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第四話

五月晴れの空の下、故郷の河原で、9歳の音矢は泣きじゃくっていた。


[一ツ木のおじさん]が食べられる草をおしえてくれるというので、二人で河原にでかけた。

そこで、悪童たちにからまれたのだ。


彼らは、[一ツ木のおじさん]の片目がつぶれていること、

顔に大きな傷があること、負傷のせいで動作が不自由なこと、そして成人男性なのに働きもせず軍人恩給と実家の援助でくらしていることをひどい言葉でののしった。


そして、河原に落ちている石をひろって音矢たちに投げつけた。

機敏な動作ができない[一ツ木のおじさん]に命中すると、悪童たちは喜んで、さらに投げた。


音矢はそれをやめさせようとして、抗議した。すると、彼らはおもしろがって、音矢の口真似をし、からかった。音矢が泣き出すと、悪童たちは大笑いをし、走り去った。


障がい者のことを差別する。それも陰でコソコソと悪口をいうだけではなく、面とむかってひどい言葉をなげかけ、笑いものにし、ときには直接的な暴力をふるう。

人権思想と、福祉制度の必要性が周知された21世紀の社会とは異なり、20世紀初頭ではよくある光景だった。


『おい、男がそんなに泣くな。みっともないぞ』

『だって、くやしいんだもの……』

音矢は流れる涙を袖でぬぐった。


『なんで、あいつらはひどいことを言うんだ。

 おじさんが、お国のために戦って名誉の負傷をしたことは、

 みんな知ってるのに。

 あいつらだって、

 戦争ごっこするときは嘘んこの砲弾にあたって

 嘘んこの負傷するふりをして

 楽しんでるのに……

 なんで、みんなは嘘んこの戦争ごっこは好きなのに、

 本当の軍人さんをバカにするんだよ。

 変だよ。まちがってるよ』


『そりゃそうさ。

 あいつらが好きなのは、

 映画や演劇に出てくるような華々しい活躍をする軍人さんだ。

 だが、俺は戦場でどんなことが起きるかを証明する

 生きた見本だからな。

 この身体を見れば、戦争の実態に直面しなければならない。

 だから、あいつらは俺みたいなやつの存在を否定し、

 排除しようとするんだ』

一ツ木道次は音矢に笑ってみせた。といっても、傷のない右半面だけだったが。


『ごっこ遊びのたのしい夢を見ているやつを、

 無理やり起こせば機嫌を損ねる。そういうものさ』





「うあ。嫌な夢を見た」

音矢は手の甲で目をこすった。すこし濡れている。


マブタを開けると、窓からかすかに光がさしているのが見えた。

(すると、4時すぎくらいか。もうちょっと寝られるな)

(楽しいことを考えよう)

(そうだ、あいつらの末路のことを)





音矢は爆発音を聞いた瞬間、まわりの大人に救助をもとめ、先頭にたって現場に案内した。もちろん悪童たちの心配をしたわけではない。自分が善意で行動していると証明するためだ。


