彼女の愛憎 前
今日の教室は騒がしい。
それもそのはず、今日から転入してきた新たなクラスメイトに、誰もが興味津々なのだ。
柔らかな栗色の髪に、控えめな微笑み。少しつり気味な目が、笑うたびへにゃりと下がる。
どこからどうみても、愛嬌のある可愛らしい少女だ。
私は朝見た鏡の中の自分を思い出す。
所詮は紛い物だ。真に愛される笑顔というものは、あれを言うのだろうということくらい分かりきっていた。
昼休み、正儀は申し訳なさそうに眉を下げて私の前に立っている。
「どうしたの?まさくん」
「ごめん……李里菜、今日、先生から雛目さんに校内を案内するように頼まれちゃって……」
雛目というのは転入生の彼女のことだ。
私はにっこりと笑って頷いた。
「良いよー、私は友達と食べるから。あ、それとも、私が案内した方が良いかな?おんなじ女の子だし」
「うーん……そう、かもね……」
と、言いつつも彼はあまり気が進まなそうだ。
「どしたの?」
「あ、いや、李里菜ってご飯抜いたらすぐ体調崩すでしょ?昼休みに付き合わせてちゃんと食べられなくなったら駄目だなと」
「えー?気にしなくて良いのに」
私は、彼の告げたその理由にやや座りの悪さを感じていた。
確かに私は食事のリズムを崩すと体調も崩れてしまうが、元々小食なため食事自体にはそれほど時間がかからない。だから、校内の案内に付き合う時間くらいはある。
それに、彼が1人で彼女に校内を案内する理由もないはずだ。先生に頼まれなくてはならないほど、彼女のコミニケーション能力に問題があるとも思えないし。
いつも通りのお人好しなはずが、そこに何かがあるような気がしてならない。
……けれど、まあ、私には何の関わりもないことだ。
「……まぁいいや。まさくんもご飯食べ忘れないようにね?」
「まさか。李里菜じゃあるまいし」
「私だって忘れないよ!」
あはは、と明るい笑い声をあげながら、正儀が教室を出て行く。
別に、関係ない。
関係ないはずだ。
「……陛下、今何と?」
「彼女を攫うのも面白そうだと言ったんだ」
面倒そうにソファの背もたれに背を預け、長い髪を鬱陶しげにかきあげる。
「……人の国の姫ですわ。恨みを買って、こちらに攻め込まれては……」
気怠げな一対の金の瞳が、こちらに向く。
表情に力はなくとも、その目には見るものを怯えさせる圧があった。それは私であっても、例外ではない。
「……私に、意見をすると?」
「……っ、い、いいえ、陛下。貴方の御心のままに……」
金の瞳から異様な圧力が消え、代わりにとろりと甘くとろける。
「ふ……それで良い。お前は実に私に忠実な、愛い奴だ……」
「陛下……」
緊張が解け、しなだれかかる私を陛下はそっと抱き寄せる。
「私の言うことが聞けるだろう?さぁ、分かったらあの姫をここへ。……無事にやり遂げれば、褒美をやろう」
醜い嫉妬心と、ご褒美への甘い期待に震えながら、私はかの国へと向かった。
「また花に水をあげてるの?」
「……っ!?……なんだ、伊縁か……」
私の声に肩を震わせた真倉は、深く息を吐く。
この明らかに人からものを恐喝しそうな見た目の男は、意外なことに学校の花壇に水をやるのが日課だった。
「たまに見に来てたら、用務員に頼まれたんだよ……なんか君になら任せられるとかなんとか……はー……めんどくせ……」
頭を掻きながらだるそうに言っているが、土に水をかける動作をやめない真倉。
根っからの善人じみた仕草。
以前の私なら身の毛もよだつ行動だったが、長年幼馴染の陽性にあてられたせいか、今の私にはそうでもない。
「てか、珍しくあいつと一緒じゃないのな」
あいつ。詳しく言われなくとも、誰を指しているのか分かるのが恨めしい。
「べっつにー?幼馴染だからって、いつも一緒にいなきゃならないわけでもなくない?」
一緒いたいなら別だけど、私は特にそうは思わない。苛々させられることもなく和やかに過ごせるし。
「……ふーん」
真倉は聞いた割におざなりに相槌を打つ。
しばらく無言で水をやっているのをぼーっと見ていると、不意に彼が口を開いた。
「……お前さ、あいつのこと……」
「え?」
聞き返すと、真倉は戸惑ったように口を噤んで言い直した。
「お前……後悔してることって、ある?」
「……後悔?」
やけに抽象的な話だ。それに、さっき言いかけていた言葉とは違っているような気がする。
まぁ、別に良いか、と私は質問の内容について考える。
後悔。
私はあの時の選択について後悔しているのだろうか。
あの方を突き飛ばして、憎いあいつにしがみついたこと。
全くしていないと言えば嘘になる。
けれど、それでも、あれがあの時の私にとっては最善だった。
あの後、どうなったのだろうか。
あの方は無事なのだろうか。
あいつはどうなったのか。
あの女は?
