凍えた心の行く末は1
スマホの通知音で目が覚めた。徹夜後の眠りを妨げられたことに若干の苛立ちをおぼえながらも、眠い目を擦ってスマホを開き確認すると、爽夏からの連絡だった。
『やっほー、恵美! 今日の午後ちょっと時間ある?』
いつも急すぎるから大抵の場合断っているが、その下に表示されている通知を見て、一旦返信を止めた。
『昨日の片付けをしているので、よかったら来てほしいです』
湊くんからの連絡。文面から距離感を掴みあぐねているのを感じる。一瞬の逡巡の後、私は爽夏のトーク画面を開くと、『いいわよ』と返信した。正直、今は湊くんには会いたくない。湊くんの連絡には既読をつけず、ベットの上にスマホを放った。なんとなくもやもやする気分を、大きく息を吸って誤魔化す。
「照子しゃん、原稿渡しぇ!」
もやもやが拭えないでいると、突然外から激しく扉を叩く音が聞こえた。何とかと思い、ベッドから体を起こし、こっそり窓から覗き見てみると、玄関先に、母さんの担当編集である八尋亜美さんが立っていた。ああ、原稿の催促か。せっかく東京から来てくださってるんだから、お茶とお菓子でも出してあげよう。そう思って階段を降り玄関の鍵を開けようとすると、母さんが私の手を強めに掴んで止めてきた。睨みつけると、ものすごい勢いで首を横に振る。ちょっと涙目だった。えぇ、可哀想……
「げえええええええんこおおおおおおおおおおおおお!」
母さんに少し同情しかけたが、すぐに亜美さんの咆哮が再び響いた。騒々しい、近所迷惑極まりない。だめだ、ここは一旦家に入れよう。
私は、母さんの手を振り解いて扉を開けた。亜美さんは開いた扉を勢いよく引っ張り、家に上がり込んでくる。母さんが声にならない悲鳴をあげた。
「お、恵美ちゃん、久しぶり! 最近調子良さそうね、応援してるわ! そりゃそれとして照子しゃん、逃がしゃんばい!」
亜美さんは、そそくさと奥に隠れようとしていた母さんの首根っこをガッツリと掴む。
「亜美、なんであんたはるばる神奈川まで来てんのよ!」
「そりゃ、照子しゃんが締め切り三日前から音信不通になったけん! そもそも作家ん原稿は自宅に押しかけてでも取りに行けって、それが編集者ん仕事だって、最初に言うたんな照子しゃんやなかと!」
亜美さんの説教に、母さんはヤダヤダと駄々をこねた。見ていられない。お茶だけ用意して部屋に戻ろうと思い、開け放たれた扉を閉めようとすると、向かいの雄人の家の前に大きな人影が見えた。気になって外に出ると、スーツ姿の怪しげな大男が何やらコソコソと動いていた。
「あなた、何やってるんですか?」
挙動不審な様子に思わず声をかけると、大男が体をビクッと振るわせた。振り向いた拍子にかけていたサングラスが外れ、何故か涙目の瞳が露わになった。綺麗な青色をしている。外国人だろうか。思わず見惚れていると、大男はワナワナと唇を震わせ、慌ててサングラスをかけ直し、私に近づいてきた。私との身長差は、だいたい五十センチくらいある。まあたしかに迫力はあるのだが、さっきの一連の流れを見てしまっているので、あまり恐怖心は感じなかった。なんで雄人の家の前にいたのか、そもそも何者なのか。そんな質問を投げかけようとしたが、そこに突然母さんが割り込んできた。
「ちょっと、クリスじゃない! 久しぶりね、なんでこんなところに?」
「え? あ、照子! 久しぶり!」
いまいち事態が飲み込めない私を押しのけて、母さんと大男が仲良さげに話し始めた。
「元気そうねぇ。いつ以来かしら、デイム商店街の建設以来会えてなかったわよね」
「そうね、なんだかんだ四、五年は会ってなかったわね」
大男と手を合わせながら、ぴょんぴょん飛び跳ねる母さん。アラフィフの女性がやっているとはとても思いたくないはしゃぎようだ。どうやら、この大男と母さんは旧知の仲らしい。にしても、どこで知り合ったんだろうか。
「ああ、そっか、恵美は会ったことないのね」
