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tomari〜私の時計は進まない〜  作者: 七瀬渚
第2章/記憶を辿って(Tomari Katsuragi)
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28.立派じゃないという才能


 わずかばかりの沈黙だったのかも知れないが私には長い長い時間に思えた。


 周囲の動きもざわめきも感じられない、閉ざされた空間の中で身動きがとれなくなっていた。


「相原店長、お疲れ様!」


「お疲れ様、千秋くん。二人の姿が見えたものだからご一緒しようかと思ったんだけど……」


 ちら、と相原店長の視線が再び私を捉える。



「私、お邪魔だったかしら」



「…………っ!」



 この瞬間、私が震え上がったのは言うまでもないだろう。

 取り乱す様子さえない相原店長。静かな表情、落ち着いた口調が却って怖い。


 それなのに隣の男ときたらどうだ。


「え、どうして? 一緒に座ろうよ」


「!?」


 何を言っているのだこの人は。私は耳を疑った。


 見ると彼の表情は実に穏やかである。

 まさかと思うが状況がわかっていないのか?


 鈍感と呼ばれる私でさえさすがにわかる。今おそらく私たちは疑いの目で見られているのだぞ。それもあなたの恋人にだ。

 元はと言えば私が距離感を誤ったせいなのだが、千秋マネージャー、あなただって立場的になんらかのフォローをすべきところではないのか!?


 ああ……なんということだ。

 こんなのオタクの友人に知られたら間違いなく叱られる。推しと推しとの間にモブが挟まるなんて言語道断だと叱られる。


 一人途方に暮れていた。

 しかし諦めるのはまだ早いとやがて自分を奮い立たせた。

 ましてや恩人である二人の仲をこじれさせる訳にはいかないだろう。なんとしてでも疑いを晴らさなくては。


「あのっ!」


 私は意を決して声を上げた。



「相原店長、安心して下さい! 私はモブですから!」



「…………」


「…………」



 返事が、ない。

 相原店長も千秋マネージャーも二人揃って目をぱちくりさせながらこっちを見ている。


 嫌な汗を滲ませながらも私は更に続けた。


「その……つまり、モブは見守る立場に徹するのが最適であり、推しの相手と親密になるなどあり得ないと言いますかもはやマナー違反でして……」



「えっと……?」


「トマリさん、モブって……?」



 ここで私はようやくピンときた。おそらく二人にこの言い方は伝わりづらいのだと。


 よし、別の言葉を考えなくては。


 そうしてしばし思考してみたものの、実際に口を突いて出たのは切実な思いでしかなかった。



「誤解をさせてしまって申し訳ありません! 私、お二人の邪魔をする気なんてありませんから、どうかこれからも仲良くしていて下さい!」


 恐れの感情を無理矢理振り払い、勢いよく頭を下げた。


 しかし相原店長の返事は意外なものだったのだ。


「ごめんなさい、桂木さん。なんの話かよくわからないんだけど」


「え……?」


 しかも彼女の声色には困惑が感じられる。

 顔を上げてやっと確信が持てた。どうやら皮肉ではないようだと。



 それから数分後。場所は同じく休憩室にて。


「……という訳なの。わかってもらえたかしら、桂木さん」


 向かい側に座る相原店長が微笑んだ。

 理解できた、つもりなのだが、実感が追いついてない私はピンと背中に力が入ったまま。


「だからあなたが気を遣うことなんて何も……ふふ、ふふふふふ」


「相原さん、笑いすぎ」


「だって私と千秋くんが付き合ってるだなんて……」


 ちら、と視線を合わせる二人。直後に再び笑い声が湧き上がった。


「駄目、やっぱり可笑しい。だって昔からそんな目で見たこと一度もないんだもの」


「だよねぇ。知ってる〜」


 こうなったらもう、普段はクールな相原店長のしわくちゃな笑顔が見れるレアイベントを全力で楽しむことに集中しようとさえ思った。


「桂木さんまだ実感湧いてないの? もう一度言いましょうか。私と千秋くんは同・級・生! 高校時代からのね」


「ドウ、キュウ、セイ」


「そう。よく言えました」


「なんかごめんね、トマリさん。びっくりさせちゃって」


「いえ、私の方こそ噂を鵜呑みにして申し訳ありませんでした」


「本当、みんな好き勝手言ってくれるわ。困ったものね」


 千秋マネージャーと相原店長は共に苦笑しながらも、ところどころで思い出話を挟んでいるようだった。

 そしてさすがコミュニケーション上級者といったところか、二人だけの世界には入りきらず時々私の方にも語りかけてくれる。


「びっくりしたのよ、まさか同じ会社に同級生がいるなんてね」


「しかも同じ部活だったからね」


「そうそう。ダンス部だったのよ私たち」


「ダンス踊れるんですか!? お二人とも!」


「まぁ、多少はね」


「僕はどうかなぁ〜、ブランク長いからもう自信ないかも」


 話を聞いている感じ、なんだか高校時代からお洒落な雰囲気ではないかと私の胸は熱くなった。二人のダンスなんて是非見てみたいものだ。


 確かについさっきまでは誤解していた。この二人が付き合っていたらどんなに素敵だろうという私の理想が含まれた妄想にすぎなかった。

 しかし推しであることに変わりはない。むしろ“青春時代を共にした美男美女の同級生”という別ジャンルの推しになったと言えるだろう。これはこれで……良い!


