表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

『高校ファウスト ~悪魔に魂売って卒業までのやりたい放題~』

作者: Reckhen

『高校ファウスト ~悪魔に魂売って卒業までのやりたい放題~』


・天上編


 天使。

 天使の楽団。

 天使の合唱。


 ゆっくりと降りてくる。

 白銀に輝く鎧。

 背には純白の羽。

 ここでは仮に『天使長』としておこう。


「お久しぶりです」

 天使長は笑わない。冷たい表情で見下ろす。


「悪いね。わざわざ」

 対照的な黒いドレス。

 挑戦的な微笑み。

 幼さの残る容姿。

 こちらも仮に『魔王』とだけ記す。


「手短にお願いしますよ」

 天使長と魔王の密会。

 あり得ない。


「つれないねえ、ミカちゃん」

「その呼び方やめて」

 ついつい当時の口調に戻る。

 以前は、魔王が天使長の位にいて、今の天使長はその部下であった。


「また、ウチらを召喚しようとかいう人間いてさ」

「駄目ですよ絶対」

「いいじゃん」

「駄目」

「けちんぼ」

「呼び出された上で、堂々と言われちゃあさ、断わざるを得ないでしょう? 立場ってものがあるでしょう?」

「こっそりやる分にはいいってこと?」

 天使長は顔をしかめた。

「言わせないでください」

「まあ、悪魔のせいにしておかないと、成り立たない正義もあるだろうからな。

 いやいや、今回はそんなことを言いに来たんじゃなかった」

「言ってるし」

「召喚したがってる奴、なかなか変わった人間で、面白いんじゃないかと思って」

「何がですか?」

「賭けないか?」


 天使長の眉がピクッと上がり、魔王はニヤリと笑う。

「この人間の、悪魔に魂を売ってまでやりたいこと。その結果を」

「一時の気の迷いに決まっています。最後には絶対に悔い改めます」

「そう言うしかないよなあ、立場上」

「やかましいわ」

「ルールは可能な限りシンプルにしよう。

 あんたの言う通り、どこかのタイミングであの人間が悔い改めたら、あんたの勝ち」

「悔い改めなかったらル……、貴方の勝ち、と」

「悪魔に魂を売って、しかも最後まで悔い改めない。

 こんな奴はもう地獄落ちで文句はないよなあ?」

「神は一人もお見捨てになりませんし、悔い改めない人間はいません」

「じゃあ地獄落ちになった人間は今まで一人もいないんだ?」

「それは悪魔の所業です」

「私も? 私って悪魔のせいで地獄に落ちたの?」

「……貴方の場合は、自由意志というか、自業自得っていうか、……話が逸れてませんか?」

「そうだった。久しぶりに話せて嬉しくなっちゃって」

 魔王は立ち上がり、黒いドレスの裾を直し、右腕を掲げる。

「メフィストフェレス!」

 魔王の声に呼応するように、音もなく、一体の悪魔が現れる。

 黒いロングコートを着ている。

「お呼びでしょうか? 偉大なるルシファー様」

 メフィストフェレスは魔王の元に跪く。

「はっきり名前を呼ぶんじゃないよ」

 魔王はメフィストフェレスの頭をぴしゃりと叩いた。

「ええ?」

 メフィストフェレスは驚いて魔王を見上げる。

「駄目なんですか?」

「何となくだよ。察しろよ」

「私の名前はいいんですか?」

「何? 文句?」

「いえ、とんでもございません」

 再びメフィストフェレスは頭を下げる。

「どうだい、ミカ……、じゃない、天使長、こいつを派遣しようと思う」

「ふん、汚らわしい悪魔の分際で、我らと同じ見た目とは、さぞ上位の悪魔ということなんでしょうね」

「お褒めにあずかり光栄に存じます。偉大なる大天使ミカエル様」

 メフィストフェレスは皮肉な笑顔で言う。

「コラ!」

 天使長もメフィストフェレスの頭をぴしゃりと叩いた。

「今のはわざとだろ」

「何のことでしょう?」

 メフィストフェレスは頭をさすりながらとぼける。

「まあいい。

 メフィストフェレス!

 お前を、我が代理人に指名する!

 奴に仕えよ!

 その対価を奴の魂で支払わせよ!

 期間はなるべく短く!

 すぐに結果が出るように!

 奴の血で証文を書かせろ!」

「心得ました」

「何が何でも!

 奴の魂を地獄に落とせ!

 そのために何でもしろ!」

「メフィストフェレスは偉大なる地獄の大魔王に誓います。必ずや! 奴を堕落させ、地獄に引きずり下ろすと」

「……なんか、出来レースに乗せられたような気もするけど……」

 ここに来て天使長が不安げな顔になる。

「降りるのかい?」

「私は、そして我々天使は、人間の善なる光を信じるだけです」

「賭けは成立だな。行ってこいメフィストフェレス!

 その人間の名は、不破崇人ふわ すうとだ!」


・地上編


○序章


 私の名は不破崇人ふわ すうと

 高校三年生。

 成績は最底辺。

 全く運動はできない。

 友達は一人もいない。

 もちろん彼女などいたことはない。

 趣味は他人を馬鹿にすること。

 最近は、死ぬことばかり考えている。


「……アーケロン川の彼岸よ、コキュートスの星々よ、我に力を与えよ……」

 目下の課題は、悪魔を召喚すること。

「……こうして振りまく、シャネルの香水にかけて、聖霊よ、我が呪文に応えよ……」

 真夜中の公園、サイクリングロードもある大きめの公園にいる。

「……地獄の大魔王よ、大魔神よ、ルシフェルにしてルシファーよ。

 我が祈りを聞き入れよ。

 フライドチキンの贄にかぶりつけ……」

 十字路に魔方陣を描き、悪魔を呼び出す儀式を執り行っている。

 生け贄はハードルが高いのでフライドチキンで代用している。

「……アドナイ、アリエル、アルモアジン、サルフェ、その他、諸々の名において、順不同、敬称略……」

 スマホの画面を見ながら私は呪文を唱える。

「……偉大なる大魔王よ、代理人を差し向けよ……。

 我は訴える! メフィストフェレスを喚び出せ! メフィストフェレスよ!」

 どの悪魔を呼び出すか迷ったが、やはりちょうど良さそうなのはこれだろうと。

「……、……、また失敗か……」

 周囲に何ら変化はない。

 私は立ち膝の姿勢から立ち上がる。

「内心、信じてはいないのだが」

 まさか自分でも実行に移すとは思わなかったけど。

「やっぱりフライドチキンじゃ駄目か……」

 リトライするなら、生きた鶏でも用意したいが、どうやって手に入れればいいのか。

 地面に書いた魔方陣に足で砂をかけていた、その時。


「何か用か! 不破崇人!」

 地面が割れ、地下からどーんと人影が飛び出してきて、私は尻餅をついた。

「えええ?」

 私は恐怖におののき、目を見開く。

「我が名はメフィストフェレス!

 偉大なるルシファーの代理人!

 貴様の呼びかけに応じ! 貴様の要望通り! 地獄からやってきたぞ!」

 その者は、黒いロングコートを着ている。

 その者の、顔色は青白い。

 その者は、ロングソバージュである。

 その者は、宙に浮いている。

 私はパニックに陥り、口をパクパクしている。

「……何とか言ったらどうだ、不破崇人」

 その人物、おそらくメフィストフェレスは私の近くに降り立った。

「……フライドチキンいかがですか」

「そんなものは欲しくない。俺が欲しいのは、貴様の魂だ!」

 メフィストフェレスが顔を近づけてくる。私は尻餅の姿勢のまま後ずさる。

「なんと、魂と言った……。我が訴えに応え、、私と契約しようというのか?」

 パニックが徐々に収る。いきなり殺される訳ではなさそうだ。

 まさか、道で拾った魔道書が本物だったとは。

「そうとも不破崇人。俺が貴様と契約する。貴様の血で書かれた証文を以て」

 私は立ち上がった。尻についた土を払う。

「やけに気が早いな。悪魔メフィストフェレス。

 その力が本物かどうか、試させてもらってからでも早すぎることはあるまい?」

「くだらないな。人間の分際で我が力を試す? ならばその目にしかと焼き付けよ!」

 メフィストフェレスが右腕を振るう。

 無数の光弾が発射され、公園の植木を次々と吹き飛ばした。

「うわー!」

 衝撃波により私の体も吹っ飛ばされる。また尻餅である。

「貴様の望みは何でも叶えてやる。

 貴様のために俺はなんでもやる。

 貴様の魂と引き換えにな!」

「ちょっと待て。私の魂にはそれほどまでに価値があるのか?」

 悪魔の言うことをどこまで信用してよいものか。

「疑いたければいくらでも疑うがいい。不破崇人、俺と契約を結ぶのか? どうなんだ」

 このチャンスを逃すのは惜しい。

 それに、契約したくて悪魔召喚の儀式を行ってきたのだ。

「言ったな、メフィストフェレス。

 いいだろう! 我が魂などいくらでもくれてやる!

 私と契約し、私の下僕となれ!

 私の命令に従え!」

「当たり前だ。そのために来たのだ。

 そのためには、血の証文が必要だ。何度も言わせるなよ」

 メフィストフェレスはどこからかナイフを取り出した。

「今? ここでか?」

「他に、いつ、どこでやるのだ?」

 メフィストフェレスの目に馬鹿にするような色が浮かぶ。

 私は他人を馬鹿にするのは好きだが、馬鹿にされるのには耐えられないのだ。

「やってやるとも。だがその前に、証文の内容だろう! 中身も読まずにサインなどできようか?」

「貴様が望んだ契約だ。本来なら契約の条文も自分で考えてほしいものだが。高校生に契約書は酷か」

 また馬鹿にされた。私は歯を食いしばる。

「たたき台があればありがたい。日本語で頼む」

「そう来たか」

 メフィストフェレスはどこからか羊皮紙を取り出す。

「では、私は腕を切ろう。その血でお前、メフィストフェレスが条文を書く。最後に私がサインする」

「それで行こう。不破崇人」

 私はナイフを受け取る。思った以上に重たい。

「これで、このナイフで、私の左腕を……」

 とても良く切れそうで、どれくらい切れば、どれくらい血が出るのか、切りすぎるのも嫌だし。

「どうした? 早くしろ」

 メフィストフェレスがニヤついている。

 私はナイフを持ったままで左腕の袖をまくり上げる。

「むむむ……」

 ナイフを左腕に当てるが、そこから進まない。

「誰かに右腕を掴まれているかのようだ。

 何者だ!

 ……私の耳にささやく声が聞こえる……。

 この呪われた契約をやめろ、と!」

 気のせいかもしれない。いや、はっきりと聞こえる。

「怖じ気づいたな! 恐怖のあまり幻聴か?」

「幻聴なのか? いいや、確かに聞こえるぞ!」

「どんな声だ?」

「何て言うか、上から? 偉そうに言ってくる!

 全ての人間は神に服従するのが当たり前だと言わんばかりに!」

「おっと、さては……」

 メフィストフェレスは何かに気がついたのか、不敵に笑い、中空を見上げた。

「心当たりがあるのか?」

「こういうやり方はフェアじゃないですよねえ?」

 メフィストフェレスは私を無視し、空に向かって怪しげな手振りをする。

「途端に声が消えた! 教えてくれメフィストフェレス。先ほどの声の主は?」

「言えることと言えないことがある。これは言えないことだ」

「契約を交わしたとしても教えてくれないのか?」

「そうだ。貴様は俺と契約したいのだろう? それを邪魔する存在だ。貴様が知る必要がないことだ」

 声が止まったので私は落ち着きを取り戻す。再び左腕を伸ばし、ナイフを当てた。

「どれくらいだ? メフィストフェレス、証文を書き上げるのに、どれだけの血が必要なのか?」

「まだ怖いとみえる」

「怖いものか! 必要以上の血が無駄になったら嫌だというだけだ」

「若いのにねえ」

「関係あるか!」

 メフィストフェレスは笑って私に向き直る。顔には入れ墨にような模様が入っていた。

「一滴だ。一滴の血で十分だ。後はこちらでなんとかする」

「早く言ってよ」

 私は安堵し、ナイフを握り直し、薄皮一枚だけを切るべく目をこらす。

「早めに頼む。またいちゃもんを入れられない内に」

 良く切れるナイフであった。そっと撫でたくらいで、じんわりと血が滲む。痛みはほとんど感じない。

「どう? 出たよ、血、これくらいで大丈夫?」

 見せつけるようにメフィストフェレスに腕を差し出した。

「本当に一滴だな」

 メフィストフェレスは苦笑しながら、私の腕に手のひらをかざした。

 もう一方の手でなにやら印を切る。

「おお? 血が空中に!」

 一滴の血が引き延ばされ、空中に広がっていく。

「早速行くぞ。『一つ、悪魔メフィストフェレスは、不破崇人の命令に何でも従い、何でも教える』」

 宙に舞う血が一筋に伸びてゆき、文字となって漂う。

「日本語だ!」

 アルファベットの筆記体なら格好ついたろうが、いかんせん、日本語じゃないと私には読めないので、仕方ないところだろう。

「『ただし、守秘義務に該当する事項においては、情報の開示を拒否する権利を悪魔メフィストフェレスは有する』。これはさっきの話だ。言えることと言えないことがある」

「何でも教える、と語っていながら、ダブルスタンダードではないか?

 まあいい。同じことを議論し続けても時間の無駄だ」

「聞き分けのいいことだ。

 次の条文。『一つ、上記の項目が履行され、後述する契約期間が満了し、不破崇人が合意した暁には、不破崇人の魂を、魔王ルシファー、ないし、その代理人、悪魔メフィストフェレスに譲り渡す』」

 ここでメフィストフェレスは私の方を見た。

「魂……、ああ、くれてやるとも。そのために召喚したのだから。だが、魔王ルシファーについては教えてくれるのだろうな」

「後でゆっくり説明してやろう。契約が締結されてからな。だが不破崇人。他にもっと気にしなくちゃいけない部分があるだろう?」

 私がポカンとしているので、メフィストフェレスは宙に浮かぶ言葉の列を一部分なぞった。「『後述する契約期間』……。確かに、重要なファクターだ。

 その期間の中でだけ、私の命令に従うというのだな?」

「そうだ。どうする不破崇人? 貴様が自由に決めていい」

「千年、と言ったら?」

 メフィストフェレスは笑いながら上空に飛び上がった。

「寿命だろうと、事故だろうと、貴様がくたばれば魂は自動的に俺のものとなる!

 そして貴様の寿命を延ばすことはできん!」

「我が寿命が尽きるまで私に仕えるというのか?」

「そうなるな。だが! その場合は! 明日の朝に事故で死んでも文句は言わせないぞ」

 ゆっくりと降りてくるメフィストフェレスを私は睨み付けた。

「邪悪な悪魔め。寿命が尽きるまで私を守れと命令しても、事故に見せかけて殺すつもりだな?」

「察しがいいな。いや、邪推が過ぎるというべきか」

 その時、またしても私の耳に囁く声が聞こえる。「なるべく長い期間を要求しなさい。若い過ちを悔い改める時間を残せるように」と。

「ええい! 黙れ黙れ! また邪魔をされてるぞメフィストフェレス! お前が語りたくないという存在から!」

「もたもたしてはいられないな。早く期間を設定しろ。深く考えず、勢いで言えばいい」

「適当なことを言いやがった。悪魔の囁きだ」

 私は耳を塞いで頭を振るが、脳内に響く「悔い改めよ」の声は消えない。

「ちなみに、期間は短ければ短いほど良い。俺のモチベーションが上がる。貴様が要求する以上のものをもたらすことだってあるかもな」

 インセンティブを持ち出してきた。メフィストフェレスの声も耳を塞いでもビンビンに聞こえてくる。

「メフィストフェレス、我が決意の固さを見くびらないでもらおうか」

「楽しみだな! 聞かせてくれ、不破崇人! その決意とやらを」

「……卒業までだ」

 脳内では「この馬鹿が」というような趣旨の声が響いている。

「言ったな! 高校卒業まで! それで構わないな?」

 一瞬、大学……、と言おうとしてしまったが、決意は固いのだ。

「当たり前だ! 見くびるなったら見くびるな! 高校卒業! あと6ヶ月だ!」

 どうせ召喚実験が失敗していたら、ここの公園で枝振りの良い木を探すつもりでいたのだ。

「……」

 メフィストフェレスは応えない。

 黙ったまま空中の文言に追加する。『一つ、契約期間は不破崇人が高校を卒業するまで、すなわち、本契約調印日より、1999年3月25日、阿波曇あばどん高校の卒業式までとする』。

「なるほど、よく調べているな。我が高校の卒業式の日取りまで筒抜けだ」

「本当に、これでいいんだな?」

 神妙な顔つきになったメフィストフェレスが念を押してくる。

「……いや、ちょっと待て、なんだこれは?」

 私は目を見開く。

 止まったと思っていた腕の傷の血が、新たな文字として、私の腕の上で蠢いている。

「あの手この手で邪魔してくる」

「読めるぞ。『逃げろ。愚か者』。はっきりと書かれている!」

 文字列が勝手に動き、私の腕に張り付いている。

「決意の堅さはどこへ消えた? こんなものに惑わされるな」

 メフィストフェレスに腕を叩かれる。文字も叩き落とされた。

「はっ! ……。これも同じ奴らの仕業か」

「そうだ。急げ」

「最後の文章。『上記契約成立の証として、ここに記名する』とあるな」

 メフィストフェレスが羽ペンを差し出してきた。私はナイフと引き換えに受け取る。

「印鑑は持っていないだろ? サインだけで構わない」

 契約する意思さえ見せればよいのだろう。

「羊皮紙って初めて触った」

 ゴワゴワしている。手に持ったままサインできそうだ。

「その血で書き記せ。それで証文が完成する」

 ようやく、といった感じでメフィストフェレスが言う。

「すぐに仕上げてしまおう」

 羽ペンも初めて使う。宙に浮かんだ私の血にペン先を浸すと、毛細管現象で吸い取っていく。

「ちっ……。不破崇人、俺はちょっと外れる。サインだけ頼む。いいか、深く考えなくていいぞ」

 メフィストフェレスはまた空へ飛んでいき、すぐに見えなくなった。

「何をしに行ったのか……、また脳内の声が消えた」

 上空から言い争うような声と、爆発音が聞こえてくるような気がする。

「今のうちにサインをしておけということだな」

 私は羽ペンを構え直す。

「不思議な重さだ、引きずるように重い。心が躊躇しているのか?」

 改めて契約の条文を読み返す。

「……メフィストフェレスは何でも不破崇人の命令に従う、。

 期間は高校卒業まで。

 それが満了したら……、魂を明け渡す……」

 私はサインを中断し、羊皮紙を丸め、天を仰いだ。

「私はいたって無宗教なので、魂だの! 死後の世界だの! ましてや生まれ変わり、輪廻転生などは信じない。

 この公園へは死に場所を探しに来たようなものだ。悪魔召喚の実験など一時の慰みにすぎぬ。

 死など怖くない! 地獄堕ちなんて嘘っぱちだ!

