でも花火の上がる祭りも捨てがたい。どれだったらトマリは一番喜んでくれるんだろう。
ああでもないこうでもないと考えている間に最寄駅に着いた。ここから自宅マンションまでは徒歩五分程度。帰ってからまたゆっくり調べようと思った。
自炊はたまにする。料理動画とかを見てなるべく時短で作れるものを選んでる。
だってこれくらいできなきゃ結婚したあと困るでしょ。
掃除も洗濯も家計のやりくりだって俺は手を抜いたりしない。トマリは俺にばかり負担が偏るんじゃないかと心配してたけど、これからはむしろ心配させないくらいに自分が要領良くなっていたいんだ。
今夜はあんかけチャーハンとワカメ入り中華スープで晩飯にする。
特に見たい番組がある訳じゃないけどテレビはなんとなくつけておく。スープを一口飲んだとき、傍らのスマホが小刻みに動き出した。
なんだよとぼやきながらそれを手にした。誰からかわかると荒れていた気分はすぐに落ち着き、入れ替わるようにして若干の緊張が身体を走る。
「どうしたの、母さん」
『肇、もう晩ごはんは食べ終わったの?』
「今食ってたとこ」
『あら、随分遅いのね。邪魔しちゃってごめんなさい』
「気にしないで。ちょっとくらいなら話せるから。それでどうしたの?」
母さんの話の前置きが長いのは毎度のことだ。慣れているから今更イラつきもしない。
毎日暑いけどちゃんと水分補給してるか、いつもこんな遅くに帰ってくるのか、仕事はキツくないか……などなど、ひと通りの心配をされた後、やっと本題らしきものを切り出してきた。
『肇、本当にあの子と結婚する気なの』
この短い問いかけのほんの一部に引っかかりを感じて、俺は少しムッとした。
「“あの子”じゃない。“トマリ”だ。もう六年も付き合ってるんだぞ。よそよそしくするのはやめてくれないか」
『トマリちゃんね、もちろん名前だって覚えているわよ。でもちょっと変わってるじゃない、あの子』
注意したそばからこれだ。さすがにため息が出た。
ほんの数秒の沈黙から母さんも何か感じ取ったんだろう。慌てたような声で話を繋げようとする。
『いい子なのはわかっているのよ。言葉遣いもきっちりしてるし礼儀正しいし、でもね、二十代後半にもなってまだあんな……』
「わかったわかった。俺が苦労するんじゃないかと心配してくれてるんだよな。だけど六年前から今まで、トマリを一番近くで見てきたのは俺だ。結婚してみりゃ母さんだってすぐに納得するさ。心配するほどのことじゃなかったってね」
『そう……なのかも知れないけれど……』
「俺の実の母親みたいになると思ってんの? トマリはあんな無責任じゃないよ。断言できる」
「ええ、そうね」
母さんの声にはまだ迷いが滲み出ている。その理由もわかってる。でも俺だって簡単に譲れはしなかった。
「大丈夫、母さん。全部順調に進んでるから」
笑いかけるようにして言ったけれど、おのずと喉に力がこもった。
トマリと共に歩む結婚への道のり。それは埋め立て地の地盤くらい危ういものだととっくにわかっていた。強い揺れが起きれば簡単に液状化する。だからこそより頑丈なものになるよにコツコツと固めてきたんだ。
手段なんて選んでられない。だからつい最近、二度目の作戦を実行した。
そんなこともちろん母さんには言わないけどね。
電話を切った後、湯気の薄くなったテーブルの上をぼんやり眺めた。こうしていると霧の中にいるみたいで自分の芯がブレそうになる。
ぬるくなったチャーハンを一気に口へかき込んだ。
俺は間違ってない。間違ってない。
内心で何度も自分に言い聞かせながら。
トマリが勤務地のファッションビル内であの男と再会した。そう知ったのは今年の春頃。
――肇くん、すまない。千秋カケルさんを覚えているだろうか。前の職場で上司だった人だ。このあいだ転職先のビルで偶然会ったのだが、私が風邪を引かないようにとストールを貸してくれた。だからそれを返すまでの間しばらくあの人と連絡をとることになりそうなのだが、要件が済んだら連絡先はまた削除しようと思う。それで良いだろうか――
そうやって彼女の方から電話で相談してきたんだけど、あの男の名を耳にした瞬間は全身の毛穴が縮まるような感覚があった。
きっと確信していたからだ。
忘れもしない、千秋カケル。あいつは間違いなくトマリに惹かれてる。見りゃわかる。
そしてトマリも。自覚がないだけであいつの方に傾きかけていた。
許さない。そんなの絶対に。
だからこそあえて泳がせることにしたんだ。
