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tomari〜私の時計は進まない〜  作者: 七瀬渚
第3章/願いに気付いて(Kakeru Chiaki)
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61.三度目の別れと残った願い(☆)


 何時くらいだっけ、目が覚めたのは。


 夜が続いているみたいな朝だった。縹色はなだいろの空が妙に澄んでいて、夜露のような匂いがかすかに漂ってて。


 再びベッドに寝転んでみると真っ白なシーツは季節外れなくらいひんやりしてて、何故だか心細くなった僕は思わずそれをぎゅうと握り締めた。薄い氷がひび割れるようにいくつもの細かなしわが寄った。


 身体はだるく頭はちょっと痛い。昨夜そんなに飲んだっけ? それとも食が進まなくてほぼ空きっ腹に流し込んでしまったのが良くなかったのかな。

 軽く反省を済ませた後はそっと目を閉じてみる。でも残念ながら二度寝はできそうになかった。



 今日、仕事は休みだけど予定はある。


 歯磨きと洗顔を終えた僕はまた寝室に戻ってきた。

 動きやすいスポーツブランドのTシャツに腕を通しトラックパンツを穿く。なんたって真夏だ。着替えも一応あった方がいいだろう。似たような上下セットをコンパクトに畳んでひとまずベッドの上に置いておく。あとサングラスも忘れずに。

 テーブルの上に鏡を立てて、メイク道具一式を用意した。


 まずベースメイク。汗などの水気に強いと評判の日焼け止めを塗り、下地、リキッドファンデーション、最後にフェイスパウダーを柔らかいブラシで軽く乗せていく。

 アイメイク、今回は一色のみで仕上げたい。最近購入したアイシャドウ用のブラシの出番だ。チョイスしたのは定番のブラウン系。目全体をぐるりと囲むようにこれを塗っていく。濃くしたい部分は色を重ねることで立体感を演出できるし、それでいてきめすぎない軽さも出せるのが魅力だ。

 淡いグレージュのリキッドアイライナーは瞼のキワだけでなく、二重ふたえの目尻寄りの部分にも短く引いてアクセントを作る。

 唇はピンクベージュ。クールなメンズメイクにも意外とマッチする色。更に質感をマット系にすることで落ち着きを持たせ、インパクトのある目元とのバランスを取る。


 ……と、ここまでやっても踊ってるうちに多少は汗で取れちゃうんだろうけどね。この時期のダンスレッスンは特にキツイから。

 理想に近く仕上がった自分の顔は早速苦笑を浮かべていた。まぁ仕方ないと割り切ったなら、次は髪を高い位置で束ね始めた。



 気が付けば夏の大会まであと数週間だ。みんな緊張しているだろう。無理をしやすい時期だからこそ息抜きもちゃんとさせてあげたい。顧問の先生がマイカー通勤だったはずだ。飲み物などの差し入れを一緒に買いに行ってもらえるか聞いてみよう。