 ならば、もう一度試してみよう。

 ……だめだ! サインしようとすると腕が震える!

 不破崇人よ! お前の勇敢さはどこへ逃げ出した? いつの間に萎れてしまったんだ?

 明日の追試に落ちたら留年してしまうのだぞ! 数学の! はっきり言われてないが、そうに決まっている!

 だから今夜の内に悪魔と契約しなければならないんだ!

 私は人生に絶望し! 未来に絶望し! 数学に絶望し! 宗教を否定した!

 私は! 強力な悪魔メフィストフェレスを従えるほどの、偉大な男となるのだ!

 今まで私を馬鹿にしてきた奴らに仕返しし!

 今まで私を気にも掛けなかった女子からはモテモテとなり!

 今までチンプンカンプンだった数学のテストで良い成績を収め!

 高校を代表する存在に成り上がり!

 そのまま高校を卒業するのだ!

 卒業した後のことなど知ったことか!

 卒業までが私の人生、私の一生だ。それで構わない。男に二言はない。

 ……。

 さあ、サインを書いたぞ。我ながら下手な字だが、読めなくはない。

 これでいいのか? メフィストフェレス」

 私は後ろを振り返る。メフィストフェレスが立っている。

「待ちくたびれたぞ。……それでいい」

 メフィストフェレスの顔は怒っていなかった。

「では、契約成立ということだな?」

 私は巻いた羊皮紙をメフィストフェレスへと差し出す。

「不破崇人、確認だ。その証文を、俺に、悪魔に渡すのか?」

 頭の中ではいつの間にか音楽が鳴っている。悲しい音色のクラシック曲だ。

「……受け取れ。悪魔にくれてやる」

 私は目を閉じ、そう言った。少し震えるような手でメフィストフェレスは受け取った。

「……」

 メフィストフェレスは羊皮紙を広げ、じっと文面を見る。そして満足気に頷く。

「うう、ううう……、なんだ? なぜ涙が……」

 私は溢れる涙を手で拭う。悲しい訳ではないのに涙が止まらない。

「記念すべき最初のご奉公だ。派手に気晴らしと行くか!」

 メフィストフェレスは頭上で手の甲と甲とを打ち鳴らした。逆拍手というやつだ。

「うおお! 地面が割れる!」

 尻餅をついた私の周を取り囲むように、人影が六体ほど、地下から現れた

「ロックンロール!」

 メフィストフェレスがシャウトする。現れたのはゾンビで、ギターやドラムなどの担当楽器を鳴らし出した。

「メフィストフェレスがボーカルか。ハードロックだ」

 普段は全く聞かないジャンルだが、凄まじい大音量を間近に浴びて、徐々に私の心も躍り上がる。

「とーろーろーのー雑炊ー!!」

 メフィストフェレスが目の前で絶叫している。私も思わず笑顔になり拳を突き上げた。

「うえっふー!」

 曲が終わり、バンドゾンビーたちは地下へと帰っていった。

「さあ、不破崇人。なんでも命令するなり質問するなりするがいい」

「アンコール! アンコール!」

「しょうがないな」

 その後、五曲ほど披露してもらい、私の魂は満足し、不安が塗りつぶされた。


○第一章 怠惰 ~悪魔でカンニング~


 私とメフィストフェレスは、早速、自室へ戻り、これからについて会議することにした。夜中の十時過ぎだ。

「明日、そしてまた明日」

 私は温め直したフライドチキンを食べながらメフィストフェレスと話す。

「明日、何があるんだったかな」

「追試だ! 数学の!」

 一軒家に一人暮らしなので、大きめの声を出しても迷惑がかからないのだ。

「数学Ⅱ……、最近の高校生は難しい勉強をしているなあ」

 メフィストフェレスは馬鹿にするように教科書をめくっている。

「明日の放課後に追試がある。赤点を取ったものが対象だ」

 中間テストは十六点だった。目を疑った。

「どんな問題が出るかは事前に教えてもらえるんだろ?」

「よく知っているな。このように、プリントが配られ、この中の問題がそのまま出ると言われている」

 お情けというやつである。救済措置ともいうか。

「答えもろとも丸暗記すればいいではないか?」

 三枚のプリントをめくりながらメフィストフェレスがバカにしている。

「……嫌だ」

「あ?」

「どうしても嫌だ! やる気にならない! サインコサインタンジェント! 実生活で一体いつ使うというのか!」

 私は髪の毛をかきむしる。数学アレルギーである。

「追試も赤点だったら?」

「留年だ! 離れて暮らす両親にも連絡が行くだろう。

 お宅の息子さんは頭が悪いので留年です、と。

 そうなれば、私はもう、生きていけない……」

「頭が悪いんじゃなくて勉強を怠けてるからだろ。七つの大罪の一つ、怠惰というやつだ。それも含みで頭が悪いやつだが」

「お前に私の気持ちが分かるものか! この悪魔め!」

「勉強をサボり続けた挙げ句に悪魔と契約してズルして試験をパスしようとする、まさにうってつけの逸材よな」

「うるさい!」

「契約したのだから、貴様の命令には従おう。どうしたい?」

「決まっているだろう。満点だ! 楽して満点を取らせろ!」

「ではこいつをやろう」

 メフィストフェレスは一枚の紙を取り出した。

「ただの紙ではないか」

「悪魔のカンニングペーパー、悪魔カンペとでも呼ぼうか」

「なんと! 文字が勝手に動いている!」

 薄いタブレット端末のようなものか。

「貴様にしか見えない。他の人間には透明に見える」

「プロンプターのようなものだな!」

「このカンペに俺が課題プリントの答えを映してやる。お前はただ書き写せばいい」

「ありがたいメフィストフェレス。これなら合格したも同然だ」

 私はため息をつき、悪魔カンペを抱きしめた。

「今晩はもう勉強はしないのだな? ではこれはやろう」

 メフィストフェレスは更に、雑誌のようなものを一冊、どこからか取り出した。

「今度は……、エロ本か? ありがたいが、普通のエロ本では……」

 今日、スマホがあればエロには困らないというのに、なぜわざわざ紙の雑誌を、と数ページめくって私は目を見張った。

「二十年前の『でらべっ○ん』だ。気に入ったか?」

「ど真ん中ストライクじゃないか! ありがとう、ありがとうメフィストフェレス!」

「泣くほどのことか」

「早速この部屋から出ていってくれ」

「ハッスルしすぎて遅刻するなよ」


 翌朝、メフィストフェレスに起こしてもらった私は、遅刻することなく高校へ着いた。

「確かに、私以外には見えないようだ」

 悪魔カンペを授業中にヒラヒラさせてみたりしたがクラスの誰も気にする様子がない。

 休み時間、追試を受けることについて嫌なクラスメイトから冷やかされるなどされた。

「忌々しい! メフィストフェレスに言って懲らしめてやる!

 だが今はカンニングに注力しなければ」

 放課後になる。

 校内放送で「追試を受けるものは十三教室へ」とアナウンスが入る。

 私はクラスメイトの嘲笑を背に浴びながら教室を出た。


 十三教室は荒んでいた。いわゆる不良、素行の悪い生徒の掃き溜めと化していた。十五人ほどの選ばれしクズどもだ。

「よう、見た目ガリ勉なのに追試っすか?」

 前の席、前歯が欠けているタイプの生徒が話しかけてくる。私は無視をする。

「俺、カンニングすっけど、チクったら殺すかんな」

 笑いながら言う。私の机の上には悪魔カンペが広げてあるが、やはり見えないらしい。

「どうやってカンニングするんですか?」

「言うかアホ」

 やがて教員がやってきてテスト用紙が配られる。悪魔カンペも出しっぱなしである。

「はじめ」

 教員の声でテスト用紙をめくる。全部で五問。一問二十点か。

 机の右にテスト用紙、左に悪魔カンペ。左から右へと書き写してゆく。

(順調だぞ)

 三問目まで来たとき、教員がスタスタと近づいてきて「お前、カンニングしてるだろ」と小声で言った。

「ふぇ?」

 全身の毛が逆だった。

(なんでバレた?)

 声の方向を振り返る。

「お前じゃない」

 教員のターゲットは私の後ろの席だった。

 泣きそうな声の女生徒と教員とで少しやり取りがあり、女生徒は退出させられた。

「……」

 教員は戻ってくると私の目の前に来た。

(どうやら疑われているらしい。あからさまに動揺してしまったからな)

 悪魔カンペは出しっぱなしである。

(ここまでマンツーマンでマークされて見つからないのだから、やはり本当に見えてないのだな)

 五問目、最後の問題。私の手がピタリと止まる。

(なんと? 数値がプリントと違うではないか!)

 四問目はでは丸暗記でいけたが、五問目だけは応用問題になっている。

(思わず「数値が変わってるじゃないですか」とクレームを入れそうになった)

 何と比較しているんだ、ということになってしまう。私もそこまで愚かではない。

(どうするか。四問だけ正解でも追試はクリアできるのだろうか)

 ちらっと教員を見る。教員は「数値が違うのに気づいたか、よく勉強したな」とでも言わんばかりにニコリとした。

(……何だか申し訳ないな。全く勉強してないのに)

 私はすっかり白けてしまい、五問目については手をつけずに追試会場を後にした。


 帰り道、校門の横にメフィストフェレスが立っている。

「黒ずくめの男が突っ立っている。怪しさこの上ないな」

「どうだった? 追試の出来は」

「大きな声で言わないでくれ」

「心配ない。俺の姿は他の人間には見えない」

 じゃあ教室にも入ってもらえばよかったな。

「五問中、四問はできた。というか写せた。悪魔カンペのおかげだ。ありがとう」

「それにしては浮かない顔だな」

「パスしたかどうか分からないからね」

「ならば俺が見てきてやろう」

 私の返事を待つことなく、メフィストフェレスは風のように消え去った。

「気持ちはありがたいが、もう採点しているのだろうか」

 ここで待っていても仕方ない、もう帰ろうと振り返り歩きだそうとすると、またしても風のようにメフィストフェレスが現れた。

「おい、貴様、自分の名前を書き忘れていたぞ」

 気が遠くなった。

「そういえば書いた記憶がない。ああ! どうしよう!」

 私は校門の前でへたり込んだ。

「そそっかしい奴め。俺が代わりに書いてきてやったから安心しろ」

「そんなことできたのか? 恩に着るぞメフィストフェレス!」

 私はメフィストフェレスの足にすがりつく。

「それと、五問中、二問の正解で合格させる予定だったらしい。良かったな」

「ああ! ああ! どんなにかこの瞬間を待ちわびたことか! 苦悩からの脱出! ストレスからの解放! 我が精神は地獄の苦しみから抜け出した!」

「ははは。地獄から抜け出したなどと。貴様の地獄落ちはもう決まっているというのに」

「何か言ったかメフィストフェレス」

「何でもない。さあ帰ろう不破崇人。とびきりのフランス料理をごちそうしてやろう」

「おごってくれるのか?」

「本気で言っているのか? 俺は構わないが、フランス料理店に行く服はあるか? マナーは知っているか?」

「イヤなことを言う悪魔だ。知ってて聞いているのか」

「フライパン一つで作れる極上のフレンチをお見舞いしてやろう」

「うちで作るのかよ」


 自宅、ジャージ姿で、箸で、フォアグラのソテーをつついている。

「旨いけど、単品だと飽きるかな」

 舌にカロリーを感じている。

「貴様が望めば、いくらでも作ってやるぞ」

 黒いエプロンを着けたメフィストフェレスが言う。

「座ったら?」

 私が食べている間も、メフィストフェレスはずっと腕を組んで立っている。

「貴様は俺の契約主、いわば主だ。今のところはな」

「だから?」

「主と下僕が同じテーブルにつくのは、おかしいとは思わないのか?」

「そういう常識みたいのに疎いのが私の悩みでもあり、他人とわかり合えない部分でもある」

「問題点を認識しているのに、改善する意志はないのか?」

「うるさいやい」

 下僕のくせにズケズケと言ってくる。

「俺には気を遣わずにいてくれて構わない」

 メフィストフェレスはどこからか赤ワインを取り出し、ラッパ飲みを始めた。

「下僕が主人の前で酒を飲むのも常識なのか?」

 単に私と同じテーブルにつきたくないだけではないのか。

「何か質問はないのか不破崇人」

 少しトロンとした目でメフィストフェレスが言ってくる。

「どうせ肝心な所は教えてくれないのだろう?」

 契約書に『守秘義務』があるのが私にはずっと引っかかっていた。

「教えられることは何でも教えてやる。教えられないことは、貴様が知らなくてもいいことだけだ」

「詭弁は止めてくれ。メフィストフェレス。私が知らないなら、私に必要かどうか分からないではないか」

「言い方を変えよう。貴様が知っても知らなくても、結果に影響しないということだ。不破崇人、貴様の地獄行きは決定しているのだから」

 私は不機嫌に頬杖をつく。

「では聞こう。メフィストフェレス。教えてくれ。地獄とは何だ?」

 卒業式後に私の魂が連れて行かれる場所について知っておきたい。

「行けば分かる」

 メフィストフェレスはぶっきらぼうに言い放ち、また赤ワインを飲む。

「確かにそうかもしれないが、前もって知っておいた方が、心の準備ができるだろう?」

「必要ない。心の準備など」

「お前はそういうが、知らないままで置いておかれる身にもなってくれ」

「そいつはできない相談だ。なぜなら俺は知っているからな」

 またメフィストフェレスは酒をあおる。

「……って、教える気ないのか!」

 私はカッとなってテーブルを叩いてしまった。

「フッ。それでいい。悪魔召喚士らしくなってきたぞ」

「それならば……。

 我、不破崇人は、悪魔メフィストフェレスに命じる! 地獄とは何だ! 答えろ!」

 私は立ち上がり、それっぽく言ってみた。

「いいだろう! 不破崇人! 貴様ら人間が地獄と呼んでいるものについて教えてやる!」

 メフィストフェレスは空になった赤ワインの瓶を放り投げた。

「人の家でポイ捨てしないでよ」

「地獄とは、俺たちにとって見れば『仮の宿り』みたいなものだ。来たるべき日に備え、力を蓄える場所であり、時間でもある」

「いつまで地獄に滞在しているのだ?」

「それは分からない。だが、いずれ、必ずその日は来る」

「何が起こる日なのだ?」

「それは言えないし、俺も分からない」

「肝心な所までくると、はぐらかすよな!

 言えないということは、知っているということではないのか?」

「大まかには知っているさ。だがそれは教えられない」

「粘ってもらちがあかない。では地獄の場所について聞こう。地獄とはどこにある?」

「ここには無いが、どこにでもある」

「また訳の分からないことを言って煙に巻こうとしている!」

「どこでも地獄になり得るということだ。光の届かないところならな。これ以上は教えられない」

「光が届かないなら、洞窟は地獄か? トンネルは?」

「教えられないと言ったぞ」

「またそれか」

 だんだんイライラしてきた。

「じゃあヒントだけやろう。光とは、日光や電灯のことではない」

「何だそりゃ」

 スピリチュアルな事象かしらん?