土手を越え、音矢が目撃した光景。


河原に空いた穴。その周りに倒れている悪童たち。


耳をおさえて転げまわっているものが一人。

目をおおってわめいているものが二人。

指が失われた手を見て呆然としているものが一人。

倒れた時に河原の石に頭をぶつけたのか、

意識を失って横たわっているものが一人。


その全員が鮮血にまみれている。


川風にのって血と火薬の臭いが音矢の鼻にとどく。

飛び散った火薬から引火したのか、付近の草むらが燃えていた。その火が意識を失っている悪童の服に燃え移った。大人たちはあわてて消火と救助に当たる。


音矢は叫ぶでも逃げるでもなく、土手に立ちつくしていた。


その日居合わせた大人たちは、彼が大惨事を目撃し、恐怖していると誤解した。


しかし、彼の心を満たしているのは、歓喜。

おしよせる狂喜。


音矢の脳が感じていたのは、

その体を支配できなくなるほど、

歓声をあげることもできないほど、

うれしさのあまり踊りだすこともできないほど……


そう、射精すらできないほどの悦楽。

生まれて初めて、音矢は圧倒的な勝利の興奮を味わっていた。





事情聴取が終わり、音矢は解放された。怪我をした悪童の親たちは音矢のことを恨んでいただろうが、彼の家を襲撃はしなかった。


突然起こった大惨事に混乱し、怪我をした我が子の看護をするのに精いっぱいで、被害者の親は音矢のことを攻撃する余裕がなかったということもある。


そして、被害者が団結して彼とその保護者を訴えるということもなかった。


この時代では、自らの被害を言い立てて、訴訟をおこすことは当然の権利ではなく、むしろ強欲で恥知らず、世間を騒がす不届きなこととされていたからだろう。


それでも時間がたてば、音矢に怒りを向ける余裕が生まれたかもしれない。

しかし、こののちに発生する重大な出来事のせいで彼の起こした惨劇の後始末はうやむやになった。〔1923年9月1日、関東大震災発生〕





夏休みも終わりに近づいている。音矢は残っている宿題にとりかかる。漢字の書き取りをしながらも、彼はあの勝利のことを忘れられない。


(我、敵兵5名に重大な損害を与えたり! 尚、此方の負傷は軽微なり!)


(ああ、自慢したいな)

(でも、悪気がなくてやったことにしておかないと、怒られる)

(どうしようか)


茶の間の片隅に置かれた木製のミカン箱。それが音矢の机であり、学習道具の保管場所だ。

21世紀ではミカン箱と言えば段ボール製でそれほど強度はないが、20世紀初頭では木製のものが一般的だった。そして、それを勉強机代わりに使うのも、普通のことだった。


漢字学習の終わった帳面をしまい、次の宿題に使う画用紙をとりだす。


(そうだ。判じ絵がいい。そうすれば人に見せられる)


[判じ絵]とは絵を使ったクイズのようなものだ。

江戸時代からある庶民の娯楽で、絵や文字の組み合わせで隠された答えを解き明かして遊ぶ。


(でも難しい判じ絵なら読み解けないから怒られない。)

(だから、文字は使わないで、絵だけにしよう。それならすぐにはわからない)


音矢は過去に朗読したことがある本のことを思い出した。

【不思議の国のアリス】だ。


(おじさんによると、アレは筋書や言葉遊びだけでなく、

 登場してくる人や動物たちに……

 えっと、何だっけ?)

暗喩や象徴という言葉は難しかったので、11歳の音矢は覚えていなかった。


(まあ、とにかく裏の意味があるから、

 それを推理しながら楽しむものだって言ってた)


下書き用にとっておいたチラシの裏に、音矢は鉛筆を走らせた。

(でも、西洋式の絵はむずかしいな)

テニスンのイラストの再現は、11歳の少年には不可能だった。


(しかたない、[赤い鳥]の挿絵みたいな感じで描こう)


[赤い鳥]とは音矢の生まれる前からある児童雑誌で、童話と童謡が主な内容だ。

音矢の通う横濱市立の小学校には、卒業生や地域の人々からの寄贈本を集めた図書室があり、そこには[赤い鳥]をはじめ[少年倶楽部]などの児童雑誌やポンチ絵本などがおさめられていて、音矢はよく利用していた。

[一ツ木のおじさん]の求めに応じて高尚な本を朗読していたが、年齢相応の本もかれは愛読していた。


(血みどろな現場をそのまま描くとわかってしまうから、

 かわいらしい絵にしよう)


(それならよけいに都合がいい。二本足で歩く動物を人間の代わりに描くんだ。

 似顔にすると誰だかわかってしまうから性格を動物に例える)


(僕は……雑種のイヌかな。親玉のあいつはクマ。

 子分たちはタヌキとキツネとイタチとサル。うん、構図がきまった)


(イヌがカンテラをかかげて5匹を案内する。

 ついた先はきれいな噴水のあるところだ)

(本当は爆発の炎だけどね)


(5匹はその周りで楽しく踊る。ほんとうは痛みでもがいてるんだけどね)


(噴水には色とりどりの花びらがまじっていて5匹に降りそそぐ。

 赤い花びらで隠れた部分は、あいつらが負傷した部位だ)

音矢は色鉛筆を使って、彼が想像した風景を描いた。





新学期の始まる前日、前触れもなく彼の担任が家庭訪問した。惨劇の影響で音矢がおびえていないか、確認しに来たようだ。その日、母は音矢の弟を病院に連れて行くため不在だったので、音矢は一人で応対した。ハキハキと答える音矢に担任の先生は安堵したようだ。