 僕も車持ってたらなぁ。でも普段の生活だとあまり出番がなさそうだ。電車の中でそんなことを考えていた。


 窓の外が次第に変わってくる。ビルの群れは少しずつ消え、民家や団地、やがては緑の豊かな光景へと。


 もうすぐトンネルだと気付いたら何故か胸がざわついた。

 向こう側へ行ったとき僕は、ちゃんと気持ちを切り替えられているだろうか。それはまるでタイムリミット。


 ここでやっとスマホを取り出した。これが最後になるかも知れない、いや、できるなら最後にするべき言葉を素早く打ち込んだ。

 送信のマークに触れた直後に暗転は訪れた。それは一つの物語の区切りのように思えた。




 お疲れ様、トマリ。


 暑い日が続いているけれど体調は崩してない? 食事も睡眠もしっかりとるんだよ。


 詳しいことは話せないんだけど、僕はね、また新しい仕事に専念しなきゃならなくて、きっとしばらく君とは連絡がとれないと思うんだ。


 僕を信頼してくれてありがとう。相談してくれて嬉しかった。僕も君から自信をもらっていたんだよ。


 ありきたりな言葉だけど、お互い頑張ろう。

 トマリ、君なら大丈夫だと信じているから、君も自分の力を信じてみてね。


 元気でいてね。またいつか。




 薄闇をかき分けた細い光がどんどん、どんどん、広がって。

 再び夏空のもとを駆け抜ける頃、僕はまだ既読のついていない画面を見下ろしながらぽつりと呟いた。


「さようなら、トマリ」


 涙はもう流れない。だって僕は決めたんだ。


 例え二度と関われなくても彼女の記憶と無理に決別はしない。このメイクも髪色もファッションも、僕のアイデンティティと呼べるもののほとんどは彼女のおかげで成り立っているからだ。



――この色、ダニエルにとても似合っている――



 幼い頃、そう言ってもらえたから。



――好きなものを見ているときのダニエルはとても綺麗な目をしている――



 僕は綺麗でいたいと思った。



――そんなダニエルが……好きなんだ――



 どんな声かは忘れてしまってもその言葉だけは覚えていた。だから今の僕があるんだ。

 彼女がくれた気持ちと彼女への気持ち、僕はそれらを自分の一部として生きていく。


 長く垂れ下がった前髪を指で軽くすいて、ゆっくりと息を吐く。

 心に凪が訪れるのと電車が止まるタイミングがちょうど重なった。



――カケルさ〜ん!


 駅を出て数分のところで僕は後ろから呼び止められた。振り返ると部長の岡部くんが大きく手を振りながら横断歩道を渡ってくる。僕は足を止めたまま待っていた。


「やっぱりカケルさんだ。電車、途中から一緒だったんですよ」


「あれ? 岡部くんって電車通学だっけ」


「いえ、昨日は親戚の家に泊まってたんです。それで電車乗ったときにはもうカケルさんが座ってるのに気付いてたんですけど、なんかいつもと雰囲気が違う気がして……」


 不思議そうに首を傾げている岡部くん。僕がサングラスを取ると、やがて彼があっと口を開くのがわかった。

 そう、確かに初めてだよねこの顔を見るのは。照れくささなんてもうなかった。僕は目一杯笑ってみせる。



「僕の本気モードだよ」



 素早くきびすを返して歩き出すと「よろしくお願いします!」と元気な声が後に着いてきた。



 岡部くん、びっくりしたよね。みんなもきっとびっくりしてるよね。

 でも僕はこれからも変化していくと思うよ。そのときそのときでなりたい自分を体現していくんだと思う。


 言葉は尊い。僕をここまで支えてくれたのも、大切な人からの言葉だった。

 一方で言葉以外の表現も沢山ある。今の僕にできるのはそっちだ。


 みんなが体育座りをしてこっちを見てる。休憩中、ほんの気分転換くらいのつもりで僕のダンスを通しで見てもらうことにした。

 今度の大会で使うのと同じ音楽、同じ振り付け、だけどそこには僕の魂が宿ったんだろう。


 表現とは全てが唯一無二。

 個人だろうが団体だろうが、その人にしかできないという事実に変わりはない。僕はそれを伝えたかった。


 もっと広く、遠くまで、届いてほしい。


 自由という名のかこいの中で如何に尖ったことをしようかと考えるよりも、自分らしさという翼で羽ばたく方がよほど開放的であろう。

 危なっかしいなりに見つけた答えを放つようにして手を伸ばした。


 ヘアゴムが寿命を迎えたらしく途中で髪がばさりと解けた。思わずそれを掻き上げると何故か大きな歓声が上がった。

 彼らには一体何が響いたのだろう。考える余裕など僕にはなかった。



挿絵(By みてみん)