二人を見つめる私の訝しげな視線に気がついたのか、母さんは私に向き直ると、大男を手で示すと、ご丁寧に紹介を始めた。
「この人は、クリスチアーヌ・エリオン。坂本先生と一緒にデイム商店街を作ったリリアンさんの教え子で、クリスもあの商店街建設の立役者よ」
そこまで言うと、母さんはそそくさと私の後ろに回って両肩を持つと、大男――いや、クリスチアーヌさんと向き合わせた。
「クリス、こちら私の娘の恵美。まだ高校生だけど、もうプロの作家なの! 才能に溢れててすっごいのよ!」
「え! すごい、自慢の娘ですね!」
誇らしげにそう話す母さんの手を、私はすぐさま振り払った。なにやら母さんとクリスチアーヌさんは、かなり親しいらしい。だとしても、私には関係ないことだ。
「クリスチアーヌさんは、さっき雄人の家の前で何してたんですか!」
私が精一杯の大声で怒鳴ると、キャッキャしていた大人二人が急に大人しくなった。母さんが、キョトンとした顔でクリスチアーヌさんの方を見る。
「クリス、何かしてたの?」
母さんの問いかけに対し、言葉に詰まるクリスチアーヌさん。やはりやましいことをしていたのだろうか。私が睨むと、慌てて目を逸らすあたり、ものすごく挙動不審で怪しい。
「アタシは――」
「What are you doing, Christiane?」
「あっ……いや、その」
クリスチアーヌさんが何かを話そうとしたその時、私たちの背後にまた別の大男が現れた。よく見るとその後ろにも小柄な男性が一人いる。サングラスにスーツという身なりは、クリスチアーヌさんと同じ。サングラスのせいで判断しにくいが、英語を話していることも鑑みると、恐らく外国人だろう。クリスチアーヌさんの仲間? それにしてはクリスチアーヌさんが焦りすぎているように見えるけど。
「We just follow orders. It's that simple」
小柄な方の男性の言葉に、クリスチアーヌさん……もうクリスでいいか。クリスは、やっぱりできない、といった意味の英語を返した。それに対し大男が激怒し、クリスに向かって何かを叫ぶ。独特な訛りがあって意味は理解できないが、ものすごい剣幕だ。クリスは片手で突き飛ばされ、尻餅をついた。咄嗟に母さんが駆け寄るが、同じように突き飛ばされる。更に、母さん目掛けて大男の拳が飛んだ。私は反射的に間に割って入り、その拳を受け止めた。なるべく威力を地面に逃がせるような体勢で受けたものの、右腕が激しく痺れた。
「ちょっとあんたたち、何んつもりばい!」
ことの一部始終を見ていた亜美さんが、声を震わせながら叫んだが、それもまた大男の怒声にかき消された。そして今度は、亜美さんに迫っていく。しかし、立ち上がったクリスによってそれは阻まれた。
「beat it!」
そう叫ぶと共に、クリスが大男の顔面を掴み、道路に放り投げた。勢い余って雄人の家のドアに叩きつけられた大男は、すっかりのびてしまった。
「アタシの友達に手を出すのは、絶対に許さないわ!」
「さっすがクリス!」
私たちを守るように立つクリスに、母さんが呑気に拍手を送り、クリスは嬉しそうに頭を掻いた。すっかり油断しているクリスは、これまで何もしてこなかった小柄な男がナイフを取り出していることに気付いていない。そんな状況を好機と捉えたのか、クリスの死角から、頭めがけて男が飛びかかった。
「甘いわよ」
しかし、クリスはノールックで拳を叩きつけナイフをへし折り、もう一発の拳が顔面にクリーンヒットした。小柄な男はものすごい勢いで吹き飛んでいく。そのまま雄人の家にぶつかるかと思いきや、横から現れた何かと接触し、突然道路の真ん中に叩きつけられた。
「雄人の家が壊れるだろうが!」
道路のど真ん中でのびる小柄な男の傍には、氷室さんが立っていた。状況を把握するためか、周囲の様子をよく観察している。突然出現した氷室さんに、私以外みんな動揺していた。まあ、そりゃびっくりするよね。考えるだけ無駄なんだけど。
