55.やっぱり僕たちは子どもだった(☆)
トマリとは明日の夕方に会う約束をしていた。ちゃんと荷物を用意して、家族に手紙を書き残して、二人でここを出て行くつもりだった。
本来あるはずだった約二十四時間の猶予はどんな効果をもたらしたんだろう。冷静になって考え直したんだろうか。それとも却って想いが加速したんだろうか。
いずれにしても僕はそっち側を知らない。何故なら……
「…………っ、トマリ」
「ダニエル!? どうしたのだ、そんなに目を赤くして。一体何があったのだ?」
中庭の藤が見えるあの廊下で。二十四時間どころか数時間しか経っていないそのタイミングで彼女と再会してしまったからだ。
トマリは昼間と同じ服装のまま。でも凛太郎さんは近くにいないみたいだ。
驚いた顔で僕を見てた。自覚はあまりなかったけど、さっきまでの僕は相当泣いていたんだろうとわかった。
今の状況、自分のしてしまったこと、もう取り繕う余裕もなかった。力のない声が出た。
「従兄に……反対されて……」
「いとこ? ああ、そういえば昼間話していたな。勉強が苦手だという」
「ごめんトマリ、勝手に話して。本当にごめんね。アイツなら味方になってくれると思ったんだ。でも違った。それにアイツ言ってたんだ。もう日本に来る機会は二度とないって」
「そう、なのか」
「僕はもう、どうしたらいいのかわからないよ」
情けない言葉ばかりを垂れ流していた。そもそも自分が言い出したことだったのに、気が付けば彼女に背中をさすってもらう立場になっていた。
悔しくて悔しくて、また涙が滲んでくる。このまま何もできないというのか。唇を強く噛み締めていたときだった。
「いとこに知られてしまったということは、急いだ方がいいかも知れない」
「え? 急ぐって……」
「その話はダニエルのおじさんとおばさんの耳にも入るかも知れないのだろう。そうしたらきっと君は注意深く見張られる。明日隙を見て抜け出すなんて不可能になるだろう」
「でも僕が言ったのは好きな子ができたっていう話で、抜け出すことまでは言ってないよ」
「しかし君は泣いているところを見られてしまっているだろう。家族はそういった仕草から鋭く予感するものなのだよ」
確かに。悩んでいるときや落ち込んでいるとき、まだこちらが何も言っていないにも関わらず母さんや姉さんたちに元気付けられた経験があった。
納得した後はじわじわと実感が迫ってきた。彼女の言いたいこともようやく見えてくる。
「それじゃあ……まさか」
「ああ。行くなら今だ」
迷いのない口調。真っ直ぐ僕を見つめる茶色の瞳には、冴え渡る強い光が宿っていた。
なんだか妙だとも思ったんだ。トマリほどの賢い子がこんな無謀な行動に乗るだなんて。でもあのときの彼女にはやっぱり何か明確な意図があったような気がしてならない。
何度でも言う。僕は試されているんだとしても構わなかった。
「ダニエル。本気なのだな、私への気持ち」
「もちろんだよ、トマリ」
僕の両手を強く握った彼女。そうまでして確かめたいことがあるのなら、僕はなんとかして力になりたかった。
いつの間にか空が赤っぽく染まり始めていた。藤の花が夜空の雫と化すのもあとわずか。
そんなとき軽やかな足音が近付いてきた。
振り返って見上げると、従業員の女性がこちらへ微笑みかけている。
「あら、トマリちゃん。凛太郎くんと一緒じゃなかったの?」
「中川さん……」
「その子はお友達かな? もうすぐ日が暮れるから、二人ともそろそろ……」
「ごめんなさい、中川さん!」
「えっ!? ちょっとトマリちゃん! 何処いくの!」
ぐい、と強く手を引かれた。従業員の女性の足元をすり抜けるようにして走り出したトマリ。呼びかける声に一切の反応も示さず、ただ真っ直ぐ続く廊下の先だけを見ていた。
ついに動き出してしまったんだ。思っていたよりも早く。実感を覚えたのは夕闇迫る街の中。
夫婦やカップルなど、大人たちが大半を占める中で、子ども二人だけの姿はさぞかし目立っていただろう。一体どうしたのかと訊いた人もいただろう。でも風と一体化したような僕たちはその全てを振り切って景色と共に後ろへ流していった。
「こっちだ、ダニエル!」
「うん!」
花筏ができるという川が見えてきた。その上の小さな橋を渡ったら、建物と建物の間に抜け道のようなものが見えた。ぐっと、喉が鳴った。奥に人の気配はない。まるで異界への入り口みたいに見えたんだ。
だけど彼女が一緒なら。
少しずつトマリが失速しているのがわかった。息を切らしている。恐れはまだわずかに残っていたけれど、ようやく覚悟が決まった僕は彼女の手を握ったまま、今度は自分が前に出た。
「トマリ、頑張って。もう少しだから」
「ありがとう、ダニエル。これでやっと、二人きりに……」
「そうだよ。もう大丈夫。どんな場所に着いてもずっと一緒にいよう」
「うん……うん……」