「言い方を変えれば、地獄とは、魔王ルシファーの統治下にあること全てを指す」

 メフィストフェレスは魔王の部分で右手を自分の胸に当てた。

「おう、それそれ。何者なのだ、そのルシファーとは」

 ファンタジーのゲームなどで聞いたことはあるが、実際はどんな奴なのか。

「会えば分かる」

 またメフィストフェレスにぶっきらぼうに言われた。

「強いのか? レベルはどれくらいで倒せる?」

 何か引きだそうと、わざと挑発的に言ってみた。

「はーっはっはー!」

 メフィストフェレスは笑いながら次の赤ワインを手に取った。

「何がおかしい?」

「人間ごときが! どんなに体を鍛えようとも、トラ一匹も倒せないだろう!」

 確かに、生身でトラを倒せと言われてもきついけれども。

「ルシファーはトラより強いのか?」

「当たり前のことを聞くのはよせ」

「人間だって、徒党を組んだり、兵器を開発するなどすれば、トラ一匹くらいなら倒せなくも無いだろう」

「トラは例えだ」

「分かっとるわ」

「偉大なる地獄の大魔王ルシファーの威光を知りたいと本気で望むなら! 不破崇人! それなりの覚悟が要るぞ」

「そう興奮するなメフィストフェレス。何もお前の親玉を馬鹿にしている訳じゃない。どんな奴か知りたいだけだ」

「親玉? そう、親玉だ! 全ての悪魔の総元締めだ!」

 メフィストフェレスが斜め上を指さす。

「何だ? 幻影か?」

 映し出されたのは、悪魔の大群の映像であった。

 コウモリの羽を生やしたり、尻尾があったり、火を噴いたりしている、いわゆる悪魔っぽい造形の群れである。

「これはほんの一部にすぎない。地獄の悪魔は軍団制を採っているが、何十万という軍団を統帥し、支配しているのが大魔王ルシファーだ!」

「おぞましい見た目だなあ。これが悪魔か」

 私は映像をのぞき込む。一匹一匹、デザインが違うし、凶悪そうであり、話を聞いてくれそうにない。

「これらの一体でも、人間ごときが束になっても適わない強さと狡猾さを持っている。だから不破崇人! 間違っても我々悪魔に逆らおうなどと思うなよ!」

 しげしげと映像を見つつ、ふと私は違和感に気がついた。

「そういえば、メフィストフェレス、お前本人は、見た目がこいつらとは大分違って、何て言うか……」

 トカゲっぽくない、って言ったら怒られるかもしれないので言わなかった。

「おお! よく気がついたな! それでこそ我が契約主だ!」

 メフィストフェレスはとても嬉しそうだ。

「何が?」

「見た目が! 他の悪魔より! エレガントでスタイリッシュだと! そう言いたいんだな?」

「言ってないよ」

「俺は悪魔の中でもトップエリートだ!

 自分で言うのも何だが、魔王ルシファーがその代理人に指名するほどの!

 だからこそ! 魔王ルシファーに似た姿で存在することを許されている!」

 誇らしげにメフィストフェレスは胸に手を当てる。

「許されているとは?」

「見た目を変えるだけなら三流の悪魔にだってできるさ。だが、普段の姿形は、ルシファーのようであってはならない。地獄の掟だ!」

「さっきから気になっているんだが、ルシファーに似た姿というが、人間の姿のようでもあるぞ?」

「……ああ?」

 悦に入っているところに水を差されたのか、メフィストフェレスが睨んでくる。

「だって、二足歩行だし、服着てるし、羽ないし、尻尾も……」

「黙れ人間!」

 メフィストフェレスは声を荒らげ、宙にフワッと浮いた。

「人間に似ているんじゃない! 人間が似せて作られたのだ!」

 両腕を広げて怒鳴られた。

「何に似せて?」

「……それは言えん」

「そうだろうと思った」

 もう大体察しは付いているし、メフィストフェレスが私に言えないことのジャンルについても見えてきたが、言ったら怒られるだろう。

「魔王ルシファーの偉大さについては分かってもらえたか?」

 深呼吸しながらメフィストフェレスが降りてくる。興奮を静めようとしているらしい。

「では次の質問だ」

「まだあるのか。いや、なんでも答えよう」

「魂についてだ。魂とは何だ?」

「そんなことも知らないのか?」

「私はいたって無宗教なのだ。死後の世界など信じておらぬ」

「……それでよく悪魔を召喚しようとしたな」

「私の魂とやらは、地獄に行ったらどうなる?」

「永遠に呪われる」

「もう少し具体的に教えてくれよ」

 地獄については、仏教の地獄絵図や、他の宗教のもののイメージはある。

「知らない方がいいぞ。これは、守秘義務とは関係なく、親切心で言っている」

 メフィストフェレスが同情するような目になった。

「血の池地獄とか?」

「なんだそれは。知らないな」

「私も詳しくないが、血の池に落とされるんじゃないか」

「浸かってるだけ? 何の目的で?」

「私に聞かれても困る。有名かなと思っただけだ」

「よく分からんが、もちろん、地獄とはそんな悠長なものではない」

「例えば、どんなのがあるんだ?」

「アトラクションじゃないんだぜ。そうだな。地獄とは、階層に分かれている」

「何層くらいの作りだ?」

「見る者によって異なる。

 全ての者に共通して言えるのは、最下層が一番厳しいということだ。

 魔王ルシファーがおわす場所だ」

「下に行くほど厳しくなるのか。我が魂はどのくらいの層に連れて行かれる?」

「知らない方がよいと忠告したぞ」

「構わない、教えてくれメフィストフェレス」

 イヤな予感しかしないが。

「では言おう。もちろん! 貴様の魂は! 最下層まで持って行く! 魔王ルシファーの下へな!」

「そうであった。契約書にも書かれている。我が魂はルシファーにくれてやると!

 それで、その後はどうなる?

 我が魂はどんな扱いをルシファーから受けるのだ?」

「本当に、知りたいのか? 不破崇人」

 メフィストフェレスが神妙な顔で圧をかけてくる。

「いや、やっぱりよそう。行ってから考えよう」

 決意が揺らいでも困るし、今さら契約を無しにできるはずもない。

「賢明なことだ。知らない方が幸せなことがある。そのことが理解できない人間が多すぎる」

「心当たりがありそうだな」

「人間の好奇心、探究心、知識欲! 非常に厄介なものだ。身を滅ぼすこともあるというのに」

「おっと、まだ質問は終わっていないぞ、メフィストフェレス」

「……賢明じゃなかった」

「魔王ルシファーは、なぜ私の魂を欲している?

 人間はそこらじゅうにうじゃうじゃといて、魂だっていくらでもあるだろう?

 なぜメフィストフェレスほどの悪魔を派遣してまで欲しがっているのだ?」

「なかなか鋭い質問だ。いや、当然の質問か」

「これも言えない?」

「……言えないな、詳しくは。ただ、言えるとすれば」

「珍しい。何か教えてくれるのか?」

「貴様の魂は選ばれた。うってつけだからだ」

「何に? 誰に選ばれた? ルシファーがそう言っているのか?」

「それは……、教えられない」

「ほらね! だと思った!」


○第二章 怒り ~悪魔でマント登校~


翌朝。

「ああ、やっぱり学校に行きたくない!」

 私は玄関で駄々をこねた。

「どうしたんだい? 不破崇人くん」

 のんきにメフィストフェレスが聞いてくる。

「いつも私をからかってくる三人組がいるんだ。昨日も追試を受けることをバカにされた。私は他人をバカにするのは大好きだが、バカにされるのには耐えられんのだ!」

「では、その三人組をどうしたい?」

「殺せ」

「心得た」

「いいや待て。いきなり殺してしまうの面白くない。ないか? もっとワクワクするようなアイデアは?」

「頭に鹿の角を生やしてやるのはどうだ?」

「……それの何が面白いんだ」

「時代に合わせたアイデアが必要か」

 メフィストフェレスは腕を組んで悩みだした。どこか楽しそうだ。

「まずは私をバカにしないようにしてもらいたい。それが最低限の望みだ」

「欲のないことだ。ならば、その最低限の望みの上を行かねばなるまい」

 メフィストフェレスは大きめな黒い布を引っ張り出してきた。シーツか、ブランケットか。

「いや、これは、マント?」

 黒いマントを、メフィストフェレスは私の肩にかける。

「気に入ったか? 似合うぞ」

 私はマントの裾をつかみ、バサーっとしてみた。

「ずっとやってみたかったんだ! 礼を言うぞメフィストフェレス!」

「むろん、ただのマントではない。様々な呪文が封じ込まれている。悪魔のマントだからな」

「空を飛んだりもできるのか?」

「もちろんだ。試してみるがいい。崖の上から」

「おおっと! 事故に見せかけて殺すつもりだな!」

 私は笑いながら言った。

「どんな呪文が発動するか、お楽しみというところだな」

「それにしても、目立ち過ぎはしないだろうか。憧れのマント登校とはいえ、変な目でジロジロ見られてもかなわない」

「大丈夫だ。目くらましの呪文もかけてある。恐れるな。外へ踏み出すのだ」

「本当だろうな」

 私は試してみるべく、マント姿で外に出てみた。

 近所の人たちが無言で通り過ぎる。確かに、こちらをジロジロ見るようなことはしない。


 マントを着けたまま電車に乗る。席はチラホラ空いている。

(誰も私のマントを気にかけないようだ)

 調子に乗り、座っている女子の前でマントを閉じたり広げたりしてみる。

「どうだ、呪文の効果は」

 メフィストフェレスが堂々と話しかけてくる。

「目立つじゃないか。話しかけてくれるな」

「案ずるな。俺の姿は他の人間には見えない」

 ロングソバージュにロングコートの悪魔が電車内にいるのに、確かに誰も見ていない。

「独り言を言っているように見えているのか?」

「それもマントの呪文が効いている。誰も気にしない」

「サラリーマンの頭を引っ叩いてもいいのか?」

「さすがにバレるな、それは」


 マントをなびかせて高校へ向かう。他の生徒も歩いている。

「マントを着けているだけで気持ちの高ぶりがぜんぜん違う!」

 大きめの独り言にも誰もこちらを見てこない。

「はしゃぎすぎるとバレるぞ」

「おっと、そうだった」


 教室に入る。

 いつもと違い、マントを着けているので、足取りも颯爽としている気がした。

 自分の席につくと、早速、三人組が近寄ってきた。

 メフィストフェレスは少し離れてニヤニヤとして見ている。

「どうだった追試はー?」

 三人組の一人が嫌味を放ってきた。

「昨日までの私だったら、今の一言に深く傷つき、一日中嫌な気分でいただろう。

 だが今や! 私にはこのマントがある!」

 私は三人組の目の前でマントをバサーっとひるがえした。

「……」

 三人組はキョトンとしている。

「?」

 私はメフィストフェレスを振り返った。奴は相変わらずニヤついているぞ。

「まあ見ていろ」

 メフィストフェレスの余裕の様子に私も落ち着きを取り戻し、キッと三人組を見返す。

「う、ううう……」

 三人組が一斉に頭を抱え、うめき出した。

「マントの効果か?」

 再度メフィストフェレスを振り向く。まだニヤついている。

「……何かが頭の中に入ってくる……、ああ、むかつく!」

「本当だ! イライラする!」

「これは、怒りだ!」

 三人組は同じように一斉に怒りだした。

「七大罪の一つ、怒りだ」

 メフィストフェレスが後ろから私に囁いた。

「私に向けられる怒りか?」

「いいや。見てろ、見物してろ」

 余裕タップリなメフィストフェレスに促され、私も三人組を観察する。

「むかつくんだよ! この野郎!」

 三人組の右側が、真ん中をぶん殴った。

「ええ?」

 私は手を広げて後ずさった。いきなりの暴力の発露。

「やったな!」

 真ん中が右側を殴り返す。

「顔面に! ノーガードだ!」

 至近距離でのバイオレンスに私の目は釘付けです。

「やめろよ! お前ら!」

 左側が割って入る。

「うるせー!」

 左側が真ん中と右側に殴られる。

「くわー!」

 左側は奇声を発しながら飛びかかる。

「三つ巴である!」

 私は興奮している。

 他人同士のバイオレンスがこれほどアミューズメントだったとは知らなかった。

「おいおい、どうしたんだ?」

 他の生徒も気がつき出す。三人組が取っ組み合いをしているのだ。

「目立ちだしたぞ」

 メフィストフェレスは笑いながら近づいてきた。

「お前次第だ、不破崇人。死ぬまで戦わせてもいいし、止めることもできる」

「殺し合うことまでは望まないが、止める? 私にケンカを止めろというのか?」

「止めろとは言ってない。止めることができると言っただけだ」

 私はクラス内を見回す。どつき合う三人組を中心に、他の生徒は遠巻きに見ているだけだ。

「血も流れ出した。教員が来るまで待っているべきか、止めるべきか」

 ケンカはマントの呪文によるものだし、マントの所有者は私である。

「止めるのは簡単だ。やめろと言えばいい」

「それもつまらないな。クラス中の人間が見ている」

「お前の好きにするがいい、不破崇人。今までお前がやりたくてもできなかったことを」

 メフィストフェレスは窓枠に寄りかかり、足を組んでこちらを見ている。

「ああ、やってやる。やってやるぞ!」

 私は意を決し、勢いよく立ち上がった。

「なんだ? 不破の奴が立ち上がったぞ? ケンカを止めるのか?」

 野次馬が実況してくれる。

「とう!」

 私は椅子を足場に、机の上を上る。

「ええ?」

 野次馬もあっけにとられる。

「なんだオラ!」

 三人組もケンカを止めて私を見上げる。

「クラスの全員が私に注目しているのを感じるぞ! 全身に鳥肌が立つ!」

 これが私がやりたかったことかは分からないが。

「怒りの根源か!」

「お前のマントを見てたら無性に腹が立ってきたぞ!」

「謝罪しろ!」

 三人組が机の上の私を取り囲む。

「はーっはっは! どうしたそんなものかお前らの怒りは! ほれほれ、このマントももっと良く見るがいい!」

 私はマントの裾を右に払う。その動きに合わせるように三人組は机を右方向に回る。

「何てクールなマントなんだ……」

 野次馬から感嘆の声が漏れる。

「そうれ、今度はこっちだ!」

 マントを左に払えば、三人組も向きを変え、左方向に回り出す。

「どうしたんだ」

「体が勝手に」

「不破ごときに」

 悔しげな三人組の恨み節が心地よかった。

「もう授業が始まるぞ! 怒りに捕らわれた愚かしいものども! これでも食らって正気を取り戻せ!」

 机の周りを回っている三人組の頭を、私はポンポンポンと順に叩いた。

「ふわわー」

 頭を叩かれた三人組は一人ずつ折り重なって崩れ落ちていく。

「このざま、しかと覚えておけ! 私を馬鹿にしたらどうなるか!

 もっとひどいことをされたくなかったら、二度と私になめた口をきくんじゃないぞ!」

 マントを翻し、机の上でポーズを決めた。

「すげえ、不破にあんな特技と度胸があったなんて」

 野次馬が私を称えている。

「ああ、聞こえる! 私を賞賛する民どもの声だ!

 生まれてこの方、初めての経験だ! 気持ちよい!

 もっと欲しい! もっと褒め称えよ!

 この欲望は底なしだな! 褒められた瞬間からもっと欲しくなっている!

 ずっと馬鹿にしてきた連中を懲らしめることもできた。

 やらないでいることも選択できたが、私は懲らしめることを選択した。そして成功した!

 もう奴らを気にしないでいいんだ!

 私は自由だ!

 今までの不安、恐怖、苛立ちが嘘のように晴れていく。

 私は解放された!

 賞賛される喜びと! 解放された喜び!

 二重の喜びは全身を駆け巡り、脳髄をシビれさせる!

 これが! ああ、これこそが! 勝利なのかー!」

「もう教員が来ているぞ、不破崇人」

「赤点の解消に引き続き、学校に行きたくなくなる要素が払拭された!

 もう、朝を恐れることもない!

 月曜すら! 恐れずに済むのだ!

 東から昇る太陽を! 恨むこともなくなる!

 登校の電車に乗るか乗らないかで迷うこともなくなる!

 この心! 羽でも生えたかのように軽やかだ!

 我が人生で、こんな日を迎えるなんて、想像もできなかった!

 私は! 今! 自由なのだー!」


○第三章 大食らい ~悪魔でデリバリー~


 昼休みとなった。

 三人組はケンカの件でしょっ引かれ、おそらく停学となるだろう。

 私も当事者として校長室へ呼び出されたが、何の落ち度もなく、純粋な被害者であり、しかもケンカを仲裁したとして最後は褒められながら退室した。

「校長室なんて初めて入ったな」

 応接セットがあって、そこで聴取を受けたのだ。

「やあ、不破くん。一緒に食べないか?」

 男子生徒が二人、私に話しかけてきた。手には弁当を持っている。

 私は思わず「えっ? 僕と? 一緒に? いいの?」と舞い上がってしまうところだった。

「私は落ち着いている。

 今まで私に友人がいたことはない。当然、お弁当も一人で食べていた。

 うらやましいと思ったことはない。ないはずだ。

 そもそも何故他の人間と合わせて食事しなければいけないのか。野生生物なら食料は奪い合うはずだ。とても落ち着いて食えたものではない。

 それとも原始時代か? 分業制で煮炊きしていたとでも?

 なんていう強固な信念を持っていた私だが、どうしたことか?

 一緒に食べようと言われてトキメキを感じた!

 男同士なのにな! 気持ち悪いな!」

「朝はすごかったよね」

「ああ、あんなことするタイプだとは思わなかった」

 二人組男子生徒はすでに机をくっつけ、弁当を広げようとしている。

「他の生徒もこちらの様子をうかがっているようだ。この二人は先遣隊といったところか」

「その、マントは、どうしたんだい?」

 恐る恐る、といった感じで一人が聞いてくる。

「これかい?」

 私は立ち上がる。二人はビクッとする。

「今はいいよ」

「安心してくれたまえ。机の上に乗ったりはしない」

 私はマントの裾をヒラヒラさせた。

「買ったのかい?」

「もらい物だ。詳しくは言えないがね」

 私は指を鳴らした。

「何の用だ不破崇人」

 メフィストフェレスが反応する。他の生徒には見えていないはずだ。

「食べ物関係で魔法はないか? マントを褒めていただいたお礼に、皆さんに振る舞えるような」

「七つの大罪の一つ、大食らいだな。結構なことだ」

「早くしないと皆さんがお弁当を食べ終わってしまうぞ」

「ありとあらゆる珍味を世界中から持ってくることができる。貴様が望むものは何だってな」

「海鮮はどうだ? トロやイクラやウニが食べ放題だったら!」

「造作もないことだ。この国の漁港でまかなえるではないか。こっちは地球の反対側からでも持ってきてやるのに」

「魚介類が苦手な生徒がいるかもしれない! イタリア料理はどうだ? パスタ食べ放題は!」

「パスタは原材料費が高くないから有り難いな」

「スパゲティやホールトマトをまとめ買いする気だな? ならばフランス料理だ! フォアグラとトリュフを食べ放題で!」

「待て不破崇人、それらは珍味で高額だが、たくさん食べられるものではないぞ。日本の高校生がトリュフ食べ放題で喜ぶとは思えないな」

「中華料理!」

「間違いないだろうな。一流のコックを派遣させよう」

「今から料理している時間はないぞ。完成品を持って来い」

「心得た」

 メフィストフェレスが風のようにいなくなる。

「どうしたんだい?」

 二人組は不安そうに私を見ている。

「お弁当は未開封ですな。ちょうど良かった。

 私から皆さんに、ささやかな贈り物がございます。

 わずかばかりですが、食べ放題制となっております。ビュッフェともいいます。バイキングとはいわないようです最近は。

 色々取りそろえてございますよ。

まずはこれ! ……これは何だ? フランス料理か? トリュフ? トリュフだそうですよ! 皆さんがお好きな!

