58.声が聞きたかった理由はね(☆)
午後からの出勤、今日は新店舗を見に行く日だった。トマリも働いているあのファッションビルだ。
でもこの日は一度も彼女を見かけることはなかったな。こういうもんなんだよ、本来は。同業者というだけであって今は全く別の会社なんだから。
だけどその夜。
スマホにメッセージアプリの通知が入った。
『千秋さん、夜分にすみません』
たったそれくらいの文字が見えただけで僕はソファの上でがばっと身体を起こした。こんな反応をしてしまう自分が憐れだ。
でも今はしょうがない。じきに慣れるさ……うん、多分。そう自分に言い聞かせつつアプリを開く。
トーク画面にはちゃんと続きが書いてあった。
『先日相談した件、店長に話してみました。でもどんな意味の反応なのかよくわかりませんでした』
『千秋さん、時間のあるときにまた電話してもいいですか?』
ちら、と時計を見るともう二十三時。僕は今でも大丈夫だけど、むしろトマリは平気だろうか。明日早番だったりしたら朝キツイんじゃないかと迷った。
でも僕、正直アプリでのやり取りは苦手だから電話の方が助かるんだよね。無駄にトーク画面をスクロールし、考えていた途中だった。
「あれ? わっ、ちょっと待って!」
うっかり通話のマークに触れてしまったみたいだ。すぐに切ろうとしたつもりがまた別のマークを触ってしまい余計訳がわかんなくなる。
あぁ、もう! これじゃああのときと一緒!
とにかく落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせていたけれど。
『はい』
まぁ、こんなモタモタしてたら間に合う訳がない。彼女の声がかすかに聞こえたとき、僕も観念してスマホを耳に当てた。
「ごめんね、トマリ。電話していいか確認するつもりだったんだけど……」
『何故謝るんですか? 時間作ってほしいとお願いしたの私の方ですよ』
「うん、まあ……そうだね」
『ふふ。千秋さんどうしたんですか? なんか変ですよ』
ちょっぴり笑っているのが伝わる。君のせいだよとは言えないまま僕も苦笑する。
とりあえず本題に移ろうと思ってさりげなく切り出した。
「明日仕事は? もう結構遅い時間だけど大丈夫?」
『はい、明日は休みなので。千秋さんは大丈夫ですか』
「偶然だね。僕も明日休み。だから気にしないで」
『そうですか。安心しました。でもあまり長引かないように気を付けますね』
「うん。それで、店長さんは具体的にどんな反応だったの?」
概要はもう思い出していた。アパレル経験者であることと二十七歳という年齢からして、店長から過度な期待を寄せられているようだと彼女は懸念していた。その件だろう。
僕はそれに対し、経験者であることに甘えず初心に帰って学ぶような謙虚な姿勢を示す提案をした。でもこの感じだと反応イマイチだったのかな。
トマリは少しためらっていたようだけど、やがて僕に話してくれた。
『面接のときも言ったけどもっと自信を持っていいのよって。堂々とした人の方が若い子たちも安心してついていけるでしょう。自分が新人のときもそう思わなかった? って逆に訊かれました』
「そっかぁ。それでトマリはどう思ったの?」
『正直なところ、ちょっと論点がズレているように思いました』
「ふふ、そうだね。でもそれを本人には言ってないってことでいいかな?」
『はい、言えませんでした』
「その場では言わなくて正解かも。聞いてる感じ、こうあるべきっていう理想がハッキリした人みたいだからね」
しかもおそらく店長本人はそれが独自の理想とは思ってない。いわゆる世間一般の常識と考えているんだろうな。
僕は少し心配になってきた。トマリと相性の良いタイプの上司とは思えないからだ。下手するとトマリも店長も共に、伝わらないもどかしさで疲弊することになる。そういう例を何度も見てきたから想像がつくんだ。
「理想って時に厄介だよねぇ」
『千秋さんもそんなこと思うんですね』
「そりゃ二十九年も生きていればね。何度もあったよ。相手の理想にも自分の理想にもよく悩まされた」
『私も人に理想を押し付けてないか心配になってきました』
