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tomari〜私の時計は進まない〜  作者: 七瀬渚
第3章/願いに気付いて(Kakeru Chiaki)
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47.終わらせたくないのはどっちなの


 トマリは今、何を思って日々を過ごしているんだろう。気になって仕方がない。


 ……とは言え、さすがに四六時中彼女のことを考えている訳ではない。僕にだって社会人としての顔があるんだ。


 担当する店舗が変わったり新ブランドも任されて、息切れしそうなほど多忙な日が続いているけれど、ちゃんと自分を律してマネージャーとしての役割を果たしているよ。店長たちの相談に乗れるくらいの余裕は持っておかなきゃ。出勤したら余計なことなど一切考えない。もちろん。当然のことだ。


 僕は休憩室のテーブルにて、スマホを見ては伏せ、見ては伏せを繰り返していた。

 斜め向かい側から怪訝な視線を感じて手を止めた。他店の従業員と思われるその人に軽く頭を下げて詫びる。気まずい。


 いや、これはね。今日はたまたま腕時計を忘れてきてしまったから時間を確認したいのであって深い意味なんかないんだよ、もちろん。当然でしょ。

 僕はもういい大人なんだから。後先考えず好きな子を連れて逃げ出したあの頃とは違うんだ。


 そう何処かに言い訳したはずなのに僕の手は意思に反するようにして再びスマホの方へ伸びた。しまった、と気付いてそのまま動けなくなった。


 それから数分ほどが経ち。

 休憩時間が終わったのか、斜め向かいの人が荷物を持って席を立った。

 辺りを見渡すといつの間にか人が減っている。だからなのか思わず気が抜けてしまった。情けない声が小さく漏れる。


「トマリぃ……いつ連絡くれるの〜……?」


 スマホを持ったまま突っ伏した。

 だってしょうがないじゃない。連絡先教えてからもう半月経とうとしてるんだよ。もうすぐ五月だよ。その間ずっと音沙汰なしなんて。そんなの……


 そんなの気にしてるくせに何がいい大人だ。

 もう認めます。僕はダメマネージャーです。


 でも僕から行動を起こしていいのか判断に迷う。まだあの彼と続いているのかわからないのもあった。



 今日は新ブランドの店舗が入っているファッションビルに来ている。オープンした後のことをいろいろ確認する為だった。売上はもちろん、商品動向やスタッフたちが円満にやれているかどうかも店長から聞かなきゃならない。


 そうして大部分の仕事は終えて休憩に入ったんだけど、何せここはトマリと二度目の再会を果たしたビルでもある。今は思い出したくなかったのに、正直複雑な気持ちになってしまった。

 スタッフたちの前で平静を装う自信ならあるよ。でも一人になるとすぐこれだ。まだまだだな、僕。


 相原店長みたいに親しい人がいないのも心細いんだけど、そんなこと言ってられないな。無理矢理にでも気持ちを切り替えなきゃ。冷静に考えれば時計は壁にもついてるじゃないか。

 僕は強く頷くとスマホをバッグの中に放り込んだ。その直後。



――千秋さん。



 ふと届いた声に胸が高鳴った。抑揚はあまりないけれど、何処か小動物を彷彿とさせるあどけない声。

 トクン、トクン、トクン、と甘ったるい響きが僕の中で連なる。


 参ったな、幻聴に動悸だなんて。きっと相当疲れているんだ。そういえば寝不足気味だし。

 あり得ない現象に対して僕は冷静だったつもりだ。


 しかし顔を上げてみた僕の前に新たな現象が一気に迫り来る。



「千秋さん、お待たせしました。以前お借りしていたストールを返しに来ました」



「ト……トマリ……?」



 春は……

 春はもう終わるのに。


 円らな目、柔らかい頬、波打つ長い髪。それらの要素が織りなすふわふわとした綿菓子みたいな雰囲気は、辺りの空気を桜色に染めてしまう。


 彼女は至って淡々と話しているのに、まるで猫じゃらしでくすぐるみたいにして全身に届く。思わず震えてしまうほどだった。


「千秋さん、大丈夫ですか。体調でも悪いんですか?」


「い、いや……そういう訳では……」


 彼女がぐっとこちらへ顔を寄せてくる。

 それ、花火の夜にも言われた。そして彼女がそう訊くときは僕の情緒がどうにかなってるときだともうわかっていた。



 現実味の湧かない時間から解放される頃、僕は凄く根本的な問題を思い出して声を上げた。


「待って、トマリなんで休憩室ここにいるの!?」


「なんでって……」


 ぽかんとしている彼女を改めて見つめた。自分の顔が赤くなってしまったとしても仕方ないと割り切った。


 一緒に働いていた頃に比べるとストリート寄りなテイストの服。クロップド丈の薄手ニットにメンズライクなシルエットのミリタリーパンツがよく似合ってる。

 ん、待って。ネームプレートがついてる……? そう気付いたなら今度は僕がぽかんとする番だった。



「私もここのテナントの従業員なので」


「ジュウギョウイン……?」



 生まれて初めて聞いた言葉みたいにぎこちなく復唱してしまった。

 トマリはそんな僕に首を傾げる。ふわ、と髪が軽やかに踊った。


「前に会ったときに言ってませんでしたっけ、私」


「聞いてないよ」


「ああ、そういえばあの時点ではまだ内定だったから言うはずがないんですよね。忘れてました。びっくりさせてすみません」


「いや、大丈夫。大丈夫だよ」


 全然大丈夫じゃない。トマリがここの従業員だって? 僕だってこれから頻繁に来る場所なのに。

 予想外ではあるけど、思えば何度も経験した感情だった。嬉しいんだか苦しいんだかわからない気持ち。


 彼女が持っていた紙袋をスッとこちらへ差し出す。グレーのストールが丁寧に納められていた。


「あのときは本当にありがとうございました。おかげで風邪を引かずに済みました。このストール、クリーニングに出そうかとも考えたんですけど、一応千秋さんに聞いてからの方がいいかと思いまして」


