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tomari〜私の時計は進まない〜  作者: 七瀬渚
第2章/記憶を辿って(Tomari Katsuragi)
33/122

31.真っ直ぐ過ぎる瞳に揺れて(☆)



挿絵(By みてみん)



 五月の日差しは独特の軽やかさがあるように思う。それは昼どきの電車内にて乗客たちの小さなやりとりをさりげなく彩り、安らぎのそよ風は離れた場所に座る私の元にも訪れた。


 前の駅から乗り込んできた女性はベビーカーを押し、その隣には五〜六歳くらいの女の子がいた。ドア側の乗客はさりげなく道を開け、二人組のご婦人が目を細めて女の子に手を振っていた。


 三人の男子高校生がその家族に気付いた後、ちら、と顔を見合わせる。一人、また一人と大きなスポーツバッグを持って席を立とうとしていたときだった。

 幼い女の子はどういう訳か皆が空けたスペースには目もくれず、たーっと一直線に向かい側の席へ駆けていく。目を丸くする高身長の男性を真正面からしげしげと見つめた後、彼の隣にストンと腰を下ろした。


 慌てた様子の母親が「すみません」と言いながら後を追いかけると、男性はニコッと柔らかく笑う。その瞬間、車内全体に魔法がかかったかのように空気の色がワントーン明るくなったのを感じた。

 女の子は満足げな表情で彼にすっかりもたれかかっている。


 さすが人たらし。子どもにも好かれるのだな、と私は一人感心する。


 周りの皆が席を詰めたので、母親も女の子の隣に座ることができた。ベビーカーの中からはちっちゃな両足が見える。

 ここまでの流れが自然過ぎて、この四人で一つの家族にさえ見えてしまう。むしろ途中から乗ってきた人はそう思って疑わないのではないだろうか。


 それは私にとって、全く無縁の世界だからこそ安心して見ていられる光景でもあった。


 彼にはよく似合う。温かな人との繋がり。交流の輪。

 今回は偶然出来上がった光景だけど、いずれ彼自身も家庭を築き、パートナーから信頼され、子どもに慕われ、今より更に魅力的な人になるのだろうな。

 もちろん仕事もだ。既に人望の厚い実力者なのだから未来もきっと明るい。


 まさに広く多くに影響を与える為に存在しているような人。明日の自分がどうなっているかなど見当もつかない私などとは正反対で……

 おっと危ない、乗り過ごしてしまうところだった。

 私は素早く立ち上がり、ホームに流れていく人々の後に続いた。



 ショッピングモールが見えてくる辺りで人はいくらかまばらになる。車で来ているお客様の方が多いからかも知れない。


「トマリさん!」


 その声は後ろから。同じ電車に乗ってる時点で彼の目的地も予測できていたけれど。


 わずかに震えた喉がやがて熱を持った。だからすぐには振り向けなかった。自分の名を呼ばれた、ただそれだけのことで何故。


「トマリさん! トマリさん! 待ってぇ、トマリさーん!!」


 必死過ぎるだろう。私はだんだん可笑しくなってきてしまった。

 そろそろ無理矢理にでも向き合わなくてはただの意地悪だと思われてしまう。私は身体ごと振り返る。


 ふわふわした長い髪を揺らしながら小走りでこちらへ向かってくる彼。

 やっぱりこんな感じの大型犬、見たことがある気がするな。なんという犬種だったか。こう、顔がシュッと細めでエレガントな印象の……などと考えているうちにすぐ目の前まで追いつかれていた。


 優しい声色にくすぐられる前にと私は口を開く。


「すみません、千秋さん。聞こえてはいたんですが、目にゴミが入ってしまったもので」


 人間、感情に余裕がないと本当にありきたりな言い訳しか出てこないものなのだと知った。



「トマリさんも同じ路線だったんだね。降りるときに気付いたんだけど、人が多くてなかなか声かけられなかった」


「まだゴールデンウィーク期間中ですから、それなりに混んでますよね」


「今から出勤ってことはトマリさん、今日は遅番なんだ。もう風邪は大丈夫なの?」


「はい、おかげさまで回復しました。忙しいときにご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした」


「ううん、こうして無事にリニューアルオープンを迎えられたのもトマリさんたちのおかげだよ。感謝してる」


 従業員入口へ続く人気ひとけの少ない壁沿いの道。隣を歩く千秋さんを横目でちらりと見上げる。

 相変わらずの穏やかな表情。そうか、この人は知らないのだなと私は納得した。


 私が二日間の自宅療養から復帰した数日後のことだ。姉妹ブランドの店舗で急遽人手不足となり、千秋さんはそちらの手伝いにも向かわなきゃならなくなったと相原店長から聞いた。それからは比較的近い店舗の店長やサブリーダーが集まってくれていた。