 次は海鮮! ……こちらの方は? ……板前さん? お金持ちがホームパーティーするときにお寿司屋さんごと持ってくるやつですね! お疲れさまです! 生ものが大丈夫な方は是非!

 もちろん中華もありますよ! どれも贅の限りを尽くした最高級品です! 高級ホテルのパーティー用に用意していたものを特別に融通してもらいました。

 って、もう行列ができてますね! やはり海鮮が強い!」

 プロの板前さんの前に生徒が並んでいる。板前さんは手際よく寿司を握っていく。

「メフィストフェレス、板前さんを増員したほうが良くないか?」

 並ぶのを諦めた生徒がフランス料理を取ったりしている。

「案ずるな不破崇人。俺に任せろ」

 メフィストフェレスは懐からネックレスを取り出した。ドクロの飾りがついている。

「怪しげなアイテムを取り出したな」

 私は指さして言う。メフィストフェレスはネックレスを板前さんにそっとかけた。

「ギギギ!」

 にこやかだった板前さんの表情が一変し、青ざめ、顔にタトゥーのような模様が入る。

「おお! 寿司を握るスピードが!」

 私は手を叩いて笑う。呪いのネックレスの効果だろう、寿司を握る手が目にも止まらぬ速さで、先ほどの十倍くらいはありそうな生産効率であった。

「皿に置くのすら時間が惜しい。直接、口に放り込め」

 メフィストフェレスは冷淡に命じる。生徒が口を開けて行進するのに合わせ、板前さんは握り寿司を一貫ずつねじ込む。

「寿司ネタはランダムとなっておりますがご了承ください」

 そこは高級寿司店の出張。嫌いな寿司ネタでもそれなりに美味しいはずだ。

「これって不破くんが用意したの?」

 二人組が聞いてくる。すでに手には中華料理バイキングが山盛りになっている。

「ささやかながら、ほんの気持ちです」

「もしかして、お金持ちだったのかい?」

「ははは、まあ、そんなところです」

 羨望の眼差しで見られている。私はくすぐったさに身もだえした。

「こんなに美味しい物を食べちゃったら、弁当なんか食べる気にもならないよな」

 もう一人が言う。私はハッとして床にぶちまけられた弁当を見た。

「親が作ってくれたお弁当だろうに、もったいない……」

「何を言う。貴様のせいだろう不破崇人」

 メフィストフェレスは私の方を見ながら床に落ちたタコさんウィンナーを拾い、自らの口に運んだ。

「私は良かれと思って……」

 慌てて周囲を見渡す。食べ物があちこちに散乱し、中には食料を奪い合う生徒もいる。

「大食らいを舐めるなよ。不破崇人。人間の、食に対する貪欲さを」

「これではまるで浅ましい野生動物ではないか! なんということだ!

 ちょっと! 殴ってまで食べものを奪い合わないで! 他にも美味しいものはあるでしょう。ダメだ。理性を失っている!

 そこのあなたも! 食べすぎじゃないですか? ワイシャツのボタンがはちきれそうですよ!

 ……なんです? 私のせいだと仰る!

 私が美味しいもの提供したから?

 食べすぎで体を壊すなんて、本末転倒もいいとこだ!

 メフィストフェレス、そろそろ引き上げろ。昼休みが終わる」

「確かに時間だが。彼らは受け入れるかな?」

「お前の言う通り誰もが我を忘れて食べ続けているが、目の前から食べものが無くなれば諦めるんじゃないか?」

「やってみてもいいが次は貴様が標的になるぞ。食い物を奪われた恨みを引き受けてまで、自分が犠牲になってまで、こいつらを食欲から救済したいのか?」

「救済だと? ……ふん! こんな奴らどうなろうと知ったことではなかったな! 今までさんざん私をバカにしてきた愚か者どもが、悪魔の運んできた残飯に群がり、貪る景色だ! 壮観だ!」

「貴様ならそう言うと思っていたぞ、不破崇人」

「チャイムが鳴った。昼休みの終わりを告げているな。なあメフィストフェレス、教員が入ってきたら、飛び切りのご馳走をお見舞い申しあげろ」

「ラーメンなんてどうだろう?」

「何でもいい。カップラーメンだって構いやしない! 食欲の地獄に引きずり込みさえすれば!」

「本当に、それでいいんだな? 不破崇人」

 メフィストフェレス私の目を見てゆっくりと言う。私は頷き返す。

「どんな美味しい料理だろうと、食べるかどうかは本人の責任だ! 健康を害するくらいなら食べなければいいのだ!

 私が悪いんじゃない。私は悪魔に頼んだだけだ。お昼ご飯に美味しいものが食べたいと!

 食べものの奪い合いで怪我をするなんてのは以ての外! 類人猿すら、群れの中では譲り合うと聞くぞ! お猿さん以下の奴らに付き合ってはいられないのだ!

 ……うまそうなカップラーメンが現れた。悪魔の仕業だ。

 コラコラ! お前ら用じゃない。お前ら大人しく大トロでも食ってりゃいいんだ。

 教員はまだ来ないのか? もうとっくに昼休みは終わったぞ」


○第四章 色欲 ~悪魔でシャイボーイ~


「うきゃぁぁー!」

 後ろの方から女子生徒の悲鳴が聞こえる。

「なんだ? まだ食べものの奪い合いか?」

 振り返れば一人うの女子生徒が頭を抱え、何事がわめき出している。

「あれはクラス委員じゃないかな」

 もちろん名前など覚えていない。メガネで地味な感じのクラス委員なのだけかろうじて知っていた。

「こいつは……。けっ! 来るぞ!」

 メフィストフェレスは何かに感づき、毒づいている。

「知り合いか? メフィストフェレス」

「ああ、お互いに知ってはいる。が、話は合わない。俺と正反対と存在だ」

「悪魔の正反対! 私にも察しがつく!」

 クラス委員はやがてダラリと両腕を垂らし、虚ろな目となり、ヨダレまで垂らしている。

「私の中に……、天使さまが……」

 そして尋常じゃない様子で何か言っている。

「憑依か、降臨か」

 私はメフィストフェレスを見た。敵対する間柄なのだろうか?

「天使さまが私に言うの……、食べるのをやめなさい、やめなさい……」

 クラス委員は口走りながら教室の真ん中にフラフラと進み出る。

「完全に目がイっちゃってる! 中に天使が入っているのか?」

 メフィストフェレスは応えず、笑いながら中空を睨んでいる。

「……やめなさい! 悔い改めなさーい!」

 おとなしかったクラス委員は絶叫し、そこら辺にあった椅子を軽々と掴み、放り投げた。

「うわー!」

 椅子が投げられた方向には板前さんがいた。お寿司セットごとひっくり返る。

「なんてパワー! 女子とは思えない!」

「悔い改めなさい! 悔い改めなさい!」

 クラス委員は机を頭上に持ち上げ、食べすぎ男子たちに投げつけたりする。

「ぎゃー!」

 生徒たちは散り散りに逃げまどう。

「こちらには攻撃してこないな」

「マントの呪文があるから見えないんだな。だが時間の問題だ」

 板前さんは廊下へと逃げていき、入れ替わりに教員が入ってきて、パニックを起こしてアタフタしている。

「彼女を止めなさい!」

 教員の号令に何人かの男子生徒が掴みかかり、クラス委員を羽交い締めにした。

「離せ! 天使さまの命令よ! 悪魔よ去れ!」

 頭のネジがぶっ飛んだボリュームでクラス委員は叫び続ける。隣のクラスからも見物人が来る。

「……来たぞ」

 メフィストフェレスがつぶやく。その目が睨んでいる方向には、いつの間にか天から光が差し込んでいた。

「何かが降りてくる!」

 天井をすり抜けて、半透明の存在がゆっくりと降りてくるのが見えている。

「デザイン的にはベタだが」

 白い服、長い金髪、背中に羽。

「ここらを守護する天使だな」

「お前に気がつかないのか、メフィストフェレス」

「ランクは俺の方がずっと上だ。目くらましの呪文で見えてないんだろう」

「ならば何故勘付かれた?」

「それは今からアイツが説明するさ」

 メフィストフェレスは腕を組み、壁に寄りかかった。

「悪魔の術を使い、無垢なる少年少女に毒を食らわせ、大いなる罪の道へと歩ませようとする者がいる」

タックルしてくるラグビー部員を吹き飛ばしながらクラス委員は言う。

「毒と言った。メフィストフェレス、どういうことだ? 本当に毒が入っていたのか?」

「さあ、なんのことかな」

「直ちに悔い改め、懺悔しなければ、ここら一帯を天使の名にかけて焼き尽くすと! 天使さまが仰るのです!」

「可哀想に、受験のストレスだね」

 教員がクラス委員の説得を試みているが、全く話が通じそうにないのは教員自身も分かっているだろう。

「三十秒ー」

 唐突にクラス委員がカウントを始めた。

「何の秒読みだ?」

 メフィストフェレスに聞くが黙って首を振られた。

「ゼロになったら焼き尽くします、二十八秒ー」を始めた。

 カウントがゼロになる前に自首しろということらしい。

「それにしては時間の猶予が少なすぎやしないか?」

 私はまたメフィストフェレスを見るが、まだ堂々として壁に寄りかかっている。

「この女を中心に十キロ四方を焼き尽くします、二十三秒ー」

「熱い!」

 クラス委員を押さえていた体育会系どもが慌てて離れる。

「人体発火現象か! どうする? といっても、あと二十秒で十キロ先まで逃げられるわけがない!」

「そんなことはないぞ不破崇人。俺は一瞬で、地球の反対側にも行ける。貴様を連れてトンズラするなんてのは朝飯前だ」

「我々だけ逃げるというのか?」

「それが悪魔というものだ。悪魔と契約した貴様もな」

「彼女らはどうなる? 十キロ以内に住んでいる方々は?」

「なあに、ハッタリさ。あの天使はザコだ。大した火力は持っていない」

「十キロがハッタリだったとして、実際はどれくらいの火力だ?」

「俺が知るものか。知りたければ見ていればいいだろう」

「少なくとも彼女と、教室にいる人間は危ないのではないか? 答えろ! これは命令だぞ!」

「そう熱くなるな不破崇人。そうだな。あの娘の体は、内側からあの天使の炎によって爆発し、結果的に、多数の死者が出るだろう」

「なんということだ!」

「だが安心したまえ不破崇人。彼らの魂は死後、天に召される。悪魔を打ち倒すための尊い犠牲になったのだからな」

「笑いながら言うことか! ああメフィストフェレス、熱くなったのは謝る。どうにかしてあの天使を止めてくれないか」

「十秒ー」

 クラス委員の周りの空気が熱波で揺らめいている。

「断る」

「何で? 契約しただろ!」

「出来ることと出来ないことがあると言ったはずだ!」

「なぜか? なぜ出来ない? 偉大なメフィストフェレスともあれば造作もないと思えるぞ!」

「貴様が誰と契約したのか、よく思い出せ不破崇人!」

「思い出すまでもない。私が契約したのは! お前だ! 悪魔メフィストフェレス!」

「そう、俺は悪魔だ。悪魔は人助けなど認めない。まして天使に取り憑かれた処女など! 例え貴様の命令でもだ!」

 私は顔を覆い、その場に崩れ落ちる。

「ああ、こんなことなら! こんなことになるのなら! 契約すべきではなかったのだ!

 思い返せば十年前、あの日、あのとき……」

「それやってるヒマないぞ不破崇人」

 そうだった。カウントダウンは十秒を切っている。

「命令を変えよう! メフィストフェレス! この状況を解決する最良のアイデアを教えろ!」

「五秒―」

「逃げればよいだろうが」

「四秒―」

「メフィストフェレス! 命令に従え!」

「三秒―」

「食えない契約主だ。分かりました。分かりましたよ」

「二秒―」

「メフィストフェレス!」

「一秒―」

「おいそこのザコ天使。降りてこい」

 観念したのか、メフィストフェレスが教室の中央へ歩み出る。

「……」

 クラス委員のカウントダウンが止まった。

「悪魔よ! 去りなさい! 天におわす主の名において……、って、ええ?」

 半透明の天使は降りてくる途中で、メフィストフェレスの姿を見て目を丸くした。

「誰か知らんが、偉そうに、勝手に上の名前なんて持ち出すんじゃない」

 一方のメフィストフェレスは余裕タップリだ。

「貴方は……、貴方さまは……」

 天使は口をあんぐりとしている。

「この土地を守護する名もなき天使よ。俺の名はメフィストフェレス。偉大なる地獄の大魔神ルシファーの代理人だ」

 メフィストフェレスは威厳タップリに名乗る。

「この娘の肉体は、我が契約主がご執心だ。爆発させてはならん」

「お言葉ですが、大魔王の代理人とはいえ、悪魔の命令に従うことはできません」

「ならばお前の親玉に聞いてこい。メフィストフェレスがたいそう腹を立てていると! 約束が違いますよと!」

 地元の守護天使は「ひいい!」と身を縮ませ、メフィストフェレスの足元にひれ伏す。

「そんなに位に違いがあるのか」

「心得ましてございます。早速天に帰り、大天使に確認して参ります」

「勝手にしろ」

 守護天使は降りてきたのと逆再生で天井の上へと消えていった。

「助かったんだな」

 クラス委員はポカンとしている。周りに満ちていた熱波は嘘のように引いている。

「では不破崇人、早速で恐縮だが、この娘の純潔を奪え」

 私はメフィストフェレスの言っている意味が分からず「ふひっ」と鼻から音を出した。

「今? ここで?」

「処女である以上、魔力の効果に限界がある」

「でも、みんな見てるし……」

「ではこうしてやろう」

 メフィストフェレスの手のひらからモクモクと霧のようなものが立ち上る。

 霧はひとりでに動き、教員や生徒、クラス委員の鼻や口から入っていく。

「皆の様子が?」

 全員、立ったままで目を閉じ、眠るような表情になった。

「さっきも言ったように魔法の効きが弱い。早く純潔を奪え」

「簡単に言ってくれるが。もっと優しく教えてくれないか。私には経験が無いんだ」

 私は今まで女の子と喋ったことがないのだ。

「接吻でいい。……知らないのか? キスだ。不破崇人、この娘に早くキスしろ」

 クラス委員はメフィストフェレスからの霧を吸ってもうろうとしている。

「この状態の彼女に? 合意なくキスをしろと? 準強姦で訴えられないか?」

「早くしろ不破崇人。あまり俺を怒らせるな。貴様がこいつらを助けろというから、契約の抜け穴を教えてやったんだ」

「どういうことだ?」

「貴様がこの娘を所望した。だから俺は! あのザコ天使が娘の肉体を爆破させようとするのを邪魔したのだ! その貴様が! キスくらいで腰が引けてなんとする!」

「悪魔メフィストフェレスが我が欲求をかなえるためには、私の個人的な、独りよがりな欲求でないといけない。人助けではメフィストフェレスは動かない。善き行いは悪魔にはできないということらしい」

「なあ頼む不破崇人。これ以上俺に恥をかかせるな。確かに娘は地味で、真面目そうで、面白くなく、乳も小さいが、大事なのは女かどうか、スカートをはいているかどうかだろう?」

「私のファーストキスを捧げる相手にふさわしいかどうか、無意識で値踏みしていたようだ。メフィストフェレスの言う通り、女であれば誰でも構わない、そんな夜もあるだろう。

 いいだろう! 

 キスをしよう!

 キスをするとしよう!」

 私はクワッとメフィストフェレスを顧みた。

「簡単に考えろ。形だけでいい」

「いわゆるフレンチ・キッスというやつだな」

 我々の世界の「フレンチ・キッス」と、本場フランスの情熱的なキスとはギャップがあるらしいが。

「恥ずかしがり屋の貴様に合わせてやってるんだ。もっと激してもいいんだぞ」

「ものには順序というものがある。段階を踏んでいかないと痛い目を見るだろう。フレンチ・キッスでもキスはキスだ!」

 クラス委員はメフィストフェレスの魔法により立ったまま寝ているような状態だ。

 前に立ち、肩を掴む。身長は私のほうが少し高い。

「メガネで地味ではあるが、崩れてはいない。肌もキレイだ」

 顔が熱くなるのを感じる。鼓動も早くなる。

「一気に決めてしまえ」

「分かっている」

 私は鼻息荒く、唇をニュっと突き出す。そのまま顔ごと突っ込んでいく予定だ。

(喰らえ!)

 触るか触らないかギリギリまで来た。

(喰らええええーい!)

