彼女の愛憎 後
ちょっとやらかしてます。触ってないのでセーフだと思ってます。
手が、暖かい。
暖かいものは苦手だった。それでも、陛下が与えてくれたものだけは私の心を癒した。
「……ん?どうかしたか……」
優しく訊ねてくれることもあった。
陛下が、ごく稀に見せる、翳りのない甘い笑顔が好きだった。
「陛下……」
陛下はとても残酷で、苛烈な人だった。
人も魔物も何もかも、彼の前では等しくちっぽけで、彼は容易くその命の灯火を吹き消した。そばに置いてくれていた私でさえ、いつ死を与えられてもおかしくなかった。
皮肉めいた笑みも、そんな美しいまでの罪深さも、好きだった。
私はどんな陛下も大好きだった。
陛下。何処にいらっしゃるの。
私がこうして新たな生を受けたのだから、貴方だっていらしているのでしょう?
記憶は、あるのですか?
性格は、変わりましたか?
きっと、きっと探し出しますから、どうか。
いらしているのかだけでも教えてください。
あの憎い男に揺れてしまったから、怒っていらっしゃるのですか?
あれが、あの人ですか?
それとも、私に変なことを聞いた、彼がそうなのでしょうか。
二人は私を知っているようなのです。
お願い。お願い、教えて。どうか。どうか―――。
そっと頬に手が触れて、なぞるように動くのを感じる。
ゆるく瞳を開くと、白い天井が見えた。
その手前に、覗き込むようしてこちらを見る、正儀の顔がある。
「……あ、起きた?」
正儀は、いつも通りの笑顔で、爽やかに笑いかけてくる。
「……まさ…………っ!?」
がば、と起き上がろうとするのを、止められる。
「駄目だよ。全く……昼食、抜いただろ?体調崩すの分かってるくせに、なんでそういうことするかなぁ……」
この間も言ったじゃないか、と、くどくど言い募る正儀。
私は、言いようのない違和感に襲われた。
彼が雛目を案内すると言った時と同じ、違和感。
いつもの正儀ではあり得ない反応。
正儀はいつも通り笑っている。
けれど、先ほど告白を断ったばかりの私に、ここまでいつも通りでいられるだろうか。
「……李里菜?おーい、どうしたの?」
顔の前で手を振られて、我に返る。よく見ると、私は保健室にいるようだった。
とにかく、ここから離れないと。何にせよ、私はこれ以上正儀と一緒に過ごすつもりはなかった。
私の総ては、これまでもこれからも陛下ただ1人なのだから。
正儀を押し退けてベッドから出ようとして、私の片手が正儀に握り締められていることに気づいた。
夢うつつに感じたあの手の暖かさは、これだったのだろう。
手を振って離そうとするが、強く握られているわけでもなさそうなのに、離れない。
必死に離そうとそちらに意識を向けていると、いつの間にか、部屋の温度が下がっているような気がした。
「…………はぁ」
正儀が、ため息をついた。
「……あーあ。やっぱ駄目かぁ」
気が抜けたように、何処か諦めたような声でそう呟く正儀。
私のことを諦めたのかと思ったが、握られた手は相変わらず離れなかった。
その手に、突然力が込められる。
「……っ!?」
折れていないのが不思議なほど、強い力で握り締められ、私は痛みに喉を引きつらせた。
「折角ここまで懐柔したのになぁー……どこで間違えたかなぁ。前と同じところかな……でも、ああでもしないと李里菜はこっちを見てくれないし」
正儀の声は、今まで聞いたこともないほど平坦で、異様な雰囲気に私の身体は勝手に震えた。
「これでもさ、ものすごく怒ってるんだよな。一度だけなら兎も角、三度も逃げようとするんだから。流石に李里菜でも、許してあげられないな」
「まさ……」
正儀の黒い瞳が、私の目を捕らえた。
「―――私から逃げられると思ったか?愚かな、愛しい私のリーリア……」
ぞくん。
心が、全身が、震えた。
「ぁ……っ」
「……やはり、記憶はあったか……やけに私を避けていたのはそれで?……まぁ良い。どの道、お前に逃げ道はないのだから」
美しい顔に浮かぶ、歪な笑み。
残酷な、冷たい、強者の笑顔。
見たこともないほど冷めた黒い瞳が、見覚えのある表情を浮かべて私を射抜く。
「言っただろう?お前の居場所は私の隣だけだ。あれの隣でも、まして他の誰の隣でもない」
「へぃ……か……?」
震える声で呟き、震える手でそっとその頬に触れる。
冷たい瞳が、とろりと甘く細められた。
「お前にそう呼ばれるのは心地良いが、出来れば今は正儀と。私は……いや、俺は、最早単なる人間だ」
「正儀様……」
「……」
呆れたように私を見るが、やがて首を振った。
「まぁ良い。今はそれよりも……お仕置きの時間だ」
「ひゃ……っ!?」
