百九十五話 いい景色でした!?
「ううむ……ここは?」
目を開くと、そこには心配そうにこちらを覗き込むタランがいた。
「タラン……正気に戻ったか」
こくこくと体を縦に振るタラン。
シエルも一緒に同じポーズを取る。
やはりあのお湯がいけなかったのだろう。
というよりは湯気のせいかな。
アランシア人たちのほうは何事もなかったのだから、冷たいままなら大丈夫なはずなんだ。温めてしまってから俺は変になった。
だから、リエナたちもあそこを出れば落ち着くはずだ。
そんな中、タランが蜘蛛糸で即席のローブのようなものを用意し、俺に手渡してくれた。
羽織って腰の部分を帯で締めてみる。さらさらとして気持ちがいい。風通しもよく、風呂上がりにぴったりだ。
「ありがとう、タラン。ところで、ここは」
俺は足元が石造りなのを確認し、周囲を見渡した。
「ここは……アランベルクの塔の頂上か」
沈黙の門で見た時よりも高い場所にいるのだろう。
魔動鎧でも、ここまで高い場所を飛んだことはなかった。
地平線を眺めるにはいいが、塔の下のほうはとてもじゃないが見れない。
俺は高い場所が苦手なんだ。
「景色もあまりいいとは言えないな」
ずっと曇り空が続いているが、途中から真っ暗闇になっている。
本当にここがシェオールと同じ世界なのかと、改めて疑いたくなるような光景だ。
後ろを振り向くと、前方と変わらぬ空が。
だがなんとか下のほうを眺めると、そこには緑の豊かな場所が見える。聖域だ。
「ここからなら、聖域の動きが丸わかりだな」
聖域の情報収集は、今まで城壁の上からの監視に留めていた。
もはや特に脅威でもないし、彼らがアランベルク側に折れるのを待つだけにしていた。
「しかし、どうしてあそこだけ緑になるんだろう? 空もずっと曇っているし、世界樹も枯れているのに」
防衛のための装置があるのは見た。
しかし、植物はどうやって育てているのか?
いや、あの聖域の中央にある湖……もしかして、世界樹の樹液を含んでいるのかもしれない。
それならば、植物が育つのもなんとなく分かる気がする。
だが、なんというか湖の周囲が騒がしい。
人だかりができている。
いつもああして、水を汲んでいる──わけではなさそうだ。人だかりからは、どよめきのようなものが伝わってくる。
「もしかして、こっちが水を引いたから、水が減っているのか?」
湖に流れる水がこちらに流れてきているのかもしれない。
もしこのまま湖の水が枯渇すれば、作物も育てられないだろう。
「意図してやったことじゃないが……ちょっと酷だな」
作物も育てられない上に飲み水もなくなったとしたら、これはもう死活問題だ。
「数日向こうに動きがなければ、アリッサに頼んでこちらから交渉に行ってみるか。いつまでも争っていても仕方ない」
そんなことを考えていると、突如後ろから風が吹き始める。
視線をアランベルクのほうに戻すと、そこには上昇してくる魔動鎧があった。
魔動鎧は塔の上に着地し、膝を落とす。
胸の扉が開くと──中には、リエナたちが乗っていた。
「ヒール様! 申し訳ございません!」
魔動鎧の腕を伝い、リエナが下りてくる。フーレとアリッサもそれに続いて下りてきた。
「わ、私もごめん、ヒール様……」
「ヒール殿。私はまた、過ちを」
二人の声に、リエナが首を横に振る。
「二人は悪くありません。元はと言えば、お湯を温めてしまった私がいけないのです。その後、ヒール様のもとへ行こうと言い出したのも私……ですし」
リエナは顔を真っ赤にした。
フーレとアリッサも頬を赤らめ、俺から目を逸らす。切なそうな表情に、俺もなんとも言えない気持ちになる。
まだ、樹液の効果が残っているのかも……
「ま、まあ大事にいたらなくて良かったじゃないか? というか、やっぱり温めたのがいけなかったんだな。湯気が樹液のそういった成分を運んだのかもしれない。他のアランシアの人たちは大丈夫なんだろうか?」
「はい。確認しましたが大丈夫そうでした。一応、水は温めないよう、住民の方々に伝言をお願いしてます」
俺はリエナの言葉にホッと息を吐く。
一歩間違えれば、アランベルクが大変なことになっていただろう。
「よかった……そういえば、アリッサ。あの聖域の湖を見てくれるか?」
「うん? あれは……水が減っている?」
「恐らくだが、アランベルクに引いた水が、湖に流れなくなっているのかもしれない。そうなると、彼らもまずいかなと思って。飲み水もなくなったら……」
「いや、水は他に補給の手段がある。神殿に水が流れる管があるんだ」
「そうか。なら、水は大丈夫だな」
植物が育たなくなる可能性はまだ残っているが。
リエナが呟く。
「それにしても、眺めの良い場所ですね。風も心地良いですし」
「こっから、翼つけて飛んだら気持ちよさそうだよね!」
フーレはそんなことを言った。
