彼女の忌避 後
彼が懐に手を伸ばした。
そこには最後の手段が眠っている。
決して使われることのないはずだった、最後の手段。
彼は彼の正義のために、己が身まで犠牲にするのを厭わない。
そんな残酷な真実に、全身が固まった。
動けない。
私は彼の背に守られたまま、指一本動かせない。
「駄目ぇッ!」
唯一動いたのは、あの、残酷なはずの生き物だった。
彼を守るかのようにその手が彼の身体にまわされる。
彼は、私を守るかのように、手のひらをこちらに向けて腕を伸ばした。
私と同じ生き物とは思えない、玉座で彼をいたぶり楽しんでいた金の瞳が、私と同じようにその目を見張った。
もしかしたらあの魔王も私と同じ気持ちなのかもしれない。
その光景を見て最後に思ったのは、そんな妙な感想だった。
全てが消えた後、私は、王族ならば誰もが持っている『救い』を飲み干して、瞼を閉じた。
強い力が腕を捉えた。
その視線に劣らない強さが、私を後方へと導く。
倒れる。
そう予想して目を閉じると、暖かいというよりも熱いという方が適切な程の温度が全身を包んだ。
―――抱きしめられている。
そう気付いた時、私の身体は既に首すら動かせないほど強くしっかりと彼に抱き込まれていた。
あの時、最後に気付いたのだ。
彼はわきまえていた。けれど、わきまえていなかったのは私の方だった。
彼と結ばれないことは理解していると嘯きながら、彼の特別になれないまま全てが終われば私に生きる意味などないとあっさり絶望した。
私が思っている以上に、私の想いは重くどろどろとした気味の悪いものだった。
だから、今私がこの人に向ける想いも、きっとこの人を潰してしまうだろう。
優しさに怯える面倒で厄介なこの想いは、私もこの人も傷つけ苦しめる。
「……はなし、て」
「……なんで?」
「いいから!はなして!はやく!」
私は守られることしかできない小娘のままだ。
何もできない。何もしてあげられない。
そればかりか、きっと彼を酷く傷つけてしまう。
優しさなんて、要らない。優しくしないで欲しい。
体調なんて悪くないから、心配なんてせずにさっさと教室に帰って欲しい。
見ないで。触らないで。壊さないで。
わがままだらけの想いが溢れそうになるのを、必死で唇を噛み締め耐えた。
これだけ嫌がっていれば、きっと彼に似たこの人ならばすぐに離れるだろう。
そんな私の予想も虚しく、彼は火傷しそうなほど熱いその身体で私を抱きとめたまま動かない。
「嫌だ」
はっきりと、耳に囁かれた言葉が、暫く理解できなかった。
「……どうして?」
心底不思議そうな声が出た。実際、心底から不思議だった。
嫌がる理由も、優しい彼が私の要求を否定した理由も、分からない。
だって、私は優しい人の特別にはなれないのに。
「今度は、優先順位を間違えたくはないからだ」
「こんど……は?」
嫌な予感がする。嫌な言い回しだ。
それは、まるで。
「悪いが、今の俺に優しさは期待しない方が良い。お前にはわからないかもしれないが、もう二度と、お前を守り通せないなんて間抜けを晒すのは御免なんだ」
言った途端、私がその意味を咀嚼する前に彼が私を抱き上げた。
混乱する私を丸ごと無視して、迷いのない足取りで、彼は保健室へと向かった。
保健室に養護教諭はいなかった。この時間は会議中らしいが、保健室は解放されている。
私を白いベッドに下ろす手つきは優しいのに、私の意思はまるで考慮されていない。
テキパキと寝る体制を整えた後、彼は体温計を探して棚を漁っている。
「あの……私別に体調は……」
「良いから黙って寝ろ。喋るな。動くな。起きるな」
全て命令だった。
とりあえず横にはなっておくが、喋らないわけにはいかない。
「あの、さっき言ってたことだけど……」
言った途端、彼の手がピタリと止まる。
「……忘れろ。今はとりあえず何も考えず休め」
そんなこと出来るわけが無い。
答えるつもりのない彼に、私はカマをかけることにした。
「……あのペンダント、結局とられちゃったの」
息を呑む音が、確かにした。
