59.気持ちだけは誤魔化せない(☆)
あれから月日が流れて今はもう夏と呼べる時期に入った。
何も変わらないでというかつての僕の願い。一部は叶っていて、でも別の一部は失われたまま。歳をとる生き物である以上仕方がないことだと頭ではわかっているんだけどね。
今年の春にオープンしたばかりの新店舗は、当初からさほど失速することもなく順調に実績を作っている。もちろんこの業界には繁忙期や閑散期があるから、どうしても苦しいときはあるんだけど、その度に管理職も現場のスタッフたちも一緒になって知恵を絞り出してきた。
今まで担当してきた店舗の中でも比較的安定感のあるチームだと言えるだろう。でもスタッフの入れ替わりはこの先起こりうる。油断してはならないと肝に銘じてはいるよ。
ダニーは音信不通とまではいかなかった。今でもたまに電話くらいは来る。
でも僕の部屋にはあれから来てない。僕も気持ちが落ち着いてきたからなんとなくわかる。多分、気を遣ってくれてるんだろうって。だから彼の本心を知った日のこと、もちろん話題に出したりしない。
相原店長は異動先の店舗で今まさに奮闘中。でもさすがといったところか、いつも涼しい顔に颯爽とした立ち振る舞いだ。
むしろ僕の方が助けてもらってると感じるよ。彼女の店舗がまた僕の担当で本当に心強く思ってる。
でも恋愛相談なんかはしてる場合じゃなさそうだと思って最近は自重してます、はい。
そしてトマリ。彼女との現在は……
『千秋さん、どうしましょう。サブリーダーが退職することになりまして、店長はなんと私を次のサブリーダーに育てるつもりだそうです!』
「わぁ、相変わらずだね店長さん」
『さすがにそれは無理です。失望させるどころの話じゃありません。大迷惑になってしまいます!』
「大迷惑は考えすぎだと思うけど、トマリはどうしたい? 一番大切なのはそこだよね」
「私はいずれ結婚する予定です。彼は家庭のことに協力的で私一人に押し付けたりなんかしませんが、私もそれなりに家事ができないと負担が偏ってしまいます。なので家庭との両立を実現させるためにもこのタイミングで責任の大きいポジションにつくのはためらわれます」
このときグハッと血を吐きそうな気分になったのは内緒だ。
そうだよ、だってわかっていたじゃないか。トマリと彼との絆は深いんだ。
これでハッキリした。“いずれ恋人じゃなくなる”というあれは“いずれ家族になる”という意味で間違いない。
僕にできることは一つだけ。電話の向こうの彼女が抱えている悩みに向き合うことだ。
「結婚を予定してることは店長さんに伝えてあるのかな」
「伝えてません。面接の時点ではまだ決まってなかったことなので」
「そっかぁ。会話の中に織り交ぜてそれとなく匂わせるのがいいかなぁ。恋人がいることくらいだったら伝えるのそこまで抵抗ないんじゃない?」
「はい。それくらいならできると思うんですが……先輩の話によると店長も婚約中らしいんです。しかも私と歳が近くて、その上で店長業務をこなしているとなると……」
「なるほどね。トマリさんの考えが甘えだと思われる恐れがあると」
「似たようなことは昔の職場でも言われたことありますから。どうしても思い出してしまって……」
「う〜ん、仕事もやるべきことさえやっていれば人それぞれのスタンスでいいと思うんだけど。ちょっと待ってね、他の案も考えてみよう」
僕はそうやってトマリと頻繁に電話のやり取りをした。ビルの中ではほとんど会ってないはずなんだけど感覚としてはとても近い、そう、今でも同じ会社の人だと錯覚してしまうくらいだった。
「これで……いいんだよね」
通話を終え、寝室の窓から夜空を眺める。ぽつりと呟いたそれはまるでおまじないのようだった。
もうあんな塩辛い涙の夜を過ごさないようにするための、ぐっすり眠り安心して朝を迎えられるようにするための。そんなおまじない。
それなりに効果を発揮してくれていたと思う。
でも終わりは大抵、唐突だ。
ある日、本社に出勤したばかりの僕はいつもと違う空気を肌で感じた。
みんなの視線が変だ。挨拶もなんだかぎこちない。特に女性社員は遠巻きに僕を見ている率が高い気がする。
こういうの、前にも経験した。
そう、あれは……
全部を思い出す前にドン、とぶつかるようにして背中を叩かれた。痛い。
「おう、千秋。菊川バイヤーが話あるってよ」
「片桐さん……」
「良い話だといいな」
ニイ、と彼は片方の口角を上げた。目は笑ってない。
片桐さん。この人は、後から入社した僕が先に昇進したことを妬んでる。以前そんな噂を耳にしたことがある。
とはいえ所詮は噂。事実だとしても本人から具体的なアクションがない限りは放っておくつもりだった。嫌味くらいなら何度も言われてるけど、別にさほど痛くないと思うくらいには慣れてるつもりだった。
でも今回は何か訳が違いそうだ。得体の知れない予感は僕の中でどんどん膨らんでいく。
ミーティングルームのドアをノックする。「どうぞ」と返ってきたのは菊川バイヤーの声。
室内にいたのも彼一人だけだ。わずかな救いだった。
かつては上司と部下の関係であり、だいぶお世話になってきた。ただ現在は同じブランドの担当でこそあれど直属の上司とは違う。
おそらく上の人がワンクッション置いてくれたんだろう。それほどの話ということだ。
促されるまま僕は向かいの席につく。
