52.君が受け入れてくれたから(☆)
トマリと知り合った日の夜はなかなか眠れなかった。日本人の女の子なら旅館に着くまでの間に何人か見かけているのに、こんなにも強く惹かれたのは何故だろう。不思議で仕方なかった。
背丈が近かったり、同じ癖毛だったり、同じ誕生日だったり……見つけた共通点の全てが彼女との運命と思えてならないくらい僕は舞い上がっていた。
これは旅行。いずれはここを去らなくてはいけないという根本的なことを忘れるくらいにだ。
そうやって結果的に夜更かしになってしまったんだけど、翌朝もちゃんと早く起きられたのはきっと気が張っていたからだろう。
今思うとトマリは聡明な子だった。
待ち合わせの時間は彼女が決めてくれたんだけど、僕たち宿泊客が朝食を終えて一息ついてちょうど良いくらいの時間になっていた。
伯父さんと伯母さんに事情を説明したら、自分たちかもしくはその子のご家族が一緒ならという条件つきで承諾してくれた。「聞いてみる」と答える僕を二人が穏やかな表情で見つめていた。内向的な僕に友達ができたことが嬉しかったのかも知れない。
とは言え、やはり僕くらいの年齢じゃ心配されてしまうみたいだ。ダニーと同い年だったら信頼度も違ったのかな。悩みつつもなんとか身支度を終えた僕は、急ぎ足で旅館の正面玄関まで向かった。
当然そこにはあの愛らしい彼女が待っててくれてはいたんだけど……
「おはよう、ダニエル」
「お、おはよう、トマリ」
「ノートも持ってきてくれたのだな。藤棚を見に行く途中でそれを使うから失くさないように気をつけてほしい」
「う、うん。わかった! あの、それでトマリ……」
「なんだ?」
「その人は……誰?」
僕はビクビクしながら訊いた。
だってトマリの後ろに立ってる背の高い少年はなんだか大人びた顔立ち、その上やたら眼光が鋭かったんだ。
後から思うとあれは僕に対してだからだったのかも知れないけど。
トマリはちら、と後ろを見てから答えた。ちょっと気怠い表情だ。
「私の兄、りんたろうだ」
「りんたろう……えっ、お兄さん!?」
「そうだ。小さい子ども二人だけで行動するのは危ないからと着いてきたのだ。心配性なのだよ。この辺は私だって歩き慣れているし、顔見知りの大人も多いというのに」
僕は恐る恐る彼を見上げた。りんたろうさんはなんだか面白くなさそうにフン、と鼻を鳴らしてから言う。
「相変わらず生意気な妹だな。友達ができたなんていうから詳しく聞いてみりゃ男かよ。ガキのくせに色気づきやがって」
うん、やっぱりそれが気に入らなかったんだと思う。
りんたろうさん本人はバレてないつもりなんだろうけど、妹が大切で仕方ないのが幼い僕にも伝わってた。
トマリはギスギスした空気に気付いているのかいないのか、涼しい顔をしてこんなことを言う。
「兄貴もダニエルの友達になってくれないか。そしてそのノートにメッセージを書いてほしい」
「はぁ!? なんで俺が」
「頼む、兄貴」
「…………っ、しょうがねぇな」
りんたろうさんは最初しぶしぶといった様子だったけど、僕の顔を見て少しだけ笑みを浮かべた。大きな手をこちらに出して「貸せ」と言う。
「お、お願いします」
「いいよ。適当に書くだけだからな」
僕から受け取ったノートにペンを走らせる。
ぶっきらぼうな言い方の割に字はとても綺麗だった。
「ほらよ」
「ありがとうございます! えっと……ダニエルくんへ。妹がお前を気に入っているから俺も友達になってやる。たくさんの思い出を作って……」
「おい! 音読するなよ!」
「あっ、ごめんなさい。僕、日本語にあまり慣れてないからちゃんと読めてるか気になって……」
「どれどれ。うん、大丈夫だダニエル。それで合っているぞ」
「……まぁ、別にいいけどよ。それ読んだらさっさと行くぞ」
お兄さんの名前、『凛太郎』と書くのはこのとき知った。当時の僕にとっては難しい字に見えたけど、根が優しい人だとわかってしまったからなのか今でも印象に残ってる。
「トマリの名前にも漢字、あるの?」
「いや、私はカタカナでトマリだ」
「えっ、トマリも!?」
「ああ。ダニエルも日本語で書くとカタカナになるだろうから一緒だな」
「あ……うん。そうだね、もちろんそういう意味だよ」
うっかり本名の方で考えてしまった。バレなくて良かったと安堵しているはずなのに胸がチクリと痛んだ。
どうして僕は『ダニエル』と名乗ってしまったんだろう。『カケル』という名前があるのに、大好きな子からそう呼んでもらえない。
でも今更本当のことを言ったら?
