彼の頭痛
―――ああ、死ねば良い。
酷い頭痛で目が覚めるのはいつものことだ。
偏頭痛持ちの俺は、吐き気と頭の痛みに付きまとわれ、薬が手放せない。
それでも、そんなもの、俺の悩みのうちの半分にも満たないことだ。
また、守れなかった。
伸ばした手は明後日の方向へ、虚しく空を切る。
頭が痛い。
「あ、真倉。おはよ」
明るい声が聞こえた。
正直、記憶の海から目覚めたばかりの自分には毒のような声だ。
最も、彼が悪いわけではないのだが。
「……あー……はよ……」
やる気のない返事を返しても、彼は爽やかに笑んでいる。
頭痛に顔をしかめるのが癖になっている俺は、かなり強面らしい。
子供どころか、同じ年であるはずのクラスメイトにまで恐れられる始末。
まあ、それも、俺が抱える悩みの中では小さなものだ。
二人が並ぶ姿は、俺の記憶を痛ませる。
あの痛々しい、酷い、情けない過去を。
どくん、と脳の周りを這う血管が波打った気がした。
半ば八つ当たり気味に二人の仲の良さを嗤うと、片や堂々と肯定し、片や遠回しに線を引いた。
どう見てもお互いに想い合っているのに、なんとなく噛み合わない二人を見ていると、少し痛みが和らぐ気がする。
口では反対のことを言いながら、俺は正直感謝すらしていた。
勿論、薬の効果もあるだろうが。
彼らは、昔の彼らではない。
たとえ、記憶を持っていたとしても、だ。
その事実が、俺をささやかに慰める。
俺は、あれの考えがわからない。
何故こんなにも辛い朝が好きだったのだろう。
何故常に明るく笑っていられたのだろう。
何故正義だなんてものを信じて疑わずにいられたのだろう。
何故、何故……彼女を一番に優先させなかったのだろう。
頭が痛む。
今日はいつもよりずっと痛い。
薬も彼らとのショートコントじみた会話も、効き目がすぐに切れてしまう。
涙すら出てしまいそうな強烈な痛みをこらえた俺の顔は、きっとこの世のものとは思えないほど凶悪だったろう。
彼女はいつも俺の馬鹿みたいな夢物語を笑って聞いてくれていた。
彼女は国の宝とも言える姫で、俺は単なる魔法が使えるだけの、一介の騎士。
それでも、彼女は俺を雑には扱わなかった。
自惚れでなければ、好意すら抱いてくれているようだった。
勿論、それが自分だけのものであるとまでは思えなかったが。
愛に包まれて健康に育った彼女は、誰とでも直ぐに仲良くなれる。友人だって、いくらでもいるだろう。
だから、彼女は自分だけのものにはならない。なってはいけない。
そう言い聞かせた日々は、俺に固い壁を作らせた。
決してその一歩を踏み出さないための、強固な壁だ。
それがあったから、俺は彼女に明るく接することが出来たのだ。
そしてそれがあったから……俺は彼女を深く傷つけることになった。
予感はしていた。その教室の扉が開く前から。
彼女を見た途端、魂の色を確認するまでもなく、圧倒的な引力が俺を縛り付けた。
もしかすると、一目惚れといっていいのかもしれない。
頭が強く痛む。けれど、目を逸らそうとは思えなかった。
そんな彼女が隣に座った途端、俺の全神経は左隣へ向けられた。
けれど、もし正体が彼女に分かって嫌悪されたら二度と立ち上がれないような気がして、視線を向けることは出来なかった。
彼女は相変わらず人当たり良く誰にでも接して、けれど、あの頃の俺のように見えない強固な壁があるようにも感じた。
特に、親切にされた瞬間に。
どんなに頭が痛んでも、そんな彼女の性質を探ることは止められなかった。
彼女が見ていないことを良いことに、こちらに背を向けた瞬間から俺の視線は彼女に向かった。
そして、反仲が彼女に近づいた。
かつて、俺から彼女を攫った男。
血管が切れたかと思った。
それくらいには俺の頭は沸騰し、煮え滾っていた。
これではいけない。
俺は深く深く、息を吐く。
「君はあの魔王に騙されている。君が望むなら、僕は必ず君を助ける」