「なるほど、同じビルにあの人の担当している店舗が入ってるんだ。凄い偶然だね。それじゃあまた顔を合わせる機会もありそうってことなんだね。いいんじゃない、せっかくお世話になった人と再会できたんだから仲良くさせてもらいなよ。その方がトマリだって心強いでしょ」
トマリをできるだけ安心させるように優しい口調で語りかけた。ありがとう、というトマリの声色には安堵が含まれているように聞こえた。
去年、あの男の存在に気付いたのは直感だったと言えるだろう。トマリの口から“千秋さん”という名前が出てきたときは、メイクやネイルに詳しいという情報もあって女性だと思い込んでしまったけれど、なんだか嫌な予感はしてたんだ。
だから俺は動いた。当時同じショッピングモール内で働いていた友人にトマリの様子を見ていてくれるように頼んだ。
そしたら距離感の近い男が一人いることがわかった。言いづらいんだけどと前置きした上で、二人が手を繋いでいる瞬間を見たと友人は言った。
ある日トマリが俺の部屋にやってきたとき、隙を見て彼女のスマホのメッセージアプリを開いた。千秋という人物とのやり取りはしっかり残っていた。
怪しいスカウトマンに付きまとわれていたこと、だから恋人のフリをしたこと、二人しか知らないのであろう事情が見えてくるほどに俺の頭も熱く煮えたぎった。スマホを握り潰しそうになったほどだ。
何故。
何故、俺ではなくこの男を頼った!?
彼女に対する怒りもそれなりに大きかったように思う。
だけどしばらくするとなんとも言えない脱力感が全身を占めたんだ。彼女がアパレルで働くことを反対していた自分にも原因があると思えてしまったから。
理由はどうであれ邪魔者には退場してもらう。その意思はブレなかったから俺はトマリの働いていた店舗に出向き、苦情を入れた。
誤算だったのはトマリを退職に追い込んでしまったことだ。
彼女は俺を選んでくれた。でもこの件で彼女との間にはきっと溝ができてしまったと思う。
その上、転職したタイミングで千秋と再会。俺はやっと気付いた。彼女を思い通りに動かそうとすると逆効果になるんだって。
だから強く心に誓ったんだ。
今度こそ、あの男だけを確実に排除すると。
飯を食い終わった後、俺はある人物に電話をかけた。もう夜遅いけど元々そういう約束だったから問題はない。
けど最近知り合ったばかりの人だ。念のため丁重に。
「もしもし北島です。夜分にすみません。今大丈夫ですか」
『おう、北島くん。お疲れ様。千秋の奴があれからどうなったか気になってるんだろう』
「はい。その節はありがとうございます、片桐さん」
『いいのいいの。俺もあいつには散々邪魔されてきたからねぇ』
千秋と同じ部署で働く片桐さん。俺の人脈を駆使すれば、彼と繋がるのだってそんなに難しくはなかった。
まず販売職の友人に片っ端から連絡を入れ、このアパレルブランドに知り合いはいないかと聞いてみた。そしたらビンゴ。今度そのブランドの人も含めた飲み会があるという。俺はたまたま近くを通ったからという設定でその飲み屋に一人で行く。友人が俺に気付いたフリをして声をかけてくれる。飲み会の席に混じり、片桐さんにロックオン。丁寧かつ親しげに話しかけながら、さりげなく某エリアマネージャーに自分の彼女がちょっかいかけられていると密告。片桐さんが食いつく。
……という流れで現在に至る。
片桐さんも千秋のことを煙たく思っている。利害の一致がここに生まれたという訳だ。
『俺としても千秋にはさっさとどっか行ってほしいんだけどさ、上の人たちがまだまだあいつに甘くてね。厳重注意くらいで止まってるな、あれは』
「そうですか」
『でも次はないだろうって噂だし、今回の件で同じ部署内の人間たちからはだいぶ心証悪くなってるぞ。そのうちあいつの方から辞める可能性だってある』
「そうですよね。本当、余計なことしなければただの良い人でいられたのに」
『だよなぁ。北島くんからしたら許せないよなぁ。安心しろ、次にあいつが変な動きしたしたら俺がしっかり証拠おさえて上に報告してやるよ。そしたらあいつは今度こそ終わりだ』
クックッという低い含み笑いが耳元で続く。俺はどんな声で笑っていたかな。
いや、そもそも笑っていたんだろうか。もう自分じゃわからなくなってきた。
ただハッキリしているのは今更引き返せないということ。
俺は……きっと生まれた瞬間から嫌いなものだらけ。うんざりすることばかり。そんな中でもトマリは特別だったんだ。
六年前。専門学校の同窓会の席で出会ったあのときから、彼女は俺にとっての大きな希望でいてくれた。