 ムニュっという唇に感覚。

(ついにやった! 私は大人の階段を一歩登った!)

 鼻息荒いままほくそ笑んだ、その時。

「!」

 クラス委員が目を開けた!

「はわわっ! ごめんなさい!」

 反射的に私は飛び退いて尻もちをついた。

「……」

 クラス委員は口を手で押さえ呆然としている。

「女よ! 喜べ! 貴様の純潔は我が契約主によって汚された! もはや天使が降りる心配もない!」

 メフィストフェレスがクラス委員の後ろから近づき、頭に何か載せた。

「何だ? 黒い、王冠のような」

「ティアラっていうんだぜ」

 そのティアラが頭に乗るやいなや、クラス委員は白目をむき、全身をビクビクと震わせ始めた。

「様子がおかしいが」

「これで娘は身も心も貴様の言うなりだ。なんでも命令に応える」

「夢のようだなメフィストフェレス!」

「奴隷第一号としてはいささか地味だが。貴様が望むなら、国中の美女を思いのままにできる」

「さっそく試してみよう」

 私は再度クラス委員の前に立つ。

「……」

 クラス委員の様子はだいぶ落ち着いたようだ。黙って私を見ている。

「あの、お名前は?」

 同じクラスだが私には他人の名前を覚える気がなかったのだ。

「……山越日々やまごえひびこです」

 ぼんやりした感じで答えてくれた。

「私は不破崇人です。知ってますか?」

「名前は知ってます」

 私は小さくガッツポーズをした。

「そりゃクラスメイトなら名前くらい知っているだろう」

 呆れた様子でメフィストフェレスが言う。

「私は知らなかったぞ」

 覚える気がなかっただけだが。

「どうする不破崇人。天使は追い払った。新たに女の下僕も従えた。午後の授業なんて受けているほどヒマではあるまい?」

「お前の言う通りだメフィストフェレス。私には時間がない。急がなければならない」

 まったりと午後の授業など受けている気にはならなくなった。

「好きにしろ」

「放課後まで待っていても仕方がない。これからいろいろ試したい。今すぐにだ」

「そうとも。授業などくだらない。サボるのが当たり前だ」

「どこか人目を忍ぶ場所に私と、……ええと、山越さんを連れて行ってくれないか」

「お安い御用だ。ヒルトンのスウィートでも借り切ってやろうか」

「ひるとん? ホテルか? やめろやめろ! いきなりホテルに二人きりなんて早すぎる」

 私の態度にメフィストフェレスが目を丸くした。

「ナニをするんじゃないのか?」

「何をするにしても、もっとお互いのことを知ってからだろう?」

「時間ないんじゃなかったのかよ」

「だから急げと言っている」

「まあ、お楽しみはゆっくり味わうのもいいかもな」

 メフィストフェレスはどこからか絨毯を取り出し、床に広げた。

「手織りのペルシャ絨毯かな。いくらするんだろう」

「いいから早く乗れ」

 絨毯はフワフワと浮いている。メフィストフェレスが先頭に立ち、私と山越さんがその後ろに座った。

「どうやって外に出るんだ?」

 私の心配をよそに、三人を乗せた絨毯はニュルッと窓の隙間から外に出る。

「俺の魔力にかかれば何ら障害にならない」

 空飛ぶ絨毯はぐんぐんと高度を上げ、加速していった。


「メフィストフェレス、ここはどこだ?」

 暗く、ジメジメしている。

「カタコンベだ。地下の墓場だ」

 ところどころロウソクが灯っている。人工の洞窟である。

「二人きりになれる静かな場所、とは言ったが、まさか墓場に連れてこられるとは」

 声が反響している。

「ピッタリだろう? 悪魔に魂を売ったものが、愛を語らうのに」

 確かに、意外に落ち着くかもしれない。

「けっこう広いんだな」

 壁にはガイコツなどが並んでいるが、部屋全体はホールのようなスペースでもある。

「団体で入って、ミサだのサバトだのをするからな」

「山越さん、ここでいい?」

 私はなるべく優しげな声を出した。

「……はい」

 生気のない声が返ってくる。

「よかった。『いいわけないだろ!』って怒られるかと思った」

 黒いティアラはまだ山越さんの頭に載っている。本心ではないかもしれない。

「いくつか質問させてもらおう。山越さん」

「……はい」

「まず、趣味はなんですか?」

 向こうでメフィストフェレスが呆れているが、これくらいの話題から入るのが適当と思われたのだ。

「……うう、ううう……」

 予想に反し、山越さんはなかなか答えない。

「どうしました? 趣味ぐらい教えてくれてもいいじゃない」

 山越さんは頭を手で押さえ、苦しげにうめき出した。

「我が契約主の命令に従わないとは、けしからん娘だ」

 メフィストフェレスが後ろから山越さんに向かって緑色の電気のような光線をビリビリと撃った。

「あうっ!」

 山越さんが悲鳴を上げる。

「やめろメフィストフェレス! 暴力はいけない!」

 ましてや女性に向けて。

「大丈夫だ不破崇人。ちょいと魔力を上乗せしただけさ」

 ビリビリという魔力は山越さんの体を這い回り、やがて頭上のティアラへと吸い込まれていく。

「ムギギギ……!」

 山越さんはまた白目をむき、歯を食いしばっている。

「天使に降臨されたと思えば悪魔に操られ、今日は災難だね山越さん」

「ぎぎぎ……、言いたくない……、むぎぎぎ」

「まだ抵抗するか。よほど言いたくないと見える」

 メフィストフェレスが魔力の圧力を上げ、山越さんが悲鳴を上げる、というのが数ターン続き、ついに山越さんが根負けした。

「……ギターの、弾き語りです……」

 か細い声で言った。

「立派な趣味じゃないか! ギター女子! 流行っているんでしょ?」

「……恥ずかしい……、キャラじゃないから……」

 山越さんの顔が赤い。

「恥ずかしがることないよな? メフィストフェレス」

「そうとも。音楽は特別だ。悪魔だろうと天使だろうと、音楽はなくてはならないものだ。文化の極みという奴もいたが、もっと根源的なものでもある」

「せっかくだ。ここには誰もいないし、一曲、歌ってもらえないか」

 山越さんは早速拒絶しようとするが、メフィストフェレスがまたビリビリとティアラに魔力を注ぐと、ぐったりとして「ギターがあれば……」と言う。

「そうれ、ギターを取ってこいメフィストフェレス。何なら言われる前に用意しておけ」

「いいだろう不破崇人。最高級のギターを持ってくるから待っていろ」

「毒を仕込むなよ。呪いも駄目だ」

「なぜだ。そんなことを貴様に指図される筋合いはない」

「私が楽しみたいからだ。ちゃんとしたギターを持って来い。これは私の望みだぞメフィストフェレス」

「ちっ。なら持ってきてやるよ! 最高級品をな!」

「ギブソンがいい。私が昔に憧れたギターだ」

「メーカーの指定まであるのか。貴様も音楽に関心があったとは驚きだ」

「うるさい。早く探してこい。おっと、所有権の切れているギター、という条件も追加してやろう。違法に手に入れて、後で山越さんが持ち主から怒られないように」

「……何度言ったら分かるんだ不破崇人。悪魔は人助けなどしない。

 俺が必死にギターを探してきても、この娘の利益にしかならない。

 いくら貴様が望んでもな」

 そうであった。メフィストフェレスは他人のために働く気はないのだ。

「では、そのギター、私のために探してこい。

 私が受け取った後で山越さんに譲渡するのは、私の勝手だろう?」

 メフィストフェレスはニヤリと笑う。

「ああ分かったよ! 貴様がそこまで言うのなら! そこで待っていろ!

 偉大なるルシファーの名において、ギターを持ってきてやる!」

「さっさと行け。どこにあるかは知らないが、見つかるまで帰ってくるな」

 メフィストフェレスの足元が赤く光り、魔法陣が現れ、メフィストフェレスの体は地下へと沈んでいった。

 辺りが静かになる。私と山越さんが地下墓地に残されている。

「ええと、それで、どんな曲を歌うんですか?」

 間が持たないので話しかけてみた。

「コピーとか……」

 私は「どうせユイとかミワとかのフォロワーだろう」とたかをくくり、「どんな歌手の?」とまた聞いた。

「スウィフトとか、グランデとか……」

 洋楽かい!と心の中で驚いた。

「ええと、英語の勉強にもなっていいですねー」

 私は聞いたことがないし、英語の歌詞の意味を調べる根性もない。

「ラブソングを歌う心情に、言語も国境もないから……」

「ふむ! ヘンテコな歌詞で有名なミュージシャンでも、根底に恋愛の要素がないと、楽曲として成立しづらいですものね」

 恋愛要素がないヘンテコな曲は、コミックソングとでも呼ばれるだろう。

「さっきの人、本当に悪魔なの?」

 しばらくして山越さんの方から話しかけてきた。

「本人がそう言ってるし、魔法も使えるし、たぶん本物の悪魔でしょうね」

「不破くんは悪魔と契約したってこと?」

「ええ、まあ」

 徐々にいつもの情け無い喋り方に戻ってしまう。

「悪魔と契約って、魂と引き換えに、とか?」

「はい、まあ、卒業式までは何でも命令をきくって条件で」

「もうすぐじゃない? 卒業式の後はどうなるの?」

 山越さんが近づいてくるので私は後ずさる。

「卒業式の後は……、地獄に落ちる、らしいです」

「……」

 山越さんは手で口を覆い、小さく「なんでそんなことを……」と言った。

「いいじゃないですか。私の人生なんだから」

「今からでも契約って解除できない?」

「そんなことしない。私が決めたこと。貴方には関係ないことです」

 口をきいたこともないクラスメイトに言われたくない。

「大学は?」

「そんなもの知りません」

 最近まで留年が濃厚だったので。

「親には相談した?」

「離れて暮らしています。詳しくは言いたくない」

「わたしから、あの悪魔に言ってみる。こんなこと絶対にいけない」

「ああ、もう! つまらないことをベラベラと! 喋らないでいただきたい!」

 思わず大きな声を出してしまった。

「……、うっ!」

 山越さんの黒いティアラが怪しく光り、山越さんはスイッチを切ったように黙り込んだ。

「命令をきくよう魔法がかけられていたんだった。危ないところだった」

 これ以上、契約について直面していたら気が変わってしまうかもしれない。

「……」

 虚ろな目で山越さんは私を見ている。

「いいですか山越さん。先ほどのやり取りは忘れてください。記憶から消してくださいね」

「……分かりました」

「あと、そんな哀れみの眼差しで見ないで。私は好きでやっているのだから」

「……」

 山越さんは目を閉じた。「見るな」という命令に従ったのだろう。

「待たせたな不破崇人!」

 地面からボカーンとメフィストフェレスが躍り出た。

「お前にしては時間がかかったなメフィストフェレス」

「高級なギブソンのギターは世界中にいくつもあるが、所有権がフリーというものは中々ないぞ」

 そしてメフィストフェレスは手に持ったアコースティックギターを掲げた。

「ギブソンと書いてあるな」

「高名な演奏家が、初めてギター売り場に来た初心者に「俺のお下がりだ」と言って千円で特別に譲ったものだ」

「では、その初心者のものではないのか?」

「すぐに飽きて、燃えるゴミに出したのだ! 本当に千円の価値だと思ったのだろうよ!」

「ゴミ捨て場から拾ってきたのか? ギブソンのギターを!」

 二人して笑った。山越さんは引いている。

「受け取れ、不破崇人。ゴミ捨て場から拾ってきた、66年製のギブソンだ」

「ありがたいメフィストフェレス。命の次に大切にしよう」

 私はギブソンを構えて、適当にポロロンと鳴らした。良し悪しは正直言って分からないが。

「よし、飽きた。山越さんにタダであげよう。私のギターなのだから文句ないな?」

「ふふふ、好きにするがいい。不破崇人」

 そんなに怒ってないようなので安心した。

「山越さん、このギターあげますんで、何か一曲歌ってもらえませんか?」

「はい……」

 山越さんはギターを受け取ると、慣れた手つきでチューニングをする。

「俺がいない間、何を話していたんだ? 不破崇人」

「答える義務はないだろう。なに、大したことじゃない」

「……それでは歌います。聞いてください。オリジナル曲で『鎮魂歌レクイエム』です」

 タイトルを聞いて私はギョッとし、メフィストフェレスは顔をしかめた。

「日本語にカタカナでルビを振るタイプか……」

 メフィストフェレスは顔をしかめながら言った。

「悪魔が聞いて大丈夫なのか?」

 ホーリーサイドの楽曲ではないかと、私は余計な心配をする。

「娘は洗礼も受けてないし、神に全てを捧げているわけでもなさそうだ。感傷的なJポップだろう」

 メフィストフェレスは山越さんをずいぶんと見くびっている。

「~永遠の眠りよ、絶えない光よ、全ての罪は赦され、エルサレムの丘へ~」

 その歌詞は意外! ちゃんとレクイエムしていた!

「……ムズムズするな。異教徒のたわごととは言え」

 メフィストフェレスはさっさと違う不快感を表す。

「思ったよりハスキーな声で、照れることなく、没頭して歌えている」

 アマチュア的な自己満足ではなく、聴き手にも歌へ没入させるような。

「~呪われしものどもは業火に焼かれ、最後の審判で跪き、ひれ伏すでしょう~」

「サラリと悪魔の嫌がることを歌詞に盛り込んでるな。って、泣いてるのか不破崇人!」

「ひっく、ひっく、ぐすんぐすん……」

 私は泣いていた。両目からは涙がどんどんと流れる。

「泣くような内容か?」

 メフィストフェレスは理解できないようだ。

「分からないが、なぜか、我が魂が揺り動かされる! 心を鷲掴みにされている!」

「いかんな。これでは色欲どころではないぞ」

「私は、取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと……」

「~彼の罪を赦したまえ、地獄の淵から救いたまえ~」

「ああ、やっぱり! 契約は、しない方が、よかったんじゃないか……」

 私は泣きながら両手で顔を覆った。

「ええい!」

 ついにメフィストフェレスはしびれを切らし、山越さんがギターを鳴らす手を掴んだ。

「うっ、……、~彼に慈悲と、永遠の安息を~……」

「やめろ! 調子に乗るな! なんちゃってシンガーソングライター風情が!」

 メフィストフェレスはさらに山越さんの口を手で塞いだ。

「……、ふー。泣けた泣けた。メフィストフェレス、暴力はやめろと言ったはずだ」

 しぶしぶとメフィストフェレスは山越さんから離れた。

「……」

 山越さんも歌うのをやめたようだ。あれだけ邪魔されては。

「ありがとう、山越さん。素敵な歌だった。恥ずかしがらず、どんどん歌ってほしいな」

 大いに泣いてスッキリした声で私は言った。

「誰かに聞かせるのも初めてだったし、わたしの歌を泣いて聞いてくれる人がいるなんて思わなかった……」

 山越さんも涙ぐんでいた。

「卒業したら音楽関係に進むの?」

「ううん。普通の大学」

「もったいないな。でも大学に通いながらでも、歌ってる人もいるよね。軽音楽サークルとか」

「……」

「そろそろ引き上げようぜ不破崇人。やる気が失せちまった」

「いいだろうメフィストフェレス。最後に一つだけ」

 私は山越さんにまた向き直る。

「何ですか?」

「さっきの曲、もし、もしも、覚えてたらでいいんだけど、卒業式の日に歌ってくれないかな。私に向けてじゃなくていい」

「何を言っている不破崇人!」

「いいじゃないか、素敵な曲だったんだ」

「これ以上、俺を怒らせるなよ!」

「なぜ怒る? 善を称える歌だからか?」

「ああそうとも! 善も悪も分からん小娘が歌うならなおさらな!」

「悪かったメフィストフェレス。そんなに怒るとは思わなかった。山越さん、さっきのお願いのことも忘れてくれ」

「全て忘れろ。不破崇人に関することは全てな」

「そうだな。それがいい」

「……はい……」

 どこか残念そうな山越さんに、私は続けた。

「そのギターだけは、もらっておいてくれないか。せめてものお詫びだ。メフィストフェレス、何かよい言い訳はないか?」

「ではこの娘が知り合いのミュージシャンから安く譲り受けたことにしよう。偽りの記憶を施しておく」

「それがいいメフィストフェレス。そういうことにしておこう」

 メフィストフェレスはどこからかギターのソフトケースを取り出し、ギブソンのギターを収納した。

「では帰るとしよう。不破崇人。それで構わないな?」

「ああメフィストフェレス。帰りの空飛ぶ絨毯を用意してくれ」

「彼女は?」

「もちろん家まで送ってやれ」

「……この調子じゃあ、死ぬまで童貞だな」

「何とでもほざけ!

 私は今日、初めてのキスをしたのだ! まずは喜び、お祝いをしなければならぬ。

 次の段階のことなど考える余裕はない。

 高価なギターも贈ることができた。女性にプレゼントするなども初めての経験だ!

