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tomari〜私の時計は進まない〜  作者: 七瀬渚
第2章/記憶を辿って(Tomari Katsuragi)
35/122

33.安心してしまってごめんなさい


 閉店後のショップというのは実に静かなのだ。

 館内にお客様が残っていないことが確認されると通路側の照明もいくつか落とされる。そのタイミングがまさに今だった。


 シャッターの内側であるこの空間は、薄闇の中でぽうっと小さく灯った蝋燭ろうそくの火みたいになっている、きっと。

 広いと思っていた店内がこんなにも狭く感じられるなんて。


「あの……っ、トマリさん……」


 彼の声は細く、小さく、途切れ途切れ。それは乾き切ったタオルから水を絞り出そうとするくらい無理があるように思えた。七月間近なのに吐息が見えるみたい。普段の余裕はもう何処にもない。


 その顔を私は見ていられない。最初はいたたまれなさが理由だったけど、今は違う。


 私のせいなのはわかっている。それにしたって何故そこまで?

 ドン引きする訳でもなく、はぐらかす訳でもなく、痛みに耐えるかのような凄く凄く切ない顔をして。


「あの、ね、今の僕が力になれるのは、あくまでも上司としてであって……だから……っ」


「失礼しました! 先ほどのは言い間違いです!」


 遮る口調になってしまったのは、上手くは言えないけれどこのままでは千秋さんの心が危ういと思ったからだ。

 不思議なことに私自身は、何かされる可能性など全く感じてはいなかった。


「い、言い間違い」


「はい。その、変な意味ではなく」


「あ……あ〜! そうだよねぇ! 大丈夫大丈夫、もちろんわかってたよ」


「すみません。もうちょっと噛み砕いて説明しますね」


「ありがとう。そうしてくれると助かるよ」


 千秋さんの顔から熱が引いていくのがわかる。気の抜けたいつもの微笑みが戻ってくる。

 良かった。私もホッとした。


 では、気を取り直して。

 私は彼の方をしっかりと見上げ、ハッキリと口にした。



「実はこの後、一人で帰るのがとても心細いのです。出来ればいっそ帰りたくないのですが、そういう訳にもいきませんので」


「うんうん、そっかぁ〜…………え?」


「なので千秋さんが一緒にいて下さるととても安心するのですが」


「ちょ、ちょっと待って」


「はい」


「ごめん、その……さっきと同じニュアンスに聞こえるんだけど」


 ぴた、と口を噤む。今度は何処が変だったというのか。

 さっきのように自分の発言を分析してみようとしたが、どうやら思考がフリーズしてしまったようだ。また目の前がぐるぐる回ってくる。



「……あ、あれ?」


「わかった! 一回落ち着こうか!?」



 もう限界といったふうに、千秋さんは再び赤くなった顔を片手で覆った。「落ち着くのは僕か」そんな呟きが小さく続く。


 今の状況にも自分の感情にもついていけない私は、彼の細長い指の意外にゴツゴツした質感をぼんやり眺めていたのだった。



 さっきはさすがに危なかった。いつかオタクの友人が言っていた“無限ループ”とやらに陥るところだった。多分あのような状況のことを言うのだろう。違うのか。

 ともかく閑散とした密室を出て、こうして外の空気を吸えていることに心底安心している。


 外に出てから話せないかと提案してきたのは千秋さんだった。駅までの道のりはほとんど遅番の従業員しか通らない。気休め程度の開放感だ。

 しかし私にとってはその方が助かる。誰かに聞かれたくない、打ち明けられるのはもうこの人しかいないと思っていたからだ。


 気分が落ち着いてくると、詳しい事情を話すのはそれほど難しくなかった。



「トマリさん、それいつからの話?」


「先月の下旬からよく話しかけられるようになりました。どの段階で顔を覚えられたのかはわかりません。この時間いつも通るよねって言われて初めて気付きました」


「一ヶ月も我慢してたの」


「私だって、自分が特別狙われている訳じゃないことはわかっていましたから。自意識過剰と思われるのが嫌で……」


「それでも僕はもっと早く言ってほしかったよ」


 ここでやっと顔を上げて隣を見上げた。

 上弦の月が背の高い彼を後ろからふんわり照らす。輪郭をぼかす。しかし彼の表情は険しくなっているのがわかった。


 茶化す人とは明らかに違う眼差しに見える。怒っているのとも違う、心の底から心配してくれているように見える。


 そう思っていいのですか。それとも優れた大人は皆、自然とこんな表情が出来るのですか。


 口に出せない問いかけだった。張り詰めた糸が一瞬緩んではまた張り、そしてまた一瞬。何度も何度も繰り返しているみたいだった。


「スタッフのみんなが大袈裟だと言ったからって、それトマリさんに関係あるの。トマリさんが怖い思いをし続けていたという事実の方が大事なんじゃない」


「でも私、もうどうしたら良いかわかりません。帰り道にあのスカウトマンがいると思うと足がすくんでしまうんです」


「うん……そうだね。確かにこれからどうするかが問題だ。具体的に考えなきゃ」


 駅まであとわずかの距離になってしまった。電車が来るまでまだ時間があるからということで、私たちは少し手前の位置で立ち止まる。


 現時点で考えられる問題点と対策を上げてみた。


 まずあの繁華街の最寄りの警察に相談して見回りなどを強化してもらうこと。迷惑行為をされているというのもあるが、スカウトマンを装った不審者という可能性だって捨てきれないと千秋さんは言う。