音矢はためしに例の絵をだしてみる。

『先生、みてください。どうですか、僕の絵』

『おお、なかなかうまいじゃないか。たいしたものだ』


『僕、大人になったら雑誌の挿絵を描く人になりたいんですけど

 ……なれるでしょうか』

『うーん。なんとも言えんな。

 ああいう仕事につくには才能だけではなく、幸運も必要だからな。

 しかし、目標に向かって努力するのはいいことだ。

 そして、無理をしてはいけない。

 勉強や家の手伝いをおろそかにしない程度に、

 継続して絵を描く練習をしていけば、

 なにかの拍子に幸運が転がり込んできたときに、

 きっと役立つだろう。がんばれよ』

『ありがとうございます。僕、がんばります』


(やった、先生に気づかれなかったぞ。

 しめしめ。これならほかの人にみせても大丈夫だ)

(それに、これはいい記念になる。

 この絵を見ればあの楽しさをいつでも思い出せる)

(これからも、楽しいことをしたら絵にして残しておこう)


(傍目からみれば、僕は雑誌の挿絵かきになることを夢見る子供。

 そのために自己流だけど修行している子供。そんなの普通にいるよね)


(戦場で目立てば集中砲火を受ける……おじさんみたいに……)

(だから僕は自分が普通の子供にみえるよう、

 偽装しておかなければならないんだ)





11歳の音矢にとって、世界は終わりのない戦争ごっこ。

唯一の味方である[一ツ木のおじさん]は、すでにこの世を去った。

だから自軍は音矢一人。

敵軍は全人類。まさに多勢に無勢。


だから音矢の勝利は不可能。

ただ敵の兵力を削り続けることしかできない戦い。

削ることができなくなったとき、音矢は負ける。

だから手段は選ばない。というより選べない。





20世紀初頭の子供たちにとって戦争ごっこは一般的な遊びだった。

それは、21世紀の子供たちが戦隊ヒーローごっこやライダーごっこをして楽しむような感覚だったのだろう。

8歳の新田音矢にとっても同じだった。





(暗くたってこわくないや)

(そうだ、ここは敵地で僕はせんにゅう工作している。

 僕はゆうかんな、ていさつ兵だ)

(だから夜道を歩いてもこわくない。おなかがすいてもへいきだ。

 くんれんをうけた軍人は、そんなことを気にしないんだ)


実際は親に虐待されて、夕食も与えられずに一人夜道をさまよう子供。

そんな現実に耐えられなくて、音矢は一人で戦争ごっこをしていた。


暗い道の両脇にある家々の窓からは電球の明かりが漏れている。食べ物のおいしそうな匂いもただよってくる。しかし、音矢にはそれを手に入れるすべはない。


ふらふらと歩くうち、音矢は一つだけ照明のついていない家を見つけた。それなのに、開け放たれた障子の奥に人影が見える。


(どろぼうかな?)

月明かりと街灯の光をたよりに、音矢はその小さな家をのぞいた。


人影の手元でガラスが光を反射する。どうやら電球のようだ。人影はその手をあげようとしているようだが、肩よりも高くなることはない。


『でんきゅうが切れたの?』

音矢はおもわず声をかけた。


『なんだ、おまえは』

しわがれた声がかえってくる。


『僕、でんきゅうかえられるよ。

 おっかさんにいいつけられて、なんどもやったことあるんだ。

 かえてあげようか』


20世紀初頭、この時代の照明器具といえば白熱電球だった。ガラスの丸い球にタングステンの細い線を通し、球中に不活性ガスを封入する。その線に電気を通すことで発光させる装置だ。しかし、タングステン線は切れやすく、その寿命はLEDライトとは比べものにならないほど短い。したがって頻繁に交換する必要があった。


『……なら、やってもらおうじゃないか。ほれ、来い』

音矢は求めに応じて、生垣の隙間をくぐりぬける。


『ふみだいはある?』

『文机がある』

文机とは書き物や読書をするための和風の机だ。椅子を使わずに畳のうえに正座かあぐらをかいて座り、使う。


音矢はそれを引きずって動かし、部屋の中央に据えた。その上に立ち、背伸びをすると、手が松下電気器具製作所製のプラグになんとか届いた。普通よりもコードが長くのばされているせいだろう。それに付属する傘の下にはまっている電球と、新しい電球を交換してから紐を引いて点灯する。室内は明るくなった。


