第八話
自宅に戻り、水上文雄は座布団の上にあぐらをかく。
(いつのまに、こんなものが?)
耳が気になるので、つまんでみる。帰宅して、洗面所で手を洗いウガイをしようとしたとき、文雄は自分の耳たぶに小さな飾り石が埋めこまれていることに気づいた。これは元号が〔昭和〕ではなく、〔光文〕となった世界では若い男性を中心として流行している装飾品だ。だが、耳に針を刺すのが恐かった文雄はこれまでつけたことがない。
(やはり、あの時に装着されたのかなあ)
彼は今日体験したことを回想する。
秘密の首領である水晶さまから、彼は願いのかなう薬をわけてもらった。しかし、そのときの記憶はあいまいだ。
勧められた紅茶を飲んで、試験の手順を説明されている間に頭がぼんやりしてきた。気がつくと文雄は今まで事務所にいなかったはずの人物と対面していた。彼の目には、15歳くらいの赤みがかかった髪の少年と見えた。
このかたこそ、[真世界への道]の[秘密の首領]である水晶さまだと、礼文は紹介した。不思議なことに水晶さまの額には小さな紫の角があり、その瞳は光の加減で藤色に輝いていた。その色は、今彼の耳についている飾り石と同じだ。
(夢でも見たのだろうか?)
だが、文雄の鞄の中には魔術師試験の手順を記した小冊子がある。彼はそれを取り出し、もう一度読み直した。
(やっぱり、同居する家族を生贄に捧げろと書いてある。
これは幻覚ではない)
礼文がそれを強制するのは、目撃者を消すためだ。
そして、家族を手に掛けることで退路を断ち、[真世界への道]に依存せざるを得ない状況に追いこむという狙いもある。
(……人として……やっていいことと、悪いことが……)
しばし彼は葛藤した。しかし、
(まあいいか。あいつらは、おれが作る新しい家庭には邪魔だ)
あっさりと文雄は家族を切り捨てた。
(彩子さんを嫁に迎えて、子供をたくさん産んでもらえば別にさびしくない)
神代細胞を投与され、すでに彼の精神は暴走し始めている。
(明日くらいに効き目があらわれてくるって言ってたな)
礼文に確認してもらった絵を文雄は枕の下に入れた。今夜は願いがかなうところを夢見て寝るつもりだ。
昨晩は翡翠も沈んでいたが、音矢と相談した結果、失敗の原因を彼は理解した。そして改善策を指導されたことで、一夜明けた今日、翡翠の心は落ち着いている。
だから朝食後、いつものように茶の間で翡翠は音矢が作成した報告書の写しにとりかかる。
本日分の筆記を終えた彼は、伸びをしてから写しを読み返した。
実験台4号の症状と、それに対抗するために応用した空間界面の件を説明するくだりまでページを進めてから、翡翠は小首をかしげた。もう一度彼はその部分を読んでみる。
「やっぱりそうだ。やっと、違和感の正体がわかったぞ。
以前から、何かが足りないと思っていたんだ」
翡翠は顔をあげ、ちゃぶ台の向かい側で新しい報告書の草稿をチラシの裏に書いている音矢に話しかける。
「蝶子さんと戦ったときの記述だが、
下着がどうのこうのという部分が書かれていない。なぜだ?」
「あ、あはは。実験台の神代細胞による変化や
それに対応した空間界面の応用戦法については
正確に記述してあるからいいんです。
下着の件は不謹慎ですからね。報告書は真面目に書かねばなりません。
だからちょいと細工をしたんですよ」
「ああ、きみの得意な詭弁法……チェリー・ピッキングか」
翡翠はうなずいてから、質問した。
「なぜ、蝶子さんが下着を履いていないことをみずから明らかにしてから、
足をふりあげたりしていたことが不謹慎なんだ?」
翡翠はあくまでも真面目な顔だ。
「あはははは、それはまあ、いろいろでして、あははは」
笑ってごまかそうとする音矢の前で、翡翠は独り言のように自分の思考を口にする。
「……あの時、いつものように
ボクは帰り道の車内で瀬野さんに実験台をいかにして始末したか
説明しようとした。
その途中で、きみは負傷した手が痛いと訴えて、
ボクと瀬野さんは、そちらに気をとられたので説明が中途半端に……
