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tomari〜私の時計は進まない〜  作者: 七瀬渚
第3章/願いに気付いて(Kakeru Chiaki)
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54.未熟な覚悟と本気の恋


 トマリ。


 トマリ、泣かないで。


 幼い頃の僕は何度か彼女に呼びかけた気がする。澄んだその瞳が再び僕を映してくれるまで。


 どれくらいか経った頃にやっと彼女が顔を上げてくれた。こっちを向いてくれた。でも鏡の役割などとても果たせないくらい瞳は涙で満たされたまま。

 唇は輪郭さえ見えなくなるくらいきつく結ばれていた。だからなのか、声も絞り出されるようにして届いた。


「ダニエル、ごめんなさい」


「どうして謝るの。僕のためにしてくれことでしょう」


「でも……」


「僕の方こそごめん。ちゃんと自分で声をかけにいけば良かったんだ。そうすればトマリがこんなに自分を責めることもなかった。本当に、ごめんね」


「ダニエルは悪くない」


「それならトマリも悪くない」


 僕がキッパリ言い切るとトマリは一瞬目を見開き、それからためらいがちに数回頷いた。

 最後の涙を出し切るみたいに瞼をぎゅっとつぶる。少し落ち着いたのか甘えたかったのか、僕の肩に額を預けてきた。

 こういうの、慣れた訳じゃない。でも照れるというよりかは安心していた。無防備でいてくれること。だって彼女はしっかりしているから、きっと普段は気が張ってるんじゃないかと僕にはわかった気がしたんだ。


 僕の傍にいるときくらい、素直になって。そんな気持ちだった。でも……


「トマリ……僕……」


 何か言いかけたのに声が出なくなった。


 そうだ、僕はいくらも傍にいられない。明後日の朝には飛行機に乗らなきゃいけないことをやっと思い出したんだ。

 そうしたらトマリは、僕は、一体どうなるの。次に会えるのはいつ? 数日後とか数週間後とか、さすがにそれはありえない。


 はらりはらりと零れ落ちる青紫色の花を見つめていることしかできない。幻想的空間の中で時が止まったような気がしていたけど、そんな訳がないんだと思い知らされる。

 きっとこれが短い人生の中で初めて感じた強烈な切なさだったんだろう。


「ねぇ、トマリ……」


 だから僕はできるだけ楽しい話をしようと考えたんだけど。


「ダニエル、私はもう何日も学校に行けてないんだ。休日とか関係なく。居場所を見つけられなかったから旅館の中でお客様の邪魔にならない範囲をうろついていた。ただそれだけの日々を送っていたのだよ」


「そうだったんだ。でも悪いことはしてないじゃないか」


 トマリが今その話がしたいなら僕はとことん付き合おうと思った。


 僕の肩の上で彼女はふるふるとかぶりを振る。痩せた背中を僕はそっとさすった。


「屁理屈は一度や二度ではない。学校に行けなくなる前から、友達がいないことをよくお母さんに心配されていた。勉強はちゃんとやっているのだからたまには友達と遊んできなさいと何度も言われた」


「へぇ、珍しいね。僕の従兄なんていつも“勉強しなさい”って言われてるよ」


「私はそれほどに人付き合いが苦手なのだ。勉強をしている方がずっといい。でも友達がいないままだと心配をかけるからと思ってとりあえず外に出るんだ。そうして道端の花や近所の猫に勝手に人間のような名前をつけて話しかける。家に帰ったら誰々ちゃんとお喋りしてきたと報告して完了だ」


「ああ……なるほど。やっぱりトマリは頭がいいなぁ」


「ううん、頭がいいのとは違う。こういうのを屁理屈というのだよ。一般的には嫌われるし誰の為にもならない手段だ。私はわかっている。こんなやり方で逃げてばかりいたから、結局人付き合いの方法などまるで身に付かなかったのだと。学校の子を怒らせ無視されるようになったのもそのせいだ。私がちゃんと頑張らなかったから」


