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第九話

昼食ごろに翡翠が空間界面を解除したので、とりあえず彼の好物であるカレーうどんを食べさせた。機嫌を直した翡翠に質問して、音矢は彼の性知識を確認していく。


生殖行為について、医学方面での知識は一通りそろっていた。これは自分と水晶がどのようにして作り出されたかを知るため、研究日誌を読み、図書室にあった書物を調べた結果だ。


また、[犯す][淫ら(みだら)][手籠てごめにする]などの単語も知っている。これは[萬文芸]などの小説を読んで得た知識だ。


だが、それについて音矢が行った説明は、[とうのたった娼婦][玄人]について語ったように端的なものだった。そして行為を具体的に描写する、いわゆる[官能小説]はまだ翡翠に読ませていない。

だから、一般文芸雑誌で表現される範囲の知識しか翡翠は持たない。


音矢はさらに質問を重ね、肉体的にも精神的にも翡翠にはその欲望と兆しがないことがわかった。

しかし、これからの成長を見越して、音矢は一工夫しておく。


「買い物でもらった紙袋に必要なものを入れておきました」


中身は、使いこんで肌触りが柔らかくなった手ぬぐいと、着替えだ。翡翠は手先が不器用なので、音矢のように[越中フンドシ]を締められない。だから簡単に脱ぎ着ができる、メリヤス製のトランクス型をした下着を使っている。1930年〔光文5年〕では、このような形の男性用下着を、[猿股さるまた]と呼んでいた。


「もしも、寝ている間に出てしまったら、

 手ぬぐいで体についたものをふき取ってから、

 きれいな下着に着替えてください。

 汚れものは紙袋に入れて、翡翠さんの部屋の前に置いてくださいね。

 別洗いにしますから」

「わかった」


翡翠が恥ずかしがらないように配慮して、音矢はわざと事務的に説明した。




「さて、この袋はどこに置いておきましょうか」

「いざという時、すぐに使えるように枕元に置こう」


翡翠は大事そうに、紙袋を手にする。

「毎晩寝るのが楽しみになった。早く使ってみたい」


音矢は配慮したが、翡翠自身の表情には羞恥心がない。むしろ好奇心が表れている。やはり、隔離されて育った翡翠は世間の常識とはズレているようだ。音矢はそう思った。


「……瀬野さんには、そのことを言わない方がいいですよ」

下ネタ嫌いの彼女に配慮し、音矢は翡翠に忠告しておく。





「学校を辞めるだと」

弟の発言に父と文雄はとまどい、箸の動きを止める。


「先生に相談した結果、そう決めたんだ。

 だから、来月分から学費は払わなくていいよ。

 これでだいぶ家計が楽になるだろう?」


「しかし、それではせっかく進学させた意味がない。

 中退などしたら、どのように言われるか、お前は」


父の言葉を、弟はさえぎる。

「世間体とかはもういいよ。そんなの役に立たない。

 今、必要なのは、自ら動くこと。その結果が、この食料さ」


文雄は弟の顔を見る。そこには[自立した大人]になろうと努力する男の誇りがあった。


「先生が紹介してくれた就職先に、挨拶してきたんだ。

 そうしたら、売れ残りをわけてくれた。

 おまけに、明日は休日出勤してまで、

 俺に作業のやりかたを教えてくれるそうだよ。

 そうすれば、月曜日の放課後からすぐに働けるからって。

 すごく親切な惣菜屋さんだった」


「バカ。それは親切心からではない。

 お前をこき使うために必要だから教えるんだろう。

 そもそも正式な契約には保護者の許可が必要なのに

 俺は今、その話を聞かされたばかりだ。

 だから、雇用契約がまだということで、

 試用期間だからと働いても一文ももらえずに、

 また売れ残りの総菜でごまかされるかもしれない。

 やはり子供は世間知らずだな」


「そうかもしれない。

 でも、危機にひんしているのに、

 何もしないでただ家にこもっているより、ずっとましだ」

「なんだと!」

父が怒っても、弟は平然としている。


ここで、文雄は気づいた。


弟は父としか会話していない。

飯があるとも、文雄は直接言われていなかった。玄関から茶の間に移動した二人についていき、ちゃぶ台に並べられた惣菜を、置きっぱなしになっていた自分の箸をとって食べただけだ。





音矢の質問と解説が終わり、翡翠は新しく与えられた知識についての疑問を話す。


「蝶子さんの挑発は……下着を履いていない。

 つまり、生殖器をいつでも見せられるという状況だと、

 ほのめかせたわけだな?」


翡翠の表情はあくまでも真面目だ。


「あ、あはは。まあ、そうですね」


「その意味がわからない。

 なぜ、あんなものを見せることに価値があるんだ?