『よくやったな』

音矢の背後から声がかけられる。


『褒美に、いいものを見せてやる。ほれ、こっちを向け』

音矢はふりむいた。


そこに立っていたのは、左半面に無残な傷を負った、やつれた男だった。


音矢の視線は彼を素通りして、その傍らにあるものに向けられる。

『いいものって見るだけ? 僕、ごほうびがほしいな』

グーグーと音矢の腹がなる。


音矢が見ていたのは、正式な食事に使う漆塗りの御膳とその上に乗せられた手つかずの料理、そして飯をいれる御櫃だった。


『……食いたいなら食え』

傷のある男は、あきれたように言った。


『ありがとう! いただきます』

うれしそうに膳の前にすわり、音矢は茶碗に飯を盛った。


その横に腰を下ろした男は、傷ついた顔を音矢の前に突き出す。

『ぼうず、この顔が怖くないのか』


確かに、音矢はすさまじい傷痕を目にしておびえていた。しかし、それを正直に口にすれば、せっかくありついた飯を取り上げられるかもしれないと計算していた。

そのうえ、音矢の脳内には、まだ勇敢な偵察兵ごっこのなごりがあった。


だから

『へん、かおの左がわがちょいとくずれてて、

 かためがつぶれてるだけじゃないか。

 そんなのべつにこわかないや。

 僕をこわがらせたければ、口から火でもはいてみてよ』

子供らしい強がりを明るい笑顔で口にした。


『……』

その言葉に返事はなかったが、かまわず音矢は箸を動かす。


『うあ、おいしい。こんなごちそうはじめてだよ』

食べながら、音矢は部屋の中を観察した。

壁際には大きな本棚があり、そこにはたくさんの本が並んでいる。


『おじさん、ご本をよむのがすきなの?』

『ああ……昔はな。だが、今は目が……』

男は無事な方の目をおさえる。


『おおざっぱには見えるんだがな。細かい字は……ダメなんだ。

 すぐに疲れて、痛みだしやがる』

本棚にはうっすらと埃がつもっていた。


『じゃあ、僕がよんであげるよ!』

『こんな夜中だ。ぼうずは飯を食ったら帰れ』

『ええー、そんなのないや………あ』

音矢は新たな褒美を得る方法を考えついた。


『ねえ、あしたは? あした、学校がひけたら僕が本をよむよ』

『……また、来てくれるのか?』

『うん。やくそくするよ! 

 僕、ほかにもいろいろできるから、たくさんおてつだいするよ!』

『……そうか……』


親に愛されず、ろくに世話をしてもらえない子供特有のこすからい計算、強がり、そして褒美ほしさのおべっか。

それが一人の傷痍軍人を救うことを、この時の音矢は自覚していなかった。


そして、その軍人[一ツ木のおじさん]からうけた愛情と教育が音矢自身を救い、そして二人を迫害するものへの怒りをみちびくことを、8歳の音矢はまだ知らない。





「どうもすみません。昨夜は醜態をさらして、申し訳ありません」

夜が明け、簡単な朝食を済ませてから、音矢は瀬野の前で土下座した。


「もう絶対にあんなに飲んだりしないので、許してください」

「……わかればいいのよ」

「ありがとうございます!」

音矢は額が畳につくほど頭を下げる。


(これで、瀬野さんもこりて、僕に酒をすすめないだろう)

(彼女のペースでゆっくりと大量の酒を飲まされたら、誘導尋問にひっかかって、

 僕が伏せておきたい真実までしゃべらされてしまう)

(だから、先手を打って、僕はわざと無茶な飲み方をし、さっさと酔いつぶれた)

(あれで、僕が殺人を悔いているみたいな演出ができた)


「……それで、これからも僕が変なことを言っても、

 酔っ払いのたわごとみたいなものだと、聞き流してください。

 心の負担を少しでも減らすために、僕は……」

「わかったわよ。我慢させすぎて神経衰弱になられても困るし」

この時代での[神経衰弱]とはトランプゲームの名ではなく、ノイローゼやうつ病などの精神疾患を意味する。


「ありがとうございます!」

(これで、どうどうと本音が言える。

 そして、僕の本音を瀬野さんは否定も非難もできない。

 うまくいったな)





