51.アンバランスな君に惹かれた(☆)
手を差し伸べている自分に気が付いたとき、僕は心底驚いた。人見知りで臆病で、人から声かけてもらうのを待ってばかりだった僕が。信じられない気持ちだった。
やがて顔を上げた彼女が座ったまま真っ直ぐ僕を見つめた。まん丸な形だけど少し気が強そうな目。淡く澄んだ茶色の中に僕が映ってる。ぼんやりそんなことを思った。
僕ほどではないけれど少しウェーブのかかった髪は、栗色で柔らかそうでなんだかお菓子みたい。そんなことまで思った。
「誰?」
「…………っ!」
まるでお人形が喋ったみたいな衝撃。僕は今更怖気付いた。魚みたいに口をぱくぱくするだけだった。
手に何か持っていたというのは幸いだったと言えるかも知れない。おぼつかない日本語。だけどキッカケが作れる分、手ぶらよりかはいくらか心強く思えた。
「はじめまして! ぼっ、僕の名前はカケ……」
言いかけて、思い出した。
そうだ。このノートに書いてもらわなきゃいけない名前は……小さく咳払いしてから言い直す。
「僕の名前は、ダニエルです! 僕と友達になって下さい!」
ノートを彼女の方へ突き出して、やっとの思いで言った。
ちゃんと伝わっただろうか。変な言い回しになってなかっただろうか。不安でドキドキしていると、彼女がぽかんとした顔のまま首を傾げる。
「友達になるのは構わないけど、私の名前は聞かなくていい?」
「あ……っ。聞く。聞きたいです」
「そう。じゃあ教える。私の名前はトマリ。よろしく、ダニエル」
「う、うん! よろしく、トマリ」
今聞いたばかりの名前を何度も頭の中で繰り返した。心に深く刻み込むみたいに、大切に、大切に。
ダニエル。再びそう呼ばれると胸の辺りがまた騒がしくなる。ここでやっと気が付いた。これ、不安でドキドキしてるんじゃない。
そんな、今出会ったばかりなのに。初めての感覚に僕は戸惑っていた。
彼女は相変わらず座ったまま僕の方を不思議そうに見てる。
「ダニエル、そのノートは何?」
「あっ、もし友達になってくれるなら僕へのメッセージと君の名前を書いてほしくて」
「構わない。でも今書くものがない」
「それなら僕が持ってるよ。はい、これ」
「ありがとう。では少しの間、借りる」
ペンを渡すときに指先が軽く触れ合った。ただそれだけのことで僕は細い電流を受けたみたいに身体の芯が痺れるのを感じた。
トマリと名乗った彼女は目の前のノートに何を書くか一生懸命考えている様子だった。僕は立ち尽くしたまま見惚れるばかり。
やがて彼女がうぅと小さく唸り、パタンとノートを閉じた。そして僕に言った。
「ダニエル、ごめんなさい。私はまだ君のことをよく知らない。何を書けばいいのかわからないのだ」
「あっ……そ、そうだよね。僕の方こそごめんなさい。無理なことを言ってしまったね」
慌ててノートを受け取ろうとした。そこで思いがけない言葉が彼女から届いた。
「でもダニエルとは友達になりたい。ダニエルのことを知りたい。だからこれから教えてほしい」
「…………っ!」
「メッセージはその後に書いてもいい?」
「も、もちろん!」
彼女は表情こそ乏しいけれど眼差しが真剣だった。僕の鼓動は落ち着かない。
でも自分のこと、知りたいと言ってもらえて素直に嬉しかった。
ノートを僕に返した後、彼女が立ち上がろうとしているのがわかった。険しく眉を寄せている。長時間座り過ぎて身体が痛くなったのかな。
「立てる?」と言って僕は再び手を差し伸べたんだけど、あることを思い出して固まった。
さっき指先が触れただけでもあんなビリビリきたのに。手を繋いだりしたら僕は一体どうなってしまうんだろうと恐れた。
知りたいような、知りたくないような……複雑な気持ち。
だけどそんなとき、トマリ、君が時を動かしたんだよ。
「それにしてもダニエル、どうして君はここにいるのだ?」
「ここって……そういえば、ここは何処?」
「この旅館で働いている人たちの休憩場所だ。このままいたらきっと叱られる」
「えっ! そうなんだ。ごめんなさい、僕知らなくて……あれ、でもトマリはなんでここにいるの?」
「私は……」
可憐な唇が更なる事実を紡ぐ気配に息を飲んだ。
この手をきゅっと握って立ち上がった彼女が切なげに微笑んだ瞬間、それはきっとこの先も忘れられないものになると予感したくらいだった。
「私は、この旅館の娘。桂木トマリだ」
「えぇ!? 社長の娘ってこと?」
「当たらずといえども遠からずだ。まぁそれはいい。行こう、ダニエル。二人きりになれる場所は他にもある」
今度は僕が手を引かれリードされる番。風を切って元来た細い廊下を駆け抜けていく。
膝丈のワンピースの裾が軽やかに靡いてる。七分丈のパフスリーブや生成りの色がよく似合っていると今更思った。
春風の化身のような彼女はそうやって、非力な花びらと化した僕を呆気なく攫ったんだ。
結局、旅館のどのあたりまで走ったのかはよくわからないんだけど、気がついたら大きな窓のついた廊下の途中で僕らは立ち止まっていた。横長のベンチみたいな椅子が置いてある。そこに座ろうと彼女は言った。