 この経験を次に繋げていけば、結果も必ず付いてくるはずだ。

 焦らないことだ。残された時間は少ないかもしれないが」


○第五章 強欲 ~悪魔でスマホゲー~


 山越さんを最寄り駅まで送り、その帰り、私とメフィストフェレス、空飛ぶ絨毯の二人乗りである。

 私はポケットからスマホを取り出し、ゲームを起動する。ルーチンで続けている『レドモンGO』である。

「ああそうだ」

 スマホの位置情報ではもうすぐ私の家である。

「なんだ不破崇人」

「このまま家に帰らず、少し遠回りしてくれないか」

「傷心旅行か。いいだろう」

 『レドモンGO』は位置情報ゲームであり、モンスター育成ゲームである。

「隣の市役所の近くまで行ってくれ」

 『レドモンGO』は市役所や県庁に実際に近づくと、ガチャを無料で一度回せる。

「旅行とは言わないな」

 用事もないのに隣の市の行政機関に近づくことはあまりないだろう。

「あっという間に着いた。礼を言うぞメフィストフェレス」

 いそいそと私はガチャを回す。

「何をやっているんだメフィストフェレス」

「これさ」

 私はスマホの画面を見せる。

「……『カンムリカイツブリ』? バードウォッチングか?」

「『レッドデータブック・モンスターGO』、通称『レドモンGO』だ」

 ガチャで出たのは最底レベルのザコモンスターであった。

「絶滅危惧種が載っているリストだな」

「モンスターとして育成しながら勉強もできるのさ」

「育成してどうする?」

「他の人のモンスターと戦わせるのさ」

「カイツブリが戦うのか。シュールだな」

 メフィストフェレスに笑われている。

「無課金のガチャで出てくるのは弱いやつばかりだからな。人によっては大金をつぎ込んで、イリオモテヤマネコやニホンオオカミを育てていたりする」

 金額にして数百万円かかると言われている。

「欲しいのか? 不破崇人。強いモンスターが」

 メフィストフェレスが私の目を見てくる。

「……ああ、欲しいぞ。メフィストフェレス」

 先ほどのカンムリカイツブリは、どこかから襲ってきたカンムリワシに一撃で敗北し、食べられてしまった。同じカンムリでも戦闘力に違いがありすぎる。

「更に隣の市役所まで行けばいいか?」

「……うん、まあ」

 数秒もしない内に隣の市の上空まで来ていた。

「あちゃー」

 ガチャで出たのは『ホシマダラハゼ』であった。

「ハゼ? 魚の?」

 メフィストフェレスが驚くのも無理はない。

「レベルが低すぎてエサ扱いのモンスターだ」

 今度は県庁まで来た。

「『エゾゲンゴロウモドキ』だった」

「虫かよ!」

 メフィストフェレスがスマホの画面に突っ込みを入れる。

「無課金のガチャをいくら回してもザコしか出てこないよ」

「ならば金がいるな。七大罪の一つ、強欲だ。悪魔使いらしくなってきたぞ」

「金さえあれば、っていう話でもない」

「ああ?」

「課金はアカウントに紐付いているから、違法に手に入れた金はすぐに個人が特定されてしまう。」

「別にいいではないか」」

「家族にも伝わるだろう? それは絶対に避けたい」

「分かったよ不破崇人。貴様という人間と、その小心ぶりもな」

「何とでも言え」

「だからといって、合法的に金を稼ぐ気にはなるまい。悪魔と契約するくらいだからな」

「もちろんだ。何か怪しげな魔法を使って、私にレアなモンスターをくれ!」

「……数値データと、動物イラストの組み合わせでしかないが、単なる」

「それを言っちゃあおしまいだ」

「デジタルに詳しい悪魔に相談してみよう」

「悪魔にも横の繋がりがあるのか」

 メフィストフェレスは腕時計のようなものに何か話しかけている。スマートウォッチだろうか。

「ゲームを運営している会社のサーバーに侵入できるそうだ」

「おお、侵入してどうする?」

「貴様が好きなモンスターを、貴様のスマートフォンに送ってやれる」

「なるほど。……、って! 私のアカウントに送ったら、不正しているのがバレるだろ!」

「確かにその通りだな」

 再びメフィストフェレスは腕時計に話しかける。

「そいつ大丈夫か?」

「……ふん、ふん……。なるほど。不破崇人。まず教えてくれ。欲しいレアモンスターを」

「そうだな。ネットでごくたまに目撃情報が上がっている、『ニホンカワウソ』だな」

「なに? カワウソ? 不破崇人、カワウソを育成して戦わせるのか?」

「そうともメフィストフェレス。強さはそれほどでもないが、とんでもなくレアらしい」

「……ふん、ふん、ん? そうか……」

「見つかったか?」

「サーバーの中を調べさせた。ニホンカワウソは、残念ながら、絶滅したらしい」

「ゲームでもか? 何てことだ!」

 ニホンオオカミは出てくるのに。

「だが喜べ不破崇人! ニホンカワウソのデータは残っている。サルベージして復活させることが可能だそうだ」

「その状態は絶滅とは言わないんじゃ……。まあいい、それで?」

「キャンペーンでバグが発生したことにして、ニホンカワウソのデータをユーザーに送る、というのはどうだ?」

「なるほど、冴えているなメフィストフェレス! 不特定多数のユーザーに送れば、私だけが怪しまれることはない」

 私は我ながら嫌らしい笑みを浮かべる。

「全ユーザーに送ることになる。早速やらせよう」

「待て! 待て! 全ユーザーに? ニホンカワウソを?」

「何か問題か?」

「全員が持ってたらレアじゃなくなるだろ! ニホンカワウソからレアさを取ったら、匂いしか残らないぞ!」

 かわいらしさとか、賢さとかもあるけど。

「コツメカワウソよりも強いらしいぞ」

「あんま変わんないよ」

 外来種のカワウソは在来種の魚などを食い荒らすらしいが。

「無い物ねだりというやつだな! 不破崇人、レアでなくなれば欲しくないというなら、今、貴様がすでに持っているモンスターのレア度を上げるというのはどうだ?」

「発想の転換だな。では、私のお気に入り、『マダラトカゲモドキ』のレア度を上げる……。やめろ! 縁起でもない!」

 これ以上、絶滅危惧種のレア度を上げられてはたまらない。

「我が契約主のわがまま放題には! やはり一筋縄ではいかないな!」

「私は間違ったことを言っているか?」

「要するに! 強くてレアなモンスターを、不正しているのがバレない形で、不破崇人のみが独占したいということだな!」

「言ってるかもな、間違っていること」

「不破崇人、スマホを見てみるがいい」

 自信たっぷりにメフィストフェレスに言われ、私は従った。

「……おお! 何ということだ!」

 私の目はスマホの画面に釘付けとなった。

「気に入ったか?」

「『ベンガルトラ』! 最強レベルのスペックだ! かっこいい! 日本にはいないが!」

「サーバーに侵入したデジタル悪魔にデータを改ざんさせた。先ほどのガチャに不具合があり、本来ならあり得ないモンスターが出現したことにした」

「運営側のエラーということにすれば、もしバレても私は怒られないな!」

「そうとも! しかも運営とやらからは貴様のスマホは見えないようにバリアを張った」

「エラーに気付かれることも、遠隔操作で削除されることもないな!」

「『レドモンGO』の世界の中で、貴様の使役する最強の『ベンガルトラ』を思う存分働かせ! 思うがままに勝利を味わうがいい!」

「……何か引っかかるが、まあいい。メフィストフェレス! ありがたく使わせてもらうぞ! 『ベンガルトラ』を!」

 その後しばらく『レドモンGO』ユーザーの間で、都市伝説じみた「『ベンガルトラ』を見た」「在来種が食い尽くされた」「なんで日本にベンガルトラがいるんだ」といった噂が流れたのだった。


○第六章 妬み ~悪魔でリア充~


「学校に来るのは久しぶりだな」

 ホームルームが始まろうとしている。私はマントをまま席に着いた。

 久しぶりなのは、昨日まで世界一周の旅行をしていたためだ。

「そろそろ、卒業式についての段取りが始まる頃だと思ってな」

 窓枠に寄りかかり、メフィストフェレスは笑う。

「卒業式……。その言葉を聞くと、我が胸中に暗雲が立ちこめる。

 忌々しい悪魔メフィストフェレスは卒業式の段取りのために世界旅行を切り上げ、ホームルームに参加しろとそそのかした。

 耳を貸さず、旅行を続けることもできた。だがそうはしなかった。

 できなかったのだ!

 私の契約は卒業式が終わるまでと決まっている。その卒業式が、気になって仕方がない!

 日程的にはまだ余裕があるだろうが、スケジュール感は知っておく必要があるだろう。

 知ったからといって、どうなるということもないが」

「心の準備ってやつだったな。知らないうちに卒業式が終わってたなんて笑えないだろ?」

「お前が笑うな! よこしまなメフィストフェレス!」

「だんだんと苛ついてきたな。いくら俺を罵っても、貴様が契約したという事実は変わらないぞ」

「いつまでも言っているがいい。私はお前を許すことはない。地獄の大悪党」

「そろそろ教員が来る。独り言は大概にしておくんだな」

 メフィストフェレスの言う通り、教室のドアが開いて教員が入ってきた。

「おお、不破じゃないか。久しぶりな気がするな」

「何を仰います先生。私は毎日欠かさず出席していたではありませんか」

「そうだっけ? ……ああ、そうだった」

 後ろでメフィストフェレスが教員に魔法をかけている。

「ふん。出席日数などで当人の価値の何が分かる気でいるのだろうな」

 私は自らの体をマントで改めて包んだ。

「貴様のような奴がいるからさ。どれくらいサボったのかは出席日数を数えればたちどころに判明する」

「ちなみに私の出席日数は足りているのか?」

「もちろん足りていないが、データを書き換えておいたから問題ないぞ」

「勝手なことをしやがって。どうしても卒業させたいらしい」

 ホームルームとやらが始まる。

 卒業式の日取り、準備、予行演習などの説明をされた。

「淡々と進むといいな。不破崇人」

「くだらない。要は立ったり座ったりすればいいんだろ」

 式次第の書かれたプリントを配られた。合唱、挨拶、送辞に答辞……。

「それから、卒業生の答辞は、切江きりえに決まった」

 クラス内がざわつく。前髪の長い奴がニヤけている。

「あいつが切江かな?」

 他人の名前に興味を持てない私は推測するしかない。

「卒業生の代表だ。人望が厚く、サッカー部のキャプテンを務め、国立大学に推薦入学も決まっている。貴様とは大違いだな」

 メフィストフェレスが耳元で囁いた。

「また悪魔が吹き込んできた。そんな情報をわざわざ入れてくる目的は何だ?」

「もうすぐ七つの大罪がコンプリートだ。妬み、ジェラシーが湧いてこないか?」

「私と彼とは違う生き物だ。比較など意味は無い」

 強がってみたものの、つい気になってしまう。

 ホームルームは終わり、切江とやらの周りに人だかりができていた。

「彼女も当然いるんだぜ? うらやましいよなあ」

 メフィストフェレスが指し示す。

「クラス一、いや学年一の美人の人だな」

 私も男の子なので美人はチェックしてしまう。名前は知らない。

美紗ミサというらしいぞ」

「いちいちありがとうよ」

 私は立ち上がり、マントで体を包む。こうすると魔力で他人から私の姿は見えなくなる。

 サッカー部のキャプテンと、学年一の美人が付き合っているという。別に不思議なことではないし、私とは存在する世界も次元も違うのである。

 マントの魔力で姿を隠したまま美人の前まで進んだ。

(確かに整った顔をしている)

 こんな美人が誰かと付き合うなんて想像ができない。

(正確に言えば、私と付き合うビジョンが全く見えない)

 男の方を見る。周りの生徒から卒業生答辞について冷やかされ、調子に乗っている。

「気にしてないとか言っていながら、ずいぶんジロジロ見ているじゃないか」

「うらやましいんじゃないぞメフィストフェレス。ただ、何だか、腹が立ってきた気がする」

 幸せそうな他人を見れば、誰だって多少は気分が悪くなるものだろう?

「このカップル、付き合っているが、どれくらい関係が進んでいると思う?」

 嫌らしい顔をメフィストフェレスが近づけてくる。

「そ、そりゃあ、キスくらいはしているだろうね」

 私だってキスはしたことがあるのだ。誰とキスしたかはよく覚えていないが。

「ククク……。まるでネンネだな不破崇人」

「もっと進んでいるのか?」

 私は顔面を硬直させる。

「ああ、とっくにねんごろさ。深い仲というやつだ。うらやましいよなあ?」

 私はもう一度、美人の方をのぞき込む。

「清楚な顔して、やることやってんのねえ」

「感心している場合じゃないぞ」

「だからといって、いくらうらやましがったって、どうしようもないだろう!」

 霊感の強いらしい生徒が「誰か怒鳴ってない?」というようなことを言った。

「嫉妬しろ不破崇人! 嫉妬こそが最大のモチベーションだ!」

「ああ、分かったよメフィストフェレス。認めよう。私は妬ましいと」

「それでいい。それでこそ我が契約主だ」

「教えてくれ。どうすればこのマイナスの気持ちを成仏させられる?」

「命令すればよい! 不破崇人! 心のままに!」

 メフィストフェレスは教卓の上に飛び乗った。

「そうだった。地獄の大悪魔メフィストフェレス! 私にはお前がいたのだった!」

 私はメフィストフェレスの乗る教卓を蹴飛ばした。

「貴様の命令は何であれ! 大魔王ルシファーの名にかけて! 完ぺきに成し遂げてみせるさ!」

 足場を失ってもメフィストフェレスは宙に浮いたままで胸に手を当てて言った。

「我はメフィストフェレスに命ずる! こいつら! いけ好かないリア充カップルを! 不幸にしろ! やり方は任せる!」

「お安いご用を通り越して、得意中の得意分野だ! これが悪魔だというところをタップリと味わうがいい!」

「私は見ていればいいんだな?」

「ああ、そうとも! 幸せそうなカップルが不幸のどん底に叩き落とされる様を見物しているがいい!」

 私は少し離れた机に足を組んで座り、腕を組んだ。

「では高みの見物としゃれ込もう」

 ガラガラっと大きな音を立てて教室のドアが開かれた。中にいた生徒たちが一斉に視線を向ける。

「ちょっと! 切江サン!」

 入ってきたのはロングソバージュでロングコートを着た、やけに背の高い人物だった。

「メフィストフェレス? いや、少し様子が違うな」

 口紅を塗っているようだし、何となく、しなを作っているように見える。

「誰だ? あの美女は?」

 男子生徒の一人が呆けたように言う。

「また怪しげな魔法を使っているな? 油断ならない悪党め」

 どうやら生徒たちにはメフィストフェレスが美しい女性に見えているようだ。

「誰よ! あの女!」

 学年一の美女がヒステリックな金切り声を上げる。

「ししし、知らないよ」

「切江の名前を言ったわよ!」

「ハハハハ……」

 私は笑いがこみ上げるのを止められなかった。

 数秒前までは幸せの最中にいた男女、今や男は顔面蒼白で身の潔白を弁明し、女は鬼のような形相で問い詰めている。まさに修羅場である。

「切江サンはアタクシに言いましたヨ! アタクシと駆け落ちをするっテ!」

 メフィストフェレスはハンカチを噛んで引っ張ったりして言う。

「駆け落ちですって! キーーーイーーー!」

 学年一の美女は急激に血圧が上昇したせいか、顔を真っ赤にし、泡でも吹き出しかねない様子である。

「言ってないよ! 駆け落ちなんて! 本当に知らない人なんだよ!」

「見ろよ! あのオタオタした情けない顔を! それでも卒業生の代表か!」

 私は膝を叩いて笑う。

「高校を退学して! 駆け落ちして! アタクシとコンビを組むんですヨ!」

「こここ、コンビって、何の?」

「お笑いコンビに決まってるでショ!」

「お笑い? 聞いてないわよ!」

「公私ともにコンビを組んで、お笑い養成所のテストを受けるんですヨ!」

 金さえ払えば誰でも合格すると聞く。わざわざ退学までする必要あるのか。

「公私ともに! コンビなんて! 絶対許さない!」

 学年一の美女は目がつり上がりきっている。

「ネタでは切江サンがボケ担当でアタクシが突っ込みヨ!

