14.それは春の嵐のように(☆)
私が来たタイミングで大量に散った桜の花びら。
あれは祝福なのか、それとも新たな波乱の幕開けを象徴するものか。
あるいはなんの意味もない、単なる自然の現象か。
これはおそらく何かつけて意味を持たせようとしてしまう人間の習性。それゆえに浮かぶ可能性。
だけど今はどれでもいい。
未来を生きることを許されたのなら、もうそれでいいのだ。
少し日の光が落ち着いた気配がする、電車の中。
席がいっぱいだからドアの側に立っていた。でもむしろ少し混んでいるのが好都合と言えるかも知れない。
「大丈夫か、あの子。泣いてるみたいだけど……」
「いや、花粉症じゃね?」
「大変そうだな」
桜吹雪の残像が目に焼き付いて離れないからだろうか。気分の高揚はだいぶ落ち着いているはずなのに未だ涙が流れ続けるというバグが発生して困っている。
うっかり者の私にしては珍しく、ポケットティッシュを忘れず持ってきていたのが幸いだった。もうなくなりそうだけど。
こんな状態の女が席に座っていたら、隣に座る人が居心地悪いだろう。だから立つことになって良かったのだ。
「それにしても半袖って……まだ四月だぞ。寒くねぇのかな」
「ギャルってすげぇな」
いや違う。こっちは出かける際に発生したバグだ。昼間が割と暖かかったのもあるだろうが、きっと浮かれるあまりアウターを着てくるのを忘れたのだと思う。他のギャルは多分もうちょっと考えてる。
そして正直、今は肌寒い。結構後悔している。
見知らぬ人に説明する訳にもいかず、私はただメイクが出来るだけ崩れないように気をつけながら涙を拭う。
もはや最高のコンディションとは言えなくなっている。
だけど実はもう一ヶ所、行っておきたい場所があった。
目的の駅に着いて、電車を降りた。
もう誰も私に注目はしていなさそうだ。涙もやっと引いた。
とりあえずメイク直しをしなくては。そんなことで頭がいっぱいだった。
運命を大きく変える出来事がこの先に待っているとも知らず。
見上げるほど高い、高いビル。
少し前まではこれがとてつもなく難解な壁のようにも見えていた。
でもこれからは私も、この中で働く一員となる。
人一倍輝きたい、一番になりたい、などとは思っていない。
ただ自分が強く興味を持っている分野の知識を活かして、なんらか人の役に立ちたい。
社会と繋がっていたい。少しでも。できる範囲でも。そんな思いでここまでやってきたのだ。
感慨深いものがある。
そう思いながら前へと踏み出した。
先に入ったのはファッションビルの入り口から一番近い化粧室。
思った通り、少しアイメイクが落ちてしまっていた。メイクポーチを取り出して手直ししていく。そんなに長居するつもりはないから簡単にで良いだろう。
おおむね仕上がったところで化粧室を後にした。
ここに立ち寄ったのは、これから働く店舗への挨拶……という訳ではない。
まだ内定だし、勤務を開始するにあたっての具体的な日程が決まるまでは、むしろこちらから声をかけに行くのは控えた方が良いと考えられる。
単に寄りたい気分になったというところだろうか。
このビルの中の主に三階が改装工事を始めているそうで、一番最初にリニューアルオープンしたのがコスメのショップ。
限定色のアイシャドウパレットがここで販売されているらしいというネットの口コミを見て気になっていた。
限定色なんてすぐに売り切れる。そもそも今月の家計がすでに厳しいから今日買おうというつもりはなかったけど、コスメ好きとしてお店の雰囲気は見ておきたいところだった。
内定をもらったcygnetはこの建物の五階だからおそらく気付かれはしないだろうし、お客として来ているのなら問題ない。
建物内のショップの並びを今のうちに見ておける。気分転換にもなる。一石二鳥と言えるだろう。
他の店舗はまだ改装中のところがほとんどで、パッと見は無機質な壁だらけの不思議な光景に見える。だけどその壁には小さな貼り紙で店舗名が記載されているので、なんのお店がここに入るのかわかるのだ。見たところ新店舗もあるらしい。
特設の壁の向こう側では今頃、スタッフと業者の人たちが忙しく開店に向けての準備を進めているのだろう。私も前のお店でリニューアルに立ち会ったことがあるからなんとなくイメージはできる。
目当てのコスメショップをすぐに見つけられたのは両側に花が飾られている派手さもあるが、外に溢れ出すほど人で賑わっていたからだ。
店頭には大抵イチオシ商品を打ち出しているもの。ならば無理もないかと私もそちらへ近付いた。
――あの、すみません。
ふと、周りの女性客のものとは明らかに異なる声色が聞こえたような気がした。
私は構わず店頭に並んでいるアイシャドウパレットを覗き込んだ。目の前のことしか気にしていなかった。
やっぱり限定色は売り切れのようだ。追加分はいつ入荷されるのだろう。でも他のパレットもなかなか良い。テスターで試しておこうか。
「あのっ、お忙しいところすみません! 私、近日中に隣でオープンする『pupa&petal』のエリアマネージャーをやっている者でして、お時間のあるときに店長さんにご挨拶させて頂きたいのですが、本日店長さんは……」
私に、言っている……?
