12.夜中の悩み相談窓口
紙の上をペンが走っていく音は何故こんなにも心地良いのだろう。
短いタッチには緊張感が、長いストロークには解放感がそれぞれにあり、緩急をつけることで私の空想世界は一層流動的なものとなる。
何処かスポーツにも通ずるものがあるのではないか、などと時々思うのだ。運動音痴だけど。
私はよく、この作業を繰り返すことで迷いから解放され平常心を取り戻すことができた。
しかしやはり、悩みの程度にもよるのだろうか。
「肇くん……」
呼び慣れた彼の名がいつになく哀しげに響き、雨だれのようにぽつりと紙面に落ちていくのが見えるようだった。
ペンを持つ手も止まってしまう。空想世界は霞に遮られるようにして薄れていった。
あの夜は久しぶりに二人きりで過ごせる時間で、私だってそれを待ち望んでいたはずで。
眠る場所も一緒だから、夢現の最中でもお互いの体温を確かめ合い、溶け合い、満たされる、そんな時間を共有していたはず。
だけど……いや、だからなのか。
こうも極限まで近付くと、どうしても伝わってきてしまうのだ。
彼の中で不安定に揺れている気持ち、軋みと痛みを伴うあの振動が私にも届き、まるで自分の身に起きていることのように錯覚してしまう。
そして私は無力を感じ、自分をもどかしく思ったのだろう。
こうやってまた自分の部屋に戻ってきて、一人になってみて、それでもなお拭い去れない考えがある。
やはり、私のせいなのだろうか。
私はまた彼を不安にさせてしまっているのではないだろうか。
でも一体どうしたら……
混沌の渦に飲まれかけていた私を現実へと引き上げたのは規則的なリズムの物音。
テーブルの上で小刻みに動いているスマホを手に取った。和希からの着信だった。
「もしもし」
『おう、トマリ! 話があるだなんて改まって言うから心配したんだぜ。なんかあったのか?』
ちらりと卓上の時計を見る。二十時十五分。おそらく中番が終わってすぐにかけてくれたんだろうと思った。
スマホを耳にあてながら人気のない帰路を辿る和希の姿が頭に浮かぶと、身体の奥がざわざわと騒ぎ出す。
だからすぐにこんな言葉が出た。
「すまない。和希も疲れているだろうに。文章だけでは上手く説明できそうになかったからあのようなメッセージを送ったのだ。急がせてしまったのならすまない」
「え? 私なら大丈夫だけど」
「夜道で電話しているのか。それは危ない。何故なら不審者がいるかも知れないから……!」
「いやいや、私いま自分の部屋だし! 何をそんなに焦ってるんだ」
戸惑いと苦笑の混じったような和希の声を受けて少しずつ、我に返っていった。
「そ、そうか……それなら良かった」
呼吸も徐々に落ち着いていく。悪いイメージは薄れ、宙ぶらりんだった両足が地面の感覚を掴んでいくのがわかった。
「トマリ、私が仕事の後に電話してきたと思ったのか? 私は今日休みだぞ。返事が遅くなったのは昨日職場の仲間と飲み会だったから、ただ寝不足で爆睡してただけだ」
「うん……」
「少しは落ち着いたか。あのな、私はあんたを心配してるんだ。あんたが私の心配をしてどうする」
「すまない」
「いいよ、気にすんな。なんか平常心ではいられないことがあったんじゃねぇのか? とりあえず話してみ」
うん、と頷いた後、幾何学模様が折り重なったような描きかけのペン画を見つめた。
自分で描いておきながら目が回りそうだ。なのに不思議と思考がまとまってくるのがわかった。
今まさにサアッと涼やかな音を立てて視界が広がった感覚だ。
「本題を思い出した。和希、あのときは私のコーディネートを考えてくれてありがとう! 肇くんはとても気に入ってくれた。近いうちに何かお礼をさせてほしいのだが」
『えっ、いや別にお礼とか気にしなくていいって。私もちょうど時間空いてただけだし』
「駅前に新しいケーキ屋さんが出来ていた。良かったら今度ご馳走する。この時期だと苺を使ったケーキが人気らしいのだが、和希の好きな抹茶のケーキもおそらくあるのではないかと思う。つきましては後日改めて……」
『おいおい待てよ、トマリ! ちっとも落ち着いてねぇじゃねぇか。あと十回くらい深呼吸しとけ』
制止され、私の足元は再び揺らぐ。
深呼吸を勧めたはずの和希が間髪入れずに問いかけてきた。
『あのさ、私に感謝してくれる気持ちは嬉しいんだけどよ、本題って本当にそれか?』
「…………っ」
いたたまれない沈黙を、秒針の音が埋める。
目の前にあるのはデジタル時計なのに、私の脳内で起こる現象はいつだってアナログだった。
あの夜は自分一人の力では消化しきれないようなことが何度も起こったから、順を追って話そうと遡って、遡って、遡り過ぎてしまったようだ。
「結婚してほしいって……肇くんが」
『だよな! そっちだよな!? 絶対只事じゃない何かがあったんだと思ってたよ最初から!』
こうして誰かの力を借りなければ話の要点を見つけられない。昔っからこうなのだ。