「気にしないで。そのままでいい」


「そう、ですか?」


「うん。わざわざありがとう」


 声が詰まる。うつむきながらやっと受け取った。これを彼女が身にまとっていたこと、今更意識してしまうなんて馬鹿みたい。

 このストールはしばらく封印だ。心の平穏の為にも。そう決めた。



 僕はぬるま湯みたいな男。熱くも冷たくもない。何事ものらりくらりとかわして掴みどころがない。愛想はあっても本心は見せない。

 ましてや本気で人を想ったりなんかしない。だって興味がないから。


 ドライでアンニュイで無関心で。


 時に自分さえ騙してそんなふうに振る舞ってきた。


 ねぇ、トマリ。君にもそう見えてる? 上手くいってるかな、僕の擬態は。

 それとも不自然に見えてしまってるかな。感情や熱意の定まらない不安定な人間に見えてしまってるかな。


 大して親しくもない人になら何だって話せるのに、大切な相手にほど隠してしまう。いつからこうなったのかはよく覚えていないんだ。

 でも僕自身で選んでいることだから、何か誤解されていても自業自得だよね。わかってる。



「私もちょうど休憩に出るところだったんです。そしたら千秋さんの姿が見えたのでストールを持って戻ってきました。行き違いにならなくて良かったです」


「連絡……してくれても良かったんだよ?」


「今日はスマホを忘れてきてしまって」


「ふふ、何やってるの」


 彼女は小さく苦笑しながら一度向かい側の席に荷物を置こうとした。だけど思い直したようにこちらを見る。遠慮がちな声で言った。


「隣、いいですか」


「う、うん。いいよ」


 彼女がこちら側へ回ってきた。何故そうしたのかはわからない。

 でも並んで座るのはとても懐かしい感覚だった。


「なんだか不思議です。またこうして千秋さんと一緒に休憩しているのは」


「そうだね。僕もだよ」


「仕事大変ですか」


「すっごく大変。トマリは?」


「大変ですよ。またいちからのスタートですからね」


「トマリは頑張り屋さんだから身体もちゃんと大事にしてね」


「実は禁煙したんです」


「え、凄い! それは是非上手くいってほしいなぁ」


 お互いにほとんど顔を見ずに話したりなんかするのも、まるであの頃のようだ。


 思い出したよ。元はと言えば知り合って間もない頃の君を緊張させない為に、僕が隣というポジションを選んでいたんだ。決して特別なことではなかった。君じゃなくてもそうするときはあるから。

 でもいつからか隣にいる意味が変わっていったのは事実かも知れないね。君にとっては何も変わらなかったとしても。


 切なさが込み上げる。だからこそ伝えなきゃいけないこともハッキリしていた。

 ためらう気持ちに抗いながら僕はなんとか口にする。


「あの、トマリ。ストールありがとう」


「はい、それはさっき聞きましたけど」



「そうだね。じゃあ返してもらったことだし、僕の連絡先は消しておいてくれるかな」


「え……?」


「そういう話だったじゃない。トマリはそもそも僕と連絡取る気なんてなかったんだからこれからも必要ないでしょ。こっちも消しておくから安心して。あっ、なんならブロックしてくれてもいいからさ」


「千秋さ……」


「ここで僕を見かけても気を遣って声かけなくていいんだよ。もう上司と部下じゃないんだからさ。トマリだってそう言ってたじゃ……」


 まだ言い終わってなかったけど僕の声は意図せず途切れた。

 顔を見て話していた訳じゃないのに、何故だろう。何か気配を感じ取ったんだ。音も立たず、滴り落ちる。小さく波紋を重ねるような気配。


 おそるおそる隣を見る。返事のない彼女の方を。


「あ、あれ、なんで」


 彼女自身も困惑しているようだった。頬を伝う雫たちを両手で拭いながら。

 僕は凍りつく思いだった。心臓を直接握られているかのように苦しくて、息が詰まって。乾いた唇は空気をむだけ。そんな時間がしばらく続いた。


 やがて強く息を吸い込む瞬間が重なって。

 花火が弾けるみたいに互いの感情が炸裂した。



「ごめんなさい千秋さん、違うんです。これは……っ」


「ごごごごめん!! 違うんだ、これはその……っ!」



 ここでやっと僕たちの視線が絡み合う。

 きつく結んだ唇を震わせる彼女は悲しそうであり悔しそうでもある。

 そんな顔をしないで。こっちがどんな思いで決断したか知りもしないくせに。でも思い返してみると僕もなかなか嫌味な言い方をしている気がする。


 そしてなんとなくわかることがあった。


 何が違うんだ。きっと今、僕たちはお互いにそう思ってる。


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