「それじゃあ、なにもなければ一週間後に来るから」

「はい、わかりました」

「翡翠くん、神代細胞の暴走を感じたら、送受信機で連絡してね」

「ああ、そうする」


音矢と翡翠の二人に見送られ、乗用車を操縦して、瀬野は去っていく。

翡翠は自室にもどり、音矢は昨夜汚した着物を洗濯にかかる。


手押しポンプのレバーを上下させ、音矢は井戸水をタライにくみ上げた。ギザギザとした刻み目が平行に並ぶ木の板をそれに入れる。これは洗濯板という道具だ。着物をタライの水に浸し、洗濯板に乗せる。固形石鹸を着物になすってある程度染みこませてから、石鹸置きに戻す。


ゴシゴシと着物を洗濯板にこすりつけながら、音矢は昨夜のことを回想した。


(瀬野さんは、手をはらいのけるほど僕のことが嫌なんだろうけど)

(吐いた後、地面に倒れてしまった僕を見たら、翡翠さんは介抱しようとする。

 なにしろ、僕はあの人の友達で仲間だからね)

(でも、あの人の力では、

 僕を庭から縁側の段差を越えて僕の部屋まで動かすことはできない)

(だから、瀬野さんが僕を運ぶしかない)


(それも、ただ手をつかんで引っ張るだけでは、

 全身脱力してグニャグニャになった酔っぱらいは運びづらい。

 脇の下に手をいれて抱え上げないと動かせない)

(それは勤めていた時の宴会で、

 実際に僕が酔っぱらいを介抱したときに確認済みだ)

音矢は自分の頭から首筋に意識を集中し、あの感触を思いだした。


(えへへ。瀬野さんの胸、大きかったな)


脇の下に手を入れて動かそうとすれば、どうしても音矢の後頭部は瀬野の胸に当たる。


(布団は翡翠さんでも敷けるけど、泥で汚れた服を寝間着に着替えさせるには、

 やはり瀬野さんの力がいる)

布団に入れてもらって、そのまま意識を失った演技を続けるうちに、音矢は本当に酔いつぶれてしまった。嘔吐したが、まだ胃の中に酒が残っていたようだ。


(あっちこっち触ってもらって、僕はうれしいけど、彼女にはとんだ災難だ)

(むりやり酒を飲まして、

 僕が隠しておきたい心の底を探ろうとした仕返しさ。ざまあみろ)


(一昨日、あれだけ僕のことを[おかしい、おかしすぎる]と非難して、

 人格を否定したその口で、

 親睦を深めるために食事会を開こうなんて猫なで声で言うんだもの、

 丸わかりだ)


(いわば、昨夜の食事会は僕と瀬野さんとの心理戦。そして、僕が勝った。

 勝てば官軍。負ければ賊軍。つまり正義は僕のほうにある)

音矢は大いに満足した。


それで

「ああ、心理戦は面白かった。

 成り行きが僕の思うツボにはまって瀬野さんに勝てたし、

 なんて僕は運がいいんだろう。まったく僕は幸せだ」

つい、独り言がでる。


音矢にとって幸せとは、空からふんだんに降りそそいでくるありふれたものではなく、厳しい環境のなか、自分で努力して獲得しなければならない貴重なもの。

だから、少しでも幸せが見つかると、それを口に出して、その言葉を耳にし、確認したくなる。それが彼の日常だった。





洗濯した着物の袖を物干しざおに通し、手のひらでたたいてシワを伸ばす。家事は一段落した。

音矢はスケッチブックと手帳、そして筆記用具を持って縁側に座る。


一番新しい絵は、呉羽がモデルだ。食事会の準備をする前、昨日の午前中に彼は描きあげた。


背景は暴走する前の彼女と話した大神公園のベンチ。

そこで呉羽は誰にも邪魔されずに[萬文芸]を読んでいる。彼女の傍らには[巴里の吸血鬼]の本も置いた。呉羽の好きな小説だ。まだ単行本は現実には存在しないが、いずれ連載が終われば出版されるだろう。


(呉羽ちゃんは、好きな小説が完結する前に死んでしまった。

 これは心残りだろうから、お供えの代わりに本を描いてあげよう)


