26.あなたが背中を押してくれたから(☆)
千秋マネージャーから先日の返事を受け取った後、私は早歩きで店舗に戻った。
休憩前とは違う、新たな緊張感を共に持ち帰ることになった。
だけどこれは必要なこと。そう思ってもいる。
事実、いつまでも誤魔化し続けられる訳もないのだ。
いずれ知られてしまうのなら、私から。
その勇気をあの人がくれた。
「相原店長、少しだけお時間を頂けますでしょうか。お伝えしたいことがあります」
「ええ、構わないけれど……」
ストックルームの片隅でパソコンと向き合っていた相原店長は、華やかな目を大きくして私を見た。
私は束の間、目的を忘れて彼女の長い睫毛をぼんやり眺めた。
「場所はここでいいの?」
「あっ、はい。大丈夫です」
「私と二人きりの方がいいかしら」
相原店長の視線を追って振り返ると、そこにはこれから休憩に出ようとバッグを持った山崎さんと、在庫の整理をしているるみさんの姿があった。
ぶる、と小さく震えた。自分の肩を抱こうとした両手が寸前でためらって宙を彷徨う。
二人とも私より先輩だ。スタッフの中でも特に出勤日数が多く勤務時間も長い。
ならばここは怖くても頼むしかあるまい。
中間の位置に立つ私は相原店長と先輩スタッフ二人を交互に見ながら言った。
「先輩方にも聞いてもらいたい話なので、山崎さんとるみさんも少しお付き合い頂けますでしょうか」
先輩スタッフ二人はびっくりした表情で顔を見合わせていた。
「え、私も?」
「るみは大丈夫だけど……そうだ、あすか先輩も呼んでこようか?」
「はい、お願いします」
「わかったぁ。ちょっと待っててね、トマリン!」
るみさんがスキップするみたいな軽い足取りで売り場に出て行った。
しん、と静まり返ったストックルームの中。
相原店長は椅子ごと身体をこちらに向けながらも手元の書類を眺めている。
腕組みをして壁にもたれかかる山崎さんに引き留めたことを詫びようとしたけれど、気怠い目で一瞥されると身体が硬直して言葉が出てこなくなった。
あすか先輩はちょうど接客が終わったところだったそうで、数分ほどでストックルームに入ってきてくれた。
「それでどうしたのかしら、桂木さん」
相原店長が切り出すと、私はお腹の下で組んだ手にぎゅっと力を込めた。
「この店舗でリニューアルが行われる件についてです。その、結論から申しますと……私は……」
そして意を決して顔を上げる。
声は思いのほか大きくなってしまった。
「私は……っ、体調を崩して皆様にご迷惑をおかけする恐れがあります!」
しばらくの間ができた。
るみさん、あすか先輩、山崎さんの三人はぽかんと口を半開きにし、相原店長は冷静な表情でじっと私を見つめていた。
「え、なんで? トマリンまさか病気なの!?」
「いえ、るみさん」
「何処が悪いの!? 正直に言っていいんだよ!」
悲鳴のような声をあげるるみさんに私はかぶりを振ってみせる。
「……そういう訳ではないんです。私は環境の変化に適応するのが苦手で、それがストレスとなり体調不良を起こしやすいのです。前の職場でもリニューアルを経験しているのですが、早退や欠勤をして仲間のスタッフたちに迷惑をかけてしまいました」
私は更に話した。おそらく持病ではないということも、かなり昔から似たような症状があったことも。
その上で自分なりの決意を口にしようとしたとき、フン、と鼻で笑うような声がした。
冷たい目をした山崎さんが言う。
「つまり自己管理ができないってことでしょ」
私の胸の奥は一度ズキリと痛んでから、ドクドクと激しく脈打ち始めた。身体中から汗が滲み出た。
そこからは一気に彼女のペースに持っていかれてしまう。
「リニューアルが忙しいのなんて当たり前じゃない。体調崩しても大目に見て下さいって言いたい訳? そうならない為の工夫を先に考えるのが普通でしょうが」
「それは確かにそうなんですが……」
「“ですが”じゃない。自分の頭でちゃんと考えたかって訊きたいの。具体的に行動を起こしたかと訊きたいのよ、私は。なんの努力もせずに許してもらおうなんて甘すぎる。あなたね、私たちと同じ契約社員でしょ。バイトの子たちよりお給料だって貰ってる。そんなことで示しがつくと思ってるの」
「ちょっと山崎さん、そこまで言わなくても……」
「そうですよぉ」
「何言ってるの。むしろハッキリ言ってあげなきゃわからないタイプよ、この子は」
あすか先輩とるみさんが宥めようとしたけれど、山崎さんは落ち着くどころか一層目を吊り上げてこちらへ詰め寄った。
でも……反論なんてできる立場じゃない。私はなんとか声を絞り出す。
「山崎さんのおっしゃる通りです。私なりに考えようとはしました。でもどんどんわからなくなってしまい……」
「考えることさえ諦めたってことね。そして私たちに丸投げしていると。全く理解できないわ。何故そんな平然としていられる訳? 努力もしない、考えもしない、そんな恥ずかしいことを開き直って言うだなんて……!」
――待って。
その声はとりわけ大きくも高くもないのにすっと真っ直ぐ混沌の中に入り込んだ。辺りが再び静かになる。