嘘つきと言われてしまうかも知れない。嫌われてしまうかも知れない。そう思うと怖くて打ち明けられなかった。
メッセージを読み終わった後、三人で僕の宿泊してる部屋へ挨拶に行った。偶然とはいえ凛太郎さんが来てくれたのは凄く助かる。おそらくダニーの歳に近いだろうから。
本名がバレるんじゃないかという心配もあったけど、僕以外のみんなはお互いの国の言葉がわからないから多分大丈夫だと思ったんだ。僕が通訳になればいい。実際何も疑問に思われることはなく、最終的には快く送り出してもらえた。
そしていよいよ僕たちは街中へと繰り出していく。
風情とはあのような景色ことを言うんだろう。子ども心にもちゃんと響いていた。
温泉街の後ろにはいくつもの山が連なっていた。トマリはその方向を指差して「もう少し早く来ていれば綺麗な桜が見れた」と言った。今度は純度の高い川を指差す。「ここに桜の花びらがいっぱい浮かんでピンク色の川ができる」と説明した。「花筏だな」と凛太郎さんが補足した。それはどんなに美しいんだろう。興味が湧いた僕は帰国したら絶対に調べてみようと思った。
一番最初に立ち寄ったのは和菓子屋だった。年季の漂う店内から現れたのは僕のお母さんよりちょっと若そうな女の人。
「トマリちゃんに凛太郎くんじゃない! そうか、今日は休日だものね。この仕事してると曜日の感覚がなくなってきちゃって困るわ。特に今はゴールデンウィーク期間だから普段の土日以上に忙しくって」
「うす。お忙しいところすみません」
「こんにちは」
「こ、こんにちはっ!」
「まぁ、その子はだぁれ? 可愛い女の子ねぇ」
「あの……僕、男です。名前はダニエルといいます」
「あらあらごめんなさい! ダニエルくんね。旅行で来ているのかしら? それともトマリちゃんのお友達?」
ちょっと質問された程度だ。それでも当時の僕はいっぱいいっぱいだった。
お店からはまた他の女の人が数人出てきて僕たちの方へ近付いてくる。臆病な僕の緊張を高めるには充分な状況だった。
そんなときトマリが僕の前に立って言ったんだ。
「ダニエルはこの国で友達になってくれる人を探している」
そしてちらりと僕の方を振り返る。
数秒くらいぽかんとしてしまったけれど、やがて意味がわかった。僕は強く頷くと和菓子屋の女の人たちを見渡すようにしながらお願いした。
「お姉さんたち、良かったら僕と友達になって下さい!!」
『まぁ〜〜!!』
彼女たちは一斉に頬を染め甘ったるい声を上げた後、「いいわよ」「もちろんよ」と口々に言いながら僕の目線に合わせてしゃがんだ。ノートにメッセージを書いてほしいという頼みも快く受けてくれた。
順番にメッセージを書いてもらっている間、僕はその人数を数えていた。
一人、二人、三人……この調子だと五人は書いてくれる!
