53.僕は情けない準主人公(☆)
トマリが何故このタイミングでそんなことを打ち明けたのか、僕は大人になった今でもわからない。だけどもし自分がトマリの立場だったらと考えるとある程度の想像はつくんだ。
諦めの滲んだ表情、塩辛そうな涙、きっと罪悪感だったんだろう。こんな自分でも好きでいてくれるか。それを確かめたかったんだろう。
試されていたのだとしても僕は構わなかったと思う。彼女にどれほどずるい一面があったって。
それに僕は彼女を責められる立場じゃない。本名すら名乗ってなかったのだから。
彼女が自分を嘘つきだというのなら、それはお互い様。大体、ちょっとした屁理屈を嘘にカウントするとか根が正直であるからこそじゃないか。
あのときは幼くてまだわからないことも多かったけど、彼女に笑っていてほしいという気持ちは当時からずっとずっと変わらない。
ずっと、ずっと、本当は今でも願っているんだよ。
現在、僕の寝室にある青色のカーテンは夕暮れ時になると赤みが混じって青紫っぽくなる。それを見る度に妙に切ない気持ちへ傾くのは、きっと無意識のうちにあの藤棚を思い出していたからなんだろうと最近気付いた。
今日は帰りが遅いから目にすることもないだろうけど、この感傷的な気持ちがそう簡単に落ち着くとは思えない。
着替えを終えてベッドの上も整えたけど、正直まだダニーのいるリビングに行く気にはなれない。仕事に出る時間まででいい、今は一人になりたい。
ああ、いっそ早めに出かけてしまえばいいか。それで何処かをぶらぶら歩いたりなんかして……。
ダニーももうすぐ職場に向かうだろうからちょうどいい。変に避けてるみたいにならなくて済むし。
そうと決まれば早いものだった。洗顔と歯磨きだけ済ませてまた戻ってくる。僕は寝室で身支度を完結させるタイプだから、必要なものも全部ここに揃っているんだ。
小さなテーブルに鏡を立て、慣れた手つきでメイクをしていく。眉を整えるアイブロウは自分なりの定番があるけど、アイメイクはその日の気分でチョイスする。今日はラベンダーのアイシャドウの上にシルバーグレーのアイライナーを目尻中心に引いてみた。ブルーベースの肌を綺麗に見せてくれるお気に入りの組み合わせ。
メイク道具一式を片付けた後、一度胸に手を当て、気持ちを鎮まったのを確かめてから再び寝室のドアを開けた。
「ダニー、さっきはごめん。キツイ言い方をしてしまって」
「カケル……」
一応彼に謝っておくことにした。後味悪いのは嫌っていう自分勝手な理由でだ。
いつもは何かしら音を欲しがるダニーなのにリビングのテレビは消えたまま。すでにオフィスカジュアルの装いへと着替えているけれど、特に何をするでもなくただソファに座っていたようだ。
彼は素早く立ち上がったものの、何故か目を丸くしたまま動かない。半開きの唇は小さく震え、頬も熱っぽく見える。もしかして体調が悪かったのか? さすがに心配になってきた。
ダニー。そう呼びかけながら近くで確かめようと僕は彼に近付いた。おのずと指先が宙を彷徨う。あと少しで触れそうなときだった。
「ねぇ、ダニー、だいじょう……」
「お前、本当に綺麗になったな」
ぴたり、と動きが止まってしまった。びっくりしたんだ。
やっぱり今日のダニーはなんか変。従兄弟同士なのにどうして事情を話してくれないの。
悔しく思って唇を噛んだ。でもダニーはそんな僕にはお構いなしに、少し悲しげな笑みを浮かべて言うんだ。
「俺の価値観を変えてくれたのはお前だ。男らしさばかりが素晴らしい訳じゃないって、今ならわかる。髪を伸ばしたりメイクをしたり、それはお前にとって本当に大切なことなんだと思うし、俺もその気持ちを大切にしてやりたい」
彼の大きな手がこちらに伸びてきて、僕の頭に軽く触れた。髪が崩れない程度に優しく撫でてくれている。瞬時に込み上げてくるものがあった。