「トマリは大丈夫でしょ。定形文みたいな接し方はしないじゃない。その都度、相手によって、真剣すぎるくらい考える。だから今だって悩んでいるんでしょう。定形文で乗り切ろうとするのは上司だけじゃないよ。はいはいって内心は雑に受け流してる部下だっているんだ。そういう意味でもトマリはもっと自分の信念に誇りを持った方が……」
あっ、と僕は口を噤んだ。また悪い癖が出てしまった。
電話は慣れているけれど相手の表情が見えないからこういうとき焦る。じわりと汗を滲ませながらも彼女に詫びた。
「ごめんね、僕までプレッシャーかけるようなことを言って。これじゃあ君んところの店長さんと同じだ」
沈黙はほんのちょっとだったんだろうけど、僕には長い時間に感じられた。
なんか不思議な気分だ。子どもの頃は周囲から期待されてないと落ち込んでいた彼女が、今では期待が重いと感じているなんて。一体どんな経験が彼女を変えたんだろう。長い年月を経たことを実感する。そりゃあの頃と同じようなアドバイスじゃ駄目だよね、とも思った。
――違いますよ。
ぼんやり考えていたもんだから、彼女の少し怒ったような声が何を意味するのかすぐにはわからなかった。え、という間の抜けた声が出ただけだ。
『同じじゃないですよ。千秋さんだって一人一人の悩みに応じて真剣に考えてます。言葉だけじゃなく実際に私を助けてくれたことだって何度もありましたよね。こちらが望んだ以上のことをあなたはしてくれたじゃないですか』
「トマリ……」
『ごめんなさい、私も少し論点がズレたかも知れません』
「ううん、大丈夫。ありがとうトマリ」
論点なんてズレたままでもいいじゃないか、今は。正直そう思ってしまった。
トマリ、君の声は、例え怒ってても柔らかく響く。温かみがある。昔からそうだったね。
だから僕は今度こそ忘れたくないと思ったんだよ。
本題から逸れたり戻ったり、また寄り道したりを繰り返した夜。いつの間にか僕の方が心満たされていた。彼女の声にも張りが戻ってきて嬉しかったんだ。
自分が役に立てている実感。もうそんなのどうでもいいや。
彼女はそうやってまた僕を“無欲”という名の深い沼へ落とす。無邪気に、きっと無意識に。
魅力とあざとさは紙一重だと彼女に近付くほど思い知る。
電話を切る頃にはもう日付が変わってた。充電も残りわずか。こんなに話が弾むとは思わなかったな。
心の火照りを冷ますかの如く、僕はコツリと壁に額を当てたままじっとしていた。
それなのについ思い出してしまう。それは想いの昂りが引き起こした第二の事故だったと言えるだろう。
トマリは知ってるだろうか。
人間は遠く離れた人の“声”を最初に忘れていくという説があることを。
トマリが退職するって気付いたとき、僕は彼女を形成するどれもこれもをしっかり記憶しておくくらいの自信があった。
それでも十年、二十年と経つうちに、多少は薄れるんだろうなと思ったら無性に寂しくなってしまってね。
一番最初に忘れるであろう声を一番最後に聞いておけば、できるだけ長く記憶に留めておけるんじゃないかと思ったんだ。
あのときも慣れないメッセージアプリを開いた。書いては少し消して、また書いては少し消して、何度も繰り返しながらまず彼女への感謝の気持ちを文字にした。
ごく、と喉が鳴ったのを覚えてる。
ここからは元上司じゃない、一人の人間・千秋カケルとしての言葉なんだと。
『トマリ。できるならもう一度、君の声が聞きたい』
と、書いたんだけど。
待て待てなんだこれ。意味不明だって! 僕はすぐ我に返った。
余計なことはしない方がいい。このまま素直に別れた方が思い出を傷付けずに済むんだよ。そう、子どもの頃みたいに。
自分に言い聞かせながら僕はその一文を消そうとした。着信が入ったのはまさにそんなときだ。
「えっ、ちょっ、嘘でしょ!?」
自室で一人、思わず声を上げてしまった。
着信の振動に驚いたせいか、うっかりメッセージを送信してしまったんだ。
便利だよね、メッセージアプリ。一瞬で送れちゃう。
一瞬すぎて、下手すると取り返しがつかない。だから苦手なんだよ! もう!