そうだ。蝶子さんが言葉だけで音矢くんを攻撃し、鼻血を出させた。
とても不思議な現象だから解説してもらおうと思っていたのだが、
その質問もできなかった……」
翡翠は音矢の目を正面から見る。
「一連の行動は、不謹慎な点を隠すための計略か?」
「あはっははは。翡翠さんも賢くなりましたね。進歩が著しい。
孤島にいたころとは大違いですよ。たいしたものです」
「ありがとう」
ほめられて翡翠は喜んだが、
「今の発言で、君は僕の質問を否定しなかった。
つまり、この推理は正しいのだな。
もっと詳しく[種明かし]をしてくれ」
追及はやめない。音矢はあきらめて説明する。
女性が自らの肉体を誇示して挑発することの意味、それを受けた思春期以降の男性がどう反応するか、そして一般常識として性的な話題が年少者へ悪影響を与えるといわれていることなどを大まかに教えてから、あの一件について解説した。
「……つまり、あんときの僕は、
翡翠さんが大人だと確認できていなかったから
性的な話題を控えたわけです。
瀬野さんも下ネタは嫌いですからね」
音矢が孤島の研究所に連れてこられたとき、瀬野は、翡翠のことを12歳の子供だと紹介した。実際は成長の遅れた20歳の青年であることを、さまざまな証拠から音矢がつきとめたのは、つい最近だ。
説明を受けて、翡翠はしばらく考えていた。その表情は、だんだん険しくなっていく。
「……あのとき、蝶子さんからは、[ボクちゃん]と呼ばれた……
一人称である[ボク]に愛称である[ちゃん]を組み合わせた
その言葉が意味するところは、なんだ?」
「えーと……」
嘘をつかない主義である音矢は、真実を告げるべきか迷った。彼が躊躇している時間に翡翠は考えを巡らす。
「……[ちゃん]という愛称は、主に若い女性、
もしくは幼い子供に使われるものだ……
ひょっとして、彼女はボクのことを、
自分の性的な挑発に反応できない未熟な子どもだと見下していたのか?」
「まあ、その……中身を理解してもらえずに
見た目で判断されるなんて、よくある話ですよ」
婉曲な言葉を音矢は選んだが、
「うわああああ! 蝶子さんにバカにされた!
しかも、ボクにはその意味が、今の今まで理解できていなかったんだ!
わあああああ!」
翡翠はひっくりかえって、足をバタバタさせた。ひとしきり暴れてから、体を丸める。
「ああ、またヘソ曲げが……しかも、空間界面まで出した」
音矢は弾力のある膜をポヨポヨ叩きながら考えを巡らせていく。
(よっぽど、体が未発達ということを翡翠さんは苦にしているんだな)
(それで……たいして性知識に興味を示さなかったのかな。
他のことには知識欲が旺盛で、質問しまくるのに)
(自分の欠点に向き合うことを、無意識で避けていたんだろうか?)
(僕のほうも、なんだか気恥しいから、
性的な話題はできるだけ口にしないようにしていた)
(でも……)
音矢は結論を出す。
(やっぱり、性教育は必要だな)
(翡翠さんは自分の欠点から目をそらした。
結果として無知にとどまり、
そこを蝶子さんに指摘されて悔しい思いをすることになったんだもの。
それに……)
音矢はもう一つ、現実的な問題に気がついた。
(翡翠さんは実年齢が20(はたち)だし、肉体の成長は12歳くらい。
つまり、そろそろ精通があっても不思議ではない)
(正確な知識を与えずにいたせいで……
朝っぱらから、
『わあ、大変だ。変なものが下着についている』とか
大騒ぎされても迷惑だ)
音矢は自身の体験を思い出す。彼の場合は、兄を持つ友達から教えられたり、河原に落ちていたエロ本を読むなどしてあらかじめ性知識を得ていたので、たいして動揺しなかった。
(……どのていど知っているんだろう?)
音矢は翡翠が空間界面を解除してから、詳しく聞くことにした。それまでの時間を無駄にしないため、思いついた質問事項を箇条書きでチラシの裏に書いていく。
生贄にするのは父と弟だ。
(さて、捧げる順番はどうするかな?)
