百三十話 煽られました!?
「なんの音だ? 何かが割れたようだが」
アシュトンがいうと、ハイネスは鼻を宙に向ける。
「この匂いは……リンゴの匂いが広がっている。ジュースの入ったコップでも割ったんじゃねえかな」
しかし、バルパスが不安そうな顔で、俺にいった。
「……見に行ったほうが、いいと思うぜ」
その顔からは深刻さが窺える。自分が逃げるための隙をつくるためじゃないだろう。きっとあの男のことを考え、本当に不安なのだろう。
「ハイネス、アシュトン、兄上を頼む。俺は中を」
「はっ。お気を付けて!」
俺は二人にバルパスを任せ、倉庫へと向かうのだった。
倉庫に入るなり、すぐに怒声が響いた。
「貴様! 汚らわしい魔物が持ってきたものを殿下に飲ませようとは、何事だ!」
「す、すいません! ただ、我々が飲んでも体はなんとも! それに美味しかったので!」
「美味しいだと? 貴様、それでも王国人か!?」
ローブを着た若い男が、中年の船員を叱りつけていた。
若い男の後ろにはオレンが不快そうな顔で椅子に座っており、その前には割れたガラスのコップが見える。
オレンが魔物の飲み物はいらないと割ったのだろうか。
よく見ると、若い男の他にも同じようなローブの者が六名ほどいる。
皆、それなりの魔力を有している。魔法大学の者たちだろうか。
「これだから、学のない庶民は嫌いなんだ! 殿下!」
若い男はオレンに振り返る。
「これなら、まだ人間の端くれである公国人の手で作らせたほうがマシです! 私がヒールに要求してまいります! いや、ヒール自身が殿下に」
「……うるさいよ」
オレンのだるそうな回答に、若い男は口をぽかんとさせた。
「……へ?」
「はあ……僕はリンゴジュースが嫌いなんだ。そんなことも知らないの? 甘くて……甘ったるくて……飲むと頭痛がするんだよね。イライラするんだ。なにかと似てる」
「も、申し訳ありません、殿下!」
「いいよ。というより、すぐそこにいるやつの魔力に気が付けない時点で、君はやっぱり魔法はダメダメだなあ」
若い男はきょろきょろと周囲を見ると、俺に目を留め、顔を青ざめさせた。
「ひ、ヒール……」
「まさかあの魔力を前に、気が付くのが遅れたなんて言わないよね? まあ、君はそもそも気が付けない人間なんだろうけど。僕知ってるんだよ。君が大学で僕に取り入るために、道具や薬で魔法の腕を誤魔化していたのを」
「そ、そんなことは……」
「まあ、魔法は使えなくても上級貴族だし、いい道具にはなるだろうと側に置いてきたんだ。実際、今回は使えるだろうしね」
オレンの冷たい言葉にもかかわらず、若い男はすぐに深く頭を下げる。
「あ、ありがとうございます! 光栄です!」
「それじゃあ、しばらく黙っていてくれ……ダークプレス」
オレンはそういって、若い男に開いた手を向け、ぎゅっと握るようにしてみせた。
若い男は声も出さずその場に倒れてしまう。
周囲の船員はそれを見て、恐れるような顔でオレンから離れていった。
その一方で、俺はエレヴァンと一緒に、その若い男の元へ駆け足で向かっていた。
俺はすぐに若い男に回復魔法を掛けた。
すると、エレヴァンがオレンに怒鳴る。
「やい、お前! 何勝手なことしやがる!?」
「声が大きいなあ……そんなに大声で言わなくたって、僕には聞こえているよ。ヒール。そいつにはどんな回復魔法も無駄だよ。首の骨の一部分を内側から粉々に破壊した。そこを壊すと、人間って動かなくなるんだよね。たまに魚みたいに跳ねるんだけど」
オレンは自慢するように俺にいった。
たしかに俺の回復魔法は効いていないようだった。男は絶望するような表情で、俺に目を向けている。
「お前の部下なんだろ……? どうしてこんなことを?」
こいつが動物や魔物を面白おかしく殺すことは知っていた。だが人間を……しかも仲間を殺すとは、言葉もない。
あるいは俺の知らない場所では、そういうことをしていたということだろうか。今の言葉からして、すでに同じことをしたことのあるような言い方だった。体の内側を的確に破壊するなんて、それこそ経験がいないと無理だろう。
オレンは悪びれる様子もなく答える。
「どうしてって。そりゃこいつ、僕のために役立ちたいってうるさいからさ。どう使おうと自由だろ
? 僕は主人なんだし。だいたい、将来は王になるんだ。これぐらい……」
「もういい! お前の話はもううんざりだ! 次に勝手な事をしてみろ……でないと」
「また僕を殴ってみる? 昔みたいに?」
俺の脳裏に、昔の出来事が頭によぎった。
もう数年前のことだ。宮廷で見世物にされていたある魔物に、俺は人目を盗んで食べ物を与えていた。今となって本当に魔物だったのかもわからないが、お辞儀したりと俺に懐いてくれていたのを覚えている。
あのときの俺は魔法も使えず、見物人に石を投げられるそいつを癒すことはできなかった……だから、そんなことしかできなかったんだ。
しかしある日、オレンにそれがばれてしまう。オレンは魔物の所有者だったのだ。
だが、俺の予想に反して、オレンはその魔物を俺にくれるといった。
もう大丈夫だと、俺は魔物を胸に抱き寄せようとした──が、それを見ていたオレンは、俺のすぐ目の前でその魔物を魔法で焼き払った。骨は形も残らず、粉々となってしまった。
それからはよく覚えていない。勝てないと知りつつも、オレンに殴りかかったことだけは確かだ。
「その顔……ほんといいなあ」
オレンは俺を挑発するように笑うと、胸元から小瓶を取り出した。
「これさ、なんだかわかる?」
中には白い粉のようなものが入っている。
白い粉を見ただけで、普通はそれが何なんて分かるわけがない。
だが、俺には分かった。こいつが、わざわざ俺に見せるものだ。一つしかない。
白い粉は──かつてオレンが俺の目の前で焼き払った魔物の骨。間違いない。俺が涙を流しながら、墓に埋めた骨だ。
俺はこのとき、おそらく島に来て初めて、顔に怒りの色を浮かべたかもしれない。
「……なんで、お前が持っている? それは俺が墓に埋めたはずだ」
「掘り起こしたんだよ。見せたら、ヒールがどんな顔をするかなって!」
オレンは無邪気な顔でいってみせた。
俺が怒っているのが、とても愉快なようだった。
昔から、こいつは俺が怒ったり悲しんだりすると、顔をニコニコとさせるのだ。
「……返せ。それはお前の持っていていいもんじゃない」
「もちろん! そのつもりで、僕はここにきたんだ! ……ほら!」
オレンは小瓶の蓋をあけた。
すると、骨は突如黒い靄へと変わるのだった。