まさか。やはり。
私は声が震えそうになるのを抑えて、ゆっくり言葉を紡ぐ。
「……あの、女の子に。ごめんなさい、私、大切な形見だったのに……」
「雛……」
「あれからどうなったのかもわからないの。確認もせず死んじゃったから。ごめんなさい、無責任だよ……」
ね、と言いきる前に、目の前にいつの間にか側に寄っていた彼の顔が迫って来て、私は目を見開いた。
「え」
「死んだ?」
聞かれた意味に、一瞬頭が回らなかった。
彼は呆然と目を見開き、私を凝視している。
「死んだ、と言ったか?フローティカが……?」
その震える口から名前が出た時、私は息を忘れた。
ほとんど確信があった。けれどいざそれを真実としてみると、とてもまともに考える思考は持てなかった。
そんな私に気が回らないのか、彼は私の両肩を強く掴んで揺さぶった。
「死んだと言ったのか!?答えろ、何故!?何故死なねばならなかった!誰に、どうして!一体何があった!」
そんな激情が彼の中にあったなんて知らなかった。
激しく燃える瞳も、その理由が自分にあるということも、信じられない。
だから、私はろくに考えることもできないまま、ただ事実を口に出した。
「……毒を煽ったの。王族が尊厳を守るために渡される毒」
彼の瞳が、尊厳という言葉に反応してさらに燃え上がるのがわかった。
「尊厳……?……何をされた。誰に。尊厳を失うようなことがお前に起こったのか!?」
私は慌てて首を振る。
「ち、違うの!ただ、本来はその用途だってだけで……私は、私のわがままで、私を捨てたの。責任も何もかも放棄して。……貴方とは、違って」
最後まで責任を、正義を貫こうとした彼とは、何もかもが違う。
ただ自分のためだけに、醜い最期を遂げたのだ。
目の前の彼の瞳が揺れるのを見た。
「……なんで、そんなこと……」
私はそれを言いたくなかった。
それで惨めな思いをするのも、思い出すのも嫌だった。
それでもあまりに彼が悲壮な顔をするから、彼に理由を告げないのは可哀想だと思って、ありったけの勇気を振り絞って口を開く。
「…………だったから」
「え?」
「あなたが…………好きだったから……!」
もう、限界だ。
耐えていた涙が目の端を伝う。耳が濡れて、冷たい。
「あなたが……私を見てくれなかった、あなたが、正義を、優しさを貫いたから、あなたが、あなたが……世界のどこにもいなくなってしまったから……!!」
次から次へ溢れる涙を止められない。
彼は僅か口を開き、絶句していた。
「あの子は、人間じゃないあの子は私よりずっと行動力があって、あなたを最後に抱きしめられた。私は……何もできない。貫けない。あなたのように綺麗でいられなかった……!私、勘違いしてたの。特別扱いを当たり前だと思い込んでいたの。そんなことないのに。あなたの特別にはなれるはずないのに!あなたの理想に叶う人間じゃないのに!」
「フローティカ……」
「私、駄目だった。またやっちゃった。駄目なのに、また好きになっちゃった。優しくされるの、怖いの。私、重たいの、面倒くさいの。なのに、なのにまたあなたを好きになっちゃった……!どうしよう、どうしたら、消せる?どうしたらあなたを好きにならなくて済む?どうしたらあなたの迷惑にならない?」
「フロー…………、仄香」
名前が。
その口から、私の名前が出た。
それだけでどくりと心臓が跳ねる。
それが嫌で、私は嫌々と首を振った。
「ゆるして、お願い、呼ばないで。だめなの、もう、好きになったらだめなの。ごめんなさい、もう近づかないから、好きなんて言わないから、名前を呼ばないで、好きになっちゃうから、名前を呼ばないで!」
「仄香……仄香、仄香……!」
首を振る私の顔を捕まえて、彼は何度も名前を呼んだ。
酷い。酷い、酷い、酷い。
優しくない。
彼はちっとも優しくなんかなかった。
「仄香、好きになって。お前が好きになってくれるんなら、何度も呼ぶ。お願いだ、好きでいてくれ、仄香。ごめん。俺が全部悪いんだ。お前に悪いところなんかなかったんだ。お願いだから自分を責めないでくれ。頼むから……!」
