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「ほら、足元がお留守になってるぞ」
「くっ!?」
新道先生に打ちかかろうと踏み出した瞬間、足を払われてすくわれる。背中から落ちるのを回避するために上半身をひねり、四つん這いになって着地したと同時に後ろに跳ねる。と、頭の横を新道先生の足がかすり、床を踏みしめ、ズンとした振動が伝わる。
「おぉ、良くかわせたな」
「いやいや、踏まれてたら頭が床とサンドイッチされてたところじゃないですか。顔は女優の命なんですから、手加減して下さいよ」
かれこれ一時間ほど、新道先生と組手稽古をおこなっている。息を整える暇もあたえてくれない通し稽古のため、汗で稽古着がからみつき、心臓は激しくうち鳴り、喉がカラカラに乾いて今にもぶっ倒れそうだ。
反面、新道先生は全く息を乱さず自然体で立っている。ほとんど動いてないからね。
私が打ちかかり、新道先生がすっと動くと、私が宙を舞う。ずっとそれの繰り返しである。
「手加減はしてるだろ、ほら」
「わわっ」
そう言うと、今度は新道先生から攻めてくる。自然体からいきなり手が伸びてきて襟を掴まれそうになり、虚をつかれた私は慌てて後ろに逃げようとしたところをまたもや足をすくわれる。そのまま宙を舞った私の手首を掴まれて、今度は背中から叩きつけられた。なんとか片手で受け身をとったけど、次の瞬間には喉に新道先生の踵がのっていて、軽く踏まれる。本当ならこのまま足で首を折られるけど、稽古だからもちろん寸止めだ。
「げほっげほっ……」
「手加減せんかったらすぐ終わっとるよ。まぁ、いい頃合いだし、今日はここまでな」
「ありがとうございました……げほ」
先生に一礼して稽古を終える。
新道先生には仕事が入ってない時に、夕方くらいから夜の九時までの間に教えてもらっている。以前は他の習い事を詰めこみ過ぎて、あまり来れなかった時期もあったけど、最近は特に習いたいものがないので、また頻繁に通っている最中だ。
役者は体が資本だし、なんだかんだと新道先生に教えて貰ったことが一番役に立っているからね。
他の門下生は仕事帰りに寄るので、本格的に道場が始まるのはこれからである。それまでは新道先生がマンツーマンで教えてくれるので、密度の濃い時間を過ごせるのも気に入ってる。
濃すぎて胃液が逆流しそうだけど。
「ナナちゃん、お疲れさん。水飲む?」
「あ、山城さん、ありがとうございます」
少し前に来て、組手を見学していた門下生の山城さんからコップを受け取る。道場の隅にはウォータージャグが備え付けられているので、休憩の時に門下生は自由に飲むことができる。
まぁ、準備も門下生の仕事で、一番早く来た人が準備するのが暗黙の了解だ。今日は私が一番乗りだったから準備したのも私である。
「あ゛ー、生き返りました。ごちそうさまです」
「最近、頑張ってるね。また何かアクション映画でも演るのかい?」
「いえ、そういう訳でもないんですけど、ちょっと新道先生に教えて欲しいことがあったので」
「あぁ、アレはまだナナちゃんには早いんじゃないかな。新道先生以外に出来る人もいないしさ」
「あ、アレはもう出来るようになりましたよ」
「………え、本当に?」
「マジです。まぁ、実戦では使い物にはならないですけどね。かなり集中しないと成功しませんから。 ……ちょっとやってみましょうか」
乱れていた息を整え集中する。気配を遮断するように意識しつつ、独特な動きで緩急をつけて相手の目を惑わしたところで、一気に動いて裏に回るっ! 山城さんの後ろに回って帯をつかもうとして、気がついたら逆に手を取られて投げられていた。
「あ、れ?」
「凄いじゃないか、本当に出来るようになったんだね」
山城さんに投げられ、ぐるりと視界がまわり、一回転したと思ったらふわりと優しく降ろされた。投げようとしたのに逆にやられたね。
「やっぱり実戦じゃ使い物にはならないですね…… 先生みたいに動きながらは出来ないし、じっと集中してたらその時点でやられるし……」
「まぁね。来ると分かってれば対処は簡単だけど、初見殺しには十分じゃない?」
「そうですかね……まぁ、当初の目的には間に合ったので、満足です」
「撮影には使えたの?」