「苦手なことくらい誰にでもあるよ」


「ダニエルは優しいのだな」


 当時の僕からしてもトマリの屁理屈は実に可愛いものだと感じられた。それでも彼女本人にとっては深刻なんだ。それがありありと伝わってきたから僕まで胸が苦しくなったし、なんとかしてあげられないものかと歯痒く思った。


「でもさ、トマリには家族がいるじゃない。お兄さんだっていい人だし」


「いい人だからといって仲良くできるとは限らないよ。家族だって皆、私に対して呆れてる。兄には旅館を継がせる話をしているのに私には何も言わない。期待してない。従業員の皆だって私のことを可愛げのない子どもだと思ってる。だから私は必要とされてないのだ」


「そう……かな。そんなこと……」


「ごめんなさい。さっきからダニエルを困らせてばかりだ。もうこの話はやめておく」


 トマリが僕からそっと身体を離した。そのままゆっくりと前を歩いていく。待って。声は出なかったけれど彼女の背中へ手を伸ばしていた。

 そうやって君はまた、大人のような決断をしてしまうの。ならばいつ、どうやって、子ども時代を過ごすの。後から思うと僕はそんな問いかけをしたかったみたいだ。


 それでも当時の僕の言葉は拙い。流暢りゅうちょうに日本語を使いこなす彼女に、どんなニュアンスで伝わるか考える余裕なんてなかった。



「トマリ……僕が……っ!」


「ダニエル?」



「僕がっ、君の隣にいる。これからもずっと」



 生まれたばかりの決意を響かせるので精一杯だった。


 心はいつも繋がっている。もしかすると始めはそれくらいの意味だったのかも知れないんだ。


 でも彼女は大きく目を見開いていた。小さな唇を震わせていた。涙が再び満ちてくる気配がした。

 恐れや不安、そして期待、いろんな感情が混じった表情だったんだろう。


 僕も遅れて恐れた。もう後戻りできないと直感した。彼女のあまりにも真剣な眼差しを前にして。


 気休めなど無意味だと察したんだ。



「私も……私だって、ずっと一緒にいたい。でもやっぱり無理なのだろうか」


「トマリ……」



「無理、なのだな」


「違う。無理なんて言わないで、トマリ。僕は諦めないよ!」


「でもどうすればいいというのだ」



 ザアッと音をたてて藤の花房が踊り狂う中、僕はただひたすらに熱い想いを言葉に乗せていた。


「居場所ならこれから一緒に作ればいい。だからトマリ、もう大丈夫だよ。僕が遠くに連れて行ってあげる」


 いつ、何処で、どうやって。それらは全部置き去りだった。ただ彼女との絆だけは失いたくないという一心で。

 繋ぎ止めるために必死だった。口だけの奴だと思われたくなくて、それがどんなに無茶苦茶な望みでもやり遂げるしかないんだと思った。



「おーい、お前らいつまでイチャついてんだ。そろそろ旅館に戻るぞ!」


「はーい!」



 半泣きのくせに声を全く震わさずに返事したトマリ。そうだ。僕が連れ出さなければ、彼女はずっと演じ続けなければならないんだ。


 僕は彼女の手を強く握り、自分の涙を素早く拭った。


「トマリ、明日また会える?」


「うん」


「じゃあ、そのときに」


「うん、ダニエルに着いていく。連れてって」


 少ない言葉だったけど確かに約束だった。

 藤の花だけが全てを聞いていた。噂話をするみたいに騒めきが広がっていく。さっきまで綺麗だと見惚れていたのに少しだけ怖くなった。




 だけどこのときの僕にまだ迷いがあったんだ。


 一緒にいられる方法、他にも何かあるんじゃないか。離ればなれになったとしても、何か繋がっていられる方法があるんじゃないか。

 できればみんなに認めてもらいたい、僕たちのこと。二人だけで決めてしまうよりも、味方になってくれる人が多い方が心強いんじゃないかって。


 これが冷静になれる最後のチャンスだったのかも知れない。



――ダニー。ちょっといい?


