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tomari〜私の時計は進まない〜  作者: 七瀬渚
第2章/記憶を辿って(Tomari Katsuragi)
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22.白黒つかないその色は


 あの日のことをひと通り話した私は、ゆっくりと顔を上げた後、まだ開けていない麦茶のペットボトルを引き寄せた。

 だけど蓋を開ける訳でもなく、ただ両手で持っていた。


「……と、これが千秋さんと初めて会った日の話だ。朝からトラブル続きの散々な一日だったこともあり、和希を含めたいろんな人にご心配ご迷惑をおかけしたが、全体を通して見ると現在にまで影響しているほどの大きな問題は……」


 ちらり、と隣を見たとき、和希が額に手を当てて顔をしかめていることに気付いた。


「どうした、和希」


「いや、どうしたって……」


「何かおかしなところがあっただろうか」


「ああ、北島の過保護な言動は想像がついてたから一旦置いとくとして、やっぱ千秋さんが出てきたあたりからだよな。そんで何処から指摘していいか悩んでたところだ」


 こっちを向いた和希は困り顔のまま、ふう、と鼻で息をつく。


 そんなに問題だらけなのか。その全てを受け止めるだけのキャパシティが私にあるのかどうか心配だ。

 麦茶に口をつけられないまま、おそるおそる訊いてみる。


「簡単に言うとどんな感じだろうか? 私は自己紹介のミス以外に何かやらかしていたか?」


「あ〜、そうだなぁ。まず距離感がバグってるよなぁ、出会ったその日のうちに」


「それはなんとなく思っていたが最初だけだ。圧を感じさせない本社の人なんて私は逆に慣れていなかった。そんな人が不意に現れたから一時的に惑わされてしまったのだと考えられる」


 淡々と説明していた途中で、和希の視線にスン、と冷ややかさが宿ったように思えた。何故だかぎくりとした。


 錆びた機械のようにぎこちなく首を傾げると、数秒の間を置いて彼女が口を開く。



「いや、千秋さんも結構な人たらしなんだけどさ、あんたもあんたなんだよ」


「私……!?」


「そう。むしろ千秋さんがあんたの手を取って立ち上がらせたり椅子に連れて行ったのは単なる親切心の可能性が高い。あんなの誰が見たって酷く落ち込んでるか具合が悪いと思うだろ。迷わず手を差し伸べるかそうでないかの違いだ。私はその後のあんたの発言の方が問題だと思うんだよな」


「私の、発言……」



 思いがけない言葉を受けると、脳内の記憶がゆらゆら揺らいでやがては渦を巻く。

 流れに逆らうようにして私はその中を探っていく。


 何処だ。何処にそんなところがあった。


 こめかみを両側からぎゅうと締め付けられる感覚に呻き、いよいよ限界というところで私は再び和希を見た。

 海中から顔を出したときのように息が乱れる。


「何処が!?」


「ほらな、わかってねぇだろ」


「すまないがどうやってもわからない。“あんたもあんた”ということは、千秋さんの言葉と似たような何かを言っていたということか?」


「……そうじゃねぇんだよなぁ」


 和希がもったいぶるのは意地悪などではなく私自身に気付かせる為なのだろう。そういう厳しさも持つ人だから。


 しかし不得意な分野はとことん不得意。そんな私のことをよくわかっている彼女は、一定の時間を過ぎればちゃんと答えを教えてくれる。

 そのときの眼差しは大抵優しいのだ。



「“また会えますか”って言ってただろ、あんた」



「あっ……えっと……?」


「千秋さんに、次はいつ会えるか確認してただろ」


「あぁ、確かに。私の話に対して千秋さんは何か言いかけていたから、時間のあるときに改めて続きを聞かなければ失礼だと思ったのだが……」


 記憶の渦を掻き分けてその瞬間に辿り着くと、私は当時と同じようにはっと息を飲んだ。

 そして自然と項垂れてしまった。まさに“再体験”だった。


 インクを零したみたいに、罪悪感がじわじわと胸の内で広がっていく。


「そうか……やはりあれは厚かましかったのだな。千秋さんもきっと気を悪くしたのだろうな」


「厚かましいと思うかどうかは人それぞれだろうけど、千秋さんは多分違うだろ」


「え?」


「本当に迷惑だと思ったんなら、もっと適当に受け流すだろ。でもあの人は次に来たときにちゃんと返事するって言ってくれた」


「そう……だが?」


 少しずつ、見えてきているような気がする。言葉に出来るほどではないれど。


 そんな私の隣で、和希はゆっくりとした動きで頬杖をつく。

 気怠い流し目をこちらに送りながらうっすら笑みを浮かべて言う。


「ああいうお人好しで面倒見のいい男はさ、明らかに自分を頼ってる女が目の前にいたら多少なりと意識しちまうもんなんじゃねぇの」


「意識。私を?」


「そうだよ。あんたさ、相手の目線から自分がどう見えるか考えたことある? 小動物みたいな小柄な女なんてただでさえ守ってやりたくなるのに、健気に見上げながら“また会えますか”だぞ。私が千秋さんだったら動揺くらいするね」


「そういう……ものなのか?」


「多分な」


 いい加減汗ばんできた手をペットボトルから一度離し、スウェットの裾で軽く拭いてから蓋を開ける。

 喉に流れ込んできた麦茶は生ぬるい。


「……和希」


「ん、なんだよ」


「念の為確認しておくが、千秋さんが私を意識したというのは、恋愛対象として意識したという意味で合っているだろうか」


「むしろそれ以外に何があるんだよ。そりゃあな、出会ったその日に恋愛対象になるとは考えにくいけど、キッカケにはなったんじゃねぇかって話。事実、あんたが退職する頃にはあんな意味深なメッセージ送ってきてんだぜ。一緒に働いた一年の間に、千秋さんの心に灯った炎は確実にデカくなってたってことだろ」