助かる……けど。
これ、いいの? トマリ。僕の知ってる友達のつくり方とはだいぶ違う気がするんだけど。
でもトマリは実に整ったすまし顔だ。凛太郎さんは……何を考えてるんだろう。基本ずっと無表情だから気持ちを読むのが難しい。
和菓子屋の次は土産物の店に行った。その次は民宿、その次は飲食店。全部同じ方法で、凛太郎さんのと合わせて十九人分のメッセージが集まった。
凄い。こんな方法僕じゃ思いつかなかったよ。あとはトマリにメッセージを書いてもらえれば目標達成となる。ダニーも驚くだろうな。
僕は感心していた。でも、感動とは違った。
正直なところ違和感を覚えていた。
なんだかトマリらしくないやり方だと思ったからだ。
「もうすぐで藤棚に着くぞ。あのデカい公園の中にある」
どれくらい経った頃か、そしてどれくらい歩いた頃か。凛太郎さんの声で僕は我に返った。
「わぁ……!」
藤棚というものが見えてくる前から思わず声を上げていた。とてもいい香りが漂ってきたからだ。甘いような、だけど爽やかで品のあるような、当時の僕からするとなんとも新鮮な香りに思えた。
ふわ、と微風がこの頬を撫でたとき、目の前にその光景が広がった。
印象的な香りは一層濃くなり、今度はむせかえりそうなほどだった。でも嫌じゃなかった。優雅な色と形に見惚れていたから。
見上げ過ぎてよろめいた僕をトマリが支えてくれる。香りの効果も相俟って胸が甘く疼いた。
僕も思わず彼女の肩に触れた。後ろに凛太郎さんがいることもこのときはすっかり忘れてしまったよ。
彼女が大人びた笑みを浮かべながら僕を見つめてくれる。
「美しいだろう、ダニエル」
「うん……うん! こんな凄いのは初めて見たよ!」
本当に。これが昨日見たのと同じ種類の花だなんて信じられなかった。咲き方が違うだけで全く別の魅力になる。沢山の花房が軽やかに揺れている様は、いつか家族と見たオーロラを思い出させた。
トマリの目にはどんなふうに見えているんだろう。僕みたいに何か思い浮かべたりしたのかな。そんな好奇心が湧いてくる。
「私はあのピンクに近い色の藤が好きなんだ。ダニエルはどの色が好き?」
「本当だ、あの色も綺麗だね。僕はあっちの青と紫の間みたいな色が好きだなぁ」
「そうか。ではあっちに行ってみよう」
「いいの?」
「もちろんだ」
僕たちは手を繋いでそちらへ駆けていく。もう完全に二人の世界。
「あまり遠くに行くんじゃねぇぞ〜!」
「はーい!」
「わかっている!」
凛太郎さんの声に一応返事はしたけれど、気持ちはまるで別世界に旅立ったみたいにフワフワしていた。
青紫色の花々の下、トマリが「やっぱり」と小さく呟いた。「何が?」そう問いかけると彼女が真剣な眼差しをして答えた。
「この色、ダニエルにとても似合っている」
「えっ、僕に?」
「ああ、こういう色の服もあるだろう。あと身に付けるとしたらなんだろうな……あっ、ネイルとかどうだろうか」
ネイル。それを聞いて僕はドキリとした。驚いてもいた。まるで過去を見透かされたような気分で。
だけどトマリは目を輝かせている。これが本心でなかったらこの世の何もかもが嘘だと言い切れるくらい純度の高い瞳だった。
僕は服の裾をぎゅっと握った。絞り出すようにして言葉に出していた。
「僕……変だって笑われたんだ」
「何がだ」
「姉さんのネイル塗ったら、男なのに変なのって。綺麗な花とかが好きなのも、周りからは男らしくないって思われてるみたい」
「男らしいのはそんなに大切なことなのだろうか」
「えっ……」
短い声さえも途切れる。ぽかんとするだけの僕にトマリは一層力強い眼差しを向けた。
「私は何度も思ったのだ、ダニエルは綺麗だと。好きなものを見ているときのダニエルはとても綺麗な目をしている。私はそんな君が……」
「う、うん」
「そんなダニエルが……好きなんだ」
僕は目の奥が熱くなるのを感じた。
初めてだと思ったんだ、そのままの僕を受け入れてもらえたことが。
そして一番好きな人と想いが通じ合ったことが。
まるで図ったみたいに青紫色の花々が数多の雫となって僕たちの元へ降り注ぐ。この瞬間に起きた何もかもを彼女と僕だけの秘密にしてしまいたい。
昂りはおさまらず胸がパンクしそうなのに、微睡みへと誘われるような感覚があった。これが、恋。僕はもう確信していた。
「じゃあ僕たちお互いに好きなんだね!」
嬉しくて、嬉しくて。思わずはしゃいでしまった。
また一つぽろりと花が零れ落ちてきたかと思った。でもそれは見間違いだとやがて気付く。
「トマリ?」
「ごめんなさい、ダニエル。私はさっきずるいことをした」
「ずるいことって……」
「友達をつくるとき、本当はあんなやり方したくなかった。ダニエルほどの美しさなら断られるはずがないと考えて数を稼いだ。私は屁理屈が得意なのだよ。こうしてやがては嘘つきになっていくんだろう」
透明な雫たちが青紫色の地面に消えていく。
トマリの言い方は時々難しい。でも彼女の胸が軋む音は僕にも伝わっていたんだ。違和感の正体がわかった気がした。