 ふと腕時計に視線を落とした相原店長が「あら」と短く呟く。


「話が長くなっちゃってごめんなさいね。そういえば二人ともお昼ごはんはもう食べ終わったの?」


「僕はここに来る前に食べてきたけど、トマリさんはまだだよね」


「はい、持ってきてあります」


 私はバッグの中からカップ麺を取り出してテーブルの上に置いた。


 一瞬、空気が静まったような気がした。

 なんとなく隣を見上げると、千秋マネージャーはなんだか悲しそうな顔をしている。


「トマリさん、この間もそれだったじゃない」


「はい、大体いつもこれですが」


「あまりお節介なことは言いたくないんだけど……その、大丈夫なの?」


「何が……ですか?」


「えっとね……」


 彼は口ごもってしまう。出会ったときにもこんなことがあった気がした。

 何故あなたがそんな顔をするのだ。私だって何も悲しくはないのに。

 戸惑い、動けずにいたときだった。


――千秋くん。


 ただ短く、相原店長は声をかけた。

 彼の方を見て一度だけ頷いた。


 続いて千秋マネージャーも薄く笑って小さく頷いた。

 何が起きたのかさっぱりわからない。


「じゃあ僕はそろそろ行かないと」


「あ……はい、お疲れ様です」


 荷物を持って立ち上がり、柔らかな微笑みの余韻を置いていった千秋マネージャーを為すすべもなく見送る。


 相原店長が私に話しかけたのは彼がドアの向こうへ去ってからだった。


「桂木さん、休憩時間が終わったら面談をしましょう。場所はここなんだけど、もう少し人の少ないところがいいわね。私は先に後ろの席に移動してるから後で来てくれる?」


「承知しました」


 ひとまずは簡潔に返事をしたけれど、かすかな不安は残り続けていた。


 昔からそう。場の空気が変わるとき、それは大体私のせいだったからだ。



 それから二十分ほど後に、約束通り休憩室の後方で面談を開始した。


 最初に話したのは、先日私がストックルームで店長と先輩たちに持ちかけた内容が中心だった。

 体調不良は具体的にどういった症状であらわれやすいのか、どんな業務を負担に感じるか、反対にやりやすい業務は何かなどの質問を受けた。先輩たちの提案に納得はしているか、他に不安に思っていることはないかといったところまで、相原店長は丁寧に聴き取りをしてくれた。


「現時点で桂木さんが気になっていることはこれでひと通りといったところかしら。また何かあったら言ってちょうだいね」


「はい、ありがとうございます」


「それとさっきはごめんなさいね。千秋マネージャーの代わりに謝っておくわ」


「えっと……?」


「ほら、千秋マネージャー何か言いかけてたでしょ。彼もまだ今の役職に慣れてないから、スタッフの事情に何処まで触れていいかわからないのよ。だから遠慮がちな言い方になってしまうんだと思うわ」


「そうなんですか」


「でも彼の気持ちはなんとなく伝わってるでしょ?」


 問いかけられて、思い返してみる。


 だけどやっぱり、相原店長の期待しているような返事はできそうにない。

 私は気まずい気持ちのまま答えた。


「申し訳ありません。あまりわかっている自信はありません」


「あら、そうなの」


「何か困らせてしまったのかなとは思いましたが……」


「そうねぇ、困ってると言えば困ってるのかも知れないけれど……」


 やはり何か余計なことをしてしまったんだ。

 私の身体はおのずと縮こまった。もう少しでうつむいてしまうところだった。

 しかし寸前で見えたのだ、目の前の彼女の微笑みが。



「心配しているのよ、千秋くんは」



 一瞬、何についての話なのか、方向性を見失った。


 しばらくしてやっと戻ってこれたけれど。



「え……私を、ですか?」


「そうよ」


「千秋マネージャーがそうおっしゃってたんですか」


「どうだったかしら。私もまだ千秋くんとはゆっくり話できてなかったから。でも様子を見ていればわかるわよ」



 心配って、一体何を。

 “これ”というものが思いつかずにいた。

 原因となりうるもの、あったようななかったような曖昧な感覚だった。


 そこへ相原店長は苦笑を交えながら言ったのだ。


「桂木さんのことだってこれだけ近くにいるとある程度わかるわ。あなた、食事に関心がないでしょ」


「あ……」


「そのくせに煙草はよく吸う。夜更かしもしてるんじゃない? たまに目の下にクマができてるわよ」


 私は思わず顔の片側を手で押さえた。


 そんなに? 誰が見てもわかるくらいに?