あの愚かな言葉は、正直なところ、本心の一部ではあった。
魔王に対する異常な執着、依存。そこに意図的なものを感じるとともに、あの少女の魂からはあの魔王の魔力が色濃く滲み出ていたからだ。
それがあの少女のためである、という杓子定規な正義感の紛い物。
それがハリボテであることなど、自分が一番よくわかっていた。
助けを求めるものを助けようと思う自分が本当であったと共に、その魔族の少女を見る影もないくらいに傷つけ、罰してしまいたいと思う自分もまた、本心であった。
だから、少女が馬鹿にしてその提案を蹴った時、自分で言っておきながら心底安堵したのだ。
正義漢を気取ったままに、少女を見捨て敵とみなす理由が出来たからだ。
多分、すでにあの時は自分のことだけしか考えられなくなっていた。
強い憎しみと怒りに燃え尽くされる思考を、独りよがりな正義でかろうじて繋ぎ止めていた。
そんなハリボテを保つために力を尽くすなら、いっそ自らのエゴのまま振る舞った方がよほど彼女を傷つけなかっただろうに。
あの言葉で、きっと俺は傷ついた彼女にとどめを刺したのだ。
今更気づいても、遅いことだが。
頭が痛む。俺だったら、今の俺なら、そんなことはしない。
国の為に気を回さないし、彼女の意思すら関係なしにあの場から彼女だけ連れて逃げるだろう。
あの大馬鹿者のことを考えるだけで、喉の奥に強い吐き気を感じる。
俺が死んだあと、彼女はあの孤独な城の中でどう過ごしたのだろう。無責任な俺を、呪っただろうか。
頭の痛みから気をそらす方法はいくつかあった。
この花壇に来るのも、その一つだ。
いつものごとく用務員から押し付けられた如雨露を片手に、ぼんやりと水に濡れる花々を見る。
綺麗なものは、痛みを忘れさせてはくれないが、少なくとも不快な気分を拭うことはできる。
ぼんやりしながら適当に花に雨を降らせていると、人影があった。
「また花に水をあげてるの?」
「……っ!?……なんだ、伊縁か……」
突然かけられた声に、やや驚く。
伊縁李里菜。
クラスメイトで、たまに話す女子で……かつては魔王の手下だった少女。
今の彼女にはかつてのような禍々しさはない。
見た目も話した感じもごく普通の少女だ。
クラスで唯一よく話す存在がかつての魔王で、二番目に話すのがその手下だなんて皮肉なものだと思う。
けれど、今の俺に彼らを憎む気持ちはなかった。
記憶の有る無しに関わらず、彼らはもう、単なる一生徒でしかないのだから。
それに、人に避けられ続けるのにも疲れていたから、彼らと話すことは一種の癒しでもあった。以前とは違う彼らを見て、安心しさえもした。
けれど、たまに疑いが首をもたげる。
彼と一緒ではないのかと訊ねると、彼女は拗ねたように口を尖らせた。
彼女は彼に、苛ついた態度で接することがある。
基本的に人当たりのいい彼女がそうするのは、彼にだけだ。
「……お前さ、あいつのこと……」
「え?」
聞き返されて、口をついた言葉を飲み込む。
代わりに、別の質問を投げかけた。
「お前……後悔してることって、ある?」
「……後悔?」
彼女に記憶はあるのだろうか。
あるとすれば、最期に彼を守る為に動いたことを後悔しているのだろうか。
そこまで考えて、後悔などしているわけもないだろうと自嘲する。
俺と違って、彼女は守れたのだ。
その全霊をもって。彼に誠実に尽くしたのだ。
俺がそう出来ていたなら。
後悔などするはずが、ない。
思わず溢れた弱音が、言い訳が、止まらない。
大切なものだけを守れたら、それで良かったのに。
俺は大切なものだけを傷つけたまま死に逃れた。
俺のわけのわからないだろう独白を、彼女は黙って聞いていた。
俺のどこかに疑いがあった。
フローティカを攫った彼が、再び仄香を攫うのではないかという疑心が。
実際、彼は仄香に近づいている。