耳元で囁かれ、背筋が痺れるような感覚を覚える。
「―――さて、李里菜には何が一番効くかなぁ?リーリアは散々虐められて放置されると可愛く泣いてくれてたよね」
正儀様の口調が戻った。私は混乱したまま必死で謝る。
「ごめ……ごめんなさ……あ、わた、わたしっ……!」
「それは何に対する謝罪?俺があんなに頑張って李里菜に尽くしたのに、全く見向きもしなかったこと?俺から三度も逃げたことかな?それとも……恩を忘れて、俺よりもあれを選んだことかなぁ?」
「ひゃあぁあ!!」
びりりっ!と、全身が電流が走ったような快楽に震える。
私は呆然と目の前の彼を見た。
彼は、何もしていない。指一本触れていなかった。
「あれ、もしかして気づいてない?……それならそれで良いか」
正儀はゆるりと目を細める。酷く艶めいた、艶美な笑みだった。
「は、ぁっ!」
再び身体が震える。自分の身体がどうなってしまったのか、自分のことなのに分からない。怖くて、目の前の彼にしがみつく。
彼は優しく私の背中を撫でた。
「ほら、早く答えて。李里菜は何に対して申し訳ないと思ってるの?」
「あ……ひゃああ!」
答えようとするたび快感の波が遅い、まともに口が回らない。
私が一人でこんなに乱れているのに、正儀様はただ、優しく性を感じさせない手つきで背中を撫でているだけだ。
恥ずかしい、怖い、気持ちいい。
でも、そんなことより、彼が私に質問している。
早く、早くお答えしなければ。
私は必死で答えようと口を動かした。
「あっ……あなたが……っへ、へい……ひぃっ……陛下だと……っ、く、ぅ……き、気づかなくて……はぁあ!ごめ、ごめんなさ……ぁあっ!」
「ああ、そんなこと?別にそれは良いよ。だって俺が気づかれないようにしていたんだから」
正儀様は穏やかな声で答え、私の髪を優しく耳にかけた。
目が、合っている。
どうして気づかなかったのだろう。
こんなにも私を強く惹きつける瞳なんて、一度目を合わせれば逃げられなくなると確信してしまう瞳なんて、他に知らない。
「君が最期にあれを選んだからさぁ。やっぱり光に惹かれてしまうんだろうなって妥協して、俺も随分頑張ったよ。君の魂は俺と厳重に絡めてあったから、巡って生まれる時も一緒だとは分かっていたからね。君に会うまでずっと、物語や周りを見て『善良な人間』の練習してたなぁー……懐かしい」
くすくすと笑いながら発される言葉に、衝撃を受ける。
魂を絡めていた……そんなことをすれば。
「そ……っそれでは、はぁっ……!わ、わたしがし、死ねば、ぁ、ふう……っ、く、あなた様が……っ!」
「ああ、うん、そうだね。あの時一緒に死んだんだよ。まぁ別にそれはどうでも良いんだけどさ」
私は絶え間なく続く波に溺れながら、愕然とした。
私はあの時、陛下までも道連れにしてしまった?
「それよりさ、さっきから俺のことばっかり言って……誤魔化してるの?忠義心は分かったよ。恩知らずってのは取り消してあげる。でも……一番謝って欲しいのはそれじゃないんだよねぇ」
「は……ぅうっ」
何を、何を謝れば良いのだろう。縋るようにその黒い瞳を見ると、彼は私をじっと見つめて、小さくため息をついた。
「……まぁ別に謝るのは良いか。欲しいのは謝罪じゃないし。あーあ……どうしたら君は堕ちてきてくれるのかなぁ」
「ぁっ……ひぁあああ!」
一際大きな波に晒されて、頭が真っ白になる。まともに息が出来ない。正儀様が、とても大事な話をしているのに、頭の中身が気持ちいいことに流されてしまう。
「こんなに溶けた顔で発情してくれてんのにさぁ。あの時までだって、『私』のためにぐちゃぐちゃに嫉妬してくれてたのに。あんなに醜く愛してくれていたように見えたのに……どうして最後はあれを選んだの?」
「は……ぁっ、違っ……」
ふーっ、ふーっと息を吐く私を正儀様は観察するように覗き込む。
絶えず送られていた波が消えた。しかし、私の身体は熱いままだ。
力の入らない身体を必死で動かし、緩く首を振る。
「この期に及んでまだそんなことを言ってるんだ。そう言えば許してもらえるとでも思うの」
「違っ!ほ、ほんとに……ひゃぅっ」
そっと頬に触れられ、それだけでびくりと肩が揺れる。先程までは平気だったのに、すっかり触れられるだけで気持ち良くなってしまうようになった。
そんな私をどこか満足そうに見ながら、彼は私の話を聞くことにしたようだった。
「へえ。じゃぁ、どうしてあの時あれに抱きついた?」
私は彼の思い違いの正体に気がついて、目を見開く。
「君はあれに適当なことを吹き込まれて唆されていたようだし……あれを気に入ったんじゃないの?」