「見たところ全員でかい怪我はしてねえか。おい恵美、腕貸せ」
氷室さんは私に近づくと、抑えていた右腕にマッサージを始めた。だんだん痺れがひいていく。
「ありがとうございます、氷室さん」
「礼はいい、それより雄人はどこだ」
切羽詰まった様子でそう言う氷室さんの顔に焦りが見え、少し驚いた。そんな表情は今まであまり見たことがなかったから。
「知らないですけど……雄人がどうしたんですか?」
「あいつの命が危ねえかもしれねえ」
苛立ちを隠さずに言い放たれた氷室さんの言葉に、クリスが俯いた。それを見逃さず、マッサージを終えた氷室さんがクリスに詰め寄る。
「あんた、今朝この道ですれ違ったよな……って、ん? あんたどっかで……」
「え? ……あらアンタ、強い女じゃない!」
「強い女じゃねえ、私の名前は氷室凛だ……ってその呼び方、オネエ外国人!」
「オネエ外国人じゃないわ、クリスチアーヌよ!」
どうやら氷室さんとクリスは知り合いのようで、一気に氷室さんの放つ敵意が薄れる。同級生のようなやりとりを、母さんはにこにこしながら見ていた。緊急事態のようなのに、どうしてここまでくだけた空気を作れるのだろうか。呆れを通り越して悲しみさえおぼえる。思わずため息をつくと、自分のもの以外にもう一つ重なって聞こえた。亜美さんのものだった。亜美さんは、母さん、氷室さん、クリスの順に冷めた目で一瞥すると、大きく息を吸い込む。
「黙りんしゃい!」
亜美さんの叫びが、住宅街にこだました。呆気に取られるクリスと氷室さんに向かって一歩踏み出すと、亜美さんは更に捲し立てた。
「悠長に言い争いよー場合やなか! こん状況について何か知っとーなら早う話してくれん? ばり危険な目に遭わしゃれたんばい。誰かん命が危なかとか言うなら、とっとと行動起こしんしゃい!」
相当怒っているのか、いつもより博多弁が強めだ。氷室さんもクリスも内容を理解できていないようで、キョトンとしていた。仕方ない、わかりやすく言い直してあげよう。
「うるさい、黙れ、てめえらいい大人だろうが。この状況の原因をとっとと説明しろ。以上。あなたたち二人が何か知っているのなら、情報を共有してください」
私がそう言い放つと、氷室さんとクリスが揃って頭を掻いた。少しは反省したのだろうか。すっかり塩らしくなった氷室さんが、状況の説明を始めた。
「私はただ、雄人を守りに来ただけだ。さっき高速道路で外人が乗った車に狙われた。事故る直前で車から脱出したから無傷だったが、相手方の車がカーブで事故ってな。運転手を引きずり出したら、手帳がどうのって呟いてやがった。恐らく、東条さんたち―雄人の両親の手帳のことだ」
スーツの内ポケットに手を突っ込んで手帳を取り出した氷室さんの言葉に、クリスだけでなく母さんが目を見開いて驚いていた。
「片方はベネディクトのおっさんから私が貰った。もう片方は、どこにあるかわからない。が、考えられるとしたら、そこだ」
そう言うと、雄人の家を指さす。
「雄人は、親の形見として中身がわからない手帳を額に入れて飾ってる。それも、私が持ってるのと同じような手帳だ。私を狙ってきた奴らは、手段を選んでこなかった。同じような連中が仮に雄人の家にある手帳を狙ってきたら、あいつが殺されるかもしれねえ。そう思ったんだ」
クリスさんは目を伏せ、母さんは両手を口に当てて泣きそうな顔をしていた。氷室さんが二人を睨む。それに対し、クリスが冷静な口ぶりで話し始めた。
「アンタを狙った人たちとアタシたちは、恐らく同じ雇い口よ。アタシたちはこの住所を教えられて、中に侵入して手帳を取ってくるように言われた。命令してきたのは、いわゆるチャイニーズマフィアの下っ端。よくある裏稼業ってやつよ」
その言葉が最後まで言い終わらないうちに、氷室さんがクリスに掴みかかった。
「てめえ、何いけしゃあしゃあとそんなこと言ってやがんだ! 犯罪だぞ!」
