43.終わりかそれとも始まりか(☆)
連日の激務でだいぶ疲れてはいたが、なんとか初売り当日を迎えることが出来た。
売り場接客担当、レジ担当、呼び込み担当などとすでにそれぞれのポジションについている。それはリニューアルのときの皆の動きを参考に決められたそうだ。
私はやはり在庫の管理が適任と判断され、商品出し担当となった。
体力が乏しいから皆の足を引っ張らないか心配ではあった。忙しいとどんな人でも多少は気が立つから、叱責や嫌味くらい言われても仕方がないと覚悟していた。
むしろそれよりもっと気を付けなければならないことがある。お客様とのトラブルだ。
特に福袋が大量に揃っている初日はレジも長蛇の列となる。念のため床に道を象った印をつけてあるけれど、お客様がしっかり並べているかはスタッフがちゃんと見ていなければならない。気が付くと二列に分かれていたりするからな。そうなると説明が大変だ。
商品の陳列はすぐに乱れる。それも出来るだけ早く直さなければ混乱を招いてしまう。
買うのをやめた商品を戻すとき場所を間違うお客様もいるから、セール品コーナーに新商品が紛れ込んで誤解に繋がるパターンもあるのだ。
在庫もリアルタイムで変動する訳だから、確認ミスや伝え間違いに注意。さっきまで大量にあった在庫がものの数分で完売していることもあるから油断は禁物だ。
その他、商品の入れ忘れ、アクセサリー類の破損など、あらゆるリスクに対しいつも以上に気を配らなければならなかった。それも誰が何処にいるか見えないくらい人がひしめく中でだ。スタッフ同士とはほとんど声だけのやりとりしかできない。
細心の注意が必要だけど気を遣い過ぎても成り立たない。勢いだって命。これがアパレル販売の祭りである。
商品出し担当の私も出来るだけ呼び込みの声を張り上げながら、商品の補充やストック整理に駆け回った。
人員を増やしているためか、休憩室も普段以上に賑わっているように見えた。
特に夕方頃になると放心状態といった表情の人が増えてくる。私も例外ではなかった。
でも充実感は凄い。自分が強く望んだことだから当たり前なのかも知れないけど……
やがて人がいくらか少なくなってきた休憩室。
軽食として用意したコンビニの梅おにぎりに手を伸ばしたときだった。
コト、と向かい側にコーンポタージュの缶が置かれた。私は顔を上げる。
「お疲れ様。これ、良かったらもらって」
「千秋さん……」
彼は一瞬はっと目を見開き、そして何故かきつく結んだ唇を震わせた。
私、何か変なことを言っただろうか。名前しか呼んでないと思うのだが。
首を傾げつつも缶を引き寄せ両手で包み込んでみた。じんわりと伝わってくる熱が気持ち良い。
「ありがとうございます。あったかいですね」
「うん、それに糖分は疲労の回復にいいかなって……思ったんだけど」
「?」
「ご、ごめん、おにぎりには合わないよね」
「ふふ」
思わず口元から息が漏れる。
不意に笑わせてくるのはやめてほしい。その天然っぷりは愛嬌というより必殺技だな、なんて思った。
「トマ……桂木さん、ちょっとだけ隣に座っていい?」
「いいですよ」
「ありがとう。こっちの初売りにも間に合って良かった」
「他の店舗は大丈夫なんですか」
「うん、まぁ心配し始めたらキリがないけど、さっきまでいたところは僕よりがずっとベテランの店長がいる店舗だからきっと大丈夫。こっちは気にせず他の店舗も見てきてあげてって、あちらから言ってくれたんだ」
「凄い頼もしい店長さんですね」
「本当に。僕みたいな不慣れな人間がマネージャーで申し訳ないくらいだよ」
相変わらず謙虚なのだな、あなたは。先を越された社員たちに妬まれるほどの立場だと気付いていないんだろうか。
でもそんな人だから私はこれほど信頼したのだろうとも思う。
今思うと大人っぽいどころか、少年のような純真さのある人に見えてくる。人というのは面白い。そう思わせてくれたのもあなただったな。
私はすでに何かを予感していたのだろうか。妙に感傷に浸っていた。
まるで答え合わせみたいに千秋さんの言葉が続いた。