 夜は切江サンが鋭く激しくツッコミを入れてくれるけどネ!」

「ハーハハハ!」

 私は笑いすぎて机から落ちそうになる。

「嘘だよ! こいつの話を聞いちゃだめだ!」

「ムキキーー!」

 学年一の美女はビニール傘を掴むと、男へ突き刺そうと突進を始めた。

「危ない!」

 周りの男子生徒たちが慌てて取り押さえる。

「おっと、ケガはさせるなよ。笑えなくなっちゃうからな」

 ビニール傘の先端は切江の喉笛を正確に狙っている。

「すごい力だ!」

「先生呼んできて!」

 学年一の美女のリミッターを吹っ切ったパワーに男子生徒が押されている。

「ちょっとあんた! いい加減にしてくれよ! 確かにすごい美人だけど、俺はあんたなんか知らないし、駆け落ちもしないから!」

 たまりかねたか、切江がメフィストフェレスへ向けてわめきだした。

「あら、仕方ないわネ! これを見て、改めて記憶を上書きするといいヨ!」

 メフィストフェレスが出してきたのは、アイドルの等身大パネルであった。

「どこから出てきたのやら」

 百七十センチくらいのパネルである。

「はっ!」

 切江はパネルを見るなり、魅入られたように、魅了されたように、釘付けとなった。

「これは確か、『九段坂49』の不動のセンター、『安国えれみ』ちゃんじゃないかな」

 私でも知っているレベルの全国的アイドルの写真がプリントされた等身大パネルということである。

「さあ! アタクシにベーゼをして、あるいはキッスをして、しかるべき本当の切江サンの自分自身を取り戻してヨ!」

「う、うう……」

 メフィストフェレスの声に促されるように、ふらふらと切江はアイドル等身大パネルへと歩み寄ってゆく。

「やめて! 行っちゃイヤ!」

 学年一の美女の悲鳴は届いていないらしい。切江は歩みを止めない。

「ふっふっふ。どうだ不破崇人。楽しんでいるか?」

 続きは設置した等身大パネルに任せたのか、メフィストフェレスは口紅を拭いながら、私の横へと戻ってくる。

「ああ、メフィストフェレス。私は満喫した」

「まだ終わりじゃない。茶番の結末を見届けるか?」

「もちろんだとも。こんな見物は滅多にないぞ」

 私は切江と等身大パネルに目を戻す。

 今や、切江は等身大パネルにすがりつき、顔をすり寄せようとしている。

「切江くん! 正気を取り戻して!」

 美女の必死の訴えだが、悪魔の魔力に捕らわれた切江は耳を貸さない。

「……ああ、愛している……」

 切江はうわごとをつぶやき、等身大パネルの顔にキスをした。情熱的なキスだ。

「いやーーーー!」

 美女の悲鳴が響いた。

「うわははは! 写真だというのに、心のこもったキスをしているぞ」

 ぶちゅぶちゅと唇で吸い、ペロペロと舌でアイドルの写真の顔を舐めている。

「……ムーチョ、ムーチョ……」

 キスを続ける切江の顔は真剣そのものだ。

「何をしている! お前ら! どうしちゃったんだ!」

 教員がようやく到着した。

「先生! 何とか言ってやってください! 変な人が学校に入ってきたんです!」

 美女にも等身大パネルが侵入者に見えているらしい。

「切江! 切江! 情熱的なキスを中断しろ!」

 教員は等身大パネルから切江を引き離そうとする。

「うるさい!」

 切江が教員を蹴り飛ばした。さすがサッカー部のキャプテンである。

「いよいよクライマックスだぜ」

 メフィストフェレスと私は肩を並べて展開を見守る。

「……皆さんにご報告があります」

 ひとしきり、情熱的なキスを等身大パネルに捧げ終え、切江はかしこまって発言を始めた。

「やめて、切江くん……」

 学園一の美女は、イヤイヤと首を振りながら切江の言葉備える。

「何を言うのかな?」

「まあ黙って聞け」

「僕は、ここにいる、……名前は知らないけど、絶世の美女の方と、お笑いコンビを組み、エムワン優勝を目指します!」

 クラス内にどよめきが起きる。

「名前を名乗るのを忘れていたな」

 メフィストフェレスが舌をペロリと出した。

「やめて! そんなのイヤ! 名前も知らない人と駆け落ちしないで!」

「ごめんね美紗ちゃん。でももう決まったことだ。僕は高校を中退します」

「もうすぐ卒業式なのに! 考え直せ!」

「いいえ先生。僕には時間がありません。残された時間はこの人と一緒にいるって決めたんです!」

 切江はそう言うと等身大パネルに腕を回し、強く抱いた。

「舐めすぎて唾液で顔の写真はベロベロになりつつあるがな!」

 私は笑いながら言う。マントの魔法で聞こえていないはずだ。

「決意は固そうだ。切江がそんなに言うのなら、先生としても応援しないわけにはいかないな」

「先生!」

 美女が不服そうな声を上げる。

「手にはまだビニール傘を持っているから油断できないぞ」

 構え方が銃剣道のそれである。

「最後の仕上げだ、不破崇人。あの教員にちょいとだけ細工を仕掛けてやろう」

 メフィストフェレスはそう言うと教員の後ろに回り込み、スカーフのようなものを巻き付けた。

「ふ? ふががが!」

 教員の様子がおかしくなる。

「いつかのティアラのようなマジックアイテムさ」

「なんだっけ、それ」

 黒いティアラにはおぼろげながら思い出があるかもしれない。

「もう忘れたのか? まったく薄情というか、他人に興味を持たないというか」

 メフィストフェレスは呆れているが、覚えていないのだからどうしようもない。

「……、ええ、切江君。君の気持ちは受け止めた」

「先生!」

「私は教員の末席として、君の進路や、中退や、エムワンについてなんかどうでもいい。

 もっと大事なことがある」

 うつろな目で教員は暴言を吐き続ける。

「どうでもいいってことはないよな」

「まあ聞け」

「大事なのは、卒業生の答辞だ。

 切江タイプに投げておけば無難に済ませられたのに、どうしてくれるんだ」

「本当にすみません先生! でも、僕はこいつを幸せにする義務があるんです」

 再び切江は等身大パネルを強く抱く。肩の辺りの写真がベコベコになりつつある。

「キィエエーーーー!」

 学年一の美女が隙を突いてビニール傘を等身大パネルの顔に突き立てた!

「うわああ! なんてことを!」

 傘の先端がパネルにズボンと穴を開けた!

「君は停学だ! どんなに顔が美人でも、これは許されないぞ!」

「たかが教員が勝手に停学と決めるのもどうかと思うが、他人の不幸、たまらんな!」

「顔に穴があいても血は流れない。そんなに大したケガじゃなくてよかった」

 切江が等身大パネルに開いた穴の周りをペロペロ舐めながら言う。

「そろそろ臨界点を突破したんじゃないか?」

 私は興ざめするのを感じながらメフィストフェレスに言った。

「貴様の言うことも分かる。もう終わらせよう」

 メフィストフェレスは教員に向かって何か合図を出した。教員の体がビクッと震えた。

「切江君、卒業生の答辞だが、君が高校を中退するのなら、誰かに代わってもらわないといけない」

「ごもっともです」

「君の代わりは、不破くんに任せようと思うんだが、構わないね?」

 私はびっくりしてメフィストフェレスの方を見た。奴は笑っている。

「中退する僕にとっては関わりのないことです。意見する資格はありません」

「先生、不破って、あの不破ですか?」

 すぐさま他の生徒から異論が上がる。

「彼は立派な人物だろう? ……ええと、具体的には長所は浮かばないけど」

 名前も知らない教員に言われたくもない。

「なんで不破なんですか?」

「あいつ、ろくに学校来てないですよ」

「留年しないのが不思議なくらいの成績でしょ」

 辛辣だね!

「お前らの意見は聞いていない! 答辞は不破にやらせなきゃいけないんだ! そうしなければいけないんだ!」

 教員は論理的な説得を放棄したようだ。

「お前の差し金かメフィストフェレス」

「そうとも。嫉妬によるモチベーションがアップした貴様にとって、卒業式のスピーチはふさわしい見せ場だろう?」

「気が進まないな。大勢の前で何か言うなんて」

 私たちの都合などお構いなく、サッカー部キャプテンの方は等身大パネルと仲良く退出し、学年一の美女の方は教員と一緒に停学についての話し合いへ向けて退出した。

「他人の不幸は堪能したが、なぜ私がスピーチをしなければならないんだ?」

「ここまで来たら、七大罪をコンプリートしたくないか?」

「別に」

 景品でももらえるのだろうか。

「残りの大罪は『高慢』、プライドだ。貴様が卒業生の代表となる、これほどプライドを満たされることはあるまい?」

 私は鼻がヒクヒクとなった。

「そうだな。卒業式までの人生なのだ。最後に大きな花火を打ち上げるのも悪くはない」

「そう来なくては、不破崇人」

「早速、原稿を準備してくれ」

「任せておけ。歴史に残るスピーチの原稿を書いてやるさ」

「卒業生の代表。すなわち、学校の代表だ。

 私が! あのおとなしかった不破くんが! 代表ですって!

 悪くはない。むしろ気分がよい。いいや、最高の気分だ!

 私は学年のトップだ!

 私は学年で一番優れた存在だ!

 それをもたらしたのが悪魔との契約だったとしても! 事実は変わらない!

 代表としてのスピーチ、是が非でもやらせてもらいたい。

 私が生きた証として、……いや、そんなものは必要ない。

 私だけが満足し、納得すればいい。

 夢でも、悪夢でも、構わない……」


○第七章 プライド ~悪魔で卒業生答辞~


「光陰矢の如し。

 月日は過ぎればあっという間だ。

 いよいよ今日となった。

 我が運命の最終日。卒業式の当日だ。

 実感が沸かないままこの日を迎えてしまった。

 これから最後の登校だ。一度この家を出れば、もう二度と帰ってくることはない。

 未練はない。ゲームも漫画もメフィストフェレスに処分させた。世話になったでらべっ○んもだ。

 両親については片付いた。メフィストフェレスに命じ、偽りの記憶を書き込んでもらった。親戚の中では私はすでに事故で死んだことになっている。

 私が地獄に落ちても、誰も悲しむ者はない。

 喜ぶ者はいる。メフィストフェレスだ」

「馬車の用意ができているぞ、不破崇人」

 玄関にメフィストフェレスが立っていた。いつものように黒いロングコートである。

「空飛ぶ絨毯ではないのか?」

「ああ、今日は特別の日だからな。何の日か分かっているだろう?」

 メフィストフェレスは嫌らしく笑っている。

「知っているぞメフィストフェレス。今日は私が破滅する日だ」

 外に出てみるとバカでかい馬が二頭、黒い馬車に繋がれていた。

 馬は筋肉が異様に膨張し、血走り、人間のような目でニヤニヤしている。

「特別な日だから奮発してやった。かの魔王が乗ることもある、特別製の馬車だ」

 ドアが勝手に開く。中にはベルベットのソファが見える。光の反射の仕方からして、安物とは思えない。

「豪勢なことだ。たかが移動に」

 私が乗り込もうとすると、メフィストフェレスに後ろから呼び止められた。神妙な顔だ。

「不破崇人。最後の確認だ」

 メフィストフェレスは懐から巻いた羊皮紙をうやうやしく取り出す。

「契約書か。血で署名したな。確認などしなくても、内容はよく覚えているぞ」

 内心はギョッとしている。今さら何を言い出すつもりだ?

「今日の卒業式が終われば、貴様は俺に魂を譲り渡す。本当にそれでいいんだな?」

 メフィストフェレスの額に汗が浮かんでいる。

「……やっぱり嫌だ、と言ったら?」

 こんな台詞を吐くつもりなどなかったが、口が勝手に言った。

「そう来ると思っていたぞ。今からビジョンを見せる。もしも、貴様が俺と契約を結ばなかったら今ごろどうなっていたか」

「もし私が望めば、契約を結ばなかったことにしてくれるというのか? なぜそんなことを言い出した? 私の魂が欲しいんじゃないのか?」

「確かにリスキーな行為かもしれん」

 メフィストフェレスは大汗をかきだした。

「ではなぜだ? なにを企んでいるんだメフィストフェレス!」

「勝利を確実なものにするためだ!」

 メフィストフェレスは両腕を広げて叫んだ。

「勝利と言ったな。大体お前たちは何と戦っているというのか」

「それは言えない不破崇人。だが俺の気持ちを想像してほしい。絶対にミスできない段階に来ていることを!」

「お前の立場など私にはまるで関係ないぞ。悪魔め。土壇場になってゴネられないよう、言質を取ろうというのだな」

「冴えてるじゃないか不破崇人。そのとおり、土壇場で思わぬ邪魔が入っても、貴様の決意が揺らがないようにしたいのさ」

 メフィストフェレスの両目からプロジェクターのような光線が出る。

「これは……、私か?」

 マントを着けてない私の立体映像が映し出された。

「契約をしなかった場合の貴様だ」

「普段着だな。学校へは行かないのか?」

 ホログラフの私は、うつろな目で、フラフラと学校とは逆の方向へ歩き出す。

「留年が決定しているからな。卒業式に出ることは許されない」

「そうだった! カンニングが無ければ赤点で留年していたのだった!」

 私は手で口を押さえた。

「現実逃避のために徹夜でゲームをしていた貴様は、腹が減ったのでコンビニに出かける」

 通りの向こうから、かつての同級生が歩いてくる。

「登校の時間にぶつかるのに気づかないとは! 何という愚鈍!」

 ホログラムの私は、かつての同級生に気がついた。

「とっさに貴様が取る行動は?」

 我々が見ている前で、幻影の私は電柱の影に隠れた。息を潜め、同級生がいなくなるのを待っている。

「……何という惨めさ……」

 私は膝から崩れ落ちた。

「戻りたいか、不破崇人、この状況に」

「死んでも嫌だ! こんなのは私じゃない!」

 私は頭を抱えて絶叫する。

「そうとも不破崇人! こんな幻を受け入れるな! 本当の貴様は、卒業生の代表としてスピーチを任せられるほどの男だ!」

「そうだ! 本当の私は! 成績がよく! 人望が厚く! 誰からも好かれ! 頼りになり! 親切で! スポーツ万能で! ……う、ううう……」

 最後の方は泣きながらの絶叫となった。

「それが『プライド』だ不破崇人! 七つの大罪においては最大の罪! 人間の生死に直結する罪だ!」

「人はプライドのためなら死ねる。だから最大の罪ということか。メフィストフェレス個人の意見かもしれないが、覚えておこう」

「行くぞ不破崇人。早く馬車に乗れ。そろそろ最後の抵抗を仕掛けてくるころだ」

 私はメフィストフェレスの腕を借りて立ち上がり、馬車の中へと乗り込んだ。

「誰が何を仕掛けてくるんだ?」

「貴様が知る必要はない」

 メフィストフェレスは馬の御者席に座り、手綱を思い切り振り下ろす。

「ピャーー!!」

 およそ馬とは思えない鳴き声を上げ、二頭の馬が前進を開始した。

「すごい加速力だ!」

 馬車の車内で私の首がソファーに押しつけられる。

「来たぞ! 捕まってろよ!」

 メフィストフェレスは御者席で立って馬を操る。私は馬車の中で窓から外を伺っている。

「何が来るというのか……、って、うわっ!」

 地面から爆発音。馬車が大きく上下に揺れる。

「飛ぶぞ!」

 メフィストフェレスの怒号によるのか、馬車が浮き上がる感覚がする。

「飛べるのか! あの馬たち!」

 二頭の馬は空中なのに足を踏ん張り、後ろに蹴り出す。ぐいぐいと上空へ上っていく。

「そらっ! そりゃっ!」

 メフィストフェレスが鞭を入れる。

「何だ? 空に何かいるぞ」

 私は窓に顔を押し当て、青空の中に目をこらす。

 基本的に白く、角張って、戦闘機のような、UFOのような、白くて堅そうな塊が浮いている。

 そいつらは何かをこちらに向けて撃ってくる。

 見た目には、火矢というか、燃える矢のような感じである。

「へっ! どこ狙ってるんだ!」

 メフィストフェレスの手綱さばきのおかげか、馬車は右へ左へと蛇行しながら炎の矢を避けてゆく。

「うひゃーー!!」

 予測不能な横Gの連続に、私は馬車のソファーの上でもんどり打っている。

「なりふり構ってられないってか!」

 白くて角張った奴らが、進路を塞ぐように馬車の前に集まってくる。。

「浮遊する陶磁器のポットのような、幾何学の十二面体のサイコロのような」

 発射口から炎の矢をスポンスポンと撃ってくる。

「五千度だろうが、当たらなければどうってことない」

 二頭の馬は上下左右にステップを踏み、炎の矢を軽やかに避ける。

「酔う!」

 五千度の炎に焼かれるのもイヤだが、これ以上、乗り物酔いのリスクに晒されるのも限界であった。

「もうすぐ高校だ! 我慢しろ!」

 メフィストフェレスは馬車の中に向かって怒鳴った。

「何なんだこいつらは?」

「貴様の卒業を祝福してくれてるんじゃないか?」

「この炎の矢は、当たったらヤバいのか?」

「ちょっと熱いだけさ」

「嘘だ!」


 一時的に逃げ切れたようだ。

 どうにか馬車は校門前に横付けにされた。

「降りる前にこれを」

 メフィストフェレスに王冠のようなものを被せてもらった。金色で大きめの王冠である。

「派手だな」

「強めの魔法がかけてある。これとマントをしっかり身に付けろ」

「身に付けないとどうなる?」

「奴らに見つかって、魂まで焼かれてしまうぞ」

「漏らしたなメフィストフェレス。お前は私の身を心配しているんじゃなくて、私の魂が手に入らなくなるのを心配しているんだな」

 メフィストフェレスは黙り、ちょっと神妙な顔になった。

「……時間がない。もう卒業式が始まってしまうぞ」

 生徒や父兄もほとんど体育館へと入場しているようだ。

「では行こう、メフィストフェレス」

「いや、ここからは不破崇人、貴様一人で行け」

「えー? 心細いよ」

「俺はあいつらに話をつけてくる。なるべく早く戻る」

 メフィストフェレスは一頭の馬の綱を外し、背に跨った。

「一人で戦う気か? 助けは呼ばないのか?」

「俺を誰だと思っているのだ不破崇人。貴様という足手まといさえいなければ、あんな奴らに遅れをとる俺ではない」

「悪かったな」

「それに、俺が仲間を呼べば全面戦争になる。いわゆるハルマゲドンだ。今はその時ではない」

「よく分からないが大層なことだ。メフィストフェレス、お前が負けたら、私はどうなるのかな」

「がっかりさせて申し訳ないが、他の代理人が地獄から派遣される。

 もしかしたら魔王ルシファーその人が来るかもな! 俺より何万倍も恐ろしい魔王が!」

「聞いてみただけだ」

「……じゃあな。また会おう。不破崇人。元気でな」

 メフィストフェレスを乗せた馬は「ぴゃーー」といななき、ぐんぐんと宙を上っていった。

「行ってしまった。私も行かなくては」

「ソーデスネ。イッテラッシャイ」

 残った方の馬に後ろから言われビクッとした。

 すぐにその馬も、無人の馬車を引いて空へと消えていった。


「卒業生、入場」

 吹奏楽部の演奏に乗り、卒業生が会場に入る。

 行進の先頭は私である。

 卒業生の代表。

 金色の王冠に、黒いマント。

 堂々の入場であった。

「気分が良い。先頭というのは」

 調子に乗って手を降ったりする。父兄や在校生には王冠やマントは見えていないはずだ。

 入ってきた卒業生たちはパイプ椅子に順に座っていく。

「ただ座っているのもつまらないな」

 さっそくステージに上がる。音楽に合わせて踊ってみる。

「私ってこんなに愉快なやつだったっけ?」

 我ながらステップが軽やかである。

 吹奏楽部の近くに降りていき、トランペットの男をくすぐってみた。

「ぷおうぷぷーー!」

 身をよじりながらトランペッターは必死に曲に付いていく。

「三年生が卒業して、二年生が中心となる中で、トランペットも、吹奏楽部全体も、すでに次の主導権争いが始まっているのだなあ」

 クラリネットの女子をくすぐりながら私は感心している。「ぷぴー!」と、いわゆるリードミスの音が響いた。


「校歌斉唱」

 父兄も合わせ、全員が起立する。

「厳かな雰囲気になる。ふざけずにはいられない」

 私は吹奏楽部の前で指揮をしている、おそらく吹奏楽部の顧問の男性教員に近づいた。

「誰か知らんが、もっと目立ったらどうだ?」

 私は指揮者の後ろから手を回し、ベルトを外した。ズボンがずり下がり、赤いトランクスが露わになる。

 生徒たち側からクスクスと笑い声が聞こえる。

「指揮の身振りが激しすぎて、ひとりでにズボンが落ちたように見えるのだろう」

 指揮者は右腕で指揮を続けながら、左手でなんとかズボンをずり上げようと慌てている。その慌てぶりで更に笑い声が大きくなる。

「体を張っての楽しい思い出をありがとうございますよ」

 もう少しでズボンが上がりそう、というところで私は再びズボンを下に引っ張る。また赤いトランクスが晒される。

「ハハハ、愉快愉快」

 吹奏楽部員も演奏しながら笑いをこらえている。


 校歌を歌い終えるのと時を同じく、メフィストフェレスが会場に出現した。

 ステージ上で赤い火花がパッと弾け、空中からメフィストフェレスがゆっくりと降りてくる。

「行きて帰ってきたかメフィストフェレス」

「言ったはずだ。話をつけに行っただけだ。戦ったわけではない」

「それにしてはずいぶん疲れた様子だ」

「心配してくれるのか不破崇人」

「いや、このまま死んでくれないかと思ってな」

「そりゃ残念だったな」

「最終的に、どんな話のつき方となった?