「分かってるわ、でもそんなこと言ってたらアタシたちは生きていけないのよ。誰がアタシみたいな戸籍もない外国人を雇ってくれるの? アタシたちはみんな、こうするしかないの。一度逃げ出してしまったアタシたちにとっては、どんな仕事だろうと引き受けて金を稼ぐしかないのよ」
声を荒上げる氷室さんに対し、淡々と答えるクリス。その瞳に光が宿っていないように見えて、ゾッとした。
「ひ、氷室さん、それでもクリスは私たちを助けてくれた。彼なりに、善悪の区別はついているわ」
過熱していきそうな様子に危機感を感じたのか、母さんが慌てて二人の間に割って入り、氷室さんを宥める。敵意を滲ませた視線を向けるのをやめることはなかったが、一応大人しくなった様子を見て、母さんが言葉を続けた。
「……氷室さんの考えている通り、雄人の持っている手帳は彩菜と政人のものよ。私が預かったのを、雄人に託した。中身は見ないように言われてるからわからないけど、きっと知れば危険なものなんでしょう。本当は信之さんに渡すべきだったけれど、雄人にとってあれが唯一両親の存在を感じられるものだったから、そうできなかった。それに、子供が手帳を持っているなんて誰も想像しないと思ったから」
申し訳なさそうな顔をしてそう語ったはいいが、氷室さんの顔は余計険しくなっていく。私や亜美さんはもう話についていけず、困惑していた。
「現状あっさりバレてんだよ、危険が降りかかってきてんだよ! 警察が持ってんのが一番安全に決まってんじゃねえか!」
怒りに歪んだ形相で怒鳴る氷室さんに対し、母さんがもう一度頭をさげる。しかし氷室さんはそれに反応することなく、雄人の家の方を見て大きくため息をついた。
「で、雄人はここにいないのか」
「これだけの騒ぎで表に出てこないってことは、いないか寝てるか……電話かけます?」
「悪い、事故でスマホぶっ壊しちまって。頼めるか?」
私は一旦部屋に戻ってスマホを取ってくると、通話画面を開き、氷室さんに手渡した。氷室さんが素早く操作し、電話をかける。三コールくらい鳴ったところで、どうした? とどこかよそよそしい声が聞こえた。氷室さんの声に困惑している雄人にはお構いなしに現在地を問うと、返ってきた答えは「ベネディクトさんの家」だった。なるほど、昨日の片付けを雄人も手伝っているのか。氷室さんは安堵した様子で、今からそっちへ向かう、とだけ言うと、一方的に通話を切った。
「つうことで、私は今からおっさんの家に向かう。……外国人オネエ、それと照子さんと、あと一応恵美も、一緒に来てくれ」
スマホを私に返しながら、私たちの方に向き直り氷室さんがそう頼んできた。
「ごめんなさい、私は行きません」
母さんとクリスは黙って頷いたが、私は即答で断った。
「爽夏と会う約束をしてるんです。だから東京に行かないと」
「爽夏って……」
「モデルの赤城爽夏ですよ」
「「赤城爽夏!?」」
驚く声が二つ重なる。氷室さんと亜美さんだった。ああ、そういえば二人ともファンだったっけ。
「……有名人の側にいるとなれば、危険な目に遭うこともないか。ならまあ、そっちに行ってもらってもかまわねえ。……もう一回スマホ貸してもらってもいいか?」
氷室さんに言われるがままスマホを渡すと、何やら通話帳に新しい連絡先を追加していた。
「万が一何かあったらここに連絡してくれ」
そう言って私にスマホを返すと、氷室さんはすぐに道の真ん中と雄人の家のドアの前でのびている外国人にそれぞれ手錠をかけ、小脇に抱えて道の端に避けた。
「……私はこいつらの処理してから行くので、二人でタクシー使ってこの住所に向かっていてください。あと、雄人の家の合鍵とかありますか」
そんな言葉にすぐさま反応した母さんが、一度家に入り、またすぐ出てきた。これが合鍵だと言って氷室さんにそれを渡すと、氷室さんは少し低い声でお礼を言った。母さんは、タクシーを呼ぶためにまた家に入っていった。クリスは神妙な面持ちで玄関の脇に立っている。