椅子の前に立ったまま僕はもう一度窓の外を見た。どうしても気になるものがあったんだ。
「トマリ、あれはなんていう花?」
「中庭の花か。あれは藤の花という」
「フジ?」
「そう。藤」
「とても綺麗だね。どこの国にも咲いてるのかな。僕は初めて見たよ」
「ダニエルは花が好きなのか」
問われて僕は黙り込んだ。
夜空の雫のような薄紫色の花は実に幻想的で美しかったけれど、そう思っていることを知られちゃいけないと思ったんだ。僕は男だから。首を縦に振ったら変なんだって。
でも先に椅子に座ったマイペースな彼女は、目を輝かせながら僕を見たんだ。そして更に魅力的な提案をしてくれた。
「藤棚というものが近くにあるんだ。ダニエルは是非それを見てみるといい」
「フジダナ?」
「そうだ。花が好きならきっと気に入る。その藤の花が上からシャワーみたいに幾つも幾つも! 降ってきそうなほど沢山垂れ下がっているのだよ! 薄紫だけじゃない。青に近い紫もあるしピンクに近いもの、白もある。ああ、それがいい。私はダニエルをそこへ連れて行ってあげたい」
「僕……行ってみたい!」
「そうか。では明日行こう。今日は遅いから親たちに怒られてしまうだろう」
「そうだね。何処で待ち合わせしようか」
「ここの正面玄関の場所はわかるか?」
「大丈夫だと思う。伯父さんと伯母さんに聞いてみるよ」
こうして僕たちは初めての約束をした。
トマリは「やった」とか「楽しみ」とか全く言わなかったけど、椅子から浮いた足をしきりにぶらぶらさせている仕草で気持ちは容易にわかった。僕はそれを見てこっそり笑っていた。
その後僕も彼女の隣に座った。彼女は中庭に咲いている他の花の名前も教えてくれたんだっけ。その話し方はとても生き生きしていた。
「そうだ、ダニエルのことを教えてほしい」
「うん、いいよ。なんでも聞いて」
「ダニエルは今何歳なのだ? 私より上に見えるのだが」
「えっ本当? 僕、背低いからいつも下に見られるんだけど。いま九歳だよ。トマリは?」
「私は七歳。やっぱり私の方が年下だったな。同級生たちのほとんどは今年八歳になるが、私はもっと遅くて来年の二月にならないと誕生日が来ないのだよ」
「えっ、二月? 僕も同じ! ねぇ、何日生まれ?」
「ダニエルも教えて」
なんだが息が合ってきた僕たちは意図せず同時に口を開いた。
『二十日!』
声と響きが重なったとき、彼女も僕も大きく目を見開いた。
「え! 同じなのか? 二月二十日? ダニエルも」
「うん! 同じ! 凄いねトマリ」
「凄い。このようなことがあるのだな」
「きっと運命だよ。僕、君のことが好きだもん」
ハッと僕は息を飲んだ。目を丸くしている彼女の前、確実に顔面の色が変わっただろうというくらい熱が込み上げる。
今日の僕はどうかしてる。調子に乗り過ぎてる。でもどうしよう、上手くコントロール出来る自信がない、もう遅いけど。
いたたまれない気持ちからなのか、僕は落ち着きなく服の裾を引っ張った。
――私も。
その声を、最初は聞き間違いかと思った。
でもトマリは確かにあの真剣な目をしていたんだ。
「私も、ダニエルのことを好きになってみたい」
「トマリ……」
「いいだろうか」
「もちろんだよ。嬉しい」
僕に合わせて「好き」と言い切らないところに彼女の正直さを感じてますます好きになったんだ。我ながら単純だとは思うけどさ。
お風呂上がりと思われるお客さんが二人、並んで座っている僕たちを見て「あら可愛い」と言った。普段ならちょっと恥ずかしく思ったところだろうけど、トマリと一緒にいると気にならなかった。
「ところでダニエル。友達を作るのに何故そのノートが必要だったのだ? 私はノートなどなくても君と仲良くなっていたと思うが」
「あっ……これは、えっとね、ダニーが……あっいや! 僕が! 地元の友達と約束してきちゃって。日本で友達二十人作ってその全員からメッセージ書いてもらってくるって」
「二十人。それは大変だな」
「はは、馬鹿だよね」
「でもダニエルの友達になってくれそうな人ならいるよ。二十人くらいならなんとかなりそうだ」
「えっ! 本当!? トマリって友達多いんだね」
驚いた僕が身を乗り出すと彼女はふい、と顔を背けた。しばらくの間、うつむいていた。
何か変なことを言ってしまったか。心配になって彼女の名を呼ぶと、乾いた声と悲しそうな笑みが返ってくる。
「私の友達ではない。私に友達など……いる訳がないじゃないか」
その表情の意味、僕はわからない。
こんなに魅力的なのに。そうとしか思えない。
気が付いたら両手を強く握り締めていた。それくらいしかできない。
ただ伝えたい思いは真っ直ぐ言葉にできたと思う。
「僕がいるじゃないか」
「ダニエル……」
「これからもずっと、ずっと、トマリは僕の大切な人だよ」
彼女は不思議な女の子だった。僕をいとも簡単に正直にさせてしまった。
皮肉な話かも知れないけれど、今思うと、大人っぽかったり子どもらしかったり、素直だったり卑屈だったり、そんなアンバランスさこそが僕を強く惹きつけたんだろう。




