57.想いが爆ぜた夜(☆)
花火と言ったって、別に約束をして一緒に見に行った訳じゃないんだ。
この頃にはなんとなく、トマリとは昔何処かで会っているのかも……くらいには思っていたけど、だからどうなりたいなどと望んではいなかった。
彼女にはすでに恋人もいたし、単なる仕事仲間である僕とここまで関わりが増えたのだって想定外だったんだ。
ただ彼女はどういう訳かトラブルに見舞われやすかった。その度に一生懸命で、真っ直ぐな表情を見せてくれるものだからなんだか放っておけなくなってしまったんだ。
七月下旬。この時期もあるトラブルが解決して間もない頃だった。
しつこいスカウトマンに目をつけられた彼女は酷く怯えていた日もあったんだけど、僕が咄嗟に恋人のフリをしたことでなんとか遠ざけることができた。
しばらくは用心棒としてできるだけ一緒に帰っていた。
185センチという比較的目立つ身長で良かった。隣にいるだけで女性目当てらしき男たちも自然と彼女から距離をとる。少しは役に立てていることが素直に嬉しかった。
そんなある日の帰り、僕の乗るはずだった電車は車両点検で運転見合わせになった。では気分転換に花火を見ていきませんかと彼女が誘ってくれたという訳だ。
なんで断らなかったんだろうと今でも思う。
そしたらこれ以上、君に触れずに済んだのに。
まばらな星明かりの夜、打ち上げ花火の音が近くなってくると彼女は無邪気に僕の手をとり早足で歩いた。そのまま人気のない道まで進んでいった。
なんてことだ。いくらなんでも僕を信用し過ぎだよ。目眩がしそうな感覚から必死に意識を逸らして彼女の後を着いていったんだっけ。
それでも彼女は時折、嬉しそうな顔をして僕を見上げるんだ。素っ気なくすることに慣れてない僕は何度か目を合わせてしまった。
恋人以外に見せていい顔とはとても思えなかった。
知ってるよ、自惚れなのは。彼女が僕に向けているのは単なる信頼の目だ。わかってる。痛いくらいわかっているけれど。
「ここです、千秋さん。よく見えるでしょう」
「うん、本当によく見える」
「また大きいのが上がると思います。間に合って良かった。千秋さんに是非見てもらいたかったんです」
「ありがとう」
最低限の受け答えくらいしかできなくて、もはや自分がなんの為にそこにいるのかわからなくなった。
今、彼女の澄んだ目には夜空の花たちが美しく煌めいているんだろう。小さな橋の上、手すりを持ち背伸びをする、そんな無防備な後ろ姿を眺めながら想像した。
そんなに身を乗り出したら危なくないか。心配する僕に彼女は、じゃあ支えていてほしいと迷いもなく言ってきた。後ろから彼女の両肩を掴む。これはまぁ仕方がなかったと思う。
でも僕から言わせてみれば、その後だって、充分に不可抗力だ。
「ダニエル……ごめんなさい」
彼女の方から、確かにそう聞こえた。
夜空が張り裂けそうに響いていた。それでも聞き間違いなんかじゃない。
僕が……わかるの? あの頃の少年だって。
それとも思い出しているの? ここで君を支えている僕の存在さえ忘れて。
頭をよぎった二つの可能性。どちらであるかによって大きく意味が変わる。
それを彼女に確かめる勇気が出ないまま僕は、いつか別れ際に触れた栗色の髪の幻想に飲まれた。
目の前にあるのはブリーチされた金髪。あの頃とは違う。でも同じなんだ。やっぱり彼女なんだ。
もう一度、触れたい。
あのときみたいに抱き締めて、髪を撫でて。
叶うはずのない願いは僕の胸を締め付け、呼吸を浅くする。
ドン、と力強く打ち上げられる音がした。
ふわりと吹いた風が彼女の髪を遊ばせる。甘い香りに鼻腔をくすぐられ、助けて、と思った。
苦し紛れに見上げた夜空で鮮やかな花が咲いたとき、限界まで昂った想いが、ついに、爆ぜた。
音を感じなくなった。流星群のような花火の欠片がスローモーションで降り注ぐ、現象や時間という概念が狂ってしまったその中で。
振り向かない君に。
君のその柔らかな髪に。
僕はそっと触れた。