「てめえも本来逮捕すべきだが、今回は貴重な情報源だ。だが勘違いすんなよ、下手な動きしたら半殺しにしてやる」
氷室さんが今まで見たことがないほど鬼のような形相を浮かべクリスに詰め寄ると、クリスはそんな氷室さんの目を真っ直ぐ見て頷いた。一気に重くなった空気が身体に纏わりついてくるような感覚が不快で、私は逃げるように自分の部屋に戻った。
部屋の中は、まあ散らかっていた。徹夜原稿の名残りだ。仕事モードの時の自分があまりにも母さんの行動と似通っていて、時々嫌になる。それに、原稿のことを思い出すと、嫌でも昨日や今朝の湊くんとのやりとりが脳裏に浮かんでくるから、ため息が出た。
爽夏と会う準備のために姿見の前に立つと、真っ赤に腫れた目の下に濃いくまを作った自分の顔が映る。まったくひどい顔だ。こんな顔で爽夏に会いに行ったら何があったかしつこく聞き出そうとしてくるに決まっている。なんとかメイクで誤魔化そうと、部屋中に散らばった原稿用紙をまとめ、埋もれていた寒色系のコンシーラーを手に取った。積み重なった原稿用紙一枚一枚から、台本の構成やらプロットやらを何度も書いては直した跡が見てとれ、思わずまたため息が出た。
『清野、湊のことを小説にすればいいんだ! 清野が今まで見てきた湊から、湊の内面を想像して、清野なりに小説を書いて湊に読ませんだよ!』
ノートルダムでの木幡さんの言葉は、冷静になった今ではなんて無茶なアイデアだと思うが、実際できてしまったのだから恐ろしい。とにかく湊くんのためになることをしたくて必死だった。でも、結局、関係は変わらないどころが寧ろ後退してしまった気がする。
湊くんに台本を渡したすぐ後に彼のお母さんが来たのは、部屋の窓から見えた。何か話した後、湊くんがお母さんのことを優しく抱きしめていたのも。だからきっと、家族のことはもう大丈夫なんだと思う。少しでもあの台本を読んで彼に何かいい影響をもたらせたのならそれでいい。ただ、これからも今まで通り自然体で接せる自信はなかった。生きている人間が考えてることは、小説みたいに単純じゃない。湊くんに歩み寄ろうと、彼のことを理解しようとする度に、彼の抱えているものの片鱗を目の当たりにして、どんどん足がすくんでいく。
……いけない、気を抜くとすぐに後ろ向きになってしまう。一旦、湊くんのことは忘れよう。そう言い聞かせて再び鏡前に立ち、コンシーラーを目元に塗り込む。くまが薄れ、腫れも隠れた。大丈夫、いつもの私だ。なんだか安心して、力の抜けた手からコンシーラーが落ちた。屈んで拾い上げたその時、ポケットの中のスマホから通知音が鳴った。爽夏からの返信だった。
『やった~! じゃあ神保町の喫茶店で待ってるね! 恋バナいっぱい聞かせてね!』
テンションの高い文面が癪に触る。思わずスマホを壁に向かって投げそうになった。これ以上余計に気分を荒立てないためにスマホの電源を切ろうとすると、再び通知音が鳴った。
『無理しなくても大丈夫です』
今度は湊くんからのメッセージだった。簡素だ。とっても簡素だ。いつもの絵文字とか記号とかたっぷりのものとは大違い。なんだか泣きたくなって、ベッドに向かって思い切りスマホを投げた。
……湊くんが雄人と一緒にいるということは、私が雄人に電話をかけたことを知っている。私が未読スルーしていることもわかっているだろう。せっかく気を遣ってもらっているのに、私は自分勝手にそれを無碍にしている。私は何を望んでいるのだろう。こんなことで、湊くんの注意を引きたいとでも思っているのだろうか。こんな最低なやり方で?
拾い上げたコンシーラーが、再び手から滑り落ちる。考えれば考えるほど、どんどん自分の狡さが、卑怯さをまざまざと思い知らされていくようで、体に力が入らなかった。どうしたって、私の本質は誤魔化せやしない。傷つくのを怖がって他人を傷つける、私の本質は。
私は、醜い。
更新が遅れて大変申し訳ございませんでした。今後は月1ペースで更新していけたらと思っております。何卒宜しくお願い致します。