56.ちゃんと忘れるからね(☆)
険しい表情の凛太郎さんからじいっと見つめられて、僕の細い両足は小刻みに震えていた。寒さとは関係なくだ。
「自分が助けてあげる。そんなたいそうなことを考えてたのか、お前は」
「えっと……はい」
「この際だから教えておいてやる。それは優しさなんかじゃない。ただの思い上がりだ」
「おもい、あがり?」
正直、すんなりと理解することはできなかった。でも良い意味ではないことだけはなんとなく伝わっていた。
凛太郎さんはそんな僕の様子を見て、フン、と短く鼻を鳴らした。
「言い方が難しかったか。仕方ねぇな、もっと噛み砕いて説明してやるよ」
「ごめんなさ……」
「謝るのは最後まで聞いてからにしろ」
「はい」
キッパリとした口調に遮られた後、僕はおのずと背筋を伸ばしていた。凛太郎さんが身体ごと僕に向き合った。
「お前、夜中に子どもだけで出歩くなって言われたことないか。危ないからって。何が危ないか考えたことあるか」
「親に、言われたことがあります。でも考えたことは……」
「ねぇか」
「ないです」
「じゃあ質問を変える。ここまで来る途中で何を見た。人でも景色でもなんでもいい。お前が見たものを答えてみろ」
「見たもの……」
僕は思い返した。順を追って話していった。
まず、中川さんという旅館の女の人に会ったこと。その人が呼び止めるのを無視して走り出したこと。
旅館の外に出たら沢山の大人たちが歩いていた。その足元をくぐり抜けるようにして逃げたこと。「待ちなさい」「どうしたの」そんな声をかけられていた気がすること。
昼間見た川があって。でも辺りが暗かったせいか水の色も黒っぽく見えた。
橋を渡った後、路地裏へ。そこからは誰ともすれ違うことはなかった。
僕が見たのはこれくらい。そう凛太郎さんに伝えた。
真っ直ぐ、彼の静かな視線が送られてくる。真一文字の唇がゆっくり動いた。
「お前、あの川の深さ知ってるか」
「えっ……」
「辺りは暗くて見えづらかったと言ったな。もしトマリが足を滑らせて川に落ちていたら。お前、助けられるか」
身体の芯を強く握られ、激しく揺さぶられたような気分だった。ズキズキとした痛みも後からついてくる。
「そ、それはもちろん助けます」
「一緒に溺れたらどうする」
「お、溺れません!」
「何故言い切れる。あの川に入ったこともないお前が」
「それは……」
「路地裏に誘拐犯が出たらどうする。トマリが攫われたらどうする。お前はどう動くつもりだ。どんな気持ちになる」
「やめて下さい! そんな、そんなこと……」
不穏な想像に恐れ慄き、思わず悲鳴のような声が出た。でも凛太郎さんの眼差しは決してブレなかった。
ブレない思いを真正面から僕にぶつけてきた。
「まぁ、俺ら家族からしたらすでに攫われたようなもんだけどな! 誰かさんのせいで!」
「…………っ!」
「わかるか千秋カケル。お前はな、自己満足の為にトマリを危険にさらしただけなんだよ」
一気に、全身の力が抜けていくようだった。
――僕が君の隣にいる。これからもずっと――
――だからトマリ、もう大丈夫だよ。僕が遠くに連れていってあげる――
――トマリがいてくれればそれでいいよ――
僕はうなだれた。自分が口にした言葉の数々を思い出しながら、内心で絶望していた。
冷静になってみればどれもこれもが安っぽい台詞だと気付く。好きな子を守れる自分、困難に立ち向かえる自分に酔っているだけの。なんの茶番だと幼心に思った。罪のない景色たちさえ、素人が薄っぺらい板で作った舞台セットに見えてくる。
そしてなんとなく察した。
トマリにはこうなることがわかっていたんじゃないかと。
そう、きっと彼女がしたかったのは大人たちに対する“抗議”。理解してもらえない、期待してもらえない、そんな思いをしてきたからこそ、家族が本当に自分を愛しているか確かめたかったのではないか。
僕一人が哀れな役者だった。きっとそれこそが真実。
だけどトマリは優しいから僕を大好きだと言ってくれたんだよね……?