「えぇ、ばっちりです。見事消えるように見せられましたよ。夕暮れ時だったお陰もありましたけど」
「……素朴な疑問だけど、CGじゃダメなのかな?」
「いやー、冗談で新道先生に消えたように見せることが出来るか聞いたら、まさか本当に出来るとは思いませんでしたので。あの先生はちょっとおかしいですよね」
「ナナちゃんも他人の事は言えないと思うけどね」
「私は普通ですよ」
「あはは、面白い冗談だね」
*
「私は普通ですよ」
「あはは、面白い冗談だね」
目の前で普通じゃない少女、花村菜々美ちゃんが口を尖らせている。なぜか自分のことを普通だと思い込んでいる節がある。
菜々美ちゃんは『百年に一度の天才子役』と評され、数々の映画やドラマ、CМに起用されてテレビで見ない日はないほど、日本で一番有名な小学生、『花咲ナナ』だ。
ナナちゃんと始めて会ったのは5年ほど前、小学生向けの殺陣教室の時だ。新道先生の補佐役で指導していたなか、小学生の男の子たちに混じって、未就学児の小さな女の子が模擬刀を振っていたのが目立っていた。
新道流古武術は実戦的な流派だ。新道先生が数々の武術を学んでは取り入れ、実戦用に改良したものだ。知り合いに頼まれ、役者向けに殺陣教室も開いているが、きっちり基本を身に着けさせたうえで、派手に見栄えのする立ち回りを教えている。基本が出来ていないと思わぬ怪我をするからだ。だから女の子で殺陣を習うなら、怪我をしないもっとソフトな教室に通う。
そんな中で黙々と稽古に励むナナちゃんは目をひいていた。筋もよく努力家なので先生にも気に入られ、みるみる地力を伸ばしていたある日、「忍術を教えて欲しい」と先生に頼み込んでいた。どうやら忍者役で映画に抜擢されたらしく、共演相手の男の子がもの凄くアクションが上手なため、足を引っ張らないようにしたいと。
当時のナナちゃんでもその辺の子とは比べものにならないほど卓越してきていたのに、それより凄い子というのも想像は出来なかったけど。
「ふーむ、忍術は知らんが、それっぽく見える軽業なら教えられるぞ」
と言って、先生が壁を駆け上ったら天井に逆さ立ちしていた。よく見ると、足の指で出っぱりを挟み込んで落ちないようにしているようだ。人間技じゃない。
「凄いです! それ、教えてください!」
それから撮影が始まるまでに短期集中で先生に習い込んだようで、朝から道場に通い、夜にはくたくたになって道場の隅で寝ているのが見られるようになった。
そして、一週間ほどたったある日、僕がみた時には、道場の裏手にある雑木林で先生と空中戦を繰り広げているまでになっていた。
ナナちゃんと先生が木から木へと飛び移り、互いに忍刀に似せた模擬刀を握りしめている。
ナナちゃんが木の反動を利用して、先生の上空から刀で斬りつけると、先生は刀でそれをいなし、すれ違いざまに腕をとってナナちゃんを捻り上げ、木に叩きつけた。ずり落ちそうになったところを、先生が襟首をつかんで地面に降りてくる。
「ま、ここまで出来れば忍者に見えるんじゃないか」
「あ、ありがとうございます……」
「だが、教えたのはあくまで見栄えのする曲芸みたいなものだからな。勘違いしないように…… と、そういえば殺陣教室の子だったな。忘れとった」
はははっ、と笑いながら先生がナナちゃんを担いで道場に戻ってきた。縁側にナナちゃんをおろすと、どうやら疲れて気絶したらしく寝息をたてている。
「ふむ、とりあえず特訓は今日で最後だが…… どのみち、もう殺陣教室じゃ教えることもなくなったなぁ。本格的に習わせるか」
「夜に通わせるんですか?」
「うーむ、時間的にそれも難しいだろうから、その間だなぁ。これからは空いた時間にみてやろう」
空いた時間ということは、先生とつきっきりということか。外部から教えを請いにくる武道家もあとが絶たないくらいなのに、珍しいほどの入れ込みようだ。
「筋もいい、根性もある、後は女じゃなかったら良かったんだけどなぁ。怪我させないように教えるのは骨がおれるよ」
「え?」
ナナちゃんを見るとわりとボロボロである。稽古着はあちこちほつれていて、何度も地面を転がっていたため汚れている。まぁ、怪我をしにくい転がり方も教えられているし、手足には軽いすり傷があるくらいで……顔は無傷だ。
男の子だったらこれ以上にしごかれていたのか、女の子で良かったんじゃないかな。