何、これ。なんだか小さい頃みたいでムズムズする。泣きたくなる。やめて。
意味もわからないのに胸が苦しくなった。
温かい手がゆっくり離れていくと、もしこのままダニーに会えなくなったらどうしようという焦りさえ生まれた。
「もっと早くお前の理解者になりたかった。でももう遅いよな」
「そんなことないよ! ダニー、どうして……っ」
「俺は仕事に行ってくる。お前も気を付けて出かけるんだぞ」
「待って、ダニー! ねぇ!」
喧嘩ですらないのに何故こんな必死になってしまうんだろう。そのくせ身体は思うように動かない。
でも考えてみれば当然だ。僕はダニーから何か感じ取っている。なのに受け止める覚悟が足りない。知るのが怖いんだ。
そんな臆病さに足を引っ張られているんだ。そう気付く頃にちょうど玄関の扉が閉まる音がした。
いってらっしゃい。気を付けてね。
ただそれだけの言葉も言えなかった。一方的な謝罪よりかこっちの方がよほど必要だっただろうに。
がらんと静まり返った部屋に一人きり。
今までは、そう、何年もそれが普通だったのにこの心細さはなんだろう。
ついさっきまで早めに出かける気でいたのに、今じゃ一転して脱力感に飲まれてる。そしてほんの少しホッとしている。
やはり僕には逃げる癖があるんだと実感した。だからこそ今日はこのままでいたくはなくて、両頬をパンと叩いて気合いを入れると、そのまま荷物の用意と戸締りを済ませ玄関へと向かった。
真冬みたいな曇り空。冷たい風が吹きつける中。
ダニーはもう来てくれないかも知れない。先ほどの焦りは予感へと変化していた。
―― 俺の価値観を変えてくれたのはお前だ――
さっき聞いた言葉が脳裏に蘇る。
言われてみればそうかも知れないんだ。僕がアパレルの道に進み始めたくらいの頃に、ダニーは髪を結べるほどの長さまで伸ばしていた。お洒落の傾向も変わったな。幼い頃から逞しい男を目指していたのに、スレンダーな体型を活かした服装をよくするようになった。
僕のこと、綺麗だと言ってくれた。
でもダニーは本来、あんな褒め言葉を簡単には言わないんだよ。
簡単じゃなかったってことは……どうなるの? これから。
僕たちはもう元の従兄弟同士には戻れないの?
真っ直ぐ歩くのが難しいほど身体中が震える。いっそその場に崩れて泣きじゃくりたい。
ううん、もう内心ではそんな状態だ。
大切に築いてきた関係が変わってしまうこと、もしかしたら終わってしまうかも知れないことが怖くてたまらない。
それでも僕は彼女を想うことをやめられはしないんだよ。
駄目だ、駄目だ。
これまでも自分に言い聞かせるほど切なくなった。
僕は知ってる。例え自分の人生であっても主人公として生きる人間とそうでない人間がいることを。そして前者は大抵、ほんの少しの我儘を抑えきれなかったために主人公となっているんだ。
生きていく上で必要なものかも知れないんだ、我儘は。でもその道を選ぶのは勇気が要る。こんな臆病な僕ではいずれ心が折れるのが目に見えてる。
ましてや今回は誰の気持ちを犠牲にするかわかっているんだ。
だから……!
「ごめん……っ」
辿り着いた人気の少ない公園。池の前の手すりに突っ伏して僕はやっと涙を流せた。必死に声を押し殺して。
幼い頃、何故ダニーが僕にあんな嘘をついたのかわかってしまったんだ。
「想うだけだから。いずれは諦めるし、これ以上誰の気持ちも犠牲にしたくはないから。今だけは……許して」
僕がタイトルとなったストーリーなんて要らない。だけど彼女をタイトルとするならばそれは準主人公として生きるようなものだ。
そう言い切れるくらいには強く、深く、実に面倒くさい愛情を持っている。救いようのない馬鹿だという自覚もある。
僕が無害な脇役になれるそのときまで、記憶の中を旅する時間を下さい。
僕はそっと瞼を閉じる。藤棚の下で泣いている過去のトマリに今は寄り添っていたかった。