 なるほど、それは考えていなかった。言われてみれば基本的なことなのに。


 次にその男を避けるためにしばらくは別のルートで帰るという案。たとえ警察がすぐ動いてくれたとしても、それとは別に安心感を得るための対策が必要なのではないかと言ってくれた。

 心配だったのは交通費の問題だが、そこは千秋さんが上に掛け合ってくれるそうだ。本当に助かる。


 ただ気がかりなことはまだあった。

 もう一つのルートは普段の路線に比べて電車の本数が少ないため、タイミングが悪いと帰りがだいぶ遅くなるという可能性だ。これでは生活リズムの方も心配になってくる。


 結論が出ないまま時間はあっという間に過ぎて、もう電車に乗らなきゃいけなくなった。

 幸いにも千秋さんとは問題の駅までは一緒だ。ここからは少し声を潜めて話した。


「つかぬことを伺うようだけど、トマリさんは確か付き合ってる人がいるって前に言ってたよね」


「正確に言うとるみさんがバラしただけですが、事実です」


「ああ、そうだっけ。今思ったんだけどさ、迂回ルートで帰れないときは彼氏さんと一緒に帰るってことは出来ないかなって。時間合わない?」


「彼と……ですか」


 私は早々に悩んだ。そこにあるはずの選択肢は霧がかかったみたいにぼやけて、どれも選べなかったのだ。


 原因はおそらく不安だったのだろう。肇くんは私がアパレルを続けることを良く思っていないから。


 通勤時に問題が発生している、それも男絡みだなんてことがわかったら、彼は全力で私を守ろうとするのだろうな。この職から無理矢理にでも引き剥がすという形で。

 自立しているところを見せて彼を安心させたかったのに、そうなってしまっては全てが台無しだ。

 こんな想像だけはすんなり出来るものだから、私はしばらく言葉を失くしてしまった。


「トマリさん?」


 遠慮がちな声が私を呼ぶ。遠慮しながらも、ちょっとだけこちらへ顔を寄せてきたのがわかった。


 私はぎゅっと自分の服の胸元を握った。

 そして慣れないことをしてしまったのだ。



「肇く……彼は、職場が遠くて」


「じゃあ一緒に帰るのは難しいかな。迎えに来てもらうのも」


「はい、おそらく。時間も合わないと思うので」


「そっか……」



 八割くらいは、本当だ。肇くんとは月に二回程度しか会ってない。彼は特に忙しい立場でライフスタイルも私とは違うんだ。出張に向かっているときだってあるし。


 だけどまだ相談も何もしていない段階で無理だと言い切れるほど確信を持っていた訳じゃない。誤魔化しという名のゆるい嘘。気遣いと見せかけた屁理屈。よりによって、このあいだ肇くんに叱られたのと同じようなやり方だった。


 またしても中途半端なところで電車は乗り換え地点に到着した。繁華街を通り抜けたらもう千秋さんとは別方向の電車に乗らなければならない。


 やはりそんなすぐに解決策など見つからないのだ。仕方がない。気の重さをなんとか振り切ろうとしていた。

 


――ねぇ、トマリさん。


 我に返ったのは繁華街をすでに通り過ぎた後だった。

 改札口の前で振り返った千秋さんが私に問いかける。



「いつも声かけてくる人、いた?」


「え……」


「僕はそれっぽい人を見かけたけど、トマリさんは気付いた?」


「そういえば気付きませんでした」



 答えた直後に小さく息を飲んだ。

 真っ直ぐこちらを見つめる千秋さん、その真剣な表情の意味をつい深読みしてしまったのだ。私の全神経は焦燥に乗っ取られた。


「すみません、こんなところまで付き合わせておいて……その、でもっ、いつもは本当に……っ!」


「落ち着いて。こっちは僕の帰り道でもあるんだから」


「でもこんなに帰りが遅くなったのは私のせいで……」


「トマリさん、責めてないよ。疑ってもいないよ。ここまでの道のりが怖くなかったか訊きたかっただけ」


 彼が目を細めると息がしやすくなる。実際は気を遣わせているのかも知れないけど、それでも安心してしまうんだ。許してほしい。

 寒くもないはずなのに身体が小刻みに震えた。


「さっきからずっと考えていたんだ。こうして並んで歩いてるだけで少しでもトマリさんの気が紛れるなら出来るだけそうしたいって。毎回は無理なんだけどタイミングが合うときだけでも。ほら僕、身長だけはインパクトあるから用心棒くらいにはなるかも知れないし」


「それじゃあ千秋さんが大変じゃないですか。忙しいのに」


「放っておく方が難しくなってしまったんだよ。迷惑だったらごめんね」


「迷惑な訳……ないじゃないですか」


 なんか利用しているみたいで嫌だと思っただけだ。


 今夜はあなたが隣にいてくれて心強かったのだろう、だから怖くなかったのだろうということにはもう気付いている。


 こんなに頼ってしまってこの先も良好な関係でいられるだろうかと迷った。

 ずっと一緒に働ける訳じゃない。限られた時間だからこそ大切にしたい。あれだけ人間関係に投げやりな私だったのに、そんなふうに思えたのは初めてなんじゃないか。


 気が付いたら頷いてしまっていた。

 あなたも無理をしないでほしいと伝えるのが精一杯だった。


 私はどれだけこの人に借りを作る気なんだろう。何も返せないとわかりきっているのに。


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