そこまで確信を持ってしまったのに、僕はやっぱり馬鹿だからトマリを憎む気になんてなれなかった。“惚れた弱み”なんて言葉はまだ知らなかったけど気持ちとしてはまさにそれだ。
そもそも僕は自己満足の為に彼女を利用したんだとわかってしまった。ある意味、無自覚だった僕の方がタチが悪い。彼女を責める資格なんてない。
冷たい涙が頬を伝った。
トマリ、僕たちは最後までお互い様だったね。
「なぁ、千秋カケル。どんなに好きでもやっていいことと悪いことがある。お前だけのせいとは言わねぇ。でもな、俺も一人の人間だし、何よりこいつの兄だ。お前のことは嫌いじゃねぇけど許してはやれない」
「……はい」
「わりぃな」
僕は数回首を横に振った。何もかもがストンと腑に落ちた後は、心からの言葉が自然と喉から零れ出た。
「凛太郎さん。ごめんなさい」
そしてトマリ。ごめんね。大好きなのに、危険な目を遭わせて。もう二度とこんなことしないよ。
いつか僕が他の誰かを好きになったら、必ず危険から守る。そういう男になるから。
口にする訳でもなく胸の内で誓った。
「ん……ダニエル……?」
僕の肩の上でトマリが動いたのがわかった。
小さな手で目をこする。長い眠りから覚めたみたいに、辺りを物珍しそうに眺めている。
寝ぼけていただけなんだろう。でも何かがリセットされてしまったように感じて僕は無性に寂しくなった。
「帰るぞ、トマリ」
「兄貴……」
先に立ち上がった凛太郎さんは幼い妹を抱き起こすようにして立ち上がらせる。彼女に対してすぐに怒りはしないようだ。
だけど僕のことは許さないとハッキリ言った。そうだよね、当然だ。
僕のついた嘘も全部明るみになってしまうだろうと覚悟した。そんなとき、凛太郎さんが僕を一瞥して言ったんだ。
「何してんだ。行くぞ、ダニエル」
「凛太郎さん……」
「お前の家族だって心配してる。早く帰って安心させてやれ」
事情も聞かず、淡々と振る舞ってくれたこと。
僕たちを守るように手を繋いでくれた。少し汗ばんでいた感触。
伯父さんと伯母さんとダニー、それと何人かの大人たちの姿が見えたところでそっと手を離し、僕だけを先に歩かせた。だからトマリは僕がカケルと呼ばれているところを聞いてない。
凛太郎さん。寡黙で温かい彼のこともできるなら忘れたくないと思った。
初恋が幕を閉じた。思っていた以上に呆気なく。そう理解した。
翌日は伯父さんと伯母さんとダニーと僕、四人だけで過ごした。本来の旅行を楽しむ為というのもある。でも病み上がりのダニーに配慮して、近場を軽く散策したりお昼ごはんを食べる程度だった。
僕はあまり怒られた記憶がない。恋が終わった喪失感でそれどころじゃなかったのかも知れないけど、ダニーはなんだか元気がなかったし、伯父さんと伯母さんはむしろ僕に気を遣っているように見えた。
思えば僕があんな無茶をしたのは生まれて初めてだったから、みんなからしたら驚きの方が勝っていたのかも知れないな。
そうしてまた翌日。ついに帰る日となった。
遠い道のりだから早朝から支度しなければならなかった。何時だったかまでは覚えてないけど、旅館の中も外もまだ静かだったような気がする。
旅館を出る前、伯父さんと伯母さんはトマリの両親と話していた。お互いに何度も謝っているのがかすかに聞こえてきた。
当事者である僕の方がむしろ実感が湧かずにいた。ぼうっと立ち尽くしていることしかできなかったんだ。
パタパタと小さな足音が近付いてきたのはそんなときだ。
「おい! 待てトマリ!」
「約束を果たすだけだ!」
「二人きりにはできねぇ! お前らまた逃げるだろう!?」
「逃げたりなんかしない! 本当だ!」