 体内を静かに伝っていく感触だけを、熱くも冷たくもないそれを確かめているうちに、ふと気が付いた。


「な。もうわかっただろ、トマリ。“声が聞きたい”と言ったときの千秋さんの気持ち……」


 トン、とペットボトルを置くと同時に口から零れ出た。



「いや、あの人はまだ生ぬるい」



 私的にとてもしっくりくる言葉が。



 目をまんまるに見開き、しばらくぽかんとしていた和希が、やがて怪訝な表情になっていく。


「なんだ“生ぬるい”って。何言ってんだ?」


「和希の話を聞いていて思ったのだ。炎と呼ぶには弱すぎるし、恋と呼ぶにはぬるすぎる。何かこう、振り切れていないといったところだろうか……」



「あ〜……つまり優柔不断ってことか?」


「それもあるのかも知れないが、少し理解できた気がしたのだ。あのメッセージを見たときの違和感を」


「なんだよ」



「届くはずのないものが届いていたからだよ」



 今まで目にしてきたあの人のいろんな表情が頭の中を流れていく。

 思い出していく。ありありと。そのときそのときで感じ取っていた“温度”を。時折泣きたくなるような感情を伴って。


 そして今日の昼間に再会したあの人のことも。



「千秋さんは相変わらずだったよ。ふわふわとした不思議な人。本当は人並み外れた情熱を持ち合わせているはずなのだが、肝心なところではぐらかしたり笑って誤魔化すことが前からよくあった。それは相手を傷付けること、あるいは自分が傷付くことを恐れているからだろう。多分そんなのは本人もわかっている。掴みどころがないと思われている方がむしろ楽などと、柔らかな微笑みの下で諦めてしまっているのだ。外見的な魅力は増したが、中身はあの頃のままだったよ」


「お、おお……わりぃ、私そういう比喩とかよくわかんねぇけど、そんなアンニュイな人なのか。意外だな」


「少なくとも私にはそう思える。だからあのメッセージを見て心配になったのは、今思うと必然だった。いつだって相手優先だったあの人が、自分の願望をあれほどストレートに投げてくるなんて信じられなかったんだ。混乱のあまり、どう返事するのが適切なのか私はわからなくなってしまった」


「あんたにとってはあれがストレートなのか。って、まぁそれはいい。とりあえず本人は送ったことを認めてたんだろ?」


「そうだ。あの人は最初“忘れて”と言おうとした。逃げ腰だった。だけど私がそれを拒否したら空気が変わって、あの人の視線を感じて……」


 私はぐっと胸元を握る。ブレるとわかりきっている自分の芯を支えるように。



――トマリ、それって……――


――わ、わかってます!――



「それで、私は……」



――わかってますよ私は。千秋さんはただ私を心配してくれたんだってこと。深い意味はないんでしょう?――



「そうやって今度は私が逃げてしまった。私があの人の大切な何かを狂わせた可能性に気付いて、怖くなったのだ」



 認めたくない事実を自分に認めさせようとするのは実に勇気の要ることだ。

 胸元の手はいつの間にか震えていた。


 静かに聞いていた和希が、やがて目を閉じてうんうん、と数回頷く。



「なるほどな。前から薄々気付いてはいたけど、ついに認めたか」


「え?」


 私が間の抜けた声で聞き返してすぐ、和希の鋭い視線が真っ直ぐこちらへ突き刺さる。



「あんたら、実は似た者同士だろ。真逆に見えるけどそうじゃない」


「…………っ」



「やってることそっくりだもんな。お互いに白黒つかないようにしてる。それを悪いと決めつけるつもりはないけど、曖昧な領域にいることでなんとか自分を保ってきたのも事実なんだろ?」



 空気の塊が喉に詰まったような息苦しさ。脈がドクドクと音を立てる感覚。

 落ち着くまで待ってから、私はやっと頷くことができた。


「おそらく……そうだと思う。生きる世界も成長速度も違うはずのあの人と私が、どういう訳か同じ景色を見ているように思えることが何度もあった」


 それもたっぷりの水で溶いてえがいた水彩画のような景色。滲んだり混じったりして、色の境目がはっきりしない。


 だけど“わからない”なんて答えは、世間の多くの場面では許されないのだろう。

 あの美しいグレーの瞳を見る度にそんなことを思っていたな。



「その点、北島は“お前は俺のモンだ!”と断言するようなタイプだから、あんたからしたら多少窮屈でもわかりやすくて助かるってところか。ん〜、こりゃどっちがいいんだろうな」


 あれほど肇くんを嫌っていた和希が今は迷っているらしい。

 今まで言葉にできなかった私の気持ちがようやく伝わったように思えて、勝手ながら少し救われた気分になる。


「よし」と短く呟いた和希は、脚をあぐらの形に組み直して身体ごとこちらを向いた。


「とりあえず続きを聞かせてくれるか。あんたにとっては思い出したくないこともあるだろうから無理にとは言わねぇんだけど」


 和希がいつの出来事に気を使ってくれているのかすぐわかった。

 でも私の心はもう落ち着いている。はっきりと首を横に振って見せた。


「大丈夫だ。確かに怖かったけれど、もう話せるよ」


「そうか。つらくなったらやめていいぞ」


「ありがとう。長くなるけどいいだろうか」


「元よりその覚悟だ」


 半分まで減った麦茶に視線を落とした。

 生ぬるいのは過去だけで十分だ。後で冷蔵庫に入れ直しておこうと思った。


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