私はあの瞬間に消えたから、何もわからない。
私が物思いに沈んでいると、雄司が話し始めた。
「……俺は……ずっと後悔しているんだ。あの時、何故あんな事を言ったのだろうと……」
遠くを見つめるような瞳は、どこを見ているのだろう。
「なんであんな事をしてしまったんだろう……悲しむことは、わかりきっていたのに……」
ぎゅう、と如雨露を握る手に力が入っている。
「自分のことなのに……あの時の自分の気持ちがわからないんだ」
私は黙って、その懺悔にも似た言葉を聞いていた。
「ここはどこ……?」
ぼんやりとした瞳で周りを見渡すその姿は、酷く儚げだ。
その姿を美しいと感じれば感じるほど、私の中の炎が強く揺れる。
「ご機嫌麗しゅう、お姫様。ここは我が君の住まう処。我が君は貴女をご招待くださったのよ?感謝なさい」
私が話すと、そこで初めて私の存在に気づいたようだった。
私の両耳の形と、脚の横で揺れる細い尻尾を見て、ひ、と声を失った。
「あらあら、せっかくの美しいお顔が引きつっておしまいね。これから我が君の元へ行くというのに、それではいけないわ」
私はにやりと笑って、その口に両手をかけて引っ張り上げた。
「ひ、いうっ!?」
「駄目ねぇ、笑顔が硬いわ。そうだ、いっそこの口の端を切ってしまおうかしら?」
にゅう、と伸ばした爪が、その頬の裏に食い込む。
「ひぃ……っ」
恐怖にひきつるその顔を悦楽の中で見ながら、私はその頬を引き裂くべく、指に力を入れた。
その瞬間。
―――やめろッ!
バチンッ!
強い光と共に、手が弾け飛ぶ。
「なっ……!」
すぐに飛び退き手を修復しながら、その光の元に目を凝らす。
見れば、姫の首から下がった首飾りが、強い光を放っていた。
「あ……―――様……っ」
姫は涙に揺れる目で、それを愛おしげに見つめ、そっと手で包む。
光の暖かさに、引きつっていた姫の頬が柔らかく緩んだ。
ペンダントから、声が聞こえる。
―――姫……!今、助けに行く!それを持っている限り、君を誰にも傷つけさせない。だから……待っていてくれ……!