 千秋さんもたまに店舗に来てくれてはいたそうだが、時間が限られていた為、顔を合わせたスタッフはほとんどいないらしい。私も話すのはかなり久しぶりだ。


「私なんて何もしていませんよ。なんとかリニューアル前に復帰することは出来ましたが、それでもしばらくは本調子ではなかったので、結局足手まといになっただけです。私は感謝などされる立場ではありません」


「そんな悲しいこと言わないでよ」


「でもそれが事実で……」


「トマリさん!」


 珍しく尖った彼の声色は悲しみをまとっているように聞こえた。

 驚いた私は、恐る恐る隣を向く。彼を見つめ返す。


 輪郭さえおぼろげな淡い瞳は垂れ下がりの瞼にぎゅうと押し潰されるようにして、滲んでる。涙袋が浮かび上がっているけれど笑顔のときとは違うとわかるのが不思議だった。

 薄い唇はかすかに震え、まだ理由もわからない悲壮感に拍車をかける。


 彼も私も、いつの間にか足を止め向き合っていた。


「毎日のように届く大量の商品を一生懸命整理してくれたのは誰?」


「それは……配慮して頂いたことなので、一生懸命やるのは当然ですよ」


「ゴミだって何度も捨てに行ってくれてたじゃない」


「気が付いたからそうしただけです」


「レイアウトに関する意見だってくれた」


「訊かれたから答えただけです」


「じゃあ何処が足手まといだったって言うの。僕にわかるように教えてよ!」


「それでも私は皆と同じようには出来ないんです!」


 ぎゅっと拳に力を込めながらも、私の胸を占めたのは無力感。


 ああ、私はまた人とぶつかってしまうのか。

 こんなに優しい人でさえイライラするほど、私は駄目な人間だということか。そうだろうな。



――あまりガッカリさせないでよ――



 療養中、夢で千秋さんから言われた言葉を思い返す。


 ほらみろ。やっぱりその通りになっていくんだ。すぐに愛想を尽かされるんだ。わかりきっていたことじゃないか。そう思った。


 今は良好な人間関係だっていつかは壊れる。だってそれが私だから。

 ならばいっそ早くに期待に応えられないことを明らかにしておいた方がいい。そしたら建前だけの付き合いになれる。そんな考えで頭がいっぱいになって。


 しかし千秋さんは……この人は、どんなに熱くなったって眼差しは優しいままだ。

 その口から放たれる言葉にもブレはない。


「トマリさん、体調崩して落ち込むのはわかるけど、だからと言ってこれまでの頑張りを全部無かったことにしてしまうのはどうして。納得いかないところが一つでもあったら台無しってこと? そこまで極端に考えなくてもいいじゃない」


「千秋さん……」


 お願いだ、もうやめてほしい。ますます甘えてしまいそうで怖いんだ。

 私はただ唇を噛み締めて耐えるだけ。


「みんな見てたよ。僕だって、トマリさんがお店の為に頑張ってくれてるところ、ちゃんと見てた。無かったことにしようったってそうはいかないよ」


「……私の作業の完成度はそんなに高いとは思えません。私の代わりが務まる人はいくらでもいたと思いますよ」


 きっと頑なになっていたのだろう、私は。

 冷静に考えればこんな卑屈な言葉も、可愛げのない態度も、相手を不快にさせるだけだとわかるからだ。

 ただ苦し紛れに出ててきてしまうのだ。スムーズに方向転換できるほど器用じゃないと知っていたはずなのに。私は馬鹿だ。今更後悔しても遅い。本当に馬鹿で馬鹿でどうしようもない。