 これで自分では気を付けているつもりだったなんて……


「厳しい言い方になってしまうんだけどね、山崎さんがこの間言っていたことだって一理あると思うのよ、私は。あなたは普段から健康に対する意識が低いし、自分のことをあまり理解していないから危なっかしく見えるの」


「……っ、はい」


「山崎さんも千秋くんも、言い方は全く違うけど気になってる部分は近いんだと思うわ」


「……申し訳ありません」


 その後。

 相原店長は続けて私に語りかけてくれていたんだけれど、正直、内容が頭に入ってこなかった。

 ただ自分への失望やら後悔やらがぐるぐる回っているだけだった。



「でも千秋くんって話しやすいでしょ?」


 疑問形の言葉が耳に届いてやっと負のループから脱したように思えた。


「はい。私なんかがこんなことを言うのはおこがましいかも知れないんですが、近くにいてとても安心できる人だと思いました」


 だけどすぐにネガティブな思考と結び付いてしまう。私の視界にあるのは服の裾を握る自分の手だけだった。


「だから甘え過ぎてしまったのかも知れません。千秋さんだって本当は迷惑だったのに言わずにいてくれてたんですね。なのに私は……」


「待って待って、何故そんな解釈になっちゃうの。千秋くんが迷惑してるだなんて私一言も言ってないでしょ」


「……本当、ですか」


「ええ、本当よ」


 笑みを保ったままひと呼吸置いた相原店長がやがて「話を戻しましょう」と言った。

 私は出来るだけ目を逸らさぬよう努めるだけ。


「桂木さんの自己管理、確かに今のままでは心配よ。だけど今すぐ全部を完璧にしてほしいとも思ってないわ。だって無理じゃない、そんなの」


「はい……確かに全部は難しいと思います。力量不足で申し訳ありま……」


 彼女が静かに首を横に振ったことで私の語尾は薄れて消えた。


「桂木さんだけじゃない。なにもかも一気に変えるっていうのは誰だって難しいと思うの。私だって昔は酷かったのよ。この役職に就くまでの間がむしゃらに働いたし、不摂生だってそれなりにした。ここでは言えないような失敗だって沢山あったわ」


「そう……なんですか?」


「私、そんなに器用じゃないもの。それに他のスタッフのことだってもうある程度知ってるでしょ。飲み会で飲み過ぎちゃう子もいるし浪費癖がある子だっている。仲間とのコミュニケーションが苦手な子もいる。みんなだって完璧じゃない。だから桂木さんにばかりちゃんとしなさいとも言いづらかった」


 そうか、私は相原店長にも気を遣わせていたのか。息が詰まる思いだった。

 しかし彼女は何か感じ取ったかのように再び首を横に振った。


「でもね、今はもっと早くあなたと向き合えば良かったと思っているわ。あなたは私にぶつかってきてくれたもの。千秋くんがマネージャーになってくれたことで思い出せたこともあったわ」


「思い出せたこと」


「ええ。私は説得力のある人間にならなきゃと考え過ぎてたのかも知れないわね。だって千秋くんって実は特に立派なことなんて言ってないんだもの。本人も語彙力がないって認めてるくらいだし」


 ふふふ、と彼女はまた含み笑いを始めた。


 これは……仲が良いからこその毒舌なのだろうか。そうだろうな。私が同調するのはさすがに許されないだろう。

 私は咄嗟にフォローの言葉を考える。


「語彙力がないというよりかは……えっと……」



――でもなんかいいね、この字。雪うさぎみたいで――


 しかし思い出したのが何故かこの言葉だったから、脳内にまるまるとした雪うさぎがどん、と降りてきてしまった。



「独特な感性をしていらっしゃるように思ったのですが」


「ふふっ」


 結果、更なる笑いを誘ってしまったようだ。



「千秋くんは昔からそうなの。大したこと言ってないのに説得力あるし、威張ってないのに頼られる。ああいうのは天性のものでしょうから、私のは見よう見まね。でも学ぶところは沢山あったわ」


 そんなことはない。あなたにも感謝している。大体、店長とマネージャーとではスタッフへの関わり方も違って当然じゃないか。

 そう言いたかったけれど、彼女の遠い眼差しは、フォローなど最初から必要としていないかのような清々しさがあり、私の口をいとも簡単に噤ませた。


 彼女はじんわりと目を細める。ほのかな熱のこもった声色で言う。


「心細い人がいたとき、ただ隣に座ってお喋りするとか、気にかけてるよ、心配してるよ、と示すだけで良かったのかも知れない。あくまでも相手が本来持っている力を信じるの。彼はそれが当たり前のようにできるのよね」


 真正面から伝わってくる想いは、恋愛感情とは違っても特別な人に対する想いに違いないと私は感じた。


「でもね、桂木さん。要領の良い人にも弱点はあるのよ」


「はい」


「だからあまり翻弄しないであげてね」


「はい……?」


 何故か悪戯いたずらっぽい笑みを投げかけられて、私はしばらくその意味を考えた。

 訊き返すまでに結構時間がかかってしまったと思う。


「えっ、千秋マネージャーをですか? 私が?」


「どうかしらねぇ。あら、もう時間だわ。売り場に戻りましょう」


 なんだ、これだけ親切に話を聞いてくれたのに最後だけやけに意地悪じゃないか。気になるところで止めないでくれ。


 言いたいことはあったけれど内心でふくれるだけにしておいた。

 時間ならば仕方がない。私も荷物を持って店長の後に続いた。


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