電気ケトルでお湯を沸かしていたことを今更思い出した。
会話を一旦止めて、一度ドリップコーヒーを淹れることにした。和希も是非そうしろと言う。温かいものでも飲んで落ち着いた方が良いと。
マグカップに唇を近付けると、立ち昇る湯気が思いのほか熱くて反射的にぎゅっと顔の中央に力を込めた。今度は慎重に、少しだけ啜る。
特にコーヒー通という訳ではないのだが、このモカブレンドの香りはなかなか好きだ。
「美味しい」
『少しは落ち着いたか?』
「うん、少し。それにしても和希は何故そんなに察しが良いのだろうか。私自身でさえ見失っていたようなことにすぐ気付いてくれる」
『は? ダチだからに決まってんだろ。っていうか本気かよ、北島の奴』
「長い付き合いだし、お互いに充分大人だし、いつかはそうなるかも知れないと正直思ってはいた」
会話は自然と再開していた。プロポーズを受けた後の流れも、それほど言葉に詰まることもなく説明できた。
電話の向こうで、低く唸るような声が少し聞こえた。やはり心配なのだろうか、和希も。私に年相応の自立心がないから。
「あっ……」
『どうした』
「ちょっと気になったことがあった。大したことではないのだが……」
『あんたの“大したことない”は当てにならねぇけどな。今度は何を隠し持ってんだ』
「それが、実は……」
ぐっ、と拳に力が入った。汗が滲んでるような気もした。
言って良いものなのか迷った。私は出来るだけ波風を立てたくない。
和希が怒ったら? 怖いというより和希をそんな気持ちにさせたくない。
でも、これはもしかしたら私が我慢して済む問題じゃないかも知れないから。
勇気を出して打ち明けた数秒後。
『服を捨てられたぁ!?』
和希の尖った声色が全身にビリビリ響いた。
何故か気持ちが焦り、早急にどうにかしなければと思ってしまう。
「和希、私はその……肇くんに何か考えがあってのことなら仕方ないと思うのだ。ただ……」
『仕方なくねぇだろ! あんたそれは怒っていいところだぞ。あんたがファッションオタクとかいう以前に、人のモンを許可もなく処分するなんてのはやっちゃいけねぇことだろ。あの男、自分の彼女をなんだと思ってる!』
「和希……」
声が震える。味方になってもらえて嬉しいのかどうかわからない、複雑な気分だ。だって代わりに肇くんが悪く言われてる。
それはきっと私が、共感以上に求めているものがあったから。
「私は……っ、心配なのだ、肇くんが」
そう、ただ一緒に考えてほしい。どうか怒らずに。
和希の声はしばらくの間を挟んで返ってきた。
『……あいつの何が心配だっていうんだよ』
「肇くんは二年ほど前から言動に余裕がないように思うのだ。今回のことだってそう。私には、肇くんが意味もなくあんなことをするとは思えない。何故なら本当に優しい人だから」
『意味、かぁ。ん〜……あるんじゃねぇの、あいつなりに。そればっかりは訊いてみるしかねぇだろ。なんであんなことをしたんだ、何かあったのかって』
訊く。それが出来たなら。和希のようなハキハキとしたタイプの人には簡単なことに思えるのだろうか。
私が押し黙ってしまうと、しばらくして気怠そうなため息が聞こえた。困らせているんだろうと思った。
だけど和希はそれでも向き合ってくれる人だった。
『さっき半同棲生活をしてみるって言ってたな。大丈夫なのか、それで。またあんたの私物を捨てられたり、好みを押しつけられることがあるかも知れないんだぞ。相手に悪気が無いなら尚更、ハッキリ言ってやった方がいい。喧嘩くらいまともに出来るようになっておいた方がいいぞ』
「うん……」
『確かに私は北島のことは嫌いだ。でもそれだけの理由で心配してる訳じゃない。こんなことを言ったらあんたを余計に困らせるのかも知れねぇけど……』
和希が珍しく何かためらっているように思えた。
すぐに言葉となって届いてきたけれど。それもあの思い出を引き連れて。
『千秋さんが助けてくれたときだって、ややこしいことになってただろ、あんたら。まだあのときは北島と話したことはなかったけど、あんたが私に相談してくれた内容だったら今でも覚えてる。話を聞いた感じあんたは北島を宥めるので精一杯だった。本当はどうしたかったんだ。今回の件も近いものを感じる。あんたの意思は何処にあるんだ』
肇くんと千秋さん、異なる二人の表情が脳裏に蘇る。何せ全力で忘れようとしてきたから鮮明とは言えない記憶だけれど、それでも心に訴えかけてくるものがある。
あのとき私がどちらと一緒にいた方が安心できたか、一応わかっている。だけどそれだけだ。意思と呼ぶにはあまりに弱い。
『自分より相手の心配をするあんたは本当に優しいし誠実だと思うよ。でもさ、たまには自分の気持ちにもちゃんと向き合ってやりなよ。ゆっくりでいいからさ』
和希が落ち着いた口調で念を押す。
うん、と短く返した後、無性に煙草が吸いたくなった。
深呼吸など上手く出来たことがない、昔から。だから頼ってしまうのも無理はないだろう。