音矢は自分が殺されるのを防ぐため、そして組織から報酬を得るために呉羽を殺した。それは正しいと音矢は思っている。

しかし、特に彼女を憎んではいない。むしろ、わがままな母親に苦しめられていたこと、礼文にだまされて危険な神代細胞の実験台にされたことに同情している。

だから、彼女の望みを音矢は絵の中で叶えてやった。これが彼なりの死者への弔いだ。


そして、音矢があの日見聞きしたこと、考えたことをを背景の木々に暗号で記してある。

色鉛筆で塗られた木の葉の色は三種類。

黄緑はモールス信号の・点。

紺色はモールス信号のー点。

普通の緑は空白。

信号は斜め45度に傾けて並べてある。これだと普通のモールス記入法になれた者が真横に読んでも意味をなさない。

他にも音矢は様々な暗号を駆使して絵の中に情報を隠していた。その中にはシャーロックホームズシリーズの[踊る人形]を参考にしてつくったものもある。


(さて、集めた情報を整理してみるか)

音矢は手帳を開いた。こちらは平文でメモを取ってある。日々の仕事の合間に書くので暗号をいちいち使えないからだ。絵と違って人に見せるつもりはないので、音矢はそうしている。


(この家は瀬野さんの管理下にある。

 そして彼女と組織は僕のことを報酬で誘惑し、

 だまして神代細胞の実験台にした。

 いわば、僕はこの体を人でないものに作り替えられたわけだ)


音矢は【オデッセイア】の一節を思い出す。

(ということで、瀬野さんの象徴は魔女キルケー。ここは魔女の家)


音矢は、耳の先が少し垂れた黒イヌの絵を描く。口の周りと足の先は白い。これは、彼が幼いころに遊んだことのあるノライヌの姿がモデルだ。

(僕の象徴はいつもどおりイヌ。それに悪魔を意味するコウモリの羽をつける)


(翡翠さんは……ネコかな?)

髪の色から連想して、音矢は茶トラ模様のネコを描いた。

(角をつけて翡翠さんらしくしよう)


考えながら、音矢は[抜刀隊]のメロディを口笛で吹き始めた。これは彼の気が緩んでいるときにでる癖だ。


(魔女はもともとネコを飼っていた。イヌは魔女の畑を荒らすウサギ

 ……つまり[真世界への道]の信者を退治するために新しく飼いはじめた)

(イヌは単なる番犬。外飼いしたい。でもネコはイヌと遊びたがる。

 だから、魔女はイヌが嫌い)

(嫌いな理由はそれだけではないような気がする。

 まあ、これは今後の情報で推理するしかない)

(それから)


音矢は軽い足音を耳にした。それは近づいてくる。

(翡翠さんか)

音矢は手と口笛をとめた。


「また絵を描いたのか? 見せてくれ」

翡翠は音矢の隣に座り、スケッチブックをのぞきこんだ。


「これはまだ下書きにもなってないんですよ。新しいのはこっちです」

ページをめくって、呉羽の絵を見せる。


「……音矢くんは、やさしいな。彼女を絵の中で幸せにしてあげているんだ」

「正式な供養なんて、僕にはできませんからね」

音矢はスケッチブックを翡翠に渡し、下駄をはいて庭におりた。井戸の横に置いてある釜の中を見る。

釜の内側には、焦げた飯粒が張り付いていた。それを水につけてふやかして、音矢は釜をきれいにしようとしている。

朝7時ごろの出来事を、音矢は思い出した。





「……なんかにおう……こげくさい」

音矢は目を覚ました。外は明るい。へんな時間に目が覚め、浅い眠りと覚醒を繰り返していた音矢は、5時ごろに二度寝してしまった。そのせいで普段どおり6時に起床して朝食用に準備していた米を炊くことができなかった。


「あ、大変だ! 寝過ごした!」

飛び起きた音矢は廊下まで漂う煙を目にした。


「なんですか! これは!」

煙を追って台所に入る。


「ごめんね。朝食の用意をしようと思って……」

瀬野が咳き込みながらあらわれた。

どうやら、米を炊くのに失敗したようだ。


しかたないので、残っていた握り飯を雑炊にして量をふやし、音矢は簡単な朝食をととのえた。

昨夜の醜態を朝一番に謝罪できなかったのはそのためだ。





「早く炊こうとして、一気に薪をカマドにくべるから……」

音矢たちが住む貸家には、都市ガスが配管されていない。だから、炊事は薪をくべて飯を炊く固定式のカマドと、木炭をくべて食材を焼いたり炒めたりする七輪とを併用して行わなければならない。七輪とは、珪藻土を円筒形に成形して焼き固めた移動可能な小型コンロのことだ。