彼が最早悪い人間ではないことは分かっている。伊縁への想いが本物だということも。
それでも、以前の想いに引っ張られて揺らぐことだってあるはずだ。
俺が抗えない引力で彼女に惹かれたように。
疑いに頭を占領されたまま戻ろうとした教室の前の廊下で、俺はそれを見た。
よろめいた仄香を、彼が、反仲が支えたその場面を。
ぶわりと湧き上がった感情は、言葉に当てはめることができない。
とにかく、激しいものだったとしか言いようがなかった。
そんな俺の視線に気づいたのだろう。
反仲は顔を上げ俺を見た。
視線が弾き合う。
その時気づいた。彼は決して良いばかりの人間ではない。
その瞬間は多分一秒にも満たないものだった。
彼はぱっと表情を明るくすると、冗談めかしながら俺に彼女を託した。
俺は彼の真意を理解した。
彼も俺と同じ。大切なものを奪われるのを黙って見ている性質ではなかったということだ。
けれど、そんな俺の冷静さは、ほんの数秒で霧散した。
逃げるように、いや、真実俺から逃げる彼女の背中を、考える間も無く追う。
遠慮だとか容赦のことなど考えなかった。
俺はもう、後悔などしたくない。
はなして、と暴れる彼女を抑え込む。
彼女の顔は真っ青で、酷いクマが目の縁を痛々しくくすませている。
一刻も早く休ませないと。
強引に彼女を抱え上げ、足早に保健室へ向かった。
「私はこの国を守りたい。私を支えてくれたこの国を、支えたいんです」
凛とした、朗々たる声で彼女は言った。
彼女ほど美しい人を他に知らない。
あらかじめ決められた役割。窮屈で仕方ないであろうその立場に、折れず、俯かず、真っ直ぐと立っている。
彼女は美しく気高い一輪の花だ。
雨からも風からも、彼女を手折ろうとするその全てから、守ろうと決めた。
そのためには、自分の欲望は邪魔な荷物でしかなかった。
ただ、正義であれば。
欲のない忠実な騎士でさえあれば、彼女の側にいられる。最も近いところで、彼女を守れる。
あの時、『僕』は『僕自身』からも彼女を守ろうと誓ったのだ。
その抑圧はいつのまにか、酷く歪に変異していたけれど。
確かに初めは、そうだった。
「……なぁ、仄香」
「?」
首を傾げる彼女を見下ろし、その手を握る。
誰の縛りも許可もなく、俺はこの手に触れられる。
心をどうしようもない喜びで満たしながら、彼女に言葉をかける。
「あまり、反仲に近寄らないでくれ」
「え?反仲くんに……?」
「大丈夫だとは思うが……もう二度と傷つけられたくない」
俺の言葉に、彼女は何かを察したらしかった。
目を見開き、まじまじとこちらを見る。
「まさか……反仲くん、て」
俺は答えなかった。
けれど、彼女には伝わったのだろう。
「じゃあ、あの子が」
納得したように呟かれた言葉の真意は分からなかったが、きっと彼女の予想は当たっていると思った。
中庭でぽつぽつと話していると、噂の主がひどく動揺した様子で走ってきた。
尋常じゃないその様子に、反仲と何かがあったのだと悟る。
彼女は動揺しながら、「へいか」と呟いた。
俺たちの予想が確信に変わる。
思わず漏らした言葉は俺が思っているよりもはるかに重い衝激を彼女に与えたらしい。
がくり、と傾いたのを最後に、彼女は倒れた。
「仄香、さっきの今で意見を翻して悪い。反仲を呼んでくれ!俺はこいつを保健室に連れて行く」
「わ……分かった!」
保健室で養護教諭に彼女を引き渡した後、嫌な予感に襲われた俺は、さっさと教室へと帰った。
その後、無事まとまったらしい反仲に話を聞いて、そんな自分の判断が正しかったことを知るのだが、それはまた別の話だ。
ずきり、と頭が痛む。
ひんやりとした優しい手がそんな俺の額に当てられる。
二度と間違えない。
薬や他の何よりもよく効く魔法の手に自分の手を重ねて、俺は穏やかに目を閉じた。
深く刻まれた眉間のしわは、あっさりと解れていった。