とりあえず、部屋から出て最初に会った方を先に殺そうと、文雄は決めた。彼の脳に取りついて増殖している神代細胞の影響で、かなり異常な精神状態に陥っているのだが、本人に自覚はない。
今日は土曜日なので、弟の通う中学校は午前中で授業を切り上げる。これは[半ドン]と言われる制度で、1930年〔光文5年〕では役所なども同じように午後から休みになる。だからいつもなら帰宅しているはずなのだが、今日はなぜか遅い。しかし、父は文雄と同じく在宅している。
(そうすると、親父からになるのか)
文雄は自室から出た。
汚れているのは風呂場だけではない。廊下にもホコリがたまっている。家の空気は悪臭を含んでよどみ、汚れた気配を感じたのか、ゴキブリも現れるようになった。
勤めている会社が倒産したため、家政婦紹介所との契約を父は解除した。貯金を切り崩して生活している状態では、たとえ週に三度の通いでも負担が大きいからだ。そして主に家事を担当するべき母は、文雄や弟に別れも告げずに実家に逃げたと、父は語った。
文雄はそれを不思議には思わない。母と父は昔から不仲で、激しい罵り合い、茶碗や皿などの投げ合いなどの夫婦喧嘩を昔から幾度となく行っていたからだ。そして鬱屈がたまると、金づちを持ち出して壁などを叩くなどの破壊活動を母は行っていた。
特別賞与をつぎこんで改装したこの家を傷つけることで、母は父にいやがらせをしていたのだ。彼女は家よりも自分の服や装飾品に金をかけてほしがっていた。
しかも最近は『高給取りだから我慢して結婚したのに、失業したなら共に暮らす意味はない』などと愚痴るようにもなっていた。
出ていくときに『甲斐性無し』と罵られて悔しいので、あいつと連絡は取るなと父は命令した。そうして取り残された男たちだけでの生活はあまりにも味気ないものだった。
しかし、穂村彩子を嫁にもらえば、これまで通り、いやこれまで以上に生活は快適になるだろう。
『彩子は家事が上手だ』と兄の武が柔道部員たちに自慢しているのを、中学時代の文雄は聞いたことがある。仲間としてではなく、彼らが談笑しているそばに、たまたま居たからだが。
二階にある文雄の部屋から一階の父の部屋に行くには、玄関わきにある階段を使わなければならない。その踏板に足をかけようとしたとき、玄関の開く音が聞こえた。
「ただいま」
弟の声だ。
(こっちが先になったか)
文雄は殺すために階段を降りようとする。
「おかえり」
父の声も聞こえる。どうやら、玄関付近にいたらしい。
(そうすると、ほぼ同時になるか。結局順番が決まらないぞ。
玄関で両方を一度に攻撃して、家の外に逃げられても面倒だな。
[二兎を追うものは一兎も得ず]というし)
文雄は階段の最上段で考えこむ。
自分たちを殺そうとする者がすぐそばにいるのだが、父と弟はそれに気づいてはいないようだ。二人は玄関で会話している。
「土産だよ。ほら、オムスビやいろんな惣菜を詰め合わせた折詰、
それに……稲荷寿司も、もらった。
これはおれも食べたくないし、父さんが嫌いなのも承知しているけれども、
義理があるから断れなかったよ」
「どうしたんだ、それは?」
「……話したいことがあるんだ。これを食べながら聞いてくれる?」
「ああ、いいとも」
どういうわけだか、弟は食料を調達してきたようだ。しかも、このところ食べていないまともなものだ。
水谷家の男たちは、ずっと食事作りを母と家政婦に任せてきたので、せっかくガスと水道が備えられた台所が自宅にあっても、お湯くらいしか沸かせない。それなのに、いかにも妻に逃げられたようで外聞が悪いと、父は出前をとることも外食も、惣菜屋で買い物をすることさえも許可してくれない。
だから、母と家政婦がいなくなってから、水上家の食事は調理の必要ないものばかりになった。しかし、1930年〔光文5年〕にはカップラーメンもレトルトパックも存在しない。缶詰の購入も、大量の空き缶を捨てれば近所の人に感ずかれると禁止されたし、もしも買ったとしてもオカズを確保できるだけだ。主食になる米はもちろん炊けない。
というわけで、瀬野が礼文に勧めたような保存食を、彼らは今朝もお湯でふやかしながら食べた。
今ここで父と弟を殺せば飯を独り占めできると文雄は思ったが、魔術師になって金をたくさん出せばもっと高級なものを食べられると考え直す。
とりあえず自分の空腹を満たし、父と弟に最後の晩餐を与えてあげてから殺そう。文雄はそう決めた。
次回に続く
次回は 10月24日(火曜) 20:30ごろに投稿予定です。