その火加減の調節には熟練した技が必要だった。





――これは(21世紀とは)異なる世界の物語――


――魔女の(せいで焦げた飯の)香で悪魔(とよばれる男)が目覚める物語――





焦げはもうすこし放置することにして、音矢は縁側に戻る。

翡翠が顔をあげて、彼に話しかけた。


「種明かしはいつしてくれるんだ?」

「え?」

音矢はとまどった。まったく予想していなかった質問だからだ。


「[人殺しなんて誰にでもできる普通のこと]。

 それが君の主義だとボクは思っていた。

 そして死者については弔意をしめすが、

 殺したことについての罪悪感を君はもっていない。

 君はそう語った」

翡翠は真面目な顔で音矢に語る。


「でも、昨晩、きみはそれを否定する発言をしてみせた……ように聞こえた」


(瀬野さんに向けて仕掛けた心理戦……そっちに気をとられて、

 僕は翡翠さんの反応を観察してはいなかった)

音矢の心に焦りが生まれる。


「ようするに、弁慶について述べた時のようなことをまたやってみせたのだろう。

 自分の罪がどうの言い逃れがこうのと言っていた言葉には

 主語が入っていなかったし。

 君の本当の考えはどうなんだ?」


(バレた! 僕の手口を、この人は見抜いた!)

(うわ、恥ずかしい……)


(いや、瀬野さんが見破っていた? 

 わかっていて、わざと僕にだまされたふりをして、丸く収めた? 

 それを翡翠さんにこっそり教えて、間接的に僕に釘をさしたのか? 

 あんまり調子にのるなって)


(それは……そんな腹芸が、瀬野さんに? 

 いや、まさか、あのヒステリイは演技? そうは思えないけ

 ど……でも……ああ、とにかく恥ずかしい。あんな大演説して、

 その内幕が誰かに見破られたなんて)


音矢は混乱しながら、

「あはは、どうでしょうかねえ、あはは」

とりあえず笑ってごまかした。

それでも心のなかでは大嵐が吹き荒れている。


(ひょっとして、酔ったふりをして、瀬野さんに接触を図ったこともバレて……)

(うわああああああああ)


(これか! あの夢は、僕の潜在意識が警告していたのか! 

 あの姿は軍人だったおじさんのことが連想されて……失言と大恥は、このこと

 ……ああ、殴るよな。今の僕も、昨晩の僕を殴りたい……)




「ボクにはわからない。教えてくれ」

翡翠が重ねて追求してきた。

とっさに、音矢は正論で対抗する。


「なんでもすぐに種明かししたら、翡翠さんのためにならないですよ。

 自分の頭で考える練習もしないと賢くなれませんし」

「そうだな」


「ところで……その推理は、瀬野さんから教えられたんですか」

「いや、彼女が帰ってから、ふと思いついたことだ。

 瀬野さんの考えは聞いていない」

「そうですか……」


(よかった。この人単独の推理か)


「あの……できたら、そのこと、

 僕が罪悪感をもっていないことを瀬野さんには話さないでもらえませんか?」

「なぜだ」

「それを考えるのも、練習です」

「そういうものか」


(瀬野さんにバレていた場合。それはそれでいい。

 とりあえず、僕の本音を酔っ払いのたわ言と受け流すという言質はとってある)

(バレているかどうかは現時点ではたしかめようがない。

 次に瀬野さんに会った時に調べてみよう。

 それまでは恥ずかしいのを我慢するしかない)

現状を確認してから、音矢は思考し、そしてこれからの方針を決定した。


「種明かしをします」

「ありがとう。ぜひ教えてくれ」

「その前に、翡翠さんの考えたことを教えてください。

 途中までしかわからないなら、それでもかまいません」


「……やはり、君は[人殺しなんて誰にでもできる普通のこと]

 という主義をもっているように思える。

 しかし、瀬野さんには、その逆の考えをもっているように見せかけたいから、

 あの弁慶でやったようなことをした」

「いいですよ、そこまでは合っています」


「だが、なぜ瀬野さんにそういうことをしなければならないのかわからない。

 なぜだ?」

「瀬野さんは、僕と違う考えをもっていて、

 それ以外の考えを認めたくないんです。

 だから、僕は瀬野さんの考えにあわせたふりをした。

 そうしないと、彼女に怒られるからです。

 罪悪感をもっていないことを瀬野さんに教えないでと頼んだのも、

 同じ理由です」


「なぜ瀬野さんは違う考えを認めないんだ?」

「それが彼女の主義なんです」

「また、わからなくなってきた……」

翡翠は小首をかしげる。


「人間というのは、一人一人違う主義をもっているのが普通なんです。

 そのなかには

 [他人が自分と違う主義をもつことを認めない]という主義もあるんです」

「よけいにわからない! 