俺はとてもそんな気持ちになれないが……
本音を言えば早く地上へ戻りたいが、リエナが茶を淹れ始めるのを見るに、皆ここで休んでいく流れらしい。
まあ、酔いを醒ますにはいいかもしれない。
リエナは俺たちにカップを渡すと茶を注ぎだす。
「ありがとう、リエナ殿。これで青空が見えれば言うことなしなのだがな」
茶を口に付けたアリッサはそんなことを言った。
フーレも茶を飲みながら答える。
「すぐにそんな日がくるよ。それよりも、世界樹の種植えなきゃね」
「そうだったな……うん? あ、あれ?」
アリッサは突如、自分の体のあちこちに手を回す。世界樹の種が見つからないらしい。
「ま、まずい! 落としたみたいだ!」
「落ち着けアリッサ。渡してから移動した場所は限られている。ひとつずつ探せば、絶対に見つかる」
俺がそう言うと、アリッサは申し訳なさそうな顔で頷いた。
「もしかしてアリッサさんって実はおっちょこちょい?」
フーレは冗談っぽくそんなことを言った。
恥ずかしがるアリッサに俺は言う。
「まあまあ、さっきのこともあるし……うん?」
塔の屋上の縁に白い糸が飛んでくるのが見えた。
それからすぐに、ケイブスパイダーとその背中に乗ったマッパが現れる。
「マッパ。お前も来たのか。おっと、それは」
マッパの手には世界樹の種があった。
「おお、今まさに探してたんだ。持ってきてくれたのか」
うんうんと頷くマッパ。
それを俺なりアリッサに渡してくれる……かと思った。
しかしマッパはトコトコと屋上の中央に向かう。
「おいおい、まさかそこに植えようってわけじゃないよな?」
だがマッパは親指を突き出す。
「さ、さすがに危険だ。こんな場所で大きくなったら」
「ヒール様。太陽石を使わないなら、試してもいいかもしれませんよ。案外、幹の部分に馴染んで……もしかしたら、世界樹が復活するなんてことも」
「さすがにそれは……それにそこまで成長力があるなら、あの樹液の中で芽生えていてもおかしくなかったんじゃないか? ……いやまあ、生えないなら別に移せばいいだけか」
太陽石を使わなければ、シェオールのようには大きくはならないだろう。
「よし、植えてみるか。でも、一応周囲の人を避難させて」
そう言うと、マッパがぶんぶんと首を横に振り、塔の下を指さした。
俺は高い場所が苦手なのを知っているからか、フーレが代わりに塔の周囲の広場を覗いてくれた。
「広場には誰もいないね。ゴーレムたちが塔の近くに立ち入らないようにしてくれているみたいだよ。揺れても大丈夫ってことじゃない」
「なるほど。なら、試してみるか」
いざというときは魔動鎧もあるし、魔法で対応すればいい。
俺はまず、屋上の石材の一部をピッケルで剥がした。
黒焦げた幹が見えるので、そこを少し掘り、土を盛る。
「じゃあ、マッパ。ここに植えてみてくれ」
しかしマッパはリエナに種を手渡す。
「え? 私が植えるんですか?」
こくこくとマッパは頷く。
どうしてリエナに促すのかは分からない。
リエナも不思議そうな顔をしながら、アリッサに言葉をかける。
「なら……アリッサさん、もしよろしければ」
「いや、そんなことは気にしないでくれ。リエナ殿は植物のことに詳しいのだろう? 植え方もあるはずだ。だから、マッパ殿はリエナ殿に頼んだのだろう」
なるほど。
マッパはリエナのほうが植え方が上手いから、託したというわけか。
しかしマッパはうんともすんとも言わない。
ただ、ワクワクするような表情をしているだけだ。
「そ、そういうことでしたら」
リエナは本当にいいのかという顔をしながらも、種を土に埋めた。
するとすぐに、土からシェオールと同じように芽が出る。
アリッサは目を丸くする。
「もう芽が!?」
「いや、芽はシェオールでもすぐ出た。でも、さすがにこれ以上は太陽石がないと駄目そうだな」
俺が言うとリエナが頷く。
「水を少し与えて、今日のところは帰りましょう。また、明日様子を見に来ます」
「そうしよう……うん? なんか、揺れないか?」
俺が言うと、揺れは一層強くなった。
「ま、まずくない!? ──あれ?」
フーレが呟いてすぐに揺れは止まる。
「なんだったんだ……うわっ!?」
下のほうでガシャンと岩が崩れるような音がした。
「岩が落ちている……? まさか」
俺も思わず、塔の下を覗いてみた。
やはり、岩が広場に落下したようだ。塔の壁が、一部剥がれ落ちたらしい。
だが、ゴーレムたちのおかげで、市街地には何も被害はない。
「でも、どうして……え?」
塔からは太い幹が生えだした。幹はぐんぐんと伸びていき、更に細かく枝分かれすると、青々とした葉を茂らせる。
その後も、塔から何本もの幹が、横に、上にと伸びていった。
「本当に……復活した?」
この屋上の周囲も、すっかり幹に囲まれ、まるで森のようになってしまうのだった。