両手は君を支えたまま。
言葉を紡ぐだけで良かった部分で。
熱く、甘く、君に触れていた。
そっと唇を離すと自然と涙が零れた。嗚咽しそうなほどに身体の奥が震えた。
僕はもう、思い出したよ“トマリ”。よりによってこんなタイミングで。
いろんな感情が入り混じっていた。何も気付いてない彼女の後ろ姿を見つめながら。
愛しくてたまらないこと。どうしてくれると怒りたくなる衝動。そして、彼女の信頼を裏切ってしまった罪悪感。
最低だ。こんなの、上司失格だ。危険な男から君を守る? 何を言ってる。一番危険なのは僕じゃないか。何回自分を責めたことだろう。
泣いているところを彼女に見られてしまったのは誤算だったけど、考えてみれば無理もない。急に時間が元通りに流れ出したから隠す余裕なんてなかったんだ。
そこで僕は咄嗟に、故郷の花火大会を思い出したことにしたんだけど、そんなはずはないんだ。七月といったら白夜。花火はまだ見れない。新たに嘘を重ねてしまったばかりに、僕はフィンランド出身であることも彼女には明かせなくなった。
当然、自分があのときの“ダニエル”だなんてこの先も打ち明けられない。
でもそれでいい。彼女の今の幸せを決して壊してはならないから。
全てはもう遅すぎたんだ。
彼女を自宅アパートまで送っていった後、僕もタクシーで帰宅した。目元が赤いのがなんとなく伝わったんだろうか、タクシーの運転手には飲み会の帰りだと思われた。
代わりに一人で反省会をしていた気がする。お風呂の後に晩酌しながら。涙はこのときもボロボロと零れて僕は自分が泣き上戸だと知った。なるべく人前では飲まないでおこう、特に彼女の前ではと肝に銘じたよ。
壊れたみたいな涙腺はほったらかしにしてベッドに横たわる。枕を濡らすという表現がまさに相応しい夜だった。
それでも次の日は変わらぬ素振りで仕事に行った。しょうがない、それが社会人ってものだから。
大体、ぶり返した恋心に効く薬なんてあるはずがないんだ。そういう意味では風邪よりも厄介かもね。
トマリとも顔を合わせた。いつも通りの落ち着いた表情は、彼女が僕のしたことなど何も気付いていないことを示していた。
ホッとする感覚と、ほんの少しの寂しさと。でもどんなに時間がかかってもこの気持ちとはなんとか折り合いをつけなければと思った。
彼女の中であの花火の夜が、綺麗な思い出であるならば僕は指先一つでさえ触れたくない。壊したくない。そう強く思っていたのに、心というのは実に我儘だね。
時折、自分の中から叫びが聞こえるようだった。
“僕に気付いて”
“この願いに気付いて”
“また君が一番になってしまったことに”
“気付いてよ。責任を取って”
いつだって悪いのは僕だったのに。彼女も悪いことにしようとしてる。あのときみたいに共犯にしようとしてる。
彼女に何度か本当のことを打ち明けそうになったのは、良心の呵責に苛まれたせいだと思ってたけど、本当は多分それだけじゃないんだ。
ゆっくりと、意識が現在の感覚を捉えていく。
鳥の鳴き声、木々のざわめき、風の質感などがリアルになっていった。穏やかな陽気が訪れたこの公園はやがて人で賑わうだろう。
涙を拭って僕は顔を上げる。
もう時間だ。行かなきゃ。現在には現在のやるべきことがある。
ダニーの気持ちともいずれはちゃんと向き合わなければならないだろうけど、彼の方から去っていったんだ。まだそのときではないんだろう。泣いてばかりいられない。切り替えて前に進まなきゃ。
そうやって社会の一員へと戻っていく。エリアマネージャー・千秋カケルが形成されていくという訳だ。
それでも。
そうやって何もかもを一旦忘れたようでも、ふと立ち止まった瞬間、胸に感じる温かさと痛みは、きっとあの夜の君がもたらしたものなんだろう。
五感の中でも匂いの記憶は強いと聞く。
とても忘れられない。触れた柔らかい髪の感触、そこから伝わったのはいつか彼女と一緒に口にしたミルフィーユの苺みたいな甘さだった。