 相手方については口を閉ざしがちだがメフィストフェレス、それとなく教えてくれてもよいだろう?」

「……父兄席、一番うしろの両端を見ろ」

 メフィストフェレスは私の耳元で囁いた。

 まずは向かって右の端。黒いドレスの女性が見える。

「若い……、むしろ幼ささえ漂う」

 次に向かって左の端。対象的に純白のドレスである。

「結婚式かい、ってくらいの」

 とりあえず、明らかに卒業式には異質な、黒と白の二人の出席者がいることは分かった。

「分かったか?」

「何も。あの方々は何者だ?」

「言えない。絶対にだ」

「白と黒の対比は、何か関係があるのか?」

「頼む不破崇人、これ以上は聞いてくれるな。最大限に譲歩してやったのだ」

「ふん。結局は何も分からないのだから、譲歩の意味もないだろうに」

「そうだな。どちらかと言えば、こちらの都合によるものだった。貴様は卒業生答辞に集中していればいい」

「まだ先だろう? 次は何だったかな」


「卒業証書授与」

 司会が次の出し物を告げる。

 卒業生がクラス単位で立ち上がり、担任が一人ずつ名前を呼んでいく。

 呼ばれた卒業生はステージに上がり、校長から卒業証書を受け取る。

「流れ作業だ。つまらない。くだらない」

 私は首を振った。

「早く終わって欲しいか不破崇人」

「メフィストフェレスの魔力でテンポを上げることも可能だろう。

 それはそれで面白そうだが、もっと面白くできないか?」

「命令するか不破崇人? 貴様は俺に、この流れ作業を面白くしろ、というのか?」

「ああそうだ!

 我、不破崇人は悪魔メフィストフェレスに命ずるぞ!

 こいつらのくだらないやり取りを面白くしろ!

 やり方は自分で考えろ!」

「やれやれ、最後の方に来て無茶な丸投げだよ。まあいい。そこで見ていろ! 悪魔の名にかけて、目にもの見せてやるさ!」

 そう叫ぶとメフィストフェレスは頭上で両手の甲同士を打ち鳴らした。

「また逆拍手か」

 メフィストフェレスの両手からビビビッと稲妻が走る。悪魔の魔力である。

 魔力は一瞬で卒業式場全体を覆った。

「ギギギ……」

 全体的に白目になる。

「白と黒の謎の二人は……、よく見えないな」

 メフィストフェレスの魔力が通じるか見たかったが、他の人間の陰になって私の位置からは見えなかった。

 何人かの卒業生が、ぞろぞろとステージ上を移動し、最初に名前を呼ばれた卒業生まで戻る。

「では、最初からやり直し!

 三年一組! 一番! 相原!」

「ハーイ!」

 担任も呼ばれた生徒も、人が変わったようにハイテンションになった。

「ギヒヒ! ボクは! 同じクラスのトモコちゃんが好きでしたー!」

 相原くんは、ステージ上でフルテンションで叫んだ。会場からは大拍手が起こる。

「何が始まった?」

 私は笑いながらも事態の推移を見守る。

「トモコちゃん! どうぞ!」

 担任に呼ばれてトモコちゃんとかいう女生徒がステージに上がる。

「ごめんなさい!」

「うぎゃーー!!」

 トモコちゃんとかにフラれて相原とやらが仰け反った。

「残念でしたー!」

 校長もハイテンションで卒業証書を相原くんに差し出す。

「チクショー!」

 相原くんは泣きながら卒業証書を校長からむしり取り、走って退場していった。

 会場は大爆笑である。

「メフィストフェレス、今のは何なんだ?」

「面白くないか?」

「面白いけど」

 ステージ上に残ったトモコちゃんが叫ぶ。

「私は! 同じ手芸部だった、タカシくんが好きでした!」

 会場は同じように大拍手である。

「これって、全員やるの?」

 私は早速よぎった不安を口にした。

「飽きたらやめてもいいぞ」

「……もう少し様子を見るか」

 タカシくんはステージに上がると、「僕は彼女いるけど、抱いてあげてもいいよ」とか言う。

「遊びでもいいです!」

「待てやコラー!」

 血相を変えて別の女生徒がステージに乱入してくる。タカシくんの彼女とやらだろうか。

「いいぞー!」

 会場は大盛り上がりで、無責任に囃し立てる。

「オーノー! 結局はどっちにもフラれちゃったよー!」

 いろいろあった後、タカシくんにも卒業証書が渡された。

「まともなカップルが成立しないかな」

 何ターンか同じような展開を見せられた。

 変わったところを挙げれば、女生徒が部活の顧問に告白したところ、顧問はゲイをカミングアウトしたり。

 モテるタイプの女生徒に人気が集中したり。

 女教師が生徒に六股くらいかけていたのが判明したり。

 一人の男子生徒を取り合って柔道部の女生徒がステージ上で対決したり。

 軽音楽部の男子生徒がオリジナルのラブソングを披露したり。

「切りがないぞメフィストフェレス」

「貴様が満足すれば、後の卒業生は省略してもいいんだぞ」

「……途中で止めるのは不公平というか、高校最後の思い出だし、悔いを残さずに……」

「貴様にしてはえらく殊勝じゃないか」

「……っていうか、メフィストフェレス! なんでそんなに面白いと思えないのか、ようやく気づいたぞ!」

「ようやくか」

 メフィストフェレスはニヤついている。

「誰も私を指名しないな! このまま終わっていく勢いだ!」

「告白される心当たりなんて貴様にあるはずないものな」

「そこは魔力で何とかしてよ!」

「自分で悲しくないのか?」

「……けっ!」

 私は腕を組み、そっぽを向いた。結局は最後まで見させられることとなった。

 名前を呼ばれてない卒業生は後で取りに来いとのアナウンスがあり、当然そこに私も含まれた。

「カップル成立は十三組、まあまあ楽しめたのではないか?」

 メフィストフェレスは私に言ったのか、それとも白と黒の二人に向けたのか。

「祝福するのか? 悪魔のくせに」

「痛いところを突いてくる。カップル成立しない連中には色欲や妬みの罪を増してもらえば、トータルでチャラってことさ」

「よくわからないな」


「学園長式辞」

 ようやく卒業証書授与が終わり、司会が次のイベントを告げる。

「まだ終わらないのか」

 疲れた私はぼやいた。

「こいつも面白くしてやろうか不破崇人」

「さっきみたいな惨めな気持ちにはなりたくないぞ、メフィストフェレス。もっと私個人を楽しませてくれ」

 メフィストフェレスは笑って頷くと、校長を後ろに回り、式辞が書いてあるらしい原稿を違う紙とすり替えた。

「ええと、……ええ、ワシは学園長であるぞ! 頭が高い! 控えおろう!」

 会場がざわついた。

「原稿がすり替えられたのに気がつかないでそのまま読むのか?」

 私は口を押さえて笑いを堪える。

「イエー。それじゃ校長こと俺っちがブチかますぜ。お前ら生徒、一人一人のことなんかどうでもいいわけ。俺っちは言いたいことは一つだなんだわ」

 校長は大げさな身振り手振りで言う。

「振り付けも原稿に書いてあるのか?」

「校長言います! 不破崇人くん! いかに不破崇人くんが素晴らしいかについて!」

 名前を呼ばれて私はドキッとした。

「まずはサッカーのインターハイ優勝ね! 見ました? すごかったね! 決勝! 不破崇人くん一人で 二百点も取って! 一試合で二百点! 単純計算で三十秒で一点だからね!」

 記憶にないが、会場からは拍手が起きる。

「甲子園もすごかった! 不破崇人くん、ピッチャーで! 当たり前のように全試合で完全試合! 全部ストライク! その上、対戦相手はみんな不祥事で活動自粛!」

 不祥事も私の手柄になるのだろうか。

「文化祭では! このお祭り男! ロックバンドを結成してのメインボーカル! アメリカのレコード会社がスカウトに来たって!」

 もちろん記憶にない。英語もしゃべれないし。

「勉強もお出来になって! みなさん知ってました? 不破崇人くん、一時は学年最下位で留年待った無しだったんですよ!」

 会場がどよめいた。

「それ言わなくてよくない?」

 って言うか最下位だったのか。

「それが! 突然! あれよあれよと成績はうなぎ登り! 最後の期末テストでは全ての教科で満点でした!」

 カンニングした記憶はある。始めの頃は目立たないよう適当にわざと間違えていたが、最後の方は面倒臭くなり、全問で正解を書いていた。

「人望も大変厚く! 会ったことはないですけど! 卒業生の代表に選ばれるわけですから!多分ナイスガイなんでしょう!」

 校長として、生徒に「会ったことない」はマズくないのか。

「生まれ変わったら不破崇人くんのお嫁さんになりたい! そんな俺っちのたわごとはここまで! イエー!

 ほんじゃ、いよいよ不破崇人くんご本人の登場だ! フロア爆発! ピース!」

 校長は最後はラッパーみたいなゼスチャーでステージを後にした。

「貴様専用のお楽しみにしてやったぞ、不破崇人」

「確かに間違ってはないが、そこかしこでバカにされたような気がした」


「……ええ、では、来賓の式辞と、在校生送辞はカットして、次は、卒業生答辞!」

 司会が校長に忖度した。

「答辞って書いてあるのに、何に答えるのやら」

「まあいい。不破崇人。やっと出番だ。行ってこい」

 急に緊張してきた。私は王冠を直し、マントを翻し、ステージに上る。

 校旗に一礼し、スピーチスタンドの前に立つ。礼をすると会場から拍手が送られた。

「……」

 シーンとしている。私が話さない限り、ずっとシーンとしているのだろうか。

 原稿はメフィストフェレスが用意してくれたが、読む気にならなかった。先程の校長みたいなふざけたものを強制的に言わされてはかなわない。

「ええ、どうも」

 マイク越しに、私の声が会場に響く。

「あ、不破崇人っす。ども」

 私のオドオドした声が会場に響く。

「あ、じゃあ、卒業生代表ってことで、適当に、やりますんで」

 会場がざわめき出した。

(どうしよう。やっぱり原稿を読んだ方がいいのかな)

 さすがに、ここまでノープランでは私も不安になってきた。

「不破崇人、大丈夫かか?」

 横からメフィストフェレスが言ってくる。ニヤニヤしている。

「あ、じゃあ、原稿あるんで、軽く読みますね」

 私はメフィストフェレスに応えず、モタモタと原稿の紙を開く。

「……って、アリャリャ! 何も書いてないんですけど!?」

 ざわめきが大きくなる。私は白紙の原稿を会場に向けて見せる。

「正直な貴様の気持ちを言ったらいい。今の気持ちを。これが最期なのだから」

「……ふん」

 私はメフィストフェレスに向けて不満げに鼻を鳴らし、原稿をクシャクシャに丸めた。

「では、言わせてもらいます。まず、皆さんに告白しなければなりません」

 私はマイクをスタンドから外し、手に持った。

「私は、悪魔と契約しました」

 会場がまた静まり返る。

「悪魔との契約は、今日この日、卒業式まで。私の魂と引き換えに、悪魔は何でも私の命令に従う、というものです」

 チラリとメフィストフェレスを見る。

「お気づきの通り、先程、校長先生が仰った輝かしい成績も、留年を免れたのも、こうして卒業生の代表として話をしているのも、全て、悪魔の力によるものです」

 会場からは「道理で」「納得」など聞こえてくる。

「悪魔と契約する前の私を知っている人は少ないでしょう。友人などおらず、勉強はできず、うだつが上がらない、落ちこぼれ、誰の目にも止まらない存在でした」

 ハンドマイク状態でステージを広く使う。

「そんな私が! 悪魔と契約し! やっと! 本当の自分になれた!」

 カッと会場に睨みを効かせる。

「これが本当の私だ! このマントを見たまえ! かっこいいだろう? 私はこのマントを着て登校していたのだ!」

 マントの裾をつまんで会場に見せつける。

「ああ、七つの大罪の内、私にとっては、一番の罪は『高慢』、プライドであった! プライドこそが、私から命を奪ってゆく。大喰らいも強欲も嫉妬も、他人を殺しはしても自分を殺しにくることはない。プライドこそが、私自身を殺そうとほくそ笑んでいる!

 今朝、家を出るとき、悪魔は私にこう囁きました。『もし、契約する以前の自分に戻るなら、契約を解除したいか?』と!

 そんなこと! 認められるはずがない!」

 私はスピーチスタンドに飛び乗る。

「私を見ろ! これが本当の私だ! それこそが本当のプライドだ!

 私は成績が良い! 人望が厚い! スポーツもできる! 何だってできる!

 悪魔に命令すれば、ここに居る全員を、色欲にかられた狂人にすることだって思いのままだ!」

 ふー、と息をつき、私はスタンドを降りた。

「皆さんは私を忘れるでしょう。私は消えていくのだから。この卒業式が終われば、私の人生も終わる。悪魔が私の魂を奪っていくのです」

 会場からは哀れみともあざけりともとれるざわめきが起きている。

「私みたいにはなるなよ」

 私は万感を込めて言った。

「後悔はしていない。自分が望んだのだから! だが、他の人が悪魔と契約するのはおススメできない。他の方法を探した方がいい。もっと気楽に、人生を楽しめるような。

 私にはできなかった。当時の自分を受け入れることが! あんな状況を! 受け入れることなどできようか!

 ……この音楽は何だ? ああ、『仰げば尊し』、最後の出し物か。そんな時間か。

 もう、卒業式が終わる。それでは、皆さん、御機嫌よう。

 私は悪魔メフィストフェレスに連れられ、地獄へと参ります。

 ……地獄の淵が見える。

 恐ろしい門が。

 『一切の希望を捨てよ』と書いてある。

 言われるまでもない。もはや希望など一片も残ってはおらぬ。

 黒のドレスの女性、何を笑う?

 そんな勝ち誇った顔で。

 白のドレスの女性、何を憂う?

 そんな怒りに満ちた顔で。

 何者かに、私の中心を掴まれたぞ!

 すごい力だ。抗うことなどできない。

 私を地獄へと引きずりゆく、お前は何者だ?

 ああ、メフィストフェレス……」


○終章 ~レクイエム~


 卒業式の後、最後のホームルームが終わり、ギターのソフトケースを背負い、山越はぼうっとしていた。

「わたし、なんで、ギター持ってきたんだっけ……」

 クラスメイトは先にカラオケに行った。後から追いかけると伝え、山越だけ残ったのだが、何で残ったのか思い出せない。

 黒板には、みんなでチョークで描いた絵がまだ残っている。

「レクイエム……」

 趣味で作曲したものが、何故かずっと頭で流れ続けている。

 進路は、結局、地元の大学にした。

 同時に、ボーカルのレッスンも受けることにした。講師がスパルタなことで有名な音楽スクールだ。

「誰かのために、レクイエムを歌わなきゃいけないような気がしたのだけれど……」

 教室には誰もいないし、誰も歌ってくれと言ってこない。

 わざわざギターを取り出して、誰もいない教室で弾くのも変だし。

 いや、このギターも、そもそも誰にもらったのか。やたらと良い音色なのは知っているけれど。

 知り合いのミュージシャンから譲ってもらったと思っていたが、偽り記憶のような気がして仕方がない。ミュージシャンに知り合いはいない。

「思い出せない……」

 ふと、春の風が吹き込み、教室のカーテンを撫でた。

 黒いマントが翻るのに似ていると思ったが、どこで見たのかは思い出せなかった。


(了)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