 ただ、音と一体となった感覚がたまらない、できるなら止まりたくない。そんな気持ちでいっぱいになっていた。



「あ、あれ……? なんか人増えてない?」


 踊り切った後、僕はやっと目を見張った。遠い昔の文化祭のときみたいに体育館は人でいっぱいになっている。テニスラケットを持った集団もいれば柔道着姿の集団もいる。おそらく教職員の姿まで。

 そりゃ驚くでしょ、というかむしろ途中で気付かなかった自分に驚いてる。


「だって凄かったですもん、カケルさん! それはもうカッコイイなんて言葉じゃ言い表せないくらい! 思わず通りかかった全員を招き入れちゃいましたよ!」


 君の仕業か、岡部くん。

 苦笑のため息を零しながら汗ばんだ髪を掻き上げるとテニス部軍団の方面から黄色い声が上がった。なんでみんなこの仕草のときに反応するんだろう?


「みんな〜! そろそろ練習に戻るぞ。カケルさんに圧倒される気持ちはわかる! だけど俺たちだってレジェンドに続くつもりでやっていかなきゃ部を強くできない! わかるな!? カケルさんだってなんと未経験から始めてるんだ。俺たちも結果を出してカケルさんたち先輩に良い報告をしようぜ!」


『はいっ!』


「夏の大会、絶対に勝ち取りに行くぞ!!」


『はいっ!!』


 最後はやはりトークの上手い岡部くんが綺麗にまとめてくれた。いつもそこは助かってるんだよね。



「凄くカッコよかったね〜!」


「やっぱりプロのダンサーは違うなぁ」



「あの、えっと〜君たち? 僕はね……」



 他の部活の生徒たちが僕を称賛しながら去っていく。話しかけようとしたけど上手くタイミングが掴めなかった。


「岡部く〜ん、ちゃんと後でみんなに説明しといてよ。僕は一般人だって」


「え〜、いいじゃないですか! 実際にプロ並みの実力なんですから!」


「恐れ多いよ」


 先ほどの強気なパフォーマンスとは打って変わって情けない声を出す僕。その隣で顧問の仁科にしな先生が肩を震わせて笑ってた。


「千秋くん、部員たちへの差し入れを買いに行きたいって言ってたよね。俺が車出すよ」


「すみません、ありがとうございます」


「礼を言うのはこっちの方だ。アパレルでエリアマネージャーもやってて忙しいだろうに、うちの練習にまで付き合ってくれて感謝している。代金も俺が持つ。荷物運んでくれるだけで充分だ」


「恐れ入ります」


 僕が深々と頭を下げると仁科先生は再び笑う。曇りのない声で僕に言う。



「若いのに関心だな。君のような男は仕事でも上に行けるだろうし、老若男女に好かれるだろう。顔が良くて性格も良くて実力もあって、いろんな意味で引く手数多あまただろうね。羨ましい話だぜ」


 僕は二十九歳で、今年三十歳の人と同学年で、それは現代において若いということになるのかどうかは定かでないんだけど。


 一つ言えること。みんな僕を買い被ってる。


 本当の僕はね。

 男らしくいようとか考えてはいない。自分らしくと考えているだけであって。


 でも一人の人間として捉えても、僕はあまりにも未練がましくて歪んでて。


 好きな人一人、忘れることさえできなかった。今も願うことをやめられない。



「千秋くん? どうした」


「いえ、ちょっと……」



 少し怪訝な表情になった仁科先生を前に、僕は気丈に振る舞うこともかなわない。

 今自分ができる精一杯の笑みを浮かべて答えただけだ。



「思い出していたんです。まだ“過去”になりきれない人のことを」



 トマリ。

 きっと一生忘れることができない人の名。

 せめて響きだけとなって。でも僕の心に残っていて。僕の人生の傍にいて。そんな願いの数々。


 その中でも最も身勝手な願いがこれだ。



 君の笑顔が沢山咲きますように。

 あの日見た花火のように何度も何度も繰り返し咲きますように。



 何故これが身勝手なのかって?

 僕は責任の一つも取れないからだ。



挿絵(By みてみん)




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