「でもね、今度は姉妹ブランドの催事を手伝うことになりそうだから、もしかすると来月半ばくらいまでここには来れないかも知れないんだ。結構遠いから」
「そう……なんですか」
「だから今日少しでも立ち寄ることが出来て良かったなって。ここは僕が初めてリニューアルを担当した店舗だから」
「……はい、確かにそうですよね。私もリニューアルして一回目の初売りに出られて良かったです」
ゆっくりと理解した。
予定通りにいけば私は二月上旬には辞めてしまう。つまり千秋さんと話せるのも今日が最後かも知れないんだ。
でもそれは伝えられない。まだ店長にも話していないし、何よりこの人にだけは言ってはいけない気がした。
静かに去るのが一番。
気が付いたらいなくなってた。それくらいあっさりしてた方がいい。
なのに、なのに。
どうしてこんなに身体の奥が震えるんだろう。
とりあえず何か言わなきゃと思っただけなんだ。決して匂わせたつもりではない。
だが上手くいかないものだな。
「私、千秋さんと一緒にお仕事できて良かったです。本当にありがとうございます」
「桂木さん……?」
「えっと、今のうちに言っておきますね。お誕生日おめでとうございます」
「あ、ありがとう。でも僕の誕生日はまだ一ヶ月以上先……」
千秋さんが小さく息を飲んだとき、私は素早く立ち上がった。もつれる手つきでなんとか私物をかき集めバッグの中に突っ込む。
やはりこの人にも“予感”があるのだ。気付く頃にはもう遅い。
「では私は売り場に戻りますので」
「待って、今のはどういう意味で……っ」
「…………」
「トマリ……」
その名で呼ばないでくれ。たまらなく胸が苦しくなる。
数ヶ月前、苗字で呼ばれて寂しく思ったばかりなのになんという矛盾だろう。
私はなかなか振り向けなかった。こういうとき上下関係があるのはつらい。無視して立ち去るなんて訳にいかないから。
最低限の礼儀は守らなくてはならないし、建前だけでも返さなければならないから。
意を決して振り返ると、千秋さんの悲しげな表情が目に飛び込む。ほら、もう何か察してる。だから嫌だったんだ。
しかしそんな彼が私に向けた言葉は意外なものだった。
「僕も伝えておくね。お誕生日おめでとう、トマリ。絶対素敵な一年にしてね。君なら出来るから」
ああ、そうか。
覚えていてくれたのか。私も二月だって。
完全に何か察している言葉。無理に作った微笑み。でも温かくて優しい。
「さようなら」でも「ごめんね」でもない。
そんな形で送り出してもらえると思ってなかったから、私はつい涙が出そうになってしまった。
「ありがとうございます、千秋さん。それじゃあ行ってきます!」
最後は精一杯笑って大きく手を振った。
でも休憩室を出てしばらく行ったところ、廊下の途中で私は堪えきれずに泣いた。何人かの従業員とすれ違ったのはわかったけど構わずに泣いた。
握り締めたままのコーンポタージュの缶。失われていくぬくもりが惜しくて更に力を込めた。
あの人に会えて本当に本当に、良かった。
いずれは忘れなければならないけど、今この瞬間は精一杯感謝する。あの人の幸せな未来を精一杯願う。
そんなふうにして終わる人間関係が本当に存在することを知ったのだ。
寂しくて切ないけれど、今回はなんだかんだと綺麗に職場を去ることができたと思った。詳しい事情を皆は知らないから表向きの話ではあるのだけど。
適当な理由をつけたんだ。体力面で限界を感じたから自分の力を無理なく発揮できる仕事を探したい、とか。
私だとどんな場所に行ったって無理くらいしなきゃ成り立たないとわかっていたんだがな。
相原店長は一瞬勘づいたようだった。
もしあの騒動が原因なら、あなた一人だけが責任を感じる必要なんてないと言ってくれた。
気持ちはありがたかった。こんな私を引き止めようとしてくれるなんて。
しかしもう決めてしまったから仕方ないんだ。
私は優柔不断であるがゆえに、時には0か100かの考え方に頼らなければ状況を変えられないのだよ。
そして退職した翌日。もう完全に気持ちを切り替え過去への未練も捨て去ったと思った頃だった。