けど、どちらにせよ小学生になったばかりの子供にするしごきではなかった。
と、昔を思い出していたら、隣でナナちゃんがコップに水をなみなみとついで、その上に葉っぱを乗せて手をかざしていた。
「何やってるの?」
「絶っぽいことが出来るようになったから、もしかしたら発もいけないかなー、と思いまして」
ぜつ?はつ? 何を言ってるのか分からないけど、おそらく漫画か何かのことだろう。僕は漫画はあまり読まないから話についていけない。
ナナちゃんは時々、漫画の技が出来ないかと先生に相談することがある。『気』を飛ばして弾や光線に出来ないかなど、荒唐無稽なことを言っては呆れられているけど、まれに出来ることがある先生も大概だ。
「うーん、何の変化もないし、水の味も変わってない…… やっぱり無理かぁ」
「葉っぱを浮かべた水を飲んだら汚いよ」
「山城さんは、先生から念を習ってたりしてませんか?」
「何を言ってるか分からないけど、習ったことはないなぁ」
ナナちゃんは、いつもは小学生とは思えないほど大人びているのに、妙に子供じみたことを言う時がある。「この世界って超能力や魔法ってありますかね?」や、「宇宙人や地球外生命体がいたりしませんか?」など、微妙にわくわくながら聞いてきては、「無いと思うよ」と答えると残念そうに肩を落とすのだ。
ある時、可哀想になって「あるかもしれないね」と答えたさいには、「本当ですか!? いやー、そうじゃないかと思ってたんですよね!」と信じてしまったので、慌てて「冗談だよ」と否定したら絶望したような顔になって「山城さんだけは、そういう冗談を言わないと思ってました」と真顔で言われた。
何度か他の人の冗談を真に受けて、痛い目をみたらしい。それからは正直に答えるようにしている。
「時々、そういった事を聞いてくるけど、どうしてだい?」
「うーん、新道先生を見ていたら、もしかしたらと思う時がありまして……」
「それは否定できないな」
正直、僕もあの先生はどうかと思う時がある。あきらかに物理法則を無視している。
「おー! ナナちゃん来てたのかい!」
「おはようございます、新道先生にしごかれてました」
「まだやるなら、組手やらんか?」
「押忍、お願いします!」
縁側で休んでいたら、仕事が終わった兄弟子たちがぞろぞろと道場に入ってくると、夜の部が始まる。
少ない時で五、六人。多ければ十人ほどだ。今日は七人ほどが参加していて、その内のひとりがナナちゃんに声をかけて稽古に誘ってきた。さっきまで息も絶えだえなようすだったのに、もう回復して兄弟子と組手を始めている。
組手のようすを見ていたら、どうやらアレを試したらしく、一瞬で後ろに回ったと思ったら兄弟子を投げていた。うん、あの子も先生に劣らず大概だ。来ると前もって分かっていれば対処できるけど、いきなり使われたら僕でも投げられていただろう。
しかし、あくまで初見殺しにしかなっていなく、調子に乗って二回目もやろうとして、初動を潰されて宙を舞っていた。
それにしても、当初は夜の部が始まるまでの間という話だったけど、先生との稽古が終わってもいつの間にか大人に混じって稽古を続けるようになっていた。
礼儀正しく、努力家で、筋も良いから教えがいがあるので、次から次へと組手を申し込まれている。新道先生が各地で格闘術を学んで取り入れた経緯もあり、夜の部に来ている人達も、元は別な流派だったり、別な武術を修めていた人が大半だ。その道の達人級の人もちらほらいる。
そんな人達から連続組手をされているうちに、ナナちゃん本人も気付かず多種多様な武術を叩き込まれていた。
縁側でナナちゃんの組手を見ていた僕に、新道先生が話しかけてきた。
「山城、お前はやらんのか」
「丁度あぶれたみたいで、ナナちゃんの組手を見学していました」
「あれは筋はいいが、素直すぎるからな。虚実まじえろと言ってるのに、いまだに実ばかりだ」
「ははっ、でも小学生であそこまで出来れば凄いじゃないですか。僕がナナちゃんくらいの時は全然でしたよ」
「お前は泣いてばかりだったな」
「えぇ、最初は嫌で嫌で辞めることばかりしか考えてませんでしたので」
ナナちゃんを見ていると昔を思い出す。
僕は小学生の頃、子役を目指させられていた。
母親が少しミーハーで、僕を子役にするために躍起になっていた時期があったのだ。