 矛盾している。ボクにはわからない。なんだか頭が痛い……」


「あはは、[頭痛発生機]が作動してしまいましたか。

 まあ世の中には、いろんな意見があるってことだけ

 わかってくれればいいですよ。

 とにかく瀬野さんには僕の主義を話さないでいてください」

「わかった」

「それよりも大事なことがあります」

「なんだ?」


音矢は翡翠に指示をだして、腕相撲をする体勢をとらせた。ルールを説明してから、自分も同じように構える。

「はっけよい、のこった!」

「うううううううう」

翡翠は力むが、音矢の腕はびくともしない。


ころあいを見てから、

「えい」

音矢は翡翠の手を倒す。体ごと翡翠は転げた。


息を切らす翡翠を、音矢は起こしてやる。

「僕にできないことができる仲間になってと、僕はお願いしたんですけれど……。

 翡翠さん、できないことだらけじゃないですか。

 仲間の基礎体力が零じゃあ、やってもらえることがない。

 それだと僕が困るんですよね」


「…………」

くやしそうに、翡翠はうつむく。

音矢はその手をとった。

「だから、鍛錬して強くなってください。僕、協力しますから」

「手伝ってくれるのか?」

「もちろんですとも。僕は翡翠さんの友達でしょう? 

 友達は助け合うものですよ」

優しげに音矢は微笑んでみせる。


「ありがとう……」

翡翠の目に涙がにじんだ。


「じゃあ、さっそく鍛錬です! 

 手始めに、あそこにある釜の中にこびりついている飯粒を

 かき落としてください。

 タワシも一緒につけてあるから、それをつかって」

「それが鍛錬になるのか?」

「はい。握力と腕の力を鍛えられますよ。

 どんどん鍛えれば、僕と互角に腕相撲ができるようになります」

「そうか! がんばるぞ!」

「ああ、はだしで降りないで、翡翠さんの下駄も置いてありますから」

「わかった!」


張り切って作業にかかる翡翠を見て、音矢はほくそ笑んだ。

(やった、めんどうくさい仕事をうまくおしつけられた)

(まあ、今回はたいした働きはできないで、すぐに音をあげるだろうけど、

 それはいい)

(これからも、いろいろな家事を手伝わせれば、僕が楽できる)




――そして、これは――



「ああ、向上心にあふれた、すばらしい友達にめぐりあえた。

 なんて僕は運がいいんだろう。まったく僕は幸せだ」


音矢が皮肉のつもりで口にした言葉。これが彼の生涯を決定づける言葉だと、今の彼は気づいていない。



――未熟な青年が、自分でも知らぬ間に真の宝を手に入れる物語――





彼は作業中の翡翠を観察する。

色白の頬に、細い首筋、角度によって若草色に光る瞳。

真深くかぶった水兵帽の下には、小さな角が隠されている。そのほかに、服に覆われている部分にさえも、翡翠の秘密はあった。


(この人は、ただ者ではない)

(いや、神代細胞と融合してるとか、角があるとかいう時点で、

 すでに[ただ者]ではないけれど)


(まったく世間の常識をしらないとか、不器用とか、

 その他にも[ただ者]ではない要素がいろいろあるけれど)


(そういう、はっきりとわかる要素に気をとられて、

 僕はすっかり油断してしまった)

(常識を知らない分、固定概念に縛られない)

(だから、この人は僕のごまかしにひっかからなかったんだ)


(この人?)

音矢は違和感を覚えた。


(僕は翡翠さんが12歳だと聞かされた)

(呉羽ちゃんは14歳と、本人が言っていた)

(なのに、僕は呉羽ちゃんを[あの子]と呼び、翡翠さんを[この人]と呼ぶ)

(なぜだろう)

音矢は違和感の原因を考える。


ふと、彼は自分の手を見た。

(そうだ。握手したとき、腕相撲をしたとき)

(なにか、違う気がしたんだ)

(でも、まだはっきりとはわからない)

(情報がもっと必要だ。翡翠さんと、この研究機関について)

(さて、どうやって集めるか)

音矢は計略をたてはじめる。




次回に続く



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