何を言っているのか、わからない。さっきから、彼が何を考えているのか、全く理解できない。
「わかんない、何を言ってるの?わかんない、わかんないよ……」
「仄香もフローティカも、何も悪いところはない。迷惑なんてかけられたこともない。お前がそう思っていたとしても、少なくとも俺は一度もかけられたことなんてないと思ってる。俺は……俺は、綺麗なんかじゃない。自分が正義だと信じ込んだ、ただの大馬鹿者なんだ。視野が狭くて、何も見えていなかった。フローティカが何より大切だったのに、その気持ちすら思い遣ってやれなかった」
何より、大切。
今、この人はそう言ったのだろうか。
それとも、私の妄想だろうか。
「ごめんな……俺はただ、守りたかったんだ。フローティカが支えようと努力して、フローティカを守っていたあの国を。出来れば、なるべく平和的な形で。だから、あの魔王の臣下の目を覚まさせれば、血を流すことなくまとまるんじゃないかって……そんな未熟な、甘い考えだったんだ。魔王と友好的な関係になれば、国の危険はぐっと減ると……」
彼は、そこまで言って自嘲した。
「今の俺には、欠けらもそれが良い考えだとは思えない。馬鹿馬鹿しい。彼らはまず価値観が全く違った。その価値観を、俺も彼らもお互いに理解しようとさえしなかったのに、どうして友好的になれる?そもそも何故、大切なフローティカを攫って、傷つけて、害そうとまでした彼らと友好的にならなければならないんだ?俺は、正直なところ彼らに憎しみしか感じていなかった。それを理性だとか正義だとかいうなんの役にも立たないもので、無理矢理押さえつけていたんだ。その必要もないのに」
救いようのない馬鹿だ、と低く吐き捨てるように呟いて、彼は地面を睨んだ。
「最後に即死魔法を使おうとしたのは、正義のためじゃない。憎しみが抑えきれなかったんだ。あの時の俺は、もう理性が吹き飛んでいた。目の前の存在をこの世から消すことしか頭になかった。それでも、辺り一面を消し炭にする古代魔術だけは使えなかった。後ろに、フローティカがいたから」
白昼夢かもしれない。
私は半ば思考を放棄して、ただ彼の独白を聞いていた。
彼は続ける。
「……お前は勘違いしてるみたいだが、魔族の彼女は俺を助けようとしたわけじゃない。彼女の主人を守ろうと動いたんだ。俺を血走った目で睨みつけていたから、それは明らかだ。俺と彼女は、あの時敵だった。それだけだよ」
彼の手が私の両耳を包み込んで、温める。私の顔を彼の方に固定した。
「お前が自分を特別だと思うのは当然だ。俺の中で、お前は特別なんだから。昔も、今も、ずっと。だから、自分を責めるな。お前が責めるべきは、俺だ」
眉がひそめられ、苦しそうな表情になる。
「…………お前を、大切に出来なかった、お前に優しくしきれなかった、俺の責任なんだ」
私は、もう一度、死んだのかもしれない。
「……好きだ。仄香。初めて見た時から、目が離せなかった」
私を見ている。彼が、雄司が、私だけを見つめている。その透き通った真っ直ぐな瞳に映るのは、夢を見ているような表情の愚かな女だけだ。
「……ま、くら、くん」
「俺は……お前に許されないことをした。お前を追い詰めて、殺した。だからこんなことを言うのは身勝手なんだろうと思う」
雄司の瞳の中に揺れる炎が、そこに映る私を焼き尽くそうとする。
「でも俺は、正義も理性も捨てたんだ。優しさなんて、要らない。ただお前をこの手で大切にしたい。これから先ずっと、お前だけを見る。だから俺を好きになってくれ。俺が側にいることを許してくれ」
燃える。燃やされる。燃え上がる。頭がおかしくなりそうな程の熱が、ただでさえほとんど無かった思考を残らず灰にした。
私は無意識に、頷いていた。
その瞬間のことを、私は生涯忘れないと思う。
いつも厳しくひそめられている真倉くんの眉が緩む。以前の彼と合わせても見たこともないような幸せそうな、優しい瞳で、彼は灰の中に僅か残っていた私の不安も後悔も卑屈も消しとばした。