 葛藤の途中。

 ついに痺れを切らされたのがわかった。


 しかしそれは彼ではなく背景の方だった。風が吹き荒れ、遠くの木々のざわめきさえ連れて来る。

 曇り始めた空にまだ青い木の葉が乱舞する。ひとさじの殺伐を含んだ幻想的な景色の手前で、せきを切ったように彼が声を張り上げる。



「君の代わりなんていなかったよ!」



「…………っ!」



 どうしようもなく胸が詰まったのは、なんのせいだったのか。


 鼓動が駆け出す気配がしたのだが、それは束の間のことだ。

 私の目は、真剣な表情でこちらを見つめる千秋さんのその後ろ、ポカンとした表情で立ち尽くしている他店の従業員二人組を捉えてしまった。


 しかし困ったことに千秋さんはまるで気付いていない。目が眩むような輝きをまとい、凄まじい熱量の想いを容赦なくこちらへ流し込んでくる。


「僕の方こそ悔やんでいたんだ。僕が良かれと思ってしてきたことが本当はトマリさんの負担になっていたんじゃないかって。もしそうならごめんなさい。でも僕がトマリさんを必要としていることはわかってほしい。言いづらかったことがあるならこの機会に言って。ちゃんと考えるから」


「大丈夫です、負担になんかなってません。それで千秋さん、ちょっと場所を変え……」


「自分の魅力をちゃんと認めてあげて。無理にみんなと同じになろうとしなくていい。実際、僕は君が近くにいてくれて心強かったんだ。何度も助けられてきたことを決して忘れない」


「あのぉ……千秋さん」


「こんな頼りない僕が言っても説得力ないかも知れないけど、これからもっと頑張ってトマリさんの力になりたいと思っているから……!」


「千秋さーん」


 全身全霊で伝えてくる。言葉も表情も仕草も、全てが芸術性を持った自己表現になってしまう。曲など流れているはずもないのに聴こえてくるかのよう。

 元ダンス部だとは聞いていたけど、この人はミュージカル俳優の素質もありそうだ。


 ……なんて、私はぼんやりと彼を分析していた。だって後ろに全く気付く気配がないし私の声も届かないから。そう、もはや諦めの境地なのである。



「それでトマリさん!」


「はい」


「できれば連絡先を教えてほしい」


「はい……?」


 何故その流れになったのかは完全に聞き逃していたが。



 後ろで立ち尽くしていた二人組がやっと、遠慮がちに歩き出した。どちらも頬を赤らめたまま、横を通り過ぎる途中で小さくこちらへ声をかける。


「すっ……げぇ、大胆ですね」


「頑張れ〜」


 え、と短く呟いて、千秋さんは目を丸くした。


 しばしの沈黙。私は音が出ない程度に軽く息を吐く。過ぎ去った二人組の方向を手のひらで示して。


「何やら応援されているようですが」


「ちがっ、今のは変な意味じゃなくて!」


「わかってますよ。もう慣れました」


「連絡先はここのスタッフみんなに聞いてたんだ。情報共有するときとか、体調不良のときにも便利でしょう」


「あぁ、気にするのそっちなんですね」


「えっ、他にも変なこと言ってた? 僕……」


「いえ……ちょっと熱いなと思っただけです」


 それはもう火傷しそうなほどに。この人のことだ、とげの少ない言葉を選んでいるだろうに何故こんなにも刺さるのか。

 今だって身体中がチリチリとむず痒い。


「あまり暑苦しいところ見せないように気を付けてたんだけど、つい……恥ずかしいなぁ」


 恥ずかしいのはあなただけではない。

 私は顔の熱だけでもなんとか振り払おうと素早くかぶりを振った。



 それから千秋さんと私は自然と並んで歩き、何事もなかったかのように従業員入口を通って館内へ入った。


 店舗に向かう途中で聞いた。姉妹ブランドの人手不足は解決したから、これからまたしばらくはこちらに来る機会が多くなるとのこと。遅番のスタッフとはおそらく帰りの時間も被るだろうと。


 とは言え、エリアマネージャーとスタッフは本来それほど距離の近い間柄ではない。人事異動だってこの業界は多い。こんなに親身になってくれる上司が次も来てくれるとは限らない。だから私はもっと自立したいんだ、本当は。



 自分なりに気持ちを新たにしたつもりだった。


 しかし次なるトラブルが発生する日はすぐ側まで迫っていて。

 あろうことか、隣で呑気に微笑んでいた彼との距離感にまた新たな変化を起こしてしまうのだ。


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