「はい……はい……っ!」
嬉しそうに何度も何度も頷き、心底幸せそうに笑う姿。
もしかすると。
心のどこかで思ってしまったのかもしれない。
羨ましい、と。
「……っ、李里菜!」
ぐい、と手を引かれ、気づけば私は暖かな温もりの中にいた。
「……?……まさ、くん……?」
酷く慌てた様子で息を切らしている正儀が、深く、深く息を吐く。
「どうしたの?」
「…………ごめん、君が、行ってしまうんじゃないかと思って……」
「……どこに?」
「分からない。でも……君は時々、どこか遠くを見ているから……」
やっぱり、気がついていたのか。
私はぼんやりとそう思った。
屋上でネット越しに1人、ぼうっとしていれば、正儀でなくとも心配になるだろう。昼休みに正儀に断りなく教室を出てしまったのも要因の一つかもしれない。
昨日、あの雛目という転入生は体調不良で倒れかけたらしい。隣の席になった真倉が付き添ったそうで、正儀はしきりに心配していた。
だから、私のことなど頭から抜けていると思っていたのに。
酷く頼りなげに震えるその肩にそっと手を当てる。
「李里菜……」
切なげなその瞳と、正面から目が合った。
ずっと逸らし続けていたそれを認識した瞬間、まずい、と思った。
「…………李里菜……俺は……」
駄目だ。その言葉を聞いては、駄目だ。
頭の中の警鐘は響くわりにどこか遠くて、私はその目から声から、五感を引き剥がすことが出来ない。
「好きなんだ……君が君になる、ずっと前から……君のことが……!」
ぱきん、と、心のどこかにひびが入る。
私はずっとそれを恐れていた。動揺しそうになる自分に一番、苛々していた。
どん、と強くその胸を押す。
「……ごめんなさい……、私……好きな人がいるの……」
好きなの。
愛しているの。
その姿を一目見た、その時から。
「…………どうした、私が、怖いか……?」
私を食らおうとしていた小鬼たちを残らず残虐に屠った黒くて大きな影。
「ぁ……」
身体は無意識に震えていたけれど、私の両目はその姿から片時も離せなかった。
黒くて、大きくて、孤独な、美しいお方。
「さぁ、この手を取れ。お前の居場所は、今日から私の隣だ」
震えた貧相な手をその大きな手のひらに乗せると、強く握ってくれた。
そんなことは、初めてだった。
だから。
なのに。
「李里菜ー、ほら、起きて」
「駄目だよちゃんと食べなきゃ。はい、お茶も飲む」
「あーあー、また教科書忘れて……貸してあげるから、コピーして来な」
「え?なんでそんなに世話焼くのかって……幼馴染だし……ていうか、李里菜がしっかりしてればこんなことしないで済むんだからな?」
優しいのも明るいのも苦手だ。眩し過ぎて、憎らしくなる。
あの憎い姫を救い出しに来た憎い男と重なるから。
私の愛しいあのお方を殺しに来た男と重なるから。
なのに。
いつの間にか世話を焼かれるのが当たり前になっていた。
隣にいて、会話して、一緒に食事をして。
笑顔を向けられるのが、日常になってしまっていた。
あの純粋なまでに黒い瞳を見たら、目が離せなくなってしまう。
心が彼に対する些細なことで揺れてしまう。
走る。強く地面を蹴る。
混乱する頭の中、先ほどの言葉が頭を回る。
『君が君になる、ずっと前から』
その、意味は。
「いやっ……!」
私は強く頭を振った。
陛下。陛下。陛下、陛下、陛下!
あの男は、憎いあの男は言ったのだ。
「君はあの魔王に騙されている。君が望むなら、僕は必ず君を助ける」
私はその言葉を一笑に付した。馬鹿なことを、と思った。姫を助けるつもりなのに、彼は正義を気取って私にまで手を伸ばそうとする。
気持ちが悪い。
私は今も、これからもずっと陛下ただ1人のものなのに、あの光の塊のような生き物にまで心を揺らしている。
「いや……いやぁっ!」
苦しい。苦しい。叶うなら、私を殺して欲しい。あの青白くて長い指でそっと優しく殺して欲しい。美しい金の瞳で私を見つめたまま殺して欲しい。
酷く傷つけても良いから。ずたずたに切り裂いても良いから。どんな残酷な方法でも構わない。
お人好しなんて、要らない。気持ちが悪い。気味が悪い。苦しい。
陛下……どうか、私を殺して。
「へい……か……!」
いつの間にか中庭まで来ていたらしい。
屋上からここまで、階段を駆け下りた記憶も、校舎から出た記憶も全くない。
じゃり、と後ろで音がした。
そこに居たのは、大きく目を見開く雛目と、真倉。
「…………お前……記憶があったのか……」
呆然としたまま呟かれたその言葉に、私はぐらりと目を回して倒れた。