送信済みメッセージを削除するのってどうやるんだっけ。ああでもない、こうでもないと苦戦しているうちに既読がついた。僕は膝から崩れ落ちた。
その体勢のままやっと電話に出た。話し慣れた相手だったから思わず素の声が出てしまったようだ。
「あ……もしもし。どうしたの、相原さん」
『千秋くんこそどうしたの、そんな疲れた声をして。仕事に関する連絡だったんだけど今じゃ迷惑だったかしら。ごめんなさい』
「ううん、違うんだ。そうじゃなくてね、その……トマリさんに……」
『桂木さんに?』
「メッセージの誤送信をしてしまって」
『あら』
「どうしよう〜、相原さ〜ん!」
『落ち着いて千秋くん。私の要件は後で話すからまずは詳しい状況を教えてちょうだい』
促されるまま説明した。トマリを昔から知ってることはこのとき初めて打ち明けた。あくまでざっくりとだけどね。
本当、こんな話、相原さんでもなければとてもできないよ。一般的なエリアマネージャーはまず仕事優先で話すだろうからね。電話の相手が他の人だったら無理矢理にでも切り替えたんだろうけど。
案の定、相原さんは深いため息をついていた。声のトーンはいつも通りだけど、呆れられているのがなんとなく伝わった。
『あなたって人は……』
「わかってるよ。未練がましいって言いたいんでしょ」
『メッセージアプリの使い方くらいそろそろ慣れなさいよ』
「あ、そっち」
『そっち“も”よ。私からすると桂木さんだけじゃなくあなたも充分危なっかしいわ』
「トマリは放っておけないタイプだからわかるけど、僕はそんなキャラじゃなくない?」
『自覚がないって怖いわね』
「えぇ……」
困惑しながらもこれからどうしたら良いのかを相原さんと一緒に考えた。
見られてしまったものはしょうがない。名指しまでしちゃってるから、送る人を間違えたなんて言い訳は絶対通用しないし。
ともかくこれ以上余計なことはしないで反応を待ってみることになった。
その反応が全く来なかったから僕は一層落ち込んでしまったんだけどね。
でもトマリの立場になって考えれば当然のことだ。真面目だからこそ適当な返事はできなかったんだろう。
だから嘘みたいだよ、今もこうして彼女と連絡取り合っていることが。彼女を近くに感じられる日々が再び始まるなんて思いもしなかった。
このまま何も変わらなければいいのに。何も進展しなくていいけど何も失いたくない。口には出せないけどそれが本音。
ダニーの場合もそうだったら良かったのにと今でも思う。自分勝手だよね。ダニーは想いを秘め続けることが苦しかったから話したんだろうに。思えば僕は彼に甘え過ぎていた。
一方で本当にこのままでいいのかなとも思ってる。迷ってる。
――私たち、そのうち恋人ではなくなるので――
彼女は恋人との関係のことをこう言ってた。どういう意味なのかくらいは知っておいた方がいいんじゃないか? でも自然に聞き出すのは難しい内容のような気もする。なんとかタイミングが訪れればいいんだけど。
きっとみんなが思っている以上に要領の悪い僕が、今願うとしたらただ一つ。
愛しい彼女の笑顔が決して壊れませんように。
本当にただ、それだけのつもりだった。無欲なるものの恐ろしさをまだちゃんと理解できてなかったと言えるだろう。




