百九十二話 溺れそうになりました!?
「大丈夫ですか、アリッサさん?」
リエナは階段に座りながら、隣で水を飲むアリッサをそう気遣った。
さっきアリッサが俺に抱き着いたとき、リエナはアリッサを優しく引き離してくれた。それから落ち着かせるように、昼食に持ってきた水と果物を口にさせるのだった。
そのおかげか、アリッサは次第に落ち着いてきたようだ。
アリッサは顔を真っ赤にしながら答える。
「お、落ち着きました。ですが、リエナ殿。私はいったい」
「みなまで言う必要はありません。私もヒール様も、あれは経験済みですから。ですよね、ヒール様?」
経験済みというと何か変な感じに聞こえるぞ、リエナ……アリッサがさらに沸騰しそうな顔になっている。
「あ、ああ。アリッサ。あれは、世界樹の樹液やら胞子の香りだ。あれを嗅いだり、口にすると……なんだか変になる」
「だからか……ヒール殿には、本当に申しわけないことをした!」
アリッサは俺にがばっと頭を下げる。
「いや、俺こそ」
「それにリエナ殿の前で……お二人とも、私は」
涙目のアリッサにリエナは手のひらを向けて言う。
アリッサはとても焦っている様子だった。俺とリエナは隣にいることが多いし、さっきの経験済みという言葉で結婚しているとでも思われたのだろうか。
誤解を解こうとしたが、先にリエナが口を開いた。
「気にしないでください、アリッサさん。それに自分の気持ちを偽る必要はありません」
「え?」
「ともかく、この話は持ち帰りましょう。シエルさんが戻ってきてくれたようですし」
リエナはニコニコと階段の上側に振り向いた。
そこにはぴょんぴょんと飛び跳ねてくるシエルが。
その体の上には、丸い兜のようなものが三つあった。
「あれ? これがマスクなのか?」
シエルは俺の声に体を縦に曲げた。
周囲はミスリルでできているようだが、ガラスの板がはめ込まれている。ガラスの板の部分が顔側で間違いないだろう。
「ガラスは、リヴァイアサンの鱗かな。マッパが作ってくれたんだな。口だけじゃなく、これなら目も守れる。それじゃあ、これをつけてもう一回見に行こう」
「はい!」
返事をする二人はシエルから兜を被る。俺も被ってから、先程掘った場所に戻ることにした。
「……あれ?」
歩きながら、俺はふと何か違和感を感じた。
リエナは俺の隣を進みながら訊ねる。
「どうかしましたか、ヒール様?」
「あ、いや。なんかおかしい気がして」
「? 確かにちょっとへんてこな格好かもしれませんね」
リエナの言葉に、アリッサが答える。
「だが、あの魔動鎧を着るときのスーツとは合いそうだな」
「確かに……スーツと合わせるなら、この兜も格好良く見えるかも。もしかしたら、これは魔動鎧に乗るときのために作った兜なのかもな」
シエルが頷くように体を曲げているのを見るに、それは合っているようだ。マッパはこれをもってけとシエルに渡したのだろう。
だが、別に兜が変じゃないんだ。何かが足りない気が……そっか。
俺はふと振り返った。
だがそこには誰もない。
「マッパ……マッパのやつが来ない」
「言われてみれば……」
リエナも俺の言葉に思い出したように声を上げた。
アリッサは首を傾げる。
「マッパ殿がいないことの何がおかしいのだ?」
「あ、ああ。こういうときはいつも来ていたからな……ただ、今は鎧の組み立てで忙しいのかもしれない」
あるいはシエルがマッパには下で世界樹の香りがすることを黙っていただけかもしれないが。
ともかく俺はまっすぐ採掘現場に戻る。
岩壁周辺には魔力が漂っていた。これが香りの正体だろう。
「あそこから漏れているみたいだな」
岩壁の一部に、小さな亀裂が見られた。あそこから香りが漏れ出ているのだ。
「樹液がたまっているのか、それともまだ生きた部分が……ともかく、掘るぞ」
俺はピッケルを振り上げ、亀裂を叩いた。
崩れる岩壁。見えてきたのは、一面が液体で満たされた池のような場所だった。
「ここは……」
アリッサは松明で、前を照らした。
光を受けた水面は、キラキラときらめいた。液体はどうも、少し黄色い。
「蜂蜜のような色……世界樹の樹液がここに溜まったのか?」
「それにしては、シェオールの世界樹の樹液のようにどろどろしてません。まるで水みたいな……うん、この香り?」
リエナは兜を少し上げて、外の香りを嗅ぐ。
「り、リエナ。危ないって」
「大丈夫ですよ。それより……これは、酒の香りですね」
「酒?」
「はい。樹液や水が交じり長い時を経て、酒になったのかもしれません。古い蜂の巣から、酒のような液体が出ることは私たちも知ってました」
「なるほど。というと、これは蜂蜜酒みたいなものなのかな」
とはいえこのまま飲めるかは疑問だ。
これを飲めば、皆たちまち頭がおかしくなってしまうかもしれない……
炭や岩が交じっている可能性もあるしな。
「一杯だけ水筒か何かで掬って帰ろう。バリスとアリエスに慎重に調査してもらうんだ。問題ないようだったら、アランシアの人々が飲めばいい」
「それがいいでしょうね。では、私が」
そう言って、リエナは持ってきた水筒の蓋を開けようとする。
だがその時、リエナがふらつきだす。
「リエナ!? ──うおっ!」
俺はリエナを後ろから抱いて支えたつもりだった。
しかし、足元を滑らせ、リエナと共にざぼんと酒池の中へ落ちてしまった。
「ヒール殿、リエナ殿!!」
アリッサがそう呼びかけるのが聞こえる。
この兜は中に液体が入らないようになっているせいか、息ができる。
それに目の前のリエナは目も開き、意識があるようだった。
だから、溺れるということはない。
「大丈夫か、リエナ?」
そう喋り、リエナの顔を見る。
リエナは何かを言って、頭を下げた。
口の動きを見るに、ごめんなさいと言ったのだろう。
ともかく、このまま上がればいい。そう思った時、池底に何か光る物を見つけた。
「宝石? いや……とんでもない魔力だ!」
光るものからは、周囲の液体以上の魔力が見えた。
底までそんなに深くはない。俺はその光る物を拾って、水面に顔を出す。リエナもまた、一緒に池から顔を出した。
そのままアリッサに池から引き揚げてもらう。
「二人とも! ご無事か!?」
「ああ、大丈夫だ」
「ほ、本当にごめんなさい、ヒール様」
リエナは俺に頭を下げる。
「いや、なんというかつるつるしていたからな。それに、この兜のおかげで助かった」
まるでこうなることを見越していたかのような兜だな。
一定時間呼吸ができるので、スーツと合わせれば泳ぎやすいそうだ。
「しかも、この光る物体……」
ジャガイモほどの大きさで、まるで種のように皺が付いている。
「種……まさか」
「ヒール様、これ……」
俺はリエナと顔を合わせる。
「世界樹の種!?」
俺たちがかつてこの手で埋めた世界樹の種。それと同じ形をしていたのだった。