私が振り向いたちょうどそのときに、相原店長が口を開いた。
「みんなもうちょっと待ってくれるかしら。桂木さんにはまだ言いたいことがあるのかも知れない」
「今ひと通り聞きましたけど」
「いいえ、わからないわ。あなたが話を遮ったからよ、山崎さん」
「…………っ!」
表情を強ばらせ言葉に詰まった山崎さんは、数秒ほど経ってから「すみません」と呟いた。
気まずい空気。どうしていいのかわからず戸惑う私に相原店長が問いかける。
「どう、桂木さん。あなたが言いたかったことは本当にこれで全部なのかしら」
「その……っ」
「落ち着いて。ちゃんと聞くから」
「…………っ」
正直なところ私は困り果てていた。
言いたいことはあったはずだ。私なりの考えが。
しかしさっき山崎さんに強く言われたときに、それは粉々に砕けてしまった。今や頭の中は真っ白だ。
足元に散らばっている欠片を集めたところでもう原型になど戻らない。思い出せない。
せっかく背中を押してもらったのに。
「……ごめんなさい、千秋さん」
「え?」
だけどその名を口にしたとき。
優しげな微笑みとそれに伴う温かさが蘇る。
休憩が終わる間際、あの人がくれた言葉はやはり一言や二言では済まなかった。
でもわかりやすく、程よい力加減で私に伝わった。
――ヘルプ先でのトラブルもそうなんだけど、トマリさんはきっと自分の弱点をある程度理解してると思うんだよね。最初に謝っておくっていうのはどうかな――
――僕だったら多分ね、間違ってたらごめんなさい! 叱ってやって下さい! って感じの軽い言い方しちゃうんだ。だけどトマリさんは無理にそんなノリで言わなくていいと思う。トマリさんらしく誠実に相手と向き合うのが一番伝わりやすいと思うよ――
――わかってくれない人もいるかも知れない。でも君の気持ちを受け取ってくれる人だってきっといる――
――それでも駄目だったら、また一緒に考えよう?――
「千秋さん……」
「えっと、千秋くんがどうしたの?」
私は視線を相原店長の方へ戻した。
大丈夫。独りじゃない。まだ終わりじゃない。だから前を向いて。せめて泣かないで。
そう自分に言い聞かせ、今の精一杯の思いをぶつけた。
「体調管理はできるだけ頑張ります! でももし調子が悪くなったらそのときは、私にできる範囲の仕事をやらせて頂けないでしょうか」
「トマリン……」
るみさんの声に引き寄せられるようにして私は先輩たちにも頭を下げる。
「できる範囲であればなんでもいいんです! なんでも言って下さい! 何か少しでも力になりたいんです!」
そう、なんの役にも立てないなんてもう二度と嫌だから。
「あの〜、ちょっと喋ってもいいですか」
しばらく経った頃に遠慮がちな声がした。片手を上げているあすか先輩がいた。
「桂木さんのやる気は嬉しいんだけど、やっぱり体調崩してる人を無理に働かせるのはどうかと思うんですよね。事前に対策できた方が良くないですか」
「でも私……っ!」
「ですのでリニューアルに伴って具体的にどんな業務が必要になってくるか内容を整理してみませんか。その上で桂木さんの得意分野と苦手分野をこちらに教えてもらうのはどうでしょう」
「え……」
私が驚きの声を零すと、あすか先輩のクールな顔にうっすらと笑みが浮かんだ。
隣にいるるみさんがすぐに目を輝かせた。
「るみもそれがいいと思います! 得意な仕事を担当してもらえばトマリンの負担も少なくて済むかも!」
ちら、と山崎さんの方を見てみるけれど彼女の視線はもうそっぽを向いてしまっている。
だけど肯定の返事はすぐに後ろから返ってきた。
「そうね。毎回は難しいけれど、リニューアルの間だけでもやりやすい仕事を担当してもらうのが良いかも知れないわ」
「相原店長……」
「桂木さんに限らず、これはスタッフの得意不得意と向き合う機会にしていけると思うわ。スタッフみんなが出来るだけ負担を抱え込み過ぎずに働けるなら私もその方がいいもの。不安な思いでいる人が他にもいるかも知れないから、できれば一人一人と面談する時間も作りたいわね。千秋マネージャーにも協力してもらおうかしら」
「お忙しいのに大丈夫なんですか、相原店長」
恐る恐る私が訊くと、相原店長は少しの間考えた後に苦笑しながら頷いた。
「私も要領の良い方じゃないからやってみなきゃわからないけど、そのまま突っ走るよりかは良かったんだと思うわ。話してくれてありがとう、桂木さん」
我儘を言ったのにお礼を言われるだなんて思ってもみなかった私は、涙を流す訳でもなくただ脱力し、その場に崩れ落ちるような感覚を覚えたのだった。
前の職場でもこうすれば良かったのか。
いや、おそらくこの店舗だから聞いてもらえたのではないだろうか。
あるいはあの人に出会えたから……
帰り道の途中、訳もわからず火照ってきた顔を夜風に晒すようにして天を仰いだ。
受け入れられたというのに、罪悪感という名のしこりが心に残っているようだった。
素直に喜んだり悲しんだり、皆が当たり前のようにしているそれを私はいつになったら自分に許してやれるようになるのだろう。