菊川バイヤーは真ん中で分けたパーマヘアを軽くかき上げながらまずはひと呼吸ついた。彼の黒縁眼鏡の奥が小さく光る頃、いよいよ本題が切り出された。
「千秋、単刀直入に訊く。今まで担当した店舗で女性関係の問題を起こしたことはあるか」
「…………っ、それは」
「どうなんだ」
「…………」
「あるんだな?」
僕はしばらく迷ってからぎこちなく頷いた。
問題。元々はトマリを助けるためだったとはいえ、実際はトラブルへと発展した。そこに関しては言い逃れできない。
でもこの話、何処まで伝わってるんだろう。伝えた人なら察しがつくけど。
相原店長は大丈夫だったろうか。僕より前に何か訊かれたりしたんだろうか。責められなかっただろうか。不穏な動悸はそんな心配によるものだった。
「まずは何があったのか詳しく聞かせてくれないか。俺からの話はその後だ」
「はい」
僕はシャンと姿勢を正す。頭の中が散らかっているせいで何処から話すか迷ったけど、焦ったってどうにもならない。深呼吸をしてなんとか気分を落ち着かせた。
相原店長にまだ話がいっていない可能性も考慮して、あくまでも自分が関わった部分だけを話した。個人的な感情を挟むとややこしくなるのは目に見えてる。そこはできるだけ気を付けた。
菊川バイヤーは静かな表情で、時折頷きながら聞いてくれた。
「なるほどな、それで女性スタッフの恋人が怒鳴り込んできちまったってことか。俺が聞いた内容とおおむね合致するな。一旦解決したとはいえ、お前なぁ。せめて俺くらいには報告してくれねぇと」
「はい。申し訳ございません」
「怪しいスカウトマンから守るところまでは俺もわかるんだが、距離感を誤った接し方はマネージャーとして適切とは言えないな。結果的にそのスタッフは退職してる訳だし」
「おっしゃる通りです」
「おう。じゃあなんで今更この件が話題に上がっているのかをこれから話すからな」
「はい」
そう。何故今になって。ミーティングルームに入る少し前から僕も思ってた。
さっきの片桐さんの意味深な笑みは何か知っていることを示してる。でも本社勤務であるはずの人が何故それを? 彼の前に誰かがいた、そこから伝わったと考えるのが自然だ。
そうなると、やっぱり……
菊川バイヤーは一度目を伏せてから口を開く。再び僕へ向けた視線は先ほどより鋭かった。
「転職した例の彼女にお前がしつこく言い寄っているらしい。俺はそう聞いた」
ああ、そんなふうに伝わるんだ。なるほどと思った。先ほどまでの予感はだいぶ確信へと傾いていた。
伸びたままの背筋は針金でも通っているみたいにびくともしない。
「彼女と親しい人物がうちの社員を通して苦情を入れてきたんだよ。連絡も頻繁にしているようだし目撃者もいるから、証拠を提示しようと思えばいくらでもできるって」
「はい」
「まぁ、その親しい人物っていうのは元スタッフでもなんでもないから名前は伝えられないんだけどな。でもお前なら察しはつくんだろ」
「はい」
「千秋?」
「はい」
「あまり動揺してないように見えるのだが」
「そうでしょうか」
言われてやっと気が付いた。何処かのタイミングでなんの感情も湧いてこなくなったこと。
例えば恐れとか不安とかやるせなさとか、さっきまではいくらか感じられたのに。
自分のことを言われているはずなのに、まるで他人事のように捉えてる。僕は一体どうしてしまったんだろう。
「千秋、お前一体どうしちまったんだよ」
菊川バイヤーも同じことを思ったようだ。
驚きと困惑の混じったような表情を浮かべながら更に続ける。
「妙に落ち着いててお前らしくない。お前も今、自分がどんな顔してるかわからないんだろ」
「……どんな顔に見えますか」
「悲しそうな顔に見える」
「そうですか」
菊川バイヤーはどんなときも決して声を荒げたりはしない。でも焦燥をつのらせていく様子は僕にも伝わった。
おそるおそるといった様子で僕に問いかける。
「まさか、事実なのか」
迷わず答えればいいのに間が空いてしまった。空気が張り詰める。きっと正常な感覚ならいたたまれなくなるくらい。
しばらくして僕はやっとまともな声を出すことができた。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。事実とは違います」
はぁ、というわかりやすいため息が菊川バイヤーの方から届く。緊張が解けた反動なのか彼は短く笑い声を上げた。
「そう……だよな。俺の知っているお前はさすがにそこまでしない。なんだよ。それならそうと早く答えてくれよな」
キリ、と胸が痛む。これは良心の呵責だろうか。
僕が話したのは仕事に支障が出た部分だけ。本当はまだ残ってる、彼女に触れたときの熱。
苦情の内容とは一致しなくても、誰にも言えない秘密を僕は持ってる。だから、だから……
「すみません、菊川バイヤー」
「何故謝るんだ?」
「このままじゃ駄目だとは思っています。最近の自分を信用できません」
きっと僕は大人の顔を決め込んだまま凄く情けないことを言った。このアンバランスさ、菊川バイヤーの目にはどう映ったんだろう。
ごめんなさい。本当はもう手遅れなのに。うつむいた後は内心でそう詫びただけ。
「千秋、久しぶりに飯でも行くか」
困ったような笑みと柔らかい声を受けたときは、さすがに少し表情が崩れてしまった気がする。はい、と返事した声がわずかに震えていたから。