走ってくる途中で凛太郎さんに腕を掴まれた彼女。きつくつぶった瞼の間から大粒の涙がいくつも零れていた。
「トマリ……」
例えここで終わりだとしても。
「トマリッ!!」
本名も明かせず嘘つきのまま去っていくのだとしても、今この瞬間だけは、ここにある僕たちの想いを本物として心に刻みたいと強く思った。
気がつけば駆け出していた。
彼女を強く抱き締めていた。
柔らかな髪を何度も撫でた。
もう、僕一人の茶番劇だとしても構わなかった。
「ダニエル、友達二十人のノートは持ってる?」
律儀なトマリは僕にそう訊いた。息を切らせながらも真剣な表情で。
なんのことか思い出すのに時間がかかってしまったけど、彼女が果たそうとしている“約束”こそがこれなんだと理解に至った僕は、ちょっと待っててと言ってダニーの元へ引き返した。
「ダニー、あのね……」
「ほら。これだろ」
僕が言い終わる前にノートが差し出された。静かな表情のダニーはもう大体の状況を理解しているようだった。
こく、と一度強く頷いた僕はそれを持ってトマリの方へ駆け寄る。
彼女は時折鼻を啜りながらもメッセージを書いてくれた。
これで二十人目。ノルマ達成だ。
だけど当然、喜べる状況じゃない。出会ったときだったらまだしも、もう僕たちの関係は変わっていたんだから。
ただの友達なんかじゃない、本当は。僕だけでもそう思ってていい? トマリ。
いつの間にか僕の目にも涙が滲んでた。
「ダニエル……大人になっても私を覚えていてくれるか」
「約束する。絶対に忘れないよ」
別れ際、僕は彼女の手を取りもう一つの嘘をついた。
ダニーの言う通りだと思ったからだ。もう二度と会えない相手を想っていても仕方がない。この手を離したら、僕は全力で彼女を忘れようと決めていた。
その顔も、名前も、声も。
大丈夫。僕たちは子どもだから、お互いにちゃんと忘れられる。君もいつかきっと寂しくなんてなくなるよ。
ましてやこんなに可愛いんだもん。僕よりも相応しい相手が必ず見つかる。だから僕の本名だって打ち明ける必要はないんだ。別人だと思われてた方がいい。
そんなふうに結論づけて日本を去ることになった。
今度こそ終わった。そう思った荒削りな恋。
だけどそれから十九年後。
僕は思いがけない出会いを経験する。
場所は同じく日本。ショッピングモール内の従業員休憩室。
エリアマネージャーになることが決まったばかりの僕は、壁際の床に座ってうずくまっているスタッフを見つけて声をかけた。
「本社から来た千秋と申します」
「トマリです。宜しくお願いします」
「とまり……さん?」
初対面にも関わらず、何故か名前の方で名乗った不思議な女性。少し気の強そうな顔立ちも、あどけない表情も、年齢不詳な雰囲気も、全てが僕の意識を掴んで離さなかった。
僕は……僕は。
“旅館の彼女”の顔も名前も声も、忘れることに成功していた。遠い昔、何故か“ダニエル”になりすましていた僕にかけてくれた言葉ならいくつか覚えていたけど、同一人物と思っていないから当然その記憶とは繋がらない。
でも彼女の名を聞いたその瞬間は、まるでデジャヴのような感覚だった。
全てを思い出すカウントダウンが始まっているとも知らず、彼女に何かトラブルが発生する度に距離が縮まっていった。
ならばいつ思い出したのか。
変な言い方だけど、僕もハッキリとはわからないんだ。
きっとジグソーパズルのピースが集まるみたいに、徐々に、徐々に、遠い昔に砕けた記憶の断片を取り戻していったから。
確信した日なら覚えてる。あの夜は花火が上がっていた。
僕がすごく久しぶりに涙を流した日だ。