何故。
と、思ったのもあるが、何よりたった今耳にした店名に覚えがあった。
私が前に働いていたショップの名前だ。正確には『pupa』だったけれど、対象とする客層を広げた新ブランドの立ち上げを計画中だと以前聞いたことがあったような。
そしてこの声……
情報量の多さにしばらく固まってしまったけれど、声の主と思われる人の気配が未だ近くに居続けているものだから、私はいよいよ振り返る。
先に視界に入ったのは細く長い指をした手で。私はこちらに向けられている名刺の名をじっと見ていた。
千秋……カケル。
見ていたけれど、理解するまでにだいぶ時間がかかったような気がする。
「あっ、すみません!」
その声は何やら急に上ずって、素早く名刺を引っ込める。
状況が飲み込めず、私は硬直するばかり。
「こちらのお店のスタッフさんかと思ってしまって。お客様でしたか。大変失礼致しました!」
頭を下げたのがわかった。こちらへ影を落としたから。
そうだ、この人と私とではかなりの身長差があるからこうなるんだ。私の顔もまだよく見えていないんだろう。
ふわりと、ウッディノートのフレグランスと思われる大人っぽい香りが鼻腔をくすぐると、傾けた瓶の栓が外れ、中身が一気に流れ込むように大量の記憶が私の中に満ちる。やがては溢れ出してこの身体を飲み込んでいく。
苦しくなるほどのその感覚は、たまらない懐かしさと称するに相応しい。
「あ、あれ? もしかして、君……」
驚き、そして戸惑いの声色だ。
気付いただろうか。そうであろうな。私もやっと確信が持てた。
今はしっかりあなたを見上げている。
見開いたその目は本来、切れ長な形をしている。だけどやや垂れ下がり気味で、左側の泣きぼくろの存在感も相まって、印象的かつ優しげな雰囲気を醸し出している。
黒目と呼ぶには柔らかく淡い、グレーの色をした瞳。カラーコンタクトという可能性もあるが、いずれにしてもよく似合っていると前から思っていた。
すっと通った鼻筋、唇はやや薄くて儚い印象。
だけど幸薄とは程遠い、ギャップのある笑い方を不意に見せつけてくるのだともう知っている。
ぐっと唇を噛み締めた。
忘れてなどいないじゃないかと。
そうだ、この人は間違いなく、こんな顔をしていた。
「トマリ、だよね? びっくりした、まさかこんなところで会えるなんて。久しぶりだね」
ゆっくりと笑みを浮かべていった彼に「はい」と返事をしたつもりだったけれど、実際声になっていたかどうかはわからない。
私の意識は彼に釘付けになり、身体が吸い寄せられていくような感覚さえあった。
その声も、その顔も確かに覚えていた。
でもあなたはだいぶ変わった。
メンズメイクを取り入れている人なのは知っていたけれど、以前は眉を整え、うっすらとブラウン系のナチュラルなアイシャドウが入っているくらいだった。
だけど今はアイラインも引いているだろう。それもダブルアイライン。瞼のキワに沿ったラインは深い赤、バーガンディと呼ばれている色だ。
二重に沿って引いたラインはグレーとベージュの中間くらいの色、いわゆるグレージュ。目尻で少し跳ね上げて大胆なアクセントを作っている。
眉にも色が入っているように見える。
もっとよく見せてほしい。
私は更にぐっとその顔を覗き込む。
「えっ、ちょっ、トマリ!?」
何故私たちはこんなにも背丈が離れているのだろうかと、もどかしく思いながら私はつま先立ちした。
少し見えやすくなった。
やっぱり、眉にパープル系の色が入っている。じんわりと滲ませるように。これはおそらくパウダー素材のカラーアイブロウだ。
唇はほんのり艶を出す程度。色はついていたとしてもピンクベージュ系だろうか。さすがだ。こういった引き算の発想の効果で、甘くなりすぎず大人な雰囲気を保っているのだろう。
「トマリ、ちょっと待って。ここだといろいろマズイというか……」
そして、何よりたまらなく惹かれるのは……
「ねぇ、聞いてる?」
柔らかく、軽やかに揺れた長めの前髪。
頭の上半分の髪を後ろで束ねたツーブロックのヘアアレンジ。
そしてアッシュ系の髪全体に施されている淡い青紫色のハイライトカラー、これだ。
きっと光の加減によって見え方も違ってくるのだろう。
綺麗だ。想像するだけで胸が熱くなる。
フローライトのようで藤の花のようでもある。よくこんなにも自分に似合う色を見つけたな。
私の髪の毛先は、母が送ってくれた満開の河津桜の写真からインスピレーションを受けた。
あなたも何かキッカケがあったのだろうか。
きっと流行の影響だけではない。この人ならいつの時代だろうが何処にいようがこれをやってのけたんじゃないかとさえ思わされるほど堂々としたアイデンティティの体現。
眩しさを目の前にして私が確かに言えるのは、この人が前よりも確実に魅力的になっているということだ。
「トマリ……っ! 駄目だって、近過ぎる!」
「はい?」
「近いって!」
強めの声を受けて我に返ると、目の前には真っ赤な顔を背け、かたく目をつぶっている彼……そう、千秋さんがいた。
私たちの胴体はもう少しで触れそうな位置にあった。
確かに、近いと言えば近い。これは失礼なことをしてしまった。私はそっと距離をとった。
周囲の人々の声がやっと戻ってきて、私の意識を冷静な状態へと導いた。
「すみません、嫌な思いをさせてしまって」
「嫌な訳じゃないよ。ただ、こういうのは僕も勘違いしそうになっちゃうから……」
「勘違い?」
「……うん」
千秋さんの言っていることは、わからないようでちょっとわかる、そんな微妙なニュアンスで届くことがある。
「それに謝らなきゃいけないのは僕もだから」
だけどすんなり伝わってくることもある。
気まずそうに横を向きうつむいていた彼がやがて、ためらいがちな笑みを浮かべて切り出した。
「僕、この後すぐ休憩入るんだけど、ちょっとだけ話できる?」
「大丈夫ですよ。少し話すくらいなら」
私は普通に返事したつもりだったけど、若干棘が出てしまったような気がした。
締まりのない表情を前にして、小さくため息をついた。
勘違いさせているのはどっちだと思わずにはいられない。