千秋さんからあのメッセージが届いたのは。
『夜分に失礼します。桂木さん、突然メッセージを送ってすみません。どうしても一言お礼が言いたかったんだ』
『今まで本当にお疲れ様でした。僕はマネージャーになって一年も経ってないから短い関わりだったけど、桂木さんは三年の勤務だったそうですね。お店のために頑張ってくれて感謝しています』
『桂木さんは自覚がなかったかも知れないけど、僕は沢山助けられてきたと思っています』
『特に売り場作りの際、桂木さんの危機管理能力には感心させられました。僕たちはつい見栄えを気にしてしまいがちだけど、プライスの見せ方が紛らわしくてクレームに繋がらないかとか、この位置に什器があると小さい子がぶつかって怪我しないかとか、安全面にも気を配ってくれたよね。あれを踏まえた上で考えられる人は貴重だったんだよ』
『どんなにみんなが盛り上がって周りが見えづらくなってるときでも、一人立ち止まって冷静に周りを見てくれる桂木さんは本当に頼もしかった』
『キツイことを言われて傷付くこともあったかも知れない。でも僕は、その長所にこれからも自信を持っていてほしいと思っています』
『ごめん、一言どころじゃなくなっちゃったね』
最初はこういった内容だった。
元上司として私を励ましてくれる言葉の数々。お得意のうっかりを見せてくるところまで彼らしかった。懐かしい気持ちでいっぱいになって涙腺が再び緩みそうになったくらいだ。
私は読むのに集中していたからまだ返信はしていなかった。
それなのに最後の方で様子がおかしくなったんだ。
『ここから先は元上司としてではなく、千秋カケルという一人の人間の言葉として受け取ってほしいです』
何故あえて自分の名を強調したのか……
『トマリ、出来るならもう一度、君の声が聞きたい』
何故あえて“声”を希望したのか……私には想像もつかないんだ。
あの人らしくない直球すぎる言葉だと思ったのもある。あんな騒動があった後で、わざわざリスクを冒してくるような行為にも疑問を感じた。
たまらなく心配だったのも本当だ。何か平常心でいられないような出来事があったんじゃないかと。
だけどそれ以上に私の頭を占めたのは、もうこの人に迷惑をかけたくないという思いだった。
なぁ、和希。
……和希?
ああ、眠ってしまったか。そりゃそうだろうな。
これほどの長い回想に一晩で付き合うのは骨も折れるだろう。
明日早速、和希の好きな抹茶のスイーツを奢ることにしようと決めた。
寝ぼけたままの和希をなんとかソファまで連れていく。本当はベッドを貸したいのだが、足元がおぼつかなくて危ないから断念した。
いつかのように布団をそっと彼女にかけてから私は寝室に向かった。
お風呂はすでに済んでいたから後の支度は楽だった。
音が響かないよう、そっと寝室のドアを開ける。
窓際のハンガーラックにかかっているあの人のストールが目に飛び込む。今日思いがけず再会したときに私を優しく包み込んだあのストール。
長い夜で忘れかけていた危険な香りの現実に私を引き戻していく。
この香りの気配を近くに感じながら朝までに過ごさなくてはならないと思うと、むしろここから先の方が長く感じるくらいだ。
出来るだけ意識しないように努めようと思う……けど、出来るだろうか。
布団にくるまってみたけれどなかなか眠れず、結局はあの人に思いを馳せてしまう。
美しい紫のハイライトが入った髪、大胆なメイク、以前よりもオリジナリティを発揮しカリスマ性も増していた。
でも変わらない表情を見せてくれたあなた。
ストールを返すときにもう一度会わなければならない。いや、同じビルに担当するテナントが入っているとなると、もしかしたら今後も……?
私たちはきっとお互いに、近付き過ぎてはいけない相手であることを理解したと思っていました。
なのに砂時計は再びひっくり返されてしまった。もう新しい時を刻んでる。デジタルと違って止める術はない。
そして不思議なことにこれが初めてではないような気がしている。
何故なのでしょうね……千秋さん。