鼻をすする音が聞こえた。彼女は絶対に僕が守る。だからもっともっと強くなるんだ。
ちらり、と藍色の空に光った星はそんな僕たちを励ましてくれているように見えた。
だいぶ遠くに来たなと思えたのは、一般の家屋さえほとんど見当たらなくなったところでだ。
何時なのかもわからない。ただ、どんどん辺りが暗くなってくるのがわかって僕の恐れはぶり返しつつあった。街灯がほとんどないことにも今更気付いたんだ。
でも隣にはトマリがいる。僕のせいでこうなったんだから、怯んでるところなんて見せられないと思った。
「トマリ、この辺の道は来たことある?」
「ごめんなさい。私もよくわからないのだ」
「そっか……本当に遠くまで来ちゃったんだね」
「戻りたいか、ダニエル」
「そんなことない。トマリがいてくれればそれでいいよ」
実際はクサい台詞を吐いている場合ではなかったんだけど、僕は変なところで見栄っ張りだった。
それでも子どもの足では次第に歩き疲れてくる。真っ暗で何もない道。何処でどう過ごせばいいのか困り果てていた。
「座れるところないかなぁ。トマリも疲れたよね」
「ああ、少し疲れている」
「……ごめんね」
「ダニエル。あっちに階段がある。おそらく公園に続いているものだと思われる」
「本当!? 良かったぁ。とりあえず行ってみようか」
公園と聞いたその瞬間はホッとしたけど、実際に階段の上を覗いてみたらなんだか鬱蒼としていて不気味だった。昼間行った藤棚がある方とは全然雰囲気が違う。
仕方なく公園には入らずに道に面した階段に腰を下ろす。トマリは相当疲れたらしく目が半開きだ。僕は「寄りかかっていいよ」と声をかけた。
「ありがとう……ダニエル。君が大好きだ」
弱々しい声でそう言った彼女は何故か涙を流してから目を閉じた。
どうしよう。やっぱり僕は間違っていたのかも知れない。寒いし、トイレも行きたい。
トマリと同じように涙が滲んできた。でもプライドが許さなくて、僕は自分の上着を脱ぐと眠っている彼女の肩にかけてやった。半袖から剥き出しになった素肌をさすりながら何度も何度も自分に言い聞かせた。
寒いのくらい平気だ。暗くたって怖くない。お化けが出たってなんとかする。だって自分で決めたんだから!
なのに涙は止まらなかった。むしろどんどん溢れて呻き声まで混じってくる。
――ここにいたか。
低い声が届いたのはそんなとき。
嘘。本当にお化け?
恐る恐る顔を上げると背の高い少年が僕たちを見下ろしてた。
「後先考えずになんてことしてやがる。馬鹿が」
「凛太郎さん……」
間違いなく彼だとわかったとき、僕の肩は大きく震え出した。大声で泣きじゃくりたくなった。
それは紛れもなく安心によるものだった。
昼間の凛太郎さんは愛想こそ乏しいものの僕に気を遣ってくれてるのがわかった。
でも今は違う。もう容赦などしない。そんな冷ややかな目だ。
「なぁ、お前に聞きたいことがある。お前、本当は“ダニエル”じゃないだろ」
「ごめんなさい。僕、本当は千秋カケルといいます」
「だろうな。お前らが失踪した後、お前の親戚夫婦が伝えてきた名前がそれだった」
「ダニエルは従兄の名前です。でもお願いします、トマリには黙っててほしいです。このまま“ダニエル”ということにしておいてほしい」
「なんで俺がお前の言うことを聞いてやらなきゃならない」
「ごめんなさい! もうしませんから……お願いします!」
僕は頭を下げた。大粒の涙が握り拳の上にぽとぽとと落ちる。
しばらくの間。小さなため息の後、凛太郎さんが黙って僕の隣に腰を下ろした。
それでも彼との目線の高さは大きく違う。僕は小さい存在なんだと思い知らされる。
凛太郎さんが、くい、と顎を動かして訊いた。
「妹。寝てんの? それ」
「あ……はい、疲れたみたいで」
「だろうな。ここは旅館からそう遠く離れちゃいねぇ。でも相当回り道をしないと辿り着けない場所だ。ガキの体力なら疲れて当然だ」
「ごめんなさい」
「悪いことした自覚はあるんだな」
「でも……っ、僕はトマリを自由にしたかったんです」
「あ?」
「だって学校でも家でも居場所がないって言うから、僕が力になりたくて。それで……っ」
言いかけたところで背筋が凍った。
凛太郎さんの顔に深い陰がかかっていたからだ。その対比で眼光は一層鋭く見えた。
口角を引きつらせながら彼は言う。
「反省が足りねぇみたいだなぁ。俺がたっぷり教えてやるよ」
「えっ、あ、あの」
「なぁ、千秋カケル。とことん付き合ってもらうぜ」
「よくわかんないけどごめんなさい!!」
「わかんねぇなら謝るな!!」
ねぇ、トマリ。コミュニケーションに問題があるのは僕も同じだ。君とは違った意味かも知れないけどね。
長い夜の幕開けを予感しながら僕は何かを悔いていた。
一つ確かなことがあるとしたら、こんな僕が君を守るだなんて実におこがましかったんだということだ。




