49.本当は何があったの(☆)
情熱の終わりは何処なんだろう。
二度寝した記憶はあるけれど今はどちら側にいるのかわからない。そんな白く霞んだ微睡みの中で僕はどうしようもないことを考えていた。
いや、願っていたんだ、きっと。
彼女との仲もいつか終わりが来る。それはわかってる。僕はすでに諦めているから、後は熱が冷めるのを待つだけなんだ。
ただそれがいつになるか見当もつかない。
だけど……だけど。
僕はそもそも終わらせたいの?
一度目を覚ましたときよりも遥かに気持ちがいいこの微睡みみたいに。柔らかな春風に包まれているようなこの感覚みたいに。
出来ればもう少しだけ。
もう少しだけ……続いてほしいなんて……
本格的な眠りに落ちる寸前でパッと目を見開いた。仰向けのまま、グレーの瞳と視線がぶつかり合う。それも至近距離で。
逆光になった白い肌。陰影の際立つ彫刻みたいな目鼻立ち。そしてなんだか物憂げな表情だ。
暖簾のように垂れ下がるアッシュブロンドのストレートヘアがこの頬をくすぐったとき、僕は反射的に飛び退いた。ちょっと息が上がった。
「びっくりした! 何してるのダニー。こんな近くに寄ってきて」
「いや、観察してただけ。睫毛長いなぁって」
「それの何が面白いの」
「カケルは見ていて飽きないよ」
「そりゃどうも」
朝からなんなんだ。意味不明なお世辞とか。
ベッドの上の僕は姿勢を正す。頭の中の波紋が止むと一つの疑問がぷかりと浮上した。
「ねぇダニー。なんで僕の寝室にいるの」
「へ?」
「へ? じゃないよ! ダニーが泊まってくときはリビング貸してるでしょう。その為に客用布団も出しておいたのに。何処で寝てたのさ」
「隣」
「嘘、いつの間に」
「カケルが布団はだけて寝てたから、風邪引かないように直してやったんだろ〜」
「それはありがとう、だけどさ、隣にいる必要はなくない?」
「いいじゃねぇか。薄情な奴だな」
情の問題なのか。さっきから会話が噛み合ってないような気がする。
布団の寝心地が悪かったんなら正直に言ってくれればいいのにな。僕はどっちで寝ても構わないんだからさ。
不可解だと思いながらも僕はベッドから降り立ちパジャマの前ボタンを開け始めた。
「お前……なんでそっちは抵抗ないんだよ」
「何、そっちって」
「……っ、なんでもねぇよ。あと隣で寝てたってのは冗談。真に受けんなよな」
「はぁ」
そっぽを向くダニーの後ろで僕は首を傾げる。一つハッキリしているのは彼が不機嫌だということだ。冗談のくだりなんてもはやただの八つ当たり。
昨夜なんかあったっけと思い返すけれど、トマリと話していたこと以外思い出せない。参ったな。
ちら、とダニーの方を窺う。まだこちらに背を向けたままだ。
まぁいいや。ほっとこう。そう切り替えるのに数秒もかからなかった。
正直、好きな人の機嫌を損ねることに比べたら圧倒的にどうでもいい。
枕元のテーブルに置いといたシュシュで髪を軽く束ねる。脱衣所へ歯を磨きに行こうとしたときだった。
トン、と軽く行く先を封じられる。壁に手を当てたダニーが上から覆いかぶさるようにして僕を見ていた。大して身長変わらないクセに。僕はちょっとイラついた。
「何。忙しいんだけど」
「カケルさ、最近俺に何か隠してない?」
「何かって……」
考える時間は必要だったけど、そう長くはない。思い当たることなら一つあった。
でも僕の方から口にするのは癪だった。それでつい言い返してしまったんだ。
「ダニーこそ、何か隠してない? 僕に」
「は?」
「ねぇ、どうなの。ダニーの場合はうんと昔からの隠し事かも知れないね」
「カケル、お前……」
「僕が気付いてないと思った?」
いつまでも見下ろされてると思うな。小さな反抗心が目を覚ました。その腕を下へどかして彼をしっかりと見つめる。ダニーの喉仏が大きく動いた。
「子どもの頃、ダニーが言ってた。仕事が忙しくてもう日本には行けなそうだ。そう僕たちの親が話してるところを聞いたって。あれは嘘だよね。僕は結局こうして日本に住んでるもの」
今思うと雑な設定だ。だけどあの頃は信じてしまったんだよ。
「知らねぇよ。子どもの頃とは事情が変わったんだろ」
「本当に?」
「ああ……」
話してる途中で切ない気持ちが押し寄せた。身体の中央がぎゅっと縮まるような苦しさだった。
少しの間の後、掠れた声で僕はやっと問いかけた。
「それで僕は旅館の彼女と連絡先交換するのも諦めたのに……?」
「カケル」
「もう会えない人と繋がっていてもつらいだけだって、ダニーが言ったんだよ。でも、今、僕は……」
「ああ、ちくしょう。どうも最近のお前といると調子狂うと思ったんだ。なんか青くさいっていうか。誰に感化されたのかと思ったらやっぱりそういうことか」
やっぱりと思ったのは僕もだ。
昨夜、着信の画面を見てダニーは確信したんだろう。
――おいカケル、その女って……――
僕がスマホを受け取ったとき、ダニーはこう言った。
トマリからの着信はメッセージアプリのものだった。でもアイコンは顔写真などではなく幾何学模様みたいな絵。『トマリ』という名前だけでもおそらく女性とは断定できない。
じゃあ何故わかったか。その名前に見覚えがあったからだ。
はぁ、とダニーは気怠いため息をつく。僕からゆっくり離れると小さな声で呟いた。
「俺は正直過ぎる人間にはなりたくねぇ。子どもの頃の罪の一つも守ってやれねぇからな」
その横顔は寂しげだ。今朝、寝ている僕を見つめていた表情に少し似てる。どうしてだろう。
彼はおもむろにドアの方へ歩いていく。僕は声だけで引き止めようとした。
「ダニー、何故嘘ついたのかは教えてくれないの?」
「そのうち機会があったらな。俺だけの問題じゃないし」
「僕は別に怒っているんじゃなくて本当のことが知りたいんだ」
「今は言えねぇ」
「ダニー……」
「ごめんな、カケル。俺のせいで」
部屋を出る間際、彼は薄く微笑んでいた。
小さく唇を噛み締める。僕はダニーを嘘つきなんて思ってない。嘘をつかなきゃならないほどの事情があったんだと思ってる。
でも上手く伝えられなかった。自分の気持ちばかりが先走って。
今朝の日差しは柔らかくて、まだ閉じたままの薄いブルーのカーテンをほんのり透かす。朝なのにオーロラを見ているような不思議な気分。子どもの頃、実際に旅行で見に行ったりしたっけ。
懐かしさに触れると何故こうも感傷的な気分に傾くんだろう。
ダニーは僕といると調子が狂うって言ってたけど、僕もダニーが近くにいる影響は大きかったと思うよ。閉じておいた引き出しが幾つも開かれて、あどけない香りの宝物たちが隙間からこちらを見ているんだ。
大人に戻る自信がなくなるくらい、それらは眩しくて、愛おしい。
そんな中で何よりも輝いているのは、あの日『休憩室』で出会った君だ。
パジャマの上がはらりと足元まで滑り落ちた。でもそのままにしておいた。
今日は半休。仕事が午後からなのをいいことに僕は無防備な姿のまま窓際に佇む。自然と蘇った光景を大事に、大事に、封じ込めるみたいに、僕はそっと瞼を閉じた。