 真っ先に頼ったのは彼だった。

 時間帯は夕方。部屋の中。もう熱は下がったと聞いていたから、伯父さんと伯母さんがお土産を選びに行ってる間に話しかけたんだ。


「どうした、カケル」


「あの……あの、ね、僕……」


「は? なんだよ。聞こえねぇ」



「ぼっ、僕! 好きな人ができたんだ」



「…………え?」



 元より静かな室内が一層の静寂で占められた。ダニーはしばらく口を半開きにしたままだった。

 僕は話すだけで精一杯。じわりと滲む口元の汗を拭いながら続けた。


「だからね、僕、彼女とずっと一緒にいる方法を考えてて……」


「待てよ。え、なんだよ急に。今までそんな話一度もしたことなかったじゃん」


「だって初めての恋だから……多分」


「誰だよ。学校の子か」


 ダニーがすごい勢いで僕に詰め寄ってくる。鋭い目つきがなんだか怖かった。


 焦っているように見えるんだけど、どうしてだろう。ダニーも好きな女の子がいるのかな。だから僕と被っていないか気にしてるのかな。

 僕が想像できたのはこれくらいだ。ダニーを安心させたくて、それ以降の言葉はむしろ強調するような言い方になってしまった。



「違うよダニー。この国で、出会ったんだ」



「え……っ」


「彼女も僕のことを好きだと言ってくれた。だから一緒に考えてほしいんだよ。どうやったらこれからも仲良しのままでいられるか」


「本気で言ってんのか、お前」


「そうだけど……ダニー、どうしたの? なんか変だよ」


 グレーの瞳が至近距離で揺れていた。その意味を少しでも察することができたなら僕の選択も違っていたのかな。



――駄目だ。


 しばらく後に届いたのは低く沈んだ声。もちろんダニーのものだった。


 どうして。僕が聞き返すとダニーはまた黙ってしまう。時間がないと思うと僕は少し苛立った。


「遊びで言ってるんじゃないんだよ。真面目に考えてほしいんだ! 僕は……」


「だから駄目だと言ってるんだ! 本気だからこそ賛成できない」


「なにそれ! どういうこと!?」


「お前こそ真面目に考えてみろよ。日本の女の子とどうやって付き合うんだ。俺たちはフィンランドに帰るんだぞ。もう会えない相手と繋がっていたってつらいだけだろ」


「なんで会えないって決めつけるの!? 日本に来ることがまたあるかも知れないのに。大体、僕の父さんは日本人なんだよ?」


「でも住んでるのは日本じゃねぇ! 結局はそれが全てだろうが!」


 ぶわっと、一瞬にして僕の視界に水の膜が張った。全身が震えると共に雫と化して火照った頬を冷やしていく。


 ダニーが面倒くさそうにため息をつく。酷い。こんな冷たい奴だと思わなかった。

 僕の心は怒りと悲しみでぐちゃぐちゃになっていた。


 歯を食いしばり、自分の服の裾を千切れそうなくらい引っ張って耐えた。それでも我慢できなかった僕はついに立ち上がり、ダニーに背を向けてしまった。


「わかった。もういい!」


「待てよカケル。話を聞け」


「ダニーは聞いてくれなかった!」


「俺だって意地悪で言ってるんじゃない。聞いたんだよ、俺たちの親が話してるところを。仕事が忙しくてもう日本には行けないだろうって」


「え……」



 振り向くとダニーは真剣な目をしていた。

 理解が追いつかないのに衝撃は大きい。僕はただ弱々しく首を横に振るだけだった。



「近場の旅行ならできるけど、ここまで遠い国にはもう行けないって。わかるか、次の機会なんてもんはないんだよ」


「そんな……」


「だから今のうちに諦め……」


「嫌だッ!!」


「おい、カケル!」



 その後、どうしたのかはよく覚えてないんだ。気が付いたら部屋の外にいたけれど。

 ただこのときの会話で、僕の決意は確かなものとなった。



――本気で言ってんのか、お前――



 ダニーの言葉が嫌味ったらしく脳内で反響する。意地悪じゃないと言ってたけど嘘だ、絶対。僕が女の子から好かれたことが気に食わないんだ。

 僕は宙を睨んだ。ギリ、と歯が鳴った。


 気が付くと呟いていた。



「本気だからね」



 それは自分のものとは思えないくらい冷え切った声だった。


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