最期の瞬間。
世界が真っ白になる直前に、私はあの男にしがみついた。
満身創痍の彼は、最後の手段を懐に忍ばせていた。相打ち覚悟の、複数の即死呪文を絡ませた呪符だ。
「違……っ呪符を持っているのが見えて……!国一の魔術師たちの技術の結晶だと、風の噂で聞いていて。代償に術者の命がかけられるものだからきっと使わないだろうと思っていたけれど、相討ちを覚悟で使おうとしていると気づいて……!」
「……」
彼が、私の両頬に手を当て覗き込んできた。感情の見えない、真っ黒な瞳が私を観察している。
震える身体を叱咤して、その瞳を見つめ返す。
「は……っあの、女の、首飾りを、奪っていたんです。通信手段など、厄介だと……っ、加えて、強力な守りの加護が付いていたから、へ、陛下だけでしたら、お守り出来るかと思って……!」
「……本当に?あの男と逃げようとしていたわけじゃなく?」
吐息が顔に当たってぞくりとしてしまう。
私は必死で頷いた。
しばらく、お互いの呼吸の音だけが響く。
私はその瞳にすがりつくようにただその黒を見つめていた。
「…………はー……」
ぎ、と音を立て、正儀はベッド脇に置いてあった椅子の背もたれに深く体重をかけた。
「……あの程度の術くらい、それなりに頑張れば命をかけずに相殺出来たよ。あれだけだったら死んでたかも知れないけど、もう少し遊ぼうと思ってたからお互い死なないよう加減して…………はぁ……そうか」
それを聞いた私はもう、何も言えなくなってしまった。やったこと全て、裏目に出てしまっていたのだ。
後悔しないなんて嘘だ。あの時の自分の行動の愚かしさに、後悔だけしか残っていない。
先程までとは違った意味で震える私の前髪を、彼の伸ばした手がそっと撫でる。
「君の忠誠心を甘く見ていたみたいだね。まさかあそこで飛び出すとは思わなかった。自分で解決できるからって、君には何も説明していなかったし……ごめんね、李里菜は悪くなかったんだね」
優しく微笑む彼は、一体誰なんだろう。
これまでの正儀ではない。かといって、陛下というわけでもなかった。陛下は、私に謝ったりなどしないから。
「まさき、さま……っ、!?」
私の額に、彼はそっと口づけを落とした。
「様なんてつけなくていいよ。今まで通りでもいいし、他の呼び方でもいい。俺たちは単なる幼馴染だ。君が俺を裏切ったと思っていたから怒っていたけど、そうでなかったなら、俺たちの間に上下関係なんてない」
「……ぁ……まさ、くん……」
思わず、口に馴染むその言葉を舌に乗せた。
はっとして口を押さえるが、彼は微笑むだけだった。
どくん、と、心臓が跳ねる。
彼は陛下だった。
光に満ちた聖人ではなくて、私と同じ、欲も汚れもあるただの男の人。
陛下を殺した憎い仇でもない。
もう、苦手でなくてはならない理由なんてない。
陛下だけれど、ただの幼馴染だから、手を、伸ばしても許される……?
「……す、き」
震える声で呟いた言葉に、彼は笑みを深めた。それに安心して、私が苛立ちの中に隠していた思いが口から溢れ出す。
「好き……好き、好き、好きなの!まさくん。まさくんが、まさくんのことが、私、ずっと、好きで……!」
「俺もだよ、李里菜」
もう一度落とされた口づけは、今度は瞼に着地した。
「ひっ……ぅ、も、もしかしたらっ、まさくんがあの男なんじゃないかって、陛下を殺そうとした、あれがまさくんなんじゃないかって思って!私は汚いから、綺麗なまさくんには似合わないのに、陛下が私のすべてなのに、それでも、止められなくて……!」
「……そうか、ごめんね、辛かったね」
私の支離滅裂な言い訳が、彼に優しく受け止められている。そう認識して、溢れる言葉が加速した。
「自分が、気持ち悪くて、まさく、まさくん、わ、私とずっと一緒にいて。お願い、ずっと、離れないで!」
「うん、いるよ。大学生になっても、社会人になっても、毎日俺が李里菜を起こしてあげる。ご飯の管理もしてあげる。優しくして欲しかったらしてあげるし、虐められたかったら優しく虐めてあげる」
包み込むようにその胸に抱き込まれ、私は止まらない涙に溺れた。
ああ、誰でもいい。この人がこの人であるなら、本性が陛下であっても正儀であってもいい。
この温かさだけが、私が唯一受け入れることの出来る温度だ。
私はリーリアだったけれど、最早李里菜で、あの頃の私とは何かが確実に違う。
それでも、彼へのこの気持ちだけは、例え生まれ変わっても変わらないただ一つのものだ。
そう、確信した。
「好き……っ、まさくん、まさくんが、好き……」
十数年分の想いを溢れさせる私を、彼はずっと、ずっと、受け入れ続けてくれていた。