 美術館に飾られていたギリシャ神話の絵でも、

 男性生殖器はかかれていたが、

 女性の股間は布や手で隠されていた。

 つまり、女性の生殖器は見て楽しいものではないから、

 かかないのではないか? 

 実際、あの部分だけ人体の中では異質で不気味な感じがする」


「……ということは、翡翠さん、見たことがあるんですか?」

意外な発言に、音矢はとまどう。


「研究所の図書室に、人体解剖図巻があった。それに載っていた」

「その本は、今どこに?」


音矢は、おもわず身をちゃぶ台の上に乗り出していた。


「ボクの部屋の隅に積まれた箱の中だ。

 孤島から持ってきた本は本棚にしまえと瀬野さんにいわれたが、

 もう図鑑は読んでしまったし、

 君のくれる本のほうが面白いので、出す必要を感じなかった」


「それを見せてくれませんか? 

 人体の構造はどうなっているのか、興味をひかれました」

「いいとも」

翡翠は素直にうなずく。




文雄の前で、父と弟は口論する。


「いったい、うちにはいくらお金が残っているの?」

「うるさい! 子供がそんな心配はしなくていい!」


「……あのさ……」

文雄は二人の会話に入ろうとした。


「子供だから、未成年だから、自分で……

 下宿屋の[チンタイケイヤク]だっけ? 

 それができないから聞いているんだよ。

 惣菜屋さんでは住みこみを募集していなかった。

 だから、この家が借金のカタに取られたら、

 おれは宿無しになるじゃないか。それを心配して、いけないわけ?」

「借金はない! とっくに払った!」


「……ねえ……」


「ああ、よかった。それなら、家計が完全に行き詰る前に売れば? 

 貯金が底をついたその時に、あわてて不動産屋に駆けこんだら、

 足元を見られて安く見積もられるよ」

「生意気言うな! そんなことはわかっている!」

「わかっているなら、余裕をもって行動を」

「大人の事情もわからないくせに、ゴチャゴチャ口出しをするな!」


「……その……」


父と弟の議論はますます熱を帯びていく。


昔、小学校の校庭で縄跳び遊びをしていた時のことを文雄は、思い出した。彼は回る長縄に跳びこもうとして、そのタイミングにどうしても乗れなかった。今もそんな気分だ。





「これがそうですか。

 なるほど、高級で分厚くて重い本ですね。

 翡翠さんの力では、箱から出して本棚に運ぶだけでも一苦労でしょう」

そうつぶやく音矢の頬は、やや赤みを帯びている。


翡翠の机に本を置き、音矢は目次を調べた。


「ここか!」

音矢は、 彼が求める情報の掲載されたページ、[女性生殖器]を開く。

だが、


「……断面図だった……」

彼は肩を落とした。


「いや、それは内部構造だ。たしか……次のページに、外から見」

「うおっしゃあ!」


翡翠が言い終わる前に、音矢は勢いよく紙をめくった。


「おお?」

彼が暴走患者を始末する時などよりずっと気合が入った様子なので、翡翠は驚く。


音矢は動きを止め、じっと図解に見入っていたが、やがてため息をついた。


「……はあ………………たしかに……局所だけ見ても……おもしろくない。

 …………そうだな……

 やっぱり、これは女性の体、まるごとで観賞するべきものだよなあ。

 乳尻太モモといっしょに……

 あの時は、相方さんが恥ずかしがるし、部屋も暗かったから、

 手探りだけで……

 結局、視認することが……だから、ずっと僕は…………」


無意識のうちに独り言をつぶやいてから、音矢は自分にそそがれる翡翠の視線に気づいた。


「あ、あっははは。これは、その……

 まあ、なんですね。あはははは」


笑ってごまかしながら、音矢は再び目次を開く。


「もう少し、この本を見せてもらってもいいですか? 

 他にも調べたいことがありまして。

 もちろん、真面目なことですよ? あははは」


音矢と翡翠は平和な日常を楽しんでいた。これから水上家で起きる惨劇の気配を、まだ翡翠は感じていない。




次回に続く



次回は 11月 7日(火曜) 